2013年3月31日日曜日

知的にして調和的。女子ジャンパー「高梨沙羅」16歳



「あっという間でした」

少し笑顔を見せた「高梨沙羅(たかなし・さら)」は、今シーズンのスキージャンプW杯をそう振り返った。

「成績がよくないと、いろいろ考えてしまう時間が長く感じるけど、今季は自分でもビックリするくらいのシーズンでした」



彼女ばかりではない。世界中が「ビックリ」した。

まさか、高校一年生、16歳の小柄な少女が、スキージャンプW杯を制してしまうとは…。



圧倒的な強さだった。

W杯16戦中、優勝8回(勝率50%!)。「表彰台に上らなかったのは、わずか3度のみ(Number誌)」。

あと2戦を残した段階で、早々にW杯総合優勝を確定させた高梨沙羅。日本人の女子選手として初の快挙であり、W杯(FIS)史上においても最年少記録であった(16歳4ヶ月)。



152cmという高梨の身長は、並み居る外国人選手たちに比すると、ひときわ小柄である。表彰台の一番高いところに立っていても、頭が上に出てこない。

そんな少女のジャンプは「次元が違った」。

ポンと踏み切ると、長い長い滞空時間の末、誰も届かなほど遠くへと飛んでいってしまう。飛びすぎてテレマーク(最終姿勢)が入れられないほどに…。



高梨沙羅の故郷は、北海道上川町。そこは大ジャンパー原田雅彦(長野五輪・金メダリスト)の出身地でもある。

そんなジャンプの町に生まれた高梨は、小学2年生の頃からジャンプを始めた。

「鳥みたいに飛ぶのが楽しくて」



小学校高学年にして、はやナショナルチームの合宿に参加するようになった高梨。

中学2年の時に大倉山で見せた大ジャンプ(141m)は、明らかにその後に女王となる片鱗であった。それは女子選手としてのバッケンレコード(最長不倒距離)であり、男子選手のそれ(146m)に今一歩と迫るものであった。



その翌年、中学3年生にして参戦したW杯は、最終戦の蔵王で初優勝を飾り、総合3位に。

それは、今シーズンの総合優勝にまでつながる快進撃の咆哮であった。



高梨沙羅の「技術の高さ」は折り紙つきだ。

「低い姿勢でしっかりスキー板に乗って助走できるから、身体は小さくても大きい選手に負けないスピードが出せる」

渡瀬弥太郎(ナショナルチーム・前チーフコーチ)氏は、そう話す。体操をやっていたという高梨は、その柔軟性から動きの幅も極端に深い。



今季、印象的だったのは彼女の「立ち直りの早さ」である。

2月2、3日に行われた札幌でのW杯2連戦、高梨は12位と5位に沈んでしまっていた(故郷・北海道での大会だけに、いつもとは違う何かがあったのだろうか…)。

しかし、その翌週に行われた山形蔵王での2連戦では、なんと2連勝。



「基本をずっと頭に置いて練習してきたので、ちょっと悪くなったら、基本に戻ればいいということです」

あっという間の復調を、高梨本人はサラッとそう言ってのけた。

どうやら彼女には、「こうすれば飛べる」といつでも立ち戻れる場所がすでに築けているようである。



頭でわかって身体ですぐ出来るのは、彼女の身体能力の高さであり、それと同時に「頭の良さ」でもあろう。

実際、彼女は学力的にも頭が良い。高校一年生(16歳)にしてすでに、大学を受験する資格をもう持っている。

というのは、インターナショナルスクール(グレースマウンテン・旭川市)に入学した彼女、わずか4ヶ月で「高校を卒業した者と同等」と認定されてしまったのだ(高校卒業程度認定)。



「朝5時半に家を出て始発電車に乗って、電車の中で勉強したり、一日に11時間くらい勉強していました」と高梨はサラッと言う。

インターナショナルスクールに入ったのは、今後の海外遠征を睨んだものであり、早々に学力を高めたのは、競技に集中できる時間をできるだけ確保してしまうためであった。



移動中の機内や遠征先でも「本」を読んでいることも多いという高梨。スキーをはかなければ、じつは物静かな少女の一人なのである。

「カメラを向けられると逃げたくなるような根暗な性格なんです(笑)」

そう言って、高梨は笑う。



しかし、もうカメラからは逃げられない。

競技の前後を問わず、多くのテレビカメラが高梨を執拗に追い回す。出入国の空港でも、常に多くの取材陣が待ち伏せをしている。

「大会前は気持ちも入っているし、大切な練習は邪魔されたくないんですけど…」



それでも、彼女がテレビや新聞の取材を厭うことはなかった。

「(女子スキージャンプは)まだまだメジャーなスポーツじゃないと思うので、もっと発展させていくためには、メディアの力を借りないと…。だから記者会見や囲み取材はキチンと受けなきゃいけないと思います」

なんと知的な回答であろうか。



頭の回る彼女は、ひとこと苦言も呈す。

「空港であんまりカメラがあると、人が溜まって他の利用客に迷惑だと思います」

彼女は人一倍、周囲に気を遣っているのだ。



「どこかの局はカメラが3台、ほかの局は4台、5台と来ていることがありますが、そういう方法じゃなく、各局ごとに1台と決めてしまえば、あんなに人が溜まることはないと思うんですけど…」

彼女は折り目正しく、両手に膝をそろえたまま、そう話していた。じつに正しく、理路の通った論である。



自分よりも「周囲」に目を配る高梨沙羅。

大会に用いられるジャンプ台にしても、選手たちよりずっと朝早くから台を整備してくれている人々に思いを馳せる。

「自分もジャンプ台の整備を経験したことがあります。どれだけ大変なのか知っているので、そう感じるんです」



女子ジャンプという競技にしても、先人たちの労をねぎらう。

「女子ジャンプは、今まで先輩たちが土台を作ってくれて今があると思うんです」

たとえば、高梨の敬愛する女子ジャンパー「山田いずみ」は、この道のパイオニアであり現役時代は「女王」として君臨していた。今の彼女はテレビ解説などでお馴染みである。



そうした土台に感謝を感じながら、それを踏み台にして世界に雄飛した高梨沙羅。

彼女はいったい、どこまで飛んでいくのだろう…。

一年後のソチ五輪など、軽く飛び越えていきそうだ…!



(了)



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ソース:Number (ナンバー) WBC速報号 2013年 3/30号 [雑誌]
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2013年3月30日土曜日

横綱・白鳳は俊足バッター?



「じつは本物の野球を見たのは日本に来てからなんです。最初のうちは何をやっているのかサッパリ分からなかった(笑)」

モンゴル生まれの大横綱・白鳳は、そう言って笑う。

来日から13年、今では大の野球好きになった。生国モンゴルでは野球協会の名誉会長を務めるほどだ。



「稽古後にキャッチボールをすることもある。ピッチャーになって投げたボールがキャッチャーのミットに収まると『バシーン』。その音が気持ちいいね」

打つ方は?

「ゴルフは右で野球は左打ち。大きな当たりを狙うよりは、イチロー選手のように足の速いシャープなバッターです(笑)」

まさか体重155kgの横綱が俊足バッターとは…。



じつは白鳳、「力まかせ」というのが好きではないそうだ。

「それは私の相撲も同じなんです。下半身の動きの良さで体重を上手く利用する。力まかせに攻めるだけでは限界があるので…」

力ばかりに頼らないという白鳳は、2010年の春場所、全勝優勝を決めた後に「思いもよらぬこと」を言っていた。



「自分は勝たないように相撲を取っています」

これはどういうことなのか?

「『後の先』に取り組み始めたんです。立ち合いで相手より一瞬遅れて立つ」

そこからでも落ち着いて自分の形にもっていければ、どんな相手にも対処できるのだという。

「勝とうとすると強引になり、どこかに落とし穴があるんです」



白鵬が落ちた「落とし穴」というのは、2010年の11月場所、連勝記録が双葉山の69連勝にあと6つと迫った一番だった。

「立ち合いからいい体勢になったので、その瞬間に『勝った』と思ってしまった。ところが相手の稀勢の里はまだ土俵に残っている。それで頭が真っ白になってしまったんです」

結局、白鳳の連勝街道は63でストップしてしまった。



「相撲の妙は、心と体のバランス」

力まかせの強引さは、その妙を崩してしまう。

「勝たないように相撲をとる」という言葉は、相手に勝つために「勝とうと思ってはいけない」ということのようだ。



「勝つことを忘れて土俵に上がる。そこに白鳳という横綱の奥深さがある(Number誌)」

横綱は負ければ引退しかない。それでも白鳳は「勝ちを忘れる」と言うのである。

勝敗を越えて目の前の一番に向かい合う。常勝とは、そうした積み重ねの先にあるものなのだろうか。



「今でも『後の先』で取れる会心の相撲は、一場所に2〜3番あるかどうか。でも、だから面白いんです」と白鳳。

最後にこれからの夢を。

「モンゴル初のプロ野球選手。巨人の選手ですね(笑)」








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2013年3月29日金曜日

前田健太の聞いていた「右肩の声」。WBC



「ちょっと肩の調子がよくないんで…」

WBC日本代表の合宿に参加する前、「前田健太(まえだ・けんた)」はそう漏らしていた。それは単なるハリではなく、明らかな痛みだった。



2月24日、オーストラリア相手に前田は投げた。

「30球を過ぎたあたりから抜ける球が増え、ストレートの急速は130km台に落ちてきた。3回には立て続けに2つのファーボールを出したあと、3ランホームランを打たれた(Number誌)」

不安の募る内容だった。心ないメディアは「代表入りすべきではない」とまで不安を掻き立てた。次はもうWBC本番なのに…。



日本代表のピッチング・コーチ、与田剛は「痛みのない場所を探して投げているように見えました」と言っていた。

当の前田は、「WBCのボールだとストレートが滑る感じがして、その分しっかり握ろうと、ヒジや握力に影響が出るような気がします」と話していた。

WBC直前の前田は、あらゆる手を尽くして「右肩に残る痛み」と向き合っているようだった。



プロに入った頃(2007〜)、前田はよくこう言われていた。

「お前は絶対にケガをする」

身体が細かった前田は、その見た目から「そんな身体じゃプロでやっていけない」と先輩諸氏に決めつけられていたのだ。



その言われるたびに、前田は反発していた。

「ふざけんなよ、見た目で判断するんじゃねぇ、って思ってました(笑)」



前田自身は、自分の身体は誰よりも強いと思っていた。

「子どもの頃から誰よりも走ってきたし、PL学園ではどこよりもキツイといわれた練習をやってきました」

骨でも折れない限りは、どこかが少々痛くてもなんとかやっていける。前田はそんな自信を持っていた。それは「理屈を超えた確信」だった。







そして迎えたWBC中国戦。先発は前田健太。

「変化球のキレはあったものの、甘いコースへ抜ける球も少なくなかった。それでも中国のバッターの早打ちに助けられ、打たれたヒットは1本だけ(Number誌)」

相手が格下の中国だったとはいえ、前田は5回56球を投げて無失点。急速も140km台を取り戻しており、与田コーチも「右肩のことは忘れているように見えました」と安心していた。



その前田は「右肩の声」に必死で耳を傾けていた。

右肩の声に耳を傾ければ、必ず答えが聞こえてくると信じていたのだ。

与田コーチには「本当に痛くてダメだったら、自分から言います」と言ってあった。



3月10日、勝てばアメリカ行きが決まるオランダ戦。オランダはその猛打力で、強豪キューバを撃破して勝ち上がってきた強敵。

前田は初回から飛ばしていった。

「前田のストレートは、オランダの3番、バーナディナのバットをいきなりヘシ折った(Number誌)」



前田の右腕は、しっかりと振り切れていた。

「緊張して足が震える大舞台、十分すぎる勇気だったと思います」と田口壮(シドニー五輪代表)は前田を評価する。

「前田はストレートの高さをまったく間違えませんでしたね。抜ける球が全然なかったし、ヒザより高いストレートはほとんどなかった(田口壮)」



オランダの右バッターは、前田の変化球に上体を動かされていた。前田の球が自分の方に向かってくる感覚に襲われ、体が起き上がって腰が引けていたのだ。

「これは変化球のキレがいい証拠です」と田口。



WBCが始まる前には、肩の調子を不安視されていた前田だったが、もはやそんな不安はどこ吹く風である。

「前田のボールは回を追うごとに精度を増していく。前田の変化球にオランダ打線はことごとくバットを出した。ストレートは両サイドの低めをピンポイントで正確に射抜く(Number誌)」



並みの選手であれば「痛いからやめておこう」としてしまうところを、前田の場合は「痛いけど大丈夫」と感じることができていた。

真摯に「右肩の声」に耳を傾けていた前田は、「この痛みは消えていくものだ」と確信していたのかもしれない。

「前田は自分の身体を知り尽くしているんでしょう」と田口も感心する。



結局このオランダ戦、前田は5回66球を投げて、打たれたヒットは1本。9つの三振を奪う「圧巻のピッチング」であった。

勝利後の東京ドームのお立ち台で、前田は叫んでいた。

「決勝ラウンドも僕に任せてください!」



そして舞台はアメリカへ。

準決勝プエルトリコ戦の先発は前田健太。

「7年前は上原浩治、4年前は松坂大輔が務めた大役だ(Number誌)」



冷たい風が吹いていた。

球場の雰囲気が日本とは違いすぎる。「初めてアメリカで投げる前田の心をかき乱すには十分すぎるほど騒然としていた(Number誌)」

試合前の慌ただしい雰囲気のまま、落ち着く間もなくゲームに突入。そして先頭打者にストレートを決めた直後、前田は球審から左手首にしていた数珠を外すように注意された。



前田のアウトコースに逃げながら沈むツーシームを、審判はストライクとコールしてくれない。

2人の打者をファーボールで歩かせたあと、前田は5番のアービレイスに打たれ、初回1点を失った。WBC初失点であった。



それでも前田は踏ん張った。

2回以降は、5回までゼロを並べた。そしてマウンドを降りた。

だが、プエルトリコ戦の結果は1対3で日本の敗戦…。



「期待を一身に背負って先発した準決勝では、前田は確かに負け投手となった。だが、今大会3試合15回を投げて、わずか1失点と、ほぼ完璧な内容と数字を残した(Number誌)」

右肩の痛みと向き合いながら投げた202球。

前田の初めてのWBCは、3連覇の熱狂を見ることなく、静かに幕を閉じた…。








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ソース:Number (ナンバー) WBC速報号 2013年 3/30号 [雑誌]
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2013年3月28日木曜日

鳥谷敬の思い切りが生んだ「勢い」。WBC




WBC台湾戦のあと、山本監督はポツリと呟いた。

「負けていたら、どんでもない批判を浴びる采配だったな…」

それは9回2死という土壇場で、鳥谷敬(とりたに・たかし)に送った「盗塁のサイン」のことであった。



その時点で、2対3で台湾に負けていた日本。

もし、鳥谷の盗塁が失敗に終われば、即ゲームセット。

WBC3連覇の夢も、早々に絶たれるという実に際どいシーンであった。



それでも、鳥谷は勢い良くスタートを切った…!

井端和弘の打席の初球に、鳥谷は走ることを躊躇わなかったのだ。

「思い切って、腹を括って行っただけです」

試合後の鳥谷はそう語る。



結果的に、山本監督のギャンブルは大成功。

「決死の盗塁」で鳥谷が2塁に進んだおかげで、続く井端の放ったセンター前は、試合を振り出しに戻す「値千金のタイムリー」となった。



そして延長10回、中田翔の犠打(犠牲フライ)で一点を上げた日本は、ついに台湾を逆転。そのまま勝利につながった。

鳥谷の演出した9回土壇場での同点劇はまさに、「地獄の淵から日本を引き上げるビッグプレーだった(Number誌)」



その後も、鳥谷の「勢い」は衰えることがなかった。

「大事な場面で大仕事がきちんとできるのは『勢い』があるということ。それを活かさない手はない」

そう言っていた山本監督は、台湾戦で「勢い」を見せた鳥谷を一番バッターに抜擢。これまで坂本、長野、角中が務めた大役だった。



勝てばアメリカ行き(決勝ラウンド)が決まる大事な一戦。

その相手は、強豪キューバを倒して勝ち上がってきたオランダである。



一回、審判の右手が上がってから、わずか1分後。

オランダの先発ロビー・コルでマンスの2球目。

外角にスッと入ってきた速球を、鳥谷は迷いなく振り抜いた。



いきなりのホームラン。

それは「アメリカへの道を開く号砲」となった。



その後、日本の打撃陣からは6本のホームランが乱れ飛び、17安打16得点(毎回得点・7回コールド)という猛攻でオランダを撃破することになる。

「打線は…、いったい何が火を付けたんでしょうね(笑)」と田口壮は笑う。



先頭打者・鳥谷のホームランは実に大きかった。

それまでの戦いでは、貧打に喘いでいた日本。その鬱々とした黒雲を、鳥谷のホームランが吹き飛ばし、さらには大爆発の起爆剤となったのだから…!

じつは鳥谷。この時の本塁打が、今大会初ヒットであった。それまでの13打席は、ずっと彼自身も思い悩んでいたのである



「鳥谷のホームランが、みんなに勇気を与えてくれた」

試合後の会見で、山本監督はそう言って顔をほころばせていた。



山本監督自身、現役時代は名打者だった。

「打者出身の監督には、打者に対して独特の見方がある」と東尾投手コーチは語る。「これがよく当たるから不思議(笑)」。



「理由なんてないよ」

オランダ戦で鳥谷を一番に起用したのは、山本監督の「嗅覚」。そして、台湾戦で鳥谷の見せた「勢い」だった。

「まぁ、ずっと打者を見てきたからね」



アメリカでの決勝ラウンド、準決勝プエルトリコ戦。

この一戦で、鳥谷は「最後の勢い」を見せる。



無得点、3点ビハインドで迎えた8回の攻撃。逆転への狼煙を上げたのは、またしても鳥谷の思い切ったスイングだった。

起死回生の3塁打を放った鳥谷。その勢いは、続く井端和弘にタイムリーを放たせた。鳥谷は悠々とホームに帰り、スコアボードに「1」を刻む。

さらに、内川聖一がヒットで続き、同点のランナーが塁に立った。



しかし、「勢い」はここまでだった…。

ホームを踏めたのは鳥谷ばかりで、それに続く者はいなかった。

結局、日本は儚くもこの一戦で散るのであった…。



(了)






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敗れた侍ジャパン。疑惑の重盗(WBC)。


「いつもの井端」が救った日本(WBC)。

阿部慎之介の背負った「重き日の丸」



ソース:Number (ナンバー) WBC速報号 2013年 3/30号 [雑誌]
「雄々しきプレリュード 鳥谷敬」

2013年3月27日水曜日

「いつもの井端」が救った日本(WBC)。



そのバットで2度も日本の窮地を救った男。

井端弘和(いばた・ひろかず)。

WBCで「土壇場の男」となった井端であるが、もともとは脇役的な起用だったという。



「お前はバント専門でいくぞ」

山本監督からは事前にそう言われていた。

井端は37歳という年齢もあり、日本代表の最終メンバーとするには批判も多かったという(内野手の重複など)。それでも、山本監督が「どうしても入れたかった男」、それが井端であった(結果的に、山本監督の無理は「英断」となったわけだが…)。



「第一回大会の時から、WBCには出たかったですから」

山本監督の要請を、井端は快諾。

「最初は代打とかバントの場面で起用してもらいながら、アメリカに渡る頃(決勝ラウンド)には、レギュラーの座を頂こうかなと、密かに思っていたんです(笑)」



3連覇のかかった侍ジャパン、しかしその初戦から苦戦を強いられていた。

格下のブラジル相手に、1点リードを許して迎えた8回の攻撃。井端は、もう一人のベテラン稲葉篤紀の「代打」として登場。

「身体と気持ちが一致した」という会心の当たりはライト前。すでに塁に出ていた内川聖一をホームに返す劇的な同点タイムリーとなった。



大歓声に包まれた井端。

一塁塁上で思わず拳を突き上げた。

「野球人生初のガッツポーズ」であった。



続く中国戦では出番がなかったものの、「キューバ戦で3番DHとしてスタメンされた井端は、2安打と気を吐いた(Number誌)」。

当初は「バント要員」、そして鳥谷敬の「控え」として脇役視されていた井端であったが、出場した2試合連続で結果を出した。

これで井端の密かなる目論見通り、「外すに外せない選手」というポジションを勝ち得たのであった。



そして迎えた台湾戦(2次ラウンド)。

またもや絶体絶命のピンチで、井端に打席が回ってきた。1点ビハインドで迎えた最終9回、2アウトの場面である。

その時の大歓声たるや、井端が「今まで感じたことがない」というほど。それほどまで日の丸は重く、そして井端への期待は多大であった。



と、その時、一塁にいた鳥谷敬がスタートを切った…!

「1点ビハインドの9回、しかも2アウトから二塁へ盗塁するというのは、セオリーではありません(矢野燿大)」

もし走ってアウトになったら、それでゲームセット。それでも一塁ランナー・鳥谷は走った。まさに決死。「行けたら行け」という指示は出ていたというが、最終的に盗塁することを決めたのは鳥谷の「嗅覚」であった。



結果的にセーフ。山本監督の「禁じ手」は奏効した。

これで「得点圏」にランナーが立ったことになる。

あと必要なのは、井端のバット一振りとなった。



1ボール、2ストライク。

井端は、台湾のピッチャー陳鴻文に追い込まれていた。

それでも井端は陳のボールを「見切っていた」。追い込まれた後の4球目をしっかりと見逃せたのは、その証だ。それは「いつもの井端」であった。



そして飛び出した、起死回生の同点打!

「決死の盗塁を決めた鳥谷。そして、もっと凄いのが井端です(笑)」と、元北京オリンピック代表の矢野燿大は言う。

「日本代表の試合だからとか、9回の土壇場だからとか、同点のチャンスだからとか、そういうことでバッティングが何も変わらない。井端の凄いところです(矢野)」

台湾戦から日本を救ったのは、鳥谷の「嗅覚」、そして井端の「平常心」であった。



「身の丈にあった野球」

それが井端の野球であった。そこには「徹底した愚直さ」があった。ペナントレースであろうが、日本シリーズであろうが、国際大会であろうが…。

試合後、井端はこう語っていた。「別に実力以上のことをやろうとしているわけではありません。自分のできることをやっただけです」と。

それは決して、一朝一夕の成果ではないのである。



いよいよアメリカへ渡り、決勝ラウンド第一戦(準決勝)プエルトリコ。まさか、日本は8回まで0対3で負けていた。

ここで火を吹いたのは、またもや井端のバット。8回裏の攻撃、反撃の狼煙となるタイムリーを放って、起死回生の1点を返す。

次の内川聖一もヒットでそれに続くと、ランナー1・2塁という一打逆転のチャンスがつくられる。そして迎えるバッターは日本の主砲、4番・阿部慎之助である。



「ブラジル戦と台湾戦での日本の反撃は、いずれも8回、井端・内川・阿部が絡んだ攻撃だった(Number誌)」

それゆえに、またこの3者が得点に絡んでくると日本中の誰もが信じていた。



ここで、日本ベンチは大きな賭けに出ていた。

「ダブルスチール(重盗)」のサインである。

そこまでしてでも、日本はどうしても勝たなければならなかった。



阿部への2球目、2塁ランナー井端はスタートを切った…、が塁に戻った。

だが、1塁ランナー内川は井端の動きを見逃した。そして塁間で憤死。

山本監督の果敢すぎた賭けは、ここで裏目に出てしまった…。重盗失敗である。



結局、このプエルトリコ戦が侍たちの最後の戦いとなってしまった。

試合後、井端は「あの時、無理矢理にでも行けばよかった…」とホゾを噛んだ。



だが、セーフになる確信なしに走らないのは「いつもの井端」であった。

忘れてならないのは、井端が井端であったがゆえに、ブラジル戦も台湾戦も日本は救われてきたということだ。



しかしそれでも「悔しい」。

「とにかく勝ちたかった…」

この時とばかりは、さすがの井端も平常心ではいられようもない。



2塁にいた井端は、阿部の二塁ゴロも、松井のセンターフライも、そこで見送った。

2塁に残されたまま終わった最後の戦い。

井端の想いは、未だそこに留まったままである…。








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阿部慎之介の背負った「重き日の丸」

杉内俊哉(巨人)の「逃げ道」。平凡なる非凡さ



ソース:Number (ナンバー) WBC速報号 2013年 3/30号 [雑誌]
「燃える思いを胸に秘め 井端和弘」

2013年3月26日火曜日

阿部慎之介の背負った「重き日の丸」



「右ヒザから『バキッ』て音がして、これで終わったと思いました」

阿部慎之助の抱えていた古傷が再発してしまった。膝にはまるで力が入らず、バッティングになどならなかった。

よりによって、WBC開幕の3日前に…。



今大会、阿部は3つの重責を負っていた。

4番、捕手、そしてキャプテン。

「しんどかったです。自分の状態がはっきり言ってダメでしたからね。自分でも混乱していました」と阿部。



ある意味、古傷の再発によって阿部は吹っ切れていた。

とにかく「試合に出ること」。それが、キャプテンとしてチームにできることだと腹を括った。



「大丈夫です」

痛み止めの注射を打った阿部は、開幕のブラジル戦での先発出場を直訴した。

しかし、山本監督はそれを許さず、開幕戦は代打での出場にとどまった。



阿部が「自分らしさ」を取り戻すのは、2次ラウンドの台湾戦。

2点差を追う展開の8回表、阿部の放ったタイムリーは追撃の口火を切ることとなり、あの劇的な逆転勝利につながった。



そして、オランダ戦で阿部は大爆発。なんと1イニングで2本のホームランを放ったのだ!

「1イニングで2本塁打は、自分としても初めての経験でしたから、サイコーです!」

東京ドームのお立ち台で、阿部はそう叫んだ。

「この時こそ、4番としても捕手としてもキャプテンとしても、阿部がようやく自分らしさを取り戻した瞬間だった(Number誌)」



しかし、最後の試合となった準決勝・プエルトリコ戦では、「悔い」を残してしまうことに…。3度の打席は、ピッチャー・ゴロ、三振、二塁ゴロ…。4番としての責務は果たせずじまい。

とりわけ、最後の打席となった8回、走塁ミスした内川聖一の憤死を目の当たりにしながら、何もできなかった…。



「あそこで自分が打っていれば、勝てていた…」

阿部の心には、その敗戦の責がずっと澱(おり)のように溜まっていた。

「だから自分としては本当に残念な大会でしたし、悔いは残り続けると思います」と、阿部は悔しさを滲ませる。



あと一歩を、自分のバットが切り開けなかった…。

「おそらく自分に次はないと思う」

2度のWBCを戦った阿部は、「これが最後の代表」という覚悟でユニフォームを着ていた。



戦いは終わり、夢は破れた…。

侍たちの快進撃は「最低限の目標」とされた決勝ラウンドで止まってしまった…。



思えば前回大会、阿部は侍ジャパンの一員として、連覇の感動を味わっていた。

阿部はオリンピックなども含め国際大会の経験が豊富である。勝つ喜びも知っていれば、負ける怖さも知っていた。



だからこそ今大会前、後輩たちにこう言っていたのだ。

「国際大会では何が起こっても驚いたらいけない」と。

プエルトリコ戦でのまさかの走塁ミスとて、阿部にとっては想定内であり織り込み済みであったはず。

「でも、負けたことはやっぱり悔しいです…」



日の丸を背負った戦いにおいて、ファンに応えることができるのは勝つことだけである。

その緊張感たるや、「1ミリのミスもできない」ほどであるという。

「日の丸を背負って負けた悔しさは、日の丸を背負わなければ晴らせない(Number誌)」



3連覇のかかった日の丸の、なんと重かったことだろう…。

ましてやキャプテン、そして4番、キャッチャー。

それは「途轍もなくしんどい仕事」であった…。







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熱きキャプテン「阿部慎之助(巨人)」、愛のポカリ

WBCの山本監督、北京五輪の星野監督。ともに同級生



ソース:Number (ナンバー) WBC速報号 2013年 3/30号 [雑誌]
「重き荷を背負って 阿部慎之助」

2013年3月25日月曜日

不振にあえぐ石川遼。スクラップ&ビルド



石川遼が発する言葉に、「物足りなさ」を感じるようになったのはいつの頃からだっただろうか…?

「態度が横柄になったわけではない。ただ、どこか予定調和で、かつてに比べてどうも面白みを欠くようになっていた(Number誌)」



「かつて」の石川遼のコメントは冴え渡っていた。

2009年夏のサン・クロレラクラシック。初日から首位独走の石川。3日目終了後に「完全優勝に大手ですね」という記者に、石川はこう返した。

「王手はおこがましいでしょう。僕には将棋の『歩』が『と金』に成ったぐらいです」と。

幼い頃から「笑点」を見て育んだという、彼らしい当意即妙のコメントであった。



「かつて」の石川は、不躾(ぶしつけ)でもあった。

「不甲斐ないショットに叫び声を上げ、クラブを投げつけて問題視されたこともあった(Number誌)」

こうした行為はマナー上は許されるものではない。しかしそれは、アスリートたちが内に秘める膨大なエネルギーの発露でもあった。しかし、今はこうした仕草もすっかりと影を潜めている。



6歳でゴルフを始めたという石川遼。

15歳だった2007年、マンシングKSBで日本ツアー「史上最年少優勝」。プロ転向後2年目の2009年には、4勝を挙げて「史上最年少の賞金王」となった。

2010年の中日クラウンズでは、驚異的なスコア「58」を叩き出して逆転優勝。石川は「これをゾーンというのかもしれない」と名ゼリフを残した。







「日本における5年間で、自分のパフォーマンスを最大限発揮できれば、国内で賞金王を獲れることはわかりました。でも、僕が目指すのはメジャー制覇」

そう語っていた石川は、その言葉通りに海を渡り、アメリカツアーに挑戦。

しかし本格参戦した今季、石川は初戦から3戦連続で予選落ち(135位タイ、125位タイ、121位タイ)。6戦目までで、予選通過は2回しかない。

「2年間でわずか1勝…。世界ランキングは94位にまで落ち込み、優勝争いとは程遠い絶望的な結果が続く(Number誌)」



日本ゴルフ界の若きスターは不振に喘いでいた。そして、その不振とともに、石川のコメントは面白みを欠くようにもなっていた。

「石川のコメントに本音よりも建前が並ぶようになった。それは勝利から遠ざかり始めた時期と重なる(Number誌)」



アメリカで石川の体験していたのは、「未知のゴルフ」だった。

「日本で打ったことのないショットを、アメリカに来たら打たされるんです。とりわけメジャー大会のコースセッティングは『自分の考えが及ばない次元』にありました」と石川。

ストレートのボールは打てても、石川は「左右に曲がるボール」が打てなかった。

「基本的に日本のコースでは、まっすぐのボールしか打てなくても、精度がともなえば勝つことができます。だけど、そんなゴルフはアメリカでは通用しません。アメリカだと、そこに林があって邪魔をするんです」と石川は語る。



それからの石川は「自分のゴルフを壊しにかかった」。

左右に曲がるボールの習得、高い軌道のアイアンショット…。

「かつて」のゴルフはスクラップにし、新たなゴルフのビルドに取り掛かった石川。その新たなゴルフは、かつてのそれよりも恐ろしく高い精度を求めるものだった。



「同じスイングで100球打ったら、100球が同じところに飛ぶような技術を身につける時期だと考えているんです」と石川。

たとえば、ピンまで103ヤードの距離を狙う場合、かつての石川ならば、100もしくは105ヤードという5ヤード刻みのショットで対応していた。

「ところが今は違う。正確に103ヤードを狙う距離感を自分に求めている(Number誌)」



一年前、石川は「ロボットになりたい」と発言していた。

石川に言わせれば、その当時は「薔薇」という漢字を100回ノートに書いている段階だった。

「薔薇という漢字は、いくら何でも100回ぐらいノートに書き連ねれば覚えられますよね。でもしばらくして改めて『書いてみろ』と言われると忘れてしまっている。そこでパッと書くことができて初めて、自分に蓄積された知識となるんです」と石川は語る。







ロボットを目指した一年前の石川は、薔薇を100回書いている真っ最中だった。そのため、練習場では当たり前に打てる正確なショットも、コース上では思い通りに打つことが出来ずにいた。

ようやくその繰り返しが身体に蓄積されてきたのは、昨年9月の三井住友VISA太平洋マスターズの頃。この時の2年ぶりの勝利を、石川は「ひとつ殻は破れた」と振り返る。

「自分のレベルが一つどころか、二つも三つも上をいっていた」と石川。



彼の新たにビルドしたゴルフは、まさにロボットような精度に達していた。

こんなエビソードがある。3番から9番までのアイアンを試打していた時のこと、なぜか7番だけが思うよりも2ヤード飛ばない。

「あれ、おかしいなと思って確認していたら、ロフトが0.5度ぐらい寝ていたんです」と石川。「クラブの担当者も気づかなかったくらいだから、僕も少しはロボットに近づいているのかな(笑)」



今季の石川は、なおもスクラップ&ビルドの途上にある。

それゆえか、なかなか結果がついて来ない。それでも、石川は果敢に新しいショットをモノにしようとなりふり構わない。

「今は試行錯誤の時期と受け止めています」と石川。



「厳しい声を覆すには、結果を残すしかない」

そう話す石川は、突きつけられた現実に焦りも芽生えている。

それでも彼は、どこまでも遠い未来を見据えている。




「僕にはシード権を持つ唯一人のプロゴルファーとして、日本を代表してアメリカで戦っているという意識があります」

そう語る石川の矜持は高い。



今の石川に、コメントの面白さなど必要ない。

彼の欲するのは、笑点のザブトンではない。

石川遼は、メジャー制覇を志すプロゴルファーなのだ…!








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ソース:Number (ナンバー) WBC速報号 2013年 3/30号 [雑誌]
「石川遼 米ツアー1年目の挑戦」

2013年3月24日日曜日

「やらかい身体」とは? 柔芯(稲吉優流)。



「皆さんは、『やわらかい身体』にどんなイメージを持っていますか?」

プロダンサー育生家の「稲吉優流(いなよし・まさる)」さんは、そう問いかける。



「やわらかさ」には種類がある。

たとえば、「柔らかい」と「軟かい」では、そのイメージが異なる。

「柔らかい」と言えば、柔道が連想され、そこには強さが内包されている。ところが「軟かい」と言えば、軟体動物のタコのようなものであり、軟弱な弱さを感じさせる。

まあ、この2つの「やわらかさ」をもってして、「柔軟」と言うのだが…。



外には軟らかく、内には柔らかい。

そんな理想的なやわらかい身体には「芯」がある。それを稲吉さんは「柔芯(じゅうしん)」と呼ぶ。

「ただ『軟かい』だけのダンサーは、芯がないのでバランスが取れず、カラダを固めてしまいます。しかし、『柔らかい』カラダには芯があるので、固める必要がありません」と稲吉さんは語る。



タコのような軟らかさでは、「締まり」がない。

「たとえば、競技前の選手をトレーナーの方々が『ほぐしすぎない』のは、動くためには『締まり』が必要だからです」と稲吉さん。

固すぎず、柔らかすぎず、程よい締まりのある状態。それが「柔らかい芯」、すなわち「柔芯」となる。



力は抜けば良いというものでもない。

稲吉さんの言う「悪性脱力」とは、芯のない脱力のことである。そうした悪い脱力の状態からは、いざ動こうとする時、カラダを一気に緊張状態にもっていかなければならない。そのため、逆に動き出しの力がたくさん必要になるのである。

不思議なことに、もともと『軟かい』人は、動く時にカラダを固める傾向があるのだという。むしろ、カラダの固い人のほうが、良い脱力の感覚を得やすい、と稲吉さんは言う。



そんな稲吉さんの目指すのは、「ボールのように弾むカラダ」。

固い身体はいわば「石」のようなもので、地面に落としても弾まない。また、「軟かい」身体もまた然り。それは「豆腐」のようなもので、地面にベチャっと潰れるだけである。

一方、「ボールのように弾むカラダ」は、表面的には軟かいが、中には程よい締まり(柔らかい芯)がある。だから、外からのストレス(圧力)を、上に飛び上がるエネルギー(活力)へと転ずることができるのだ。



「バキッ!と折れる固さや、グニャッ!と崩れる軟らかさではなく、『ボンッ!』と弾むカラダ。そうした弾力、つまりバネをどう手に入れるか?」

それが、稲吉さんの勧める「柔芯体メソッド」である。







この書は、決してダンサーのために書かれたものではなく、むしろ一般的、根源的な動きにアプローチしている。

稲吉さん自身、プロダンサーでありながら武道もたしなむということもあり、いわゆる極意的なものも実にわかりやすく解説されている。この点は、言葉にならない武道の感覚をも解説した、稀有の書ともいえるだろう。

たとえば、「上への脱力」などは目からウロコである。重さから解放された「透明な動き」は、武道家たちの目指す深淵でもあろう。それは、煙のごとく立ち上がることにも、消える動きにも通じるものである(本書とシンクロしたDVDも必見である)。



ちなみに、もともと身体の固い人はいない、と稲吉さんは言う。誰しも赤ちゃんの時は、恐ろしいほどに軟らかかったのだから。

なぜ、固くなったかというと、それは「筋肉が衰えたから」である。使わない筋肉が固まってしまった結果、動きの範囲が狭くなってしまったのだ、と稲吉さんは言う。



ごもっとも。身体が固くなる、それはすなわち「老化の一種」だったのだ…。

机にかじりついたような生活は、身体を石化させてしまうかもしれない。

バキッといってしまう前に…。








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ソース:月刊 秘伝 2013年 01月号 [雑誌]
「稲吉優流氏が提唱する『柔芯』とはなにか?」




2013年3月22日金曜日

敗れた侍ジャパン。疑惑の重盗(WBC)。



その瞬間、一瞬声を失った。

まさか、あんな痛恨のミスが出るなんて…。



WBC準決勝、日本vsプエルトリコ、8回裏。

0対3で負けていた日本の攻撃は、残すところあと2回。

「当然、ファンだけでなく日本ベンチも逆転劇を期待して、この8回裏を迎えたはずだった(Number誌)」



ワン・アウトから鳥谷敬が三塁打。井端のタイムリーで1点を返した日本。

さらに内川聖一のヒットで、ランナーは1、2塁。そして迎えるバッターは4番の阿部慎之助。

「いやが上にも、逆転ムードは高まった」。



逆転の舞台は整っていた。

バッターボックスに立った阿部慎之助は、今大会当たっている。この場面でホームランが出れば、一打逆転だ。



初球はファール。

そして2球目、一塁ランナー内川が走った!

盗塁だ!



当然、二塁ランナー井端も同時にスタート切った。ダブルスチール(重盗)だ……と思ったその瞬間、二塁の井端はすぐに走るのを止めて塁に戻ってしまった。

それでも、一塁ランナー内川はそれを知らずに、顔を下に向けたまま二塁に猛進。ランナーのいる二塁へ…。



顔を上げた内川は、一瞬何が起こったのか分からなかった。

2人のランナーが2塁を挟むように鉢合わせ。そして、そのまま、内川はタッチアウト。

「膨らみかけた逆転の風船は、これで一気に萎んでしまった(Number誌)」



「走塁ミス?」

それにしても、まさか強打者・阿部がいる場面で、ダブルスチール(重盗)とは…。

たとえピッチャーのロメロはクイックが下手だとはいえ、キャッチャーはメジャーでも強肩で鳴るモリーナだ。そう易々と盗塁を許すキャッチャーではない。



いったい、コーチからはどんなサインが出ていたのか?

「必ず盗塁(重盗)しろ。タイミングは任せる」

それが、一塁コーチャー緒方耕一のサインだったという。



「もちろん、打席には阿部がいるので、カウントが不利になる前の『できるだけ早いタイミング』で走るに越したことはない(Number誌)」

だから、一塁の内川も、二塁の井端も初球からいくつもりでタイミングを計っていた。

「初球ファールの2球目、ここで走ろうとしたが、二塁の井端はスタートが悪かったために断念。だが、一塁の内川は、止まった井端を見ずに走ってしまったわけだ(Number誌)」



「僕のワンプレーで、全てを終わらせてしまいました…」

試合後の内川は、涙に濡れていた。

「飛び出した自分が悪いんです…。すべて僕の責任です…」



この試合、日本はプエルトリコに負けた(1対3)。

WBC3連覇は夢と消えた…。



「3連覇を自分が止めたような気がして申し訳ないです…」

「戦犯」とされた内川は、全責任をひとりで背負うようなコメントを残した…。



さて、この内川のプレーについては、さまざまな意見が飛び交っている。その多くは非難の嵐だ。

そんな嵐が吹き荒れる中、イチローのコメントばかりは思いやりに満ちていた。



「あの場面で、あのスタートができるのは凄い」と、イチローはまず内川の思い切りの良さを讃える。

二塁ランナーの井端が引き返したのを見て、内川も戻るべきだったという指摘に対しては、「ほとんどの捕手に対しては、見ながら戻れる。でも、モリーナには無理」と一蹴。

プエルトリコのモリーナは、大リーグ屈指の強肩キャッチャー。たとえイチローとて、そうそう塁を進められるものではない。



イチローの持論はこうだ。

「走塁は野球で最も難しい技術」

日米通算651盗塁のイチローが、そう言うのである。



イチローには、重圧の中で塁に立つランナーの気持ちが痛いほど分かるのだろう。

そのイチローが、あの場面での内川の心情を思いやるのだ。

いわんや、余人は…。








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ソース:Number
「足で勝って、足で負けたジャパン。あの8回裏の重盗シーン、全真相」
「イチロー『当然』WBC侍の走者判断重盗」

2013年3月21日木曜日

「根拠なき自信」のススメ



「自信には2つあります」

メンタルトレーナーの「久瑠あさ美(くる・あさみ)」さんは、そう切り出した。

「一つは『根拠のある自信』、もう一つは『根拠のない自信』です」






「根拠」とは、これまでの自分が積み上げてきた実績。

プロ野球選手であれば、「打率3割です」とか「ホームラン30本打ちました」といったことである。



「しかし、私が大事にしているのは『根拠のない自信』なのです」と、久瑠さんは言葉を続ける。

根拠のない自信とは何か?

「根拠のない自信というのは、『今この瞬間』生み出されているものです」と、久瑠さん。



根拠というのは「過去」にしか根差さない。

たとえ過去に99回成功していたとしても、次の一回が「必ず成功するとは限らない」。

「これは、どんなに根拠を塗り固めた人でも皆同じで、成功と失敗の確率というのは、次の瞬間においては、常に50:50(フィフティ・フィフティ)なんですね」と、久瑠さんは言う。



アスリートがスランプに陥るのは、決まってそんなときだ。

「過去99回成功してきたのに、なぜこの一回を失敗したのか?」

その事態に戸惑ってしまい、その次の一回にも恐怖心が出てしまう。野球では突然ヒットが打てなくなったり、ゴルフではパットが入らなくなったり…。



「根拠のある自信は、たとえ99回上手くいったとしても、たった一回の失敗で無残にも崩れ去ってしまうのです」

久瑠さんがそう言う通り、「根拠」というものが「過去」にしか持ち得ないものである限り、それが揺らげば「無残にも崩れ去ってしまう」。「根拠」に寄りかかっていただけに、その背もたれが急になくなった時にはパタリである。



では逆に、根拠を「未来」に持つことはできるのか?

「根拠を未来にもつ」、この言葉の表現自体すでに矛盾している。

未来の根拠は、未だ実現していないものである。ということはすなわち、「根拠はない」ということにならざるを得ない。要するに、久瑠さんのいう「根拠のない自信」に他ならない。



たとえば長嶋茂雄。

彼は現役時代、「ボールが飛んでくると、人の守備位置まで入っていってキャッチしてしまう」という有名な話があった。

長嶋茂雄はきっと、来たボールを「どうやって捕ってやろうか」とワクワクしていたのだ。飛んできたボールは「全部自分のもの」だったのだ。



「どんなボールが飛んでくるのかは未来のことですから、誰にも分かりません。それでも長嶋さんは、自分がファインプレーを狙っていくんだという意識を持っていたんですね」と、久瑠さんは言う。

捕れるかどうかは本当は分からないはずだ。にも関わらず、長嶋茂雄はどんなボールでも「捕れる」と確信していたのかもしれない。「根拠のない自信」によって。なにせ、「未来の自分」はいつもファインプレーを決めているのである。



たとえミスをしても構わない。それをリカバリーする時にまた魅せるチャンスがあるのだから。

「その時にどんなリカバリーをするか、そこに熱くなれる人が、最後に上がってくるんですよ」と久瑠さん。






久瑠さんに言わせれば、未来を考えることが「イメージ」、過去を思うことが「妄想」となる。

「人間の能力の限界は、イマジネーションの限界」と久瑠さんは言う。「イマジネーションが無理だと思えば、無理なんです」。



「トップアスリートを見ていてよく分かるのは、『いい状態にある選手は、未来しか見ていない』ということです」と、久瑠さんは言う。

そんな彼らは、すでに表彰台の上にいるのだ。まだ競技が始まってもいないうちから。



ところが、過去に生きている人は言わずもがな、現在に生きていると思っている人でさえ「ほぼ過去に生きている」。

「というのは、今こうしている瞬間、一秒たてば過去になるんです」。そう久瑠さんが言う通り、時間は容赦もなく流れていくのである。

逆に、「一時間先の未来は、一時間たったら『今』になるんです」と久瑠さんは言う。



「根拠のある自信」とは、現在から過去を眺めた視点である。

一方、「根拠のない自信」は未来の方向を向いている。



車を運転する時は、必ず前、すなわち少し先の未来を見ながら進んでいるはずである。

まさか「バックミラー」だけを見て運転している人はいるまい。危なっかしくてしょうがない。根拠とはいわば、そのバックミラー。過去を眺めているようなものである。

車ならば余程に危ういその視点、なぜか「考え方という世界」では、そうしてしまっている人が多いのは面白いことである。



最後に久瑠さんは「自分を変える必要はない」と言う。

その自分とは、きっと「過去の自分」。そうした自分は、じつは変えようにも変えることができない。自分自身が過去に戻れないのだから。それよりも、未来に新しい自分をイメージして、作ってしまったほうが手っ取り早い。



「イマジネーションとは、『自分はこうありたい』とクリエイトすることです」と久瑠さんは言う。

根拠に自信をもっている限りは、過去の自分に囚われてしまうばかり。「それは過去の記憶を組み換えているだけで、生産性がありません」と久瑠さんは断言する。



なるほど、自分は「変える」ものではないのかもしれない。

きっと、「変わる」のだ…!

この一秒後にでも。








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ソース:致知2013年4月号
「マインドの法則 久瑠あさ美」

2013年3月20日水曜日

欧米の「個人力」、日本の「組織力」



「日本の登山隊は、チームというより『会社』に近い。しっかり役割分担がされている。どちらかというと『野球』に近いんです。一方、ヨーロッパの登山隊は一人ひとりがもっと自由。だからサッカーに近い」

そう語るのは、日本人で初めて世界8,000m峰全14座の完全登頂を果たした登山家の「竹内洋岳(たけうち・ひろたか)」さん。



大昔、国家の登山は「戦争の延長」だった。世界各国は、自国の威信をかけて頂きを目指したのだ。ゆえに、どの国も「組織登山」が当たり前だった。

ところが時代の下るにつれ、登山は「スポーツ化」していった。すなわち、それは個人のものとなっていったのである。



そんな世界の潮流にあってなお、日本の登山隊ばかりは「組織登山」を今だに重んじている、と竹内さんは言う。

「ヒマラヤには、日本の国名を冠した『ジャパニーズ・クロワール』というルートはあっても、『メスナー・ルート』のように個人名が冠せられたルートはほとんどないんです」






2006年、竹内さんが国際公募隊に参加した時、日本人の感覚と世界のそれとの温度差をホトホト感じさせられる体験をさせられた。

その時の登山では途中で天候が悪化し、食料が乏しくなったため、隊は「引き返すかどうか」という岐路に立たされていた。

そこで竹内さんは、こんな提案をした。「隊を2つに分け、どちらかは食料を取りに戻り、一方はチャンスがあれば頂上を目指すということでどうか?」と。



すると、隊員たちは一斉に「非難の目」を竹内さんに向けた。

「みんな同じ料金を払っているんだ。だから、みんな平等に登頂する権利がある!」と主張するのである。つまり、みんなが頂上を目指したがったのだった。

この時、竹内さんは痛感した。「あぁ、ヨーロッパには日本のように『誰かが犠牲になってでも成功者を出す』という考えがないんだな…」。






ヨーロッパの登山は、隊を組んでいたとしても、それはあくまで「個の集合体」であった。

「だから、海外の登山隊に参加する時は、野球ではなく、サッカーのつもりでいる」と竹内さん。



日本人は、自分をチーム仕様に変えることができる。文字通り、集団として一つになろうとする。

「逆に欧米人は、手を組む条件として『個のままでいること』を求める。つまり、どのチームにおいても、自分の形を変えない(Number誌)」

欧米人の集団は、あくまでも「個人の集まり」なのであった。



日本人は、野球のように守備位置を決められたら、そこを守り通す。たとえ、それが地味な役回りだとしても。

ところが欧米人は、誰もがシュートのチャンスを狙っているのであった。

ここで誤解を避けたいのは、竹内さんが言うサッカーは、チームプレイを必要としないということではなく、その役割分担が野球よりも緩い(自由度が高い)といったニュアンスであろう。



個人と組織の優劣は、ここでは問わない。

ただ、世界と日本の感覚には差がある。

それを心得てさえおれば、日本人はそれに素直に適応できるはずである。








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ソース:Number
「『組織力』は『個の力』を上回るか?」

2013年3月18日月曜日

冬季スポーツの賞金、あれこれ。


今季、W杯スキージャンプの覇者となった「高梨紗羅(たかなし・さら)」。

全16戦中8勝という圧巻の勝利。スキージャンプでの総合優勝は日本人初であると同時に、世界スキージャンプ史上、最年少記録でもあった(彼女は若干16歳、まだ女子高生)。



ところで、ジャンプW杯の「優勝賞金」はいくらだったか?

一万スイスフラン、すなわち100万円ほどである。

はたして、この額は多いのか、少ないのか?



冬季メジャー競技においては、じつに少ない。

「スキージャンプW杯の全試合に勝ったとしても、2,000万円台だ(Number誌)」



一方、アルペンスキー競技のトップは「年間6,000万円を超える」。

現時点でアルペン・レーサーの賞金ランキングのトップであるM.ヒルシャー(オーストリア)は、W杯獲得賞金だけですでに4,593万円、世界選手権のそれも合算すれば、5,200万円を超えている。

「賞金は、スポンサー企業がそのスポーツの人気を認めた結果として高額になっていく。これが原則だろうから、アルペンスキーの高額賞金がその人気を証明している(Number誌)」



アルペンスキーは、日本と欧米で「その人気の開きが最も大きいスポーツ」。

日本ではその人気の低さからか、日本人トップの湯浅直樹でさえ現在130万円程度にとどまっている(世界賞金ランキング39位)。



ところで、アルペンスキー女子には、気鋭の新人ミカエラ・シフリン(アメリカ)という選手がいる。

シフリンは若干17歳。高梨紗羅と同じく、まだ高校生である。その彼女の賞金ランキングは世界3位の2,300万円だ。

アルペンスキーに興味の薄い日本人にとって、シフリンはおおよそ無名の選手かもしれない。しかしそれでも、彼女の獲得賞金は高梨紗羅のそれを悠に上回っているはずである(国際スキー連盟が賞金ランキングを発表しているのはあるアルペンスキーのみ)。



冬季競技のうちでは、フィギュアスケートも意外に稼げない。

フィギュアスケートのGPシリーズの賞金は、1位が1万8,000ドル(約162万円)。ファイナルだけは少し上がって2万5,000ドル(約225万円)。

「今季、出場全試合で優勝した浅田真央でも約549万円だ。フィギュアのトップ選手はCM出演等で個人の収入は多いが、賞金はそれほど高くない(Number誌)」



スポーツマンシップに則れば、選手は賞金稼ぎがその目的ではないだろう。

だが、世界を目指す選手の多くが、資金繰りに難をきたしているのも、また事実。



人気が上がれば、賞金も上がる。

浅田真央が、高梨紗羅が、冬季競技の人気を上げているのは間違いない。








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ソース:Number
「賞金額が人気の証」

2013年3月17日日曜日

無理せず、やり直した方がいいのか…?(サッカー)



「やり直せ!」

ピッチ上のそんな声とともに、日本のサッカーは、いったん攻撃の手を緩め、ボールを下げて「やり直す」ことがある。

「たとえば、前方へのパスコース、あるいはドリブルするためのスペースを見つけられなかったとする。そんな時は、無理に『確率の低い攻撃』に打って出る必要はない(Number誌)」

つまり、「無理せずにやり直す」のだ。



しかしどうやら、そんな消極的なバックパス、ヨーロッパでは認められない。

ヨーロッパの場合、それがホームチームであっても、バックパスにはスタンドからブーイングが浴びせられるのだという。

「おいおい、攻める気あんのかよ(怒)!」と。



日本の土壌で育った選手は、意外とバックパスへの「抵抗感」が少ないのかもしれない。ところが、ヨーロッパでは間違いなく「ブーイングのターゲット」となってしまう。

「それが長友佑都や清武弘嗣であろうと、バックパスに容赦はない(Number誌)。



それもそうだ。サッカーはボールを前に運んで、相手ゴールに近づいてなんぼ。強引にでも守備をこじ開けなければ、勝ちも近づいてこない。

「あくまでも『やり直し』は、前方向への狙いを持ったなかで行われなければならないのだ(Number誌)」

しかし残念ながら、Jリーグでも高校サッカーでも、「やり直し」によって攻撃が停滞してしまうことが少なくない。ボールが前に進まずに、シュートにも至らない。



ひょっとすると、日本のサッカーは「あきらめ」が早すぎるのかもしれない。そして、「やり直す」のも早すぎるのかもしれない。

やり直すのは、ボールを失ってからでも遅くない。もう一度、相手から強引にボールを奪い返して「やり直せばいい」。

世界の「強引さ」は、日本の比ではないのだから…。








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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/4号 [雑誌]
「『無理せずやり直す』という日本スタイルの功罪」

2013年3月15日金曜日

鮮烈! 「ノリック、転ぶな…!」



「鮮烈」

それがライダー「阿部典史(あべ・のりふみ)」、通称ノリック。

「生涯で残した戦績を振り返ると、突出して速いライダーではなかった。だが、彼のレースを思い出すとき、その印象は『鮮烈』としか言いようがない(Number誌)」



ヘルメットから後ろ髪をなびかせたライダー、ノリック。

その世界デビュー戦は、まさに「鮮烈」だった。







それは今から20年ほど前(1994)の鈴鹿グランプリ(500cc)。

弱冠18歳の気迫は、予選7番手からのロケットスタートに現れていた。

1周目を終えて、なんと4番手に急浮上。4週目には一気に2番手に。



強引にでも攻め続けるノリックの走りに、鈴鹿サーキットは騒然となる。

「あいつ、本物だよ…」

ダイヤの原石とは言われてはいたが、まさかここまでとは…。



「ノリックは積極的に後輪を滑らせてコーナーを攻めて行く。ほとんど曲芸の世界ですよ(ジャーナリスト・遠藤智)」

ノリックのバイクは型落ちだった(ホンダNSR500)。直線スピードで劣るそのバイクを、ノリックは果敢なコーナリングでカバーしていく。

だが、その履いているタイヤも万全ではない。ミシュラン全盛時代にダンロップを履いていたのだから。



それでも、歴戦の猛者たちから一歩も引かないノリック。

一歩も引かないどころか、一歩前へ出た。

10週目、ノリックはついにトップに立つ。



「突然の終わり」

タイヤの限界。

ギリギリまでブレーキングを遅らせた第1コーナーで、ノリックの身体はゴム鞠のように跳ね、転がり、飛ばされ、そしてコース脇の砂地に叩きつけられた。



時速300km以上でメインスタンドを通過して、鈴鹿の大観衆を「オオッ!!」と響(どよ)めかせたノリックは、その直後のコーナーで派手に転倒したのだった。

「あのレースでノリックは、勝つか目立つかしかなかったわけです(青木敦・ライディングスポーツ編集長)」

このノリックの派手な転倒シーンに、鈴鹿の大観衆は魅せられた。それは「事件」と呼べるほどに凄まじいレースだったのだ。



幸い、ノリックは無事だった。

レース後、勝ちを逃したノリックは子どものように「泣きじゃくった」。

「普段はヘルメットをかぶって見えないから、そういう激しい感情を目の当たりにすると感動しますよ」と、青木敦(前出)は当時を振り返る。

「このレースでノリックが魅せたのは、才能の片鱗だけではなかった。欲しいものを子どものように欲しがる無邪気さ…(Number誌)」



ノリックの熱さは世界に伝わった。

「すごいライダーがいる」

当時、日本人よりも外国人たちのほうに、ノリックの名がよく知られていた。「鮮烈」な日本グランプリ(鈴鹿)の転倒シーンによって。



日本グランプリ後、ノリックは海を渡る。

「ノリックはスポンサーの威光に頼らず、大枚の契約金で迎えられた嚆矢と言えるだろう(Number誌)」

ノリックはヤマハワークスから引き抜かれたのであった。

「ライバルのホンダ系チームからヤマハが引き抜くのも異例だが、シーズン途中で無名の新人がワークス入りするなど、当時のレース界の常識ではあり得ないことだった(Number誌)」。







「とにかく、よく転んだね」と、当時の技術責任者の桜田修司は振り返る。

一発目のイギリスで、ノリックはいきなり骨折。

「一緒に救急車に乗りましたよ」と桜田は笑う。「ノリックはまさに感性で走るタイプ。だから細かなセッティングには無頓着。とくかく誰よりも速く走りたい。『減速するのは負けだ』みたいな(笑)」。

それがノリックの長所でもあり、短所でもあった。



鳴り物入りで世界に躍り出たノリックであったが、転倒を繰り返していたために、'95年シーズンは鳴かず飛ばず。

「あの鈴鹿の走りはマグレだったのか?」

そんな懐疑的な目が、ノリックに向けられるのも無理はない…。



「崖っぷち」

'96年、ふたたび鈴鹿で迎えた日本グランプリ。ノリックは追い詰められていた。

予選を終えて11番。「周囲の期待は決して高くはなかった」。



ところがドッコイ、ノリックは決勝で「見違えるような走り」を見せる。

「あの走りだ…!」

得意のロケットスタートで、1周目から一気に4番手に駆け上がったノリック。



「オレは速い! もっと速く走れる!!」

そう言わんばかりの、ノリックのアクセル。

「予選タイムより1秒も速くラップを刻んでいくノリックのヤマハYZR500に、もはや追いつけるライバルはいなかった(Number誌)」



残り3周。

単独トップに立っていたノリック。

後続との差は5秒以上。しかしそれでも、「決してアクセルをゆるめない」。



路面にブラックマークを残しながら、これでもかと攻め続けるノリック。

リアタイヤは悲鳴を上げている。それでもまだ、スピードを上げる。

マシンは時おり、不穏な挙動を示す…。



観客の誰もが祈らざるを得なかった。

「ノリック、転ぶな…!」



日本人ライダーとして、史上初めて母国での500cc制覇へ。

「大歓声が後押しするなか、ヘルメットから長髪をなびかせたライダーが、メインストレートを駆け抜けていった(Number誌)」

ロードレース世界選手権の最高峰500ccで、ついにノリックはテッペンに立った。



歓喜、歓喜、感動、感動…!

歓喜と感動のウィニングラン。

「ノリックはヘルメットの内側で、どんな表情をしていたのだろう?」

のちにノリックは「日の丸の旗を持ったら、手を振れなかった」と笑っていたが…。



鈴鹿サーキットに初めて流れる「君が代」。

表彰台の真ん中で泣きじゃくるノリック。

そんな裸のノリックを見て、思わずもらい泣きしてしまうファンも数知れず…。



'94年の大転倒でノリックはファンの心を掴んだ。そして、'96年の勝利はそれを掴んで離せないものにした。

「戦績だけならノリック以上の結果を残した日本人ライダーはいる。だが、存在感で誰もがノリックに及ばないのは、この鈴鹿での2戦のインパクトがあまりにも大きいからだ(Number誌)」



優勝後の記者会見では、泣き顔から一転、ノリックは「満面の笑み」を見せていた。

「よく泣いて、よく笑う。ノリックは誰にも愛されるライダーだった(Number誌)」







その後も、ノリックは走り続けた。

'99年、リオデジャネイロでノリックは再び表彰台の真ん中に立った。

そして、'00年の日本グランプリでも優勝を果たした。







不慮の事故。

ノリックの死は突然だった。

'07年、交通事故で急逝。享年32…。



そんな鮮烈さまでは、誰も求めていなかった…。

あの日の鈴鹿での熱狂、それが失われて随分と久しい。それでもあの大歓声は、すぐそこにでも聞こえてきそうだ…。

ノリックの素直な涙、そして満面の笑みとともに…。







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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/4号 [雑誌]
「ノリック、転ぶな! 阿部典史」