2016年8月30日火曜日

王道と新風、2つの金メダル [柔道、大野将平・ベイカー茉秋]



ロンドン五輪(2012)

日本柔道の男子は、まさかの「金なし」

「惨敗」「不振」と、強い批判をあびた。



”ロンドン五輪を思い出す。

初日、平岡拓晃が銀メダルを獲得した。

すると「金メダルではなかったこと」に失望し、当時の首脳陣は表彰式をみることもなく、選手を置いて会場を後にした(『Number誌』)









あれから4年、

日本柔道界、悲願の「金」。



ブラジル、リオ五輪でその重責を誰よりも強く背負ったのは、

大野将平
おおの・しょうへい

だった。



”その実力がこの階級(男子73kg級)で抜きん出ているのは、誰の目にも明らかだった。柔道関係者やメディアからは、

「優勝候補筆頭」

と期待が集まった。



大野もそれを意識していた。

「皆さまや周囲からは、『勝って当たり前』といった声も聞こえていました」


周囲の視線だけではない。日本代表男子監督の井上康生にも、期待を寄せられていた。日本代表が決まったあと、井上は言い続けてきた。

「大野はオリンピックで金メダルに最も近い一人です」

井上監督は意図を説明する。

「あえて言い続けてきた部分がありました。彼はそれをエネルギーにして、最高のパフォーマンスをしてくれると想定していたところがありました」

大野が金メダルを獲ることは、半ば「宿命」づけられていた(『Number誌』)






さあ、金メダルを宿命づけられた大野将平。



”そのために大野が掲げたテーマは

「圧倒的な差をつけること」

金メダルを必ず手にするには、「心技体すべての面で世界中のどの選手よりも上回らなければならない」と心に決め、練習に励み、時間を送ってきた(『Number誌』)。”






2016年8月

ブラジル、リオデジャネイロ五輪

いよいよ大野将平が登場した。



初戦となった2回戦

畳にあがると、大野は深々と長い一礼をし、はじめてのオリンピックの舞台に敬意を表した。

相手はミゲル・ムリーリョ(コスタリカ)。試合中盤、大野は足払いでムリーリョを倒すと寝技へ。横四方固めで、そのまま一本。



つづく3回戦

ビクトル・スクボルトフ(アラブ首長国連邦)を、内股で美しく投げ飛ばした。華麗なる一本。まさに「美しき柔道」。



準々決勝

対するはロンドン五輪金メダリスト、ラシャ・シャフダトゥアシビリ(ジョージア)。

大野は腰車で技ありを奪うと、そのまま優勢勝ち。






準決勝

ディルク・ファンティシェル(ベルギー)

大野は巴投げで技あり、そしてまたも巴投げで胸のすくような一本勝ちを決めた。



”しっかり組んで、きれいな投げ技を披露する大野は、場内の各国の観客をひきつけ、登場するたびに歓声をあびた(『Number誌』)



決勝戦

ルスタム・オルジョフ(アゼルバイジャン)

まずは内股で技あり、そして小内巻き込みで一本。

大野は全試合まったく危なげなく、そして美しく、金メダルへとたどり着いた。







「これぞ日本の柔道」

そう叫びたくなるほどに、立ち技を中心に、73kg級の大野将平は「圧倒的な強さ」を見せつけた。

圧倒的な勝者は、しかし、決勝戦が終わった直後も、表彰式でも、ニコリともすることがなかった。表情を一切変えずにいた(『Number誌』)



”大野将平選手は、決勝での見事な一本勝ちにもかかわらず、相手との礼を終え、畳を降りるまで表情を緩ませなかった。

清く正しく美しく。

敗れた相手をも慮る、という「礼」の精神だ(『Number誌』)



礼をつくした大野は言う。

「相手を敬おうと思っていました。冷静に、きれいな礼もできたのではないかと思います。(オリンピックは)日本の心を見せられる場でもあるので、よく気持ちを抑えられたと思います」



抑えた気持ちは、井上監督からこう声をかけられたときに堰をきった。

「よくプレッシャーに耐えてくれた」

大野の両頬にあふれた涙は、とどまるところを知らなかった。



大野は言う。

「達成感より、安心感の方が強いです。当たり前のことを当たり前にやる難しさを感じました」



”大野にとって、必ず手にしなければいけない金メダルであった。

宿命づけられた、いわば「金メダルを守らなければならない」重圧から解放された瞬間であった(『Number誌』)









大野将平、金メダルの翌々日

大野とはまったく対照的な男が、もう一つの金メダルを日本柔道にもたらした。

ベイカー茉秋
べいかー・ましゅー


”対照的な二人が、日本柔道界の悲願をかなえた。

一本勝ちで勝負をきめ、静かな礼で締めた大野。

人差し指を天にかかげ、喜びを爆発させたベイカー。

90kg級で日本男子2個目の金メダルをもたらした若き柔道家は、あらゆる面で異彩をはなった (『Number誌』)







”決勝のリパルテリアニア戦では2分17秒、ベイカーは大内刈りで有効をうばう。

ここから意外な展開をみせる。

ベイカーは攻めに出ることなく、逃げ切りを図ったのだ。最後まで攻めに行くのをよしとするのが日本の柔道である。その点でも異質であった。その消極的な姿勢によりベイカーは2度、指導をうけたが、目論見どおり試合は終了。

金メダルが決まった瞬間、両手の人差し指を天に高々と突き出し、喜びを露わにした。



「金と銀では全然ちがいますから」

逃げ切りを図った理由を、ニコリと説明する。



決勝後の人差し指を突き上げるポーズを尋ねられれば、逆に聞き返した。

「かっこ良かったですか?」

そのあけっぴろげな明るさもまた、異彩をはなっていた (『Number誌』)







”世界のJUDO選手たちは、勝った瞬間に感情を炸裂させる。主審の制止もよそに、リードを食いちぎった雄犬のように場外に駆け出し、吠え散らす。

いや、他の種目では皆やることだ。レスリングなら日本人も遠慮なくリングを駆け回る。むしろそんな喜びの爆発こそが、ここまでの苦しみの証明のようでもあり、観る者の心も揺さぶる。

ただ、柔道が唯一ほかと違うのは、勝利にまつわる美意識に、日本と外国とでは大きな隔たりがあることだ。

男子100kg超級の決勝で2連覇をはたしたフランスのリネール選手は、原沢久喜選手との組み合いをひたすら避けて指導一つ差で逃げ切ったが、勝負を終えるや両手を上げての大喜び。消極的な結末に会場でもブーインが起こったが、ルールの範囲で勝ったのに、はてここまで「卑怯」と評されるスポーツも他にないのではと私はぼんやり思った(『Number誌』)






井上監督はベイカー茉秋を「新種の選手」と評し、その力を抜擢した。

”大野は伝統を守るために戦い、金メダルをつかんだ。

ベイカーは今回の代表7名のうちで最年少。失うものは少く、臆することなく金メダルをつかんだ。

両者の築きあげてきた柔道スタイルは、正統派のド真ん中と異端。

抑制された感情と、どこまでも突き抜けた明るさ。

あらゆる面で真逆の二人であった(『Number誌』)



井上監督は「金メダルでなかれば意味がない」とは言わなかった。

むしろ、銅メダルにとどまった海老沼匡選手にも

「胸を張れ」

と、その労をねぎらった。



”髙藤直寿は言った。

「純粋に胸をはり、銅メダルをかけて帰ろうと受け止めています」

偽りの言葉でないことは、表彰式の笑顔が物語っていた。金メダルでなければ頭を垂れるのが常であったこれまでの選手たちの姿とは、明らかに異なっていた。

その結果が、52年ぶりの全階級メダル獲得であった(『Number誌』)






(了)








出典:
Number9/9特別増刊号 五輪総力特集「熱狂のリオ」
大野将平・ベイカー茉秋「正統と異端」



関連記事:

「100mはショーで、200mはアートだ」 [ウサイン・ボルト]

家に卓球場、卓球家族と石川佳純

ソチ18日間、ともに流した涙 [鈴木明子]




2016年8月29日月曜日

「やめたい」から金メダルへ [競泳・金藤理絵]



競泳選手

金藤理絵
かねとう・りえ


2008年(19歳)、北京オリンピック、女子平泳ぎ200mで7位入賞。

2009年(20歳)、日本記録をマーク。

しかし、

2012年(23歳)、ロンドン五輪はまさかの落選。腰のヘルニアが、痛くひびいていた。



「あのときは地獄のようでした」

そう語るのは、金藤理絵のコーチ、加藤健志(かとう・つよし)の妻、愛さん。

「選考会の応援に行った帰りの電車の中で私もボロボロ泣きながら、主人にも金藤さんにも声をかけられなかったんです。試合が終わった後、会場で応援団に理絵ちゃんが申し訳なさそうに頭を下げているのを見て、本当に辛かった。主人も自分のせいだと落ち込んで、コーチをやめようかと言うほど、ずいぶん悩んでいました」



金藤不在のロンドン五輪では、後輩たちが華々しい活躍を見せていた。

”後輩たちが自分を追い越していく…”

金藤は心中、穏やかではいられなかった。

”いったいどうして、自分は泳いでいるんだろう…?”



松岡修造は言う。

「彼女(金藤理絵)は、インタビューをするのが苦しくなるくらい、ネガディブな発言をする人でした」



マイナスへ、マイナスへ。

金藤の心は、深く深くしずんでいった。

「いつも『やめたい』、『やめたい』と思っていました」

と金藤は当時を振り返る。



それでも、金藤は水泳をやめなかった。

というよりも、やめさせてもらえなかった。スパルタコーチ、加藤健志が頑として彼女の引退を受け入れなかったのだ。

金藤は言う。

「わたしが何回『やめたい』といっても、加藤コーチが絶対に辞めさせてくれませんでした。『なんでこの人は分かってくれないんだろう』と思っていましたが、1を言うと100にして返してくる人なので、かなわなかったです(笑)」



金藤はマイナスの心をひきずったまま、競泳界に残りつづけた。日本代表には毎年のように選ばれた。しかし、タイムと結果はまったくついてこなかった。

2015年の世界選手権、金藤は女子平泳ぎ200mで6位に終わった。レースに敗れたあと、金藤は涙がとまらなかった。

「情けないよ…。レースの前から、さじを投げていたというか…。今後、どうやって泳いでいけばいいか、わからない…」



応援していた人々も、金藤の泳ぎに失望した。まるで闘争心が感じられない、その泳ぎに。

「全力で泳いだのかっ!」

その苦言に、金藤はハッと目が覚めた。

金藤は言う。

「応援してくださっている方たちに、そんなことを言わせてしまった。本当に申し訳ない。もし私がここで引退したら、記憶にのこる最後のレースはこんな消極的な、やる気のないレースになってしまう」

金藤はつづける。

「レース前は、いつも駄目だったときのことを考えてしまって、すごい緊張や不安ばかりだったんです。調子が良くても『普通です』とこたえ、結果が出なかったときのために、はじめから保険をかけてしまっていたんです」



金藤理絵が大きく変わったのは、それからだ。

『やめたい』虫はどこへやら、一心不乱、なりふりかまわぬ猛練習がはじまった。一日、じつに2万メートルを泳ぎこんだ。普通の選手の2〜3倍もの過酷な練習量だった。腰のヘルニアなど、かまっていられなかった。

「もう逃げるわけにはいきませんでした」






結果はほどなく現れた。

”今年(2016)の2月、オーストラリアでおこなわれた3ヶ国対抗戦で、自身がもつ日本記録を7年ぶりに更新。4月の日本選手権では、2分19秒65とさらに記録をのばし、リオ五輪代表に選ばれた(『Number誌』)

シーズンタイムは世界ランキング堂々1位。

「いい意味で、『昔の理絵』とは全然ちがう」と、周囲はおどろきを禁じえない。



「オリンピックの舞台では、ありのままの自分で、がんばりたいと思います」

なんという力強い宣言だろう。かつてのネガティブな発言は、すっかり霧散していた。

金藤は日本競泳陣で「もっとも金メダルに近い」といわれ、ブラジルへ飛んだ。





金藤にとって最大のライバルと目されていたのは、ロシアのユリア・エフィモア(Y. Efimova)。一時はドーピング問題で出場禁止処分を受けたが、レースの数日前、急遽参加が認められていた。

この、出ないと思っていたライバルが急転、出場することになっても、金藤は動ずることも臆することもなかった。積みに積んできた練習の山が、金藤の心をしっかりと支えていた。

金藤は言う。

「相手は命がけかもしれない。でも、自分も命がけで取り組んできたんです」



2016年8月11日

ブラジル、リオデジャネイロ五輪

競泳女子、平泳ぎ200m決勝



スタート前、解説者は言う。

「準決勝でも、”後半の強さ”はみられていましたから大丈夫です。だからこそ、前半は守りに入らないことです。とくに100〜150mのこの50mですね、あわてずに、ひとかきが小さくならないように、金藤選手らしい”大きな泳ぎ”で、つなげてほしいです」



失意のロンドン五輪落選後、金藤は加藤コーチとともに「改革」に取り組んできた。

加藤コーチは言う。

「前半から攻める。前半からいける泳ぎをつくる」

金藤の筋肉には、乳酸をためこまないという特異な体質がある。それはすなわち、激しい動きを誰よりも持続できるということを意味する。

金藤は言う。

「『後半どうなってもいいや』という気持ちで、『前半速く』だけを意識していこうと思っています」

得意の後半に頼らない。前半から殻をやぶっていく。それが金藤の新たな戦い方だった。

オリンピック決勝の舞台、隣レーンのマッキーヨン(Mackeown, オーストラリア)は、金藤にとっては幸い、前半先行型。つまり、前半、マッキーヨンについていければ、後半、金藤は逃げきれることになる。



黒のキャップに日の丸。

5レーン、金藤理絵。

電子音とともにスタートをきった。



解説者は言う。

「金藤選手らしい、大きい泳ぎができていますよ。大丈夫ですよ」

50mの折り返し、金藤は3位。

8選手ともほとんど差がない、横一線。

「まずまずですね」と解説者。



隣5レーン、前半先行型のマッキーヨンが、100mのターンで首位にたつ。

そのマキーヨンに、金藤は0.27秒遅れで食らいつく。

「非常にいいですよ」

と解説者が言い終わらぬうちに、ついに金藤、頭ひとつ抜け出し先頭にたつ。そして、勝負の後半100mへと突入していった。



後半に入るや、前半おさえぎみだったロシアのエフィモアが猛然、追い上げてきた。

「エフィモア、要注意!」

最後のターン(150m)

1位 金藤理絵
2位 エフィモア( + 0.32秒)
3位 ペダーセン( + 0.72秒)

黒のキャップの日の丸を、ロシアのエフィモア、そして世界記録保持者のペダーセン(デンマーク)が猛追する。

レース後の金藤は、その戦況をこう語る。

「150mのターンで両側を確認して、ちょっと出ているのがわかって、一瞬『これは行ける』と思ったところはありました。でも『ここで油断してはいけない』と思って、ラスト50mは無心で泳ぎました」



ラスト50m

「金藤が先頭!」

ラスト25m

「世界一の練習をしてきました!」

ラスト15m

「金藤が逃げる! エフィモアがあがってくる!」

ラスト10m

「金藤、まだリードしている!」

ラスト5m

「金メダルが見えた!」



「やったー!!」

「ついに! ついに掴んだ金藤! 金メダルぅ!」

この種目を日本人が制するのは、バルセロナの岩崎恭子以来、じつに24年ぶりの快挙であった。







同時刻、地球の裏側、広島県で大歓声がおこった。

金藤理絵の郷里、広島・庄原市のパブリックビューイングが喜びに泣いた!

姉・由紀さんも、白いハンカチで目頭をおさえる。



思えば、姉・由紀さんの結婚式で流されたビデオレターが、金藤理絵を引退の瀬戸際から引き戻したのであった。

”泣きたい時は、思いきり泣けばいい”

そのビデオメッセージは、姉から妹への贈り物だった。

”お母さんがあなたの記事を切り抜きしていたファイルは8冊目になりました。一番最初は2000年8月、13年前、11歳のときから。たくさんの切り抜きやトロフィー、記念品がならんでいます”

金藤理絵が水泳をはじめたのは3歳。姉に追いつきたい、その一心からだった。

”理絵が頑張ってることで、たくさんの人が勇気をもらってる。なによりも両親が嬉しそうに大会にでかけていくことが、とても嬉しかったよ”



”そんなあなたに、人生の金メダルを贈ります”

姉が妹におくった「手づくりの金メダル」。その裏には、こう記されていた。

理絵ちゃんへ。
上には上がいる。
それでもきっと上を向く。
ひまわりのように、
いつも見守っています。



コーチ加藤健志の妻、愛さんも日本で泣いていた。

「金メダルが決まった瞬間、私といちばん上の子はもう号泣でしたね」

金藤には、こんなメッセージを送った。

「10年間、主人を信じてついて来てくれて、ありがとう」



ロンドン五輪を逃し、一時は現役引退も考えた。

だが、踏みとどまった。

加藤コーチ、そして家族の力で。



そして、つかんだ世界大会はじめてのメダル。

それがオリンピックという大きな金メダルだった。



「強かった」

スタートからついていき、持ち味の後半の強みを活かした泳ぎは、その一言で表せるほど、堂々としていた。… でも、一年前までは、今のような姿を想像することはできなかった。

「『変わった』と言ってもらえると、うれしいですね」

金藤はにこっと笑う(『Number誌』)






(了)








出典:
Number9/9特別増刊号
五輪総力特集「熱狂のリオ」
金藤理絵「変われることを信じて」



関連記事:

「世界と戦うチーム」東洋大水泳部。平井伯昌の下で

帰ってきた「シンクロの母」

「ぼくは両親の影響をすごく受けてますね」萩野公介 [水泳]




2016年4月23日土曜日

「ぼくの仕事ですから」 [堀江翔太とスーパーラグビー]



サッカーでは、なかなかゴールキーパーが決まらないことがある。誰もやりたがらないからだ。小学生ならなおさら、そうだろう。

だから堀江翔太(ほりえ・しょうた)は手をあげた。

堀江は言う。

「FW(フォワード)をやりたかったのに、GK(ゴールキーパー)をやる人がいなくて。それで仕方なく手をあげたんですよ。誰もやらないのは申し訳ないと思って」



のちにラグビー日本代表、不動の背番号2となる堀江翔太。

そのはじまりはサッカーだった。Jリーグのヴェルディにあこがれ、幼稚園からはじめた。そして小学生のサッカークラブでゴールキーパーに志願したのだった。誰もやりたがらないGKに。

「そしたら、シュートをどんどん止めちゃって(笑)」



ラグビーと出会ったのは小学5年生。

地元、吹田(すいた)のラグビースクールに誘われた。

堀江は言う。

「身体が大きかったのでチヤホヤされました。次の週には、ルールも知らないまま試合。ボールをもてば抜けるので、おもしろくて」



身長175cm、77kg。

大きな小学生だった堀江翔太は、

「堀江にボールをわたせばトライ」

であった。



中学ではバスケ部にはいった(南千里中学校)。

ラグビーのスクールは日曜だけだったので、平日はバスケットボールにいそしんだ。ポジションはセンター。体力と技術のみならず「献身」においても群をぬいていた。

チームメイトだった土屋健一は言う。

「堀江は大黒柱。1年から主力でした。ちかくの強豪中学の先生が試合中、『ホリエがきたー』と叫んでいたのを覚えています」



とあるバスケの試合で、堀江はじつに献身的に、こぼれ球をひろってはシュートを決めていた。その挺身ぶりを、応援にきていたチームメイト土屋健一の父は思わずほめた。

すると堀江は一言。

「ぼくの仕事ですから」

その言葉に、寿司屋の大将、土屋健一の父(毅)はぐっときた。

大将は言う。

「あれからざっと15年。15歳かそこらだった子供(堀江翔太)の言葉を、わたしが使わせてもらっています。お客さんがたてこんで、てきぱきと寿司をにぎり、さすが、とほめられると、『ぼくの仕事ですから』。この言葉を口にするたび、(堀江の)『使用料10円』なんて頭をよぎる(笑)」

土屋健一は言う。

「(堀江は)自分をまげない。シューズもみんなが最新のアシックスなのに、古い型のナイキ。彼がギターをひくのを知ってますか? 流行のJポップやヒップホップには目もくれず、一貫して山崎まさよし。まったく流されない」







高校は、府立の島本高校をえらんだ。

堀江は言う。

「兄が私立の大学にすすんだこともあり、公立でラグビーの一番つよい島本にきめました」

ラグビーの強さでは私学が上回っていた。学力的にも、もっと上を目指せた。進路指導でも「それでいいのか」と諭された。

しかし堀江の決意は揺るがなかった。

「まったく他は考えていません」

バスケにも誘われた。だが断った。

「ゴメン、俺はラグビーやから」



高校3年、堀江翔太をようする島本高校は、花園予選で決勝に進出。

しかし、東海大学付属仰星にやぶれた。

当時の島本高校の監督、天野寛之はいう。

「負け惜しみではないんですけど、あそこで仰星に負けてから、堀江の生活はすべて良いほうへ進んだのかな、と。悔しさがあって、ここまできた。高校日本代表になれなかったこと、花園に出られなかったことが、あいつのコンプレックスになったんです。そして、それが支えになった」

堀江は言う。

「コンプレックスはありましたよ。練習がきつくなると、『いつか、あいつらより上にいくねん!』と思いながら走ってました」

それでも堀江の「コンプレックス」はささくれだたなかった。どこか飄々としていた。



帝京大学へは、入学金免除ではいった。

大学をでると、トップリーグの誘いを断って、ニュージランドに渡った。ナンバー8からフッカーに転向したのは、かの地でだった。骨格からして、そのほうがチャンスが広がると考えたのだ。

こうして「ほかに類のない2番」が誕生した。



2008年、三洋電機(現バナソニック)に加入。

2011年、日本代表としてW杯に出場。

2013年、スーパーラグビーのレベルズに入団。



順調におもわれる堀江のキャリア。

堀江は言う。

「レールを敷いてもらい、自分はチョイスをしただけ。会う人がみんなよかった」



そして2015年のW杯。

五郎丸は言う。

「もしぼくが『W杯のベスト15』を選ぶなら、堀江選手をえらびます」

リーチマイケルは言う。

「フィールドプレーもすごく良いし、それより今回の日本代表の一番の勝因である『スクラムとラインアウト』、その両方とも(堀江選手が)中心としてやってたから。ものすごくプレッシャーがかかる場面で成功率も高かったし。マイボールスクラムは100%で、ラインアウトも88%を超えると良いといわれるなかで、93%もとった。フィールド外のリーダーシップも抜群だし」


堀江翔太はスクラム最前列のフッカーを務め、なお最後尾からフィールドを俯瞰するように考え、読み、動く。かわして、蹴って、抜いてみせ、いざ必要ならば吹き飛ばす。

ジャパン不動の背番号2は、南アフリカ戦金星の最大級の功労者であり、日本ラグビー界が、すこしも迷わず、世界に提出できる才能である。

(Number誌)






そしてスーパーラグビー参戦。


いまや世界120カ国で放映されるSR(スーパーラグビー)は、各国代表選手が選抜される場としての役割をもつ。

トップクラスの各国代表選手はもちろんのこと、代表入りを目指す若手もしのぎを削る。また、かつて代表で活躍した、いぶし銀のベテラン選手も加わってバラエティーに富んだチームがそろっている。

昨年のW杯イングランド大会では、ベスト4までを史上はじめて南半球の国が独占した。この事実とSR(スーパーラグビー)の存在は無関係ではないだろう。

そして今年(2016)、南アフリカ相手に”世紀の番狂わせ”を起こした日本の「サンウルブズ(Sunwolves)」がSR(スーパーラグビー)に参戦する。はたしてこんな日が来ると想像していたラグビーファンはいただろうか。

日本のプロチームが海外のリーグに打って出る。野球だってサッカーだって、そんな計画はなかった。

(Number誌)






じつは日本のSR(スーパーラグビー)参戦には、一悶着あった。

それは当時、日本代表のHC(ヘッドコーチ)であったエディー・ジョーンズが深く絡んでいた。


エディーは選手たちに、意気揚々とSR(スーパーラグビー)参戦を高らかに宣言した。

「SR(スーパーラグビー)で戦い、本当に強いジャパンをつくるんだ」

沈黙が部屋を支配した。

無言はさまざまな意味をもつ。ある選手は「世界への道がひらける」と思った。しかしある者は、その言葉をまるで歓迎する気になれなかった。

(Number誌)


廣瀬俊明は「選手の待遇」が不明瞭であることに不安をおぼえた。

「SR(スーパーラグビー)で選手生命を棒にふるようなケガをした場合、補償されるのか? どのような条件で参加するのか交渉しなければならない」

廣瀬はIRPA(国際ラグビー選手会)に助けをもとめた。

「他国のプロ選手たちの待遇はどうなっているのか? 補償や年金は?」


ところが、こうした廣瀬たち(堀江翔太、小野晃征)の動きが、エディーの耳にはいった。

エディーは激怒した。

「オレに隠れて、こそこそ何やってるんだ!」

SR(スーパーラグビー)参戦は、2019年日本W杯開催にむけてのマスタープランの一部だと認識するエディーは「裏切られた」と感じた。

「SR(スーパーラグビー)でプレーできるのに、どうしてお金のことなんか気にしてるんだ。プロのラグビー選手として、こんな栄誉はないのに、条件だの何だの四の五の言うなんて信じられない。しかもオレに黙って海外と交渉するとは。

断じて許せない

廣瀬には怒りのメールをおくった。


廣瀬はベッドのなかで、まだ眠い目をこすりながらメールをチェックした。差出人のひとりに「Eddie Jones」の名前があった。メールは午前4時に送信されていた。液晶画面にローマ字が浮かびあがる。

「あなたのおかげで、チームはめちゃくちゃです」

廣瀬は凍りついた。

(Number誌)






エディーの怒りはおさまるところを知らなかった。

そしてついに、SR(スーパーラグビー)のディレクター職を蹴った。それでも怒りはやまず、W杯がおわれば、日本代表のヘッドコーチの任をも退くことに決めた。


エディーの口から日本を離れることを聞いたとき、廣瀬には想像もしていなかった感情が押し寄せてきた。感謝の念が芽生えたのだ。

主将をまかされ、主将をはずされた。そして、チームを空中分解させている下手人とまで名指しされた。しかし、ここまでやって来れたのもまた、エディーのおかげなのだ。

日本代表がW杯にむけて最終準備をしていたこの時期、SR(スーパーラグビー)の選手登録期限が8月31日にせまっていた。廣瀬たちは少しずつ条件をととのえ、契約までの道筋をつけた。あとは個々の選手がどう判断するかである。

しかし期限の数日前には、関係者から

「メンバーをそろえるのはもう無理。撤退しましょう」

という声がきこえてきた。しかし最終的にはトップリーグの各チームの理解と協力をえて、どうにか陣容をととのえることができた。

チームの名は「サンウルブズ(Sunwolves)」に決まった。

(Number誌)


ラグビー愛好者は、サンウルブズの選手リストに

「堀江翔太=パナソニック」

の字のならびを見つけて安堵した。

「よくぞ身を投じてくれました」

と。


歴史的参戦のチームを束ねるのは

やはりこの男だ。


「サンウルブズ」初代キャプテンは

世界が認めた”トータル・フッカー”

ショウタ・ホリエ(堀江翔太)

(Number誌)


堀江は言う。

「代表の合宿中に、『選手があつまらなかったら日本のチームはなくなるよ』という話があって。そうなると、次に入れるのはいつか? もう一生ないんではないか、と。僕らはいいとしても、ユース年代の選手の目標がなくなってしまう。それにフミ(田中史朗)さん、リーチ(マイケル)などスーパーラグビー経験者がどんどん海外にでていく。ここで僕までいなくなると…」



小学校のサッカーチームで、誰もやりたがらなかったゴールキーパーをやったこの男は、SR(スーパーラグビー)でもまた「無償の使命」を果たそうとしている。人間には、野心や功名とはまったく無縁の「なにか」が必ずある。

きっと堀江はこう言うはずだ。

「ぼくの仕事ですから」






(了)








ソース:Number(ナンバー)896号 SUPER RUGBY 2016 スーパーラグビー開幕 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
堀江翔太「僕の仕事ですから」



関連記事:

酒とラグビーと、大野均

エディーの課した「人生最大の負荷」 [湯原祐希]

「奇跡じゃなくて必然です」日本vs南アフリカ [2015ラグビーW杯]




2016年4月20日水曜日

東大阪とトンプソン [ラグビー]



「だいじょうぶやでぇ〜」

もう、すっかりできあがったオッチャンが自販機の前でへたりこんでいる。

ここは東大阪。


ラグビーファンの集まる居酒屋で話しかけたヒゲ面の男性は、酒を飲むのも忘れて、身振り手振りをまじえて熱弁をふるっていた。

「膝も悪いのに全力疾走して、ガツガツ当たりにいく。ねんでトンプソンさんはボロボロになっても、日本のためにこれほどまでに身体をはってくれるんやろ。彼のプレー見てると、泣けてくるんや…」

(Number誌)


ラグビー日本代表、トンプソンルーク(Thompson Luke)は東大阪に暮らしている。もう9年になる。

トンプソンは言う。

「ぼくはクライストチャーチ(New Zealand)の牧場で育ったカントリーボーイだからね。都会は疲れちゃうから、あんまり好きじゃなくて。でも、ここ(東大阪)は生駒山にも近いし、自然がたくさんあるでしょう。地元の人たちはフレンドリーに声をかけてくれるし、仲良くなった人から野菜やお米をいただくこともあるよ。タコ焼き、お好み焼き…、食事はなんでもメッチャおいしい。そしてなにより、この街にはラグビーの文化が根づいてるんだ。東大阪はパーフェクト。実家みたいなとこやね、ホンマに」



Number No891 P50



トンプソンは学生時代、ニュージーランドのカンタベリー州代表チームでプレーしていた。

来日したのは2004年、23歳のとき。群馬県にホームがあった三洋電機ワイルドナイツに入団した。

トンプソンは言う。

「ニュージランドには、プロのラグビーチームは5つしかないけど、選手はとても多いから競争は激しい。プロのチームでプレーしたい気持ちはあったけど、僕は身体もそんなにデカくないし、特別な選手じゃないから…。でも三洋電機がチャンスをくれたんだ。こんなに素晴らしいチャンスを断る理由はないでしょう。日本の文化を知りたい、勉強したいという気持ちもあったし、チャレンジすることに決めたんだ」



196cmという身長は、日本ではかなりデカイ。しかし、本場ニュージーランドでは特別な大きさではなかった。まずは日本でキャリアを積んで、いずれはニュージーランドに戻り、あこがれのオールブラックスでプレーすることを夢見ていた。

だが三洋電機とて、そうそう甘くはなかった。控えにまわされたトンプソンは、わずか2年で契約を打ち切られた。異国の地で宙ぶらりんになってしまったトンプソン。声をかけてくれたのは近鉄ライナーズだった。

トンプソンは言う。

「三洋電機をクビになった僕に、プロとしてラグビーをつづけるチャンスをくれた近鉄には、とても感謝しています。僕は特別な選手じゃないから、たくさん努力するしかないでしょう。チームのために、少しでも貢献できるように頑張ってきたよ」



恩を返すため、トンプソンは身体をはりつづけた。セットピースをしっかりやって、クリーンアウトをしっかりやって、タックルをしっかりやって…。

そんな献身的なトンプソンに、日本代表からオファーがきた。2007年、フランスW杯大会メンバーに選ばれたのだった。

トンプソンは言う。

「桜のジャージを着るというのは、メッチャ特別なこと。家族、東大阪の人たち、近鉄のチームメイト…、応援してくれるすべての人たちのためにも、恥ずかしいプレーはできないでしょう」

はじめてのW杯、フランス大会の結果は「0勝3敗1分」。孤軍奮闘したトンプソン。そのの「捨身のコンタクト」は彼の代名詞となった。







2010年に日本国籍取得

ルーク・トンプソンから「トンプソンルーク」になった。

2011年、自身2度目のW杯をへて、2015年、イングランド大会でラグビー日本代表は爆発した。南アフリカを破る大金星。3勝1敗という過去最高の成績。



東大阪の酒場のオッチャンらは言う。

「トンプソンこそがMVPだ!」

骨のきしむタックル。

ひたすらなハードワーク。

「思い出しただけで、泣ける…」


エディージャパン、栄光の陰にトンプソンあり。

トンプソンが相手チームの猛進をことごとく潰し、突破口を開いたからこそ、エディージャパンの快進撃が生まれたともいえる。

MVPにも値する、堂々と胸をはるべき仕事を、トンプソンはしてのけた。

(Number誌)






帰国後、東大阪ではトンプソンのためにパーティーが開かれた。

トンプソンは言う。

「Shrineって日本語でなんて言うんだっけ? そうそう、神社ね。だんじりが飾ってある神社に50人ぐらいの人が集まってくれたんだよ。ほめてくれるのはありがたいけど、かえって恐縮しちゃったよ。ぼくは普通の選手だし、W杯でやったことといったら、少しでもチームに貢献できるように努力しただけなのにね」



トンプソンは自分の献身よりも、家族のことを気にかけていた。

「今年の5/26に息子がうまれたのに、僕は合宿で宮崎にいたから何もサポートできなくて、奥さんにはゴメンナサイの気持ちだった。上の女の子もまだ2歳半で手がかかるのに、ホンマに大変だったと思う」



定食屋「まんぷく亭」の話がでた。

「東大阪を離れているときも、奥さんとは毎日電話してたんだけど、『今日はまんぷく亭に行った』と聞くと、あそこの大きなオムライスを思い出して食べたくなったよ(笑)」

まんぷく亭のおばちゃんは言う。

「トンプソンくんはねぇ、あんなに凄い選手なのに、礼儀正しい、ええ子なんよ。わたしはラグビーのことは全然わからないけど、『どうか怪我しないで』と祈りながらテレビを見ていたわ」



トンプソンは言う。

「良くしてくれるお店のお母さんもそうだし、ぼくを応援してくれる人が、この街にはたくさんいるんだ。今回のW杯で、そのみんなが喜んでくれたのが、ホンマにうれしかった。奥さんと子供たちはイングランドまで応援しに来てくれたんだけど、南アフリカとの試合後、スタンドにいた家族に会って娘を抱っこしたんだ。娘を抱っこしたとき、これが僕にとっての『W杯ベストモーメント(最高の瞬間)』だったね」



こんなに気持ちのいい男を、東大阪の人々が放っておくはずがない。

サインをねだるラグビー少年には「スーパーマン」、おばちゃんたちにとっては「できのいい息子」のようなものなのだろう。

花園ラグビー場界隈の飲食店には、必ずといっていいほど彼のポスターやサインが飾ってある。

(Number誌)



インタビューを終えて、花園ラグビー場前の広場に出た。近鉄のチームメイトに

「写真に撮ってもらうんやったら、もうちょっとええ自転車にしときぃや。オレの貸したろか?」

と冷やかされた。トンプソンは笑いながら、サビの浮いたママチャリにまたがった。背中にしょったリュックのサイドポケットには、パチンコ屋が配っていたティッシュが無造作に突っ込んである。

ゴツい体格をのぞけば、そのたたずまいは「東大阪のおっちゃん」そのものだ。

(Number誌)



トンプソンは言う。

「将来のことはまだ考えてないけど、選手を引退したあとも、できることならこの街で暮らしたいと思ってるよ。東大阪、メッチャ好きやからね」










(了)






ソース:Number(ナンバー)891号 特集 日本ラグビー新世紀 桜の未来 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
トンプソンルーク「愛されて、東大阪」



関連記事:

札幌とリーチマイケル [ラグビー]

酒とラグビーと、大野均

「勝ってラグビーの歴史を大きく変える」 [五郎丸歩]




2016年4月19日火曜日

ビートたけし『野球小僧の戦後史』



Number(ナンバー)894号より





戦後2年目の1947年に東京都足立区で生まれたビートたけし。彼こそ団塊のど真ん中にいる世代である。

傷痍軍人が道端でハーモニカを吹き、ラジオで野球と相撲の中継を聞くしか娯楽がない時代、彼にとって最初の英雄は川上哲治だったという。赤バットをトレードマークとした川上にならい、実家の商売道具だったペンキでバットを赤く塗り、こっぴどく叱られる少年たけし。

教育熱心な母に隠れて野球をするため、こっそり買ってもらったグローブを庭の銀杏の樹の下に埋め、使う時だけ掘り返す少年だった。ちなみにある日、その穴を掘ったらグローブではなく参考書が出てきたというエピソードが書かれている。昭和の母強し。





本書には、彼だからこそ語れるエピソードや率直な選手評が盛りだくさん。

読者は、長嶋の伝説的な天才(天然)っぷりに声を出して笑い、イチローと松井秀喜の差異には、ふむふむと頷くはずだ。

野球小僧は、独自の視点で永遠に白球と時代を追い続ける。







引用:Number(ナンバー)894号 〝エディー後〟のジャパン。特集 日本ラグビー「再生」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
幅允孝「Book Sommelier」55



関連記事:

大谷翔平とプライム12 [野球]

清原の流した涙 [野球]

書籍『ベーブルースと大戦前夜』 [野球]




2016年4月18日月曜日

カリーの3Pシュート [バスケ]



「彼はバスケ界のスティーブ・ジョブズだ」

そう評されるのは

ステフィン・カリー
Stephen Curry





「ステフ・カリーは、この先のバスケットボールのあり方を変えた。歴史的なことだ」

それは、カリーのプレーがバスケットボールという競技を変えるほど、革新的だということだ(Number誌)


カリーの革新とは?

それは3P(ポイント)シュート



ダンクシュートだけで魅せる時代は終わった。

NBAの観客が3Pで総立ちになる時代がやってきた。

彼の手にボールが渡ってから、わずか0.3秒後、

ボールは美しい弧を描き、リングへと向かう(Number誌)


このカリーには、一瞬のスキさえ見せてはならない。

どんなに遠い距離からでも、かなり高い確率で3Pシュートを決めてしまうからだ。



対カリーの戦術に頭を悩ます、ロン・アダムズ(ウォリアーズのアシスタント・コーチ)は言う。

「3Pを打たせないような対策は、もう効かない。最近の彼は3Pと同じくらい、ドライブインの技術を向上させてきたからだ。今では、彼にボールを持たせないようにトラップするしかなくなってきた」






カリーの父、デル・カリーもまた、3Pシューターだった。NBAで16シーズンのあいだに、通算1,245本の3Pを決めている。

だが当時の3Pはまだ、「試合の中で、たまに打たれるシュート」にすぎなかった。1試合平均3本前後が打たれ、そのうち1本が決まるかどうかだった。


だが今は「3Pシューターが主役になれる時代」だ。

カリー自身が昨シーズンのリーグMVPに選ばれたことで、そのことを証明してみせた。

昨シーズン、カリーが打った3Pは1試合あたり8.1本で、そのうち3.6本を決めている。今シーズンはさらに増え、1試合あたり10.4本打って4.6本決めている(Number誌)


父デル・カリーは16シーズン、1,083試合をかけて通算1,245本の3Pを成功させた。だが息子カリーは7年目にして、すでに父の記録を抜いている。父の半分以下の427試合で、だ。

昨シーズン、カリーは通算286本の3Pを決め、自身のもつNBA記録を更新した。







試合開始1時間前

カリーがウォームアップのためにコートに出てくると、待ってましたとばかりにファンやメディアが群がってくる。


約15分間、黙々と、いつものドリブルを続けていく。ボールを2つ使い、足の間をくぐらせてのドリブルワークや、試合での状況を想定したシュート。ボールはカリーの意のままに動き、放たれたシュートは次々とネットを通過する。

派手なダンクシュートの1本もするわけでないのに、ドリブルやシュートだけで見世物になってしまうのだ(Number誌)


カリーは言う。

「僕がやるプレーは、ほとんどの人が『自分もできる』と思っているようなことなんだ。たとえば、アンドレ・イグダーラが決めるような豪快なダンクは、僕でも出来ないし、ほとんどの人が出来ないことだ。でもシュートすることは誰でも、その人なりのやり方で打つことができる。誰でも決められるわけではないけれど、『誰でも打つことはできる』んだ」



確かにカリーのプレーは、「やろうと思えばできそうなプレー」を別次元なほど高い完成度でやってのけるところに、その魅力がある。

カリーは言う。

「僕はリーグで誰よりも足が速くてスピードだけで相手を抜き去ることができるわけではないから、相手をあざむくように工夫し、スペースをつくりだす色々な方法を見つけなくてはいけないんだ。想像力と創造力をつかって『プレーが実際に起こる前に見極めること』が、僕にとってはとても大事なことなんだ」


カリーは、「誰でもできること」を究極まで突き詰めたことで、歴史を変えてしまったのだ(Number誌)







カリーは、カメラを一斉にむけられても、照明のまぶしさに惑わされないようにしているという。

カリーは言う。

「今を楽しむようにしている。と同時に『自分がどうやってここまで来たか』、ものの見方や考え方を忘れないようにもしている。『いつもの自分』のルーティンを守り、変えないことで、同じリズムをもちつづけるようにしているんだ」






「さ、行くぞ、チューバッカ」

試合後の囲み取材をおえたカリーは、スターウォーズのキャラ「チューバッカ」の形をしたバックパックをひょいと背負ってロッカールームを後にした。



最近のバスケ少年たちは、基礎練習もそっちのけで3Pシュートにいそしんでいるという。

カリーがあまりにも楽しそうに、軽々と3Pを決めるのを見ているからだ。


世の中の常識なんて、ちょっとしたことで180度かわってしまうものだ。

実際、カリー自身がそれを証明する存在でもある(Number誌)







True genius lies not in doing extraordinary thing 
but in doing ordinary things extraordinarily well.

Louis H. Wilson


真の天分とは、並外れたことをするのではなく、
普通のことを並外れてうまくする才能のことだ。

ルイス・H・ウィルソン






(了)






ソース;Number(ナンバー)894号 〝エディー後〟のジャパン。特集 日本ラグビー「再生」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
ステフィン・カリー「大切なのは想像力と創造力」



関連記事:

謙虚なMVP、デュラント [NBA]

「こけの一念、岩をも通す」 化石のようなスパーズ一家 [バスケNBA]

「たとえ0.1mmしか進めなくても、それが一番の近道ですから」 [貴乃花]