2013年9月9日月曜日

「だからイチローは天才ではない」。プロ入り前夜 [野球]



「だから僕は、『イチローは天才ではない』と思うんです」

日比野公彦は、そう言う。

「もし天才なら、野球の神さまが舞い降りて、松井(松井秀喜)や松坂(松坂大輔)のように甲子園で伝説を残しているはずです」

日比野は高校時代、イチロー(鈴木一郎)とともに甲子園を戦った。しかし、2度の出場はいずれも「初戦敗退」であった。






■夜の砂場



イチローは日比野の一つ後輩にあたる。

「当時は『ウチで野球するのは無理だ』と思うほど、イチローは痩せていました」

愛工大名電の野球部は、1年生から3年生まで50人ほどの部員が寮で生活をする。二段ベッドが並ぶ大広間で、全員が寝起きを共にするのである。



ある夜、日比野はイチローの姿が寮から消えていることに気がついた。

その1時間後、イチローは汗だくになって夜空から戻って来た。



「砂場で素振りをしていました」とイチローは言う。

「お前、バカじゃないのか?」と呆れる日比野に、イチローは汗を拭いながらこう言った。

「砂場だと上半身でしっかり振り切らないと足をとられてしまうし、逆に走らなくても足腰を鍛えられるから一石二鳥なんです」



愛工大名電に来る奴らは、みんなプロを意識している。

「ですが、『そのために何をすべきか』を考える次元がイチローは違っていたんです」と日比野は振り返る。

1年生はどうしても雑用が多くなり、自主練習に費やす時間はほとんどない。それでもイチローは、自らを磨く時間を大切にしていたのである。

闇に包まれた走り幅跳び用の砂場で、イチローはひたすらにバットを振り続けていたのであった。






■初めての甲子園



ひどく痩せてはいたが、イチローの才の一端はすでに見え隠れしていた。

「ボールを芯でとらえる感覚がズバ抜けていました」と、名電の監督を務めていた中村豪は言う。

日比野もまた、「これは凄い奴が入ってきたぞ」と内心驚いていた。



中村監督がイチローの異能ぶりを実感するのは2年の夏。

のちに「レーザー・ビーム」と呼ばれることになる、外野からホームへの返球であった。

「驚いたのは、バックホームする前に『一呼吸おいたこと』です。それで、いったん三塁で止まろうとした稲葉篤紀(現・日本ハム)がホームへ突っ込んだ。イチローは『そのタイミングを待って』バックホームしたんです」と中村監督は話す。

その矢のような返球は、あっさりと稲葉を刺した(愛知県大会決勝、中京戦)。



そして迎えた甲子園。

初戦の相手は、優勝候補の天理高校(奈良)。

結果は「1対6」の大敗。イチローのバットは完璧に抑えられ、守備でも目測を誤り転倒。失点につながるミスも犯した。



イチローは初めて仲間の前で泣いた。

最後の甲子園となった日比野は、「来年また甲子園に戻って来い。そして絶対、プロへ行け」とイチローの肩を抱いた。

イチローは「ありがとうございます…」とさらに泣いた。






■ 冷たい神さま



学年が進むにつれ、イチローの細かった身体は厚みを増していった。

Number誌「入学時に173cmだった身長が180cm近くに伸びたイチローは、秋に背筋力が200kgを越え、冬には遠投で同校の歴代最高記録を5m上回る125mをマークした」



2年生の時、イチローは県大会、東海大会を通じて「4割6分3厘」という高打率を記録し、3年生の時には「7割2分」という驚異的な数字を残した。

「どこに投げても打たれる気がしました」と、実際にイチローと対戦した水谷完(東邦高校)は言う。



しかし、甲子園の神さまはイチローに冷たかった。

3年春の選抜ではノーヒットに抑えられ、またもや初戦敗退(松商学園戦、2対3)。

最後の夏は、県大会決勝(対東邦高校)で、イチローは1打席目こそは敬遠されたものの、続く3打席はすべて打ち取られた。試合は0対7と大敗。甲子園への道はここで絶たれた。



号泣する3年生部員たち。

そんな中、イチローだけは「さっぱりとした表情」をしていた、と中村監督は記憶している。

「3年間の野球が終わったときに、あんな顔をしている子を初めて見ました。甲子園に出られなくても、やれるだけのことはやった。さあ、勝負はこれからだ、とすぐに気持ちを切り替えていたんじゃないでしょうか」



結局、イチローが聖地・甲子園で放ったヒットは、たった一本(高2夏、天理戦)。2度の出場はいずれも初戦敗退。

「だから僕は、イチローは天才ではないと思うんです(日比野公彦)」






■スカウトの眼



高校卒業後、鈴木一郎(イチロー)はほとんどの球団にとって「ノーマーク」の存在だった。

「イチローは2年夏と3年春に甲子園に出ているから、スカウトは見てる。でもセンバツはピッチャーとして出てきたから、みんなピッチャーとしてしか評価していなかったんだ」

当時、オリックスのスカウトだった当銀秀崇はそう語る。意外にも「投手」として甲子園に望んでいたイチロー。その成績は自責点3、奪三振4という冴えない内容にとどまっていた。



「でも、イチロー担当の三輪田スカウトからは、『イチローはバッティングのほうが良い』と報告は来とったんです」と当銀は言う。

そこで、中田昌宏はわざわざイチローを高校まで見に行った。

「そしてら、中田さんが珍しく興奮して帰ってきたんだよ。『あんなのは初めて見た』って絶賛するんだ。普段、あんなふうに褒めない人がイチローに惚れちゃってね」



中田は興奮のままに語った。

「とにかく凄い! 100%芯から外さない。バッティングを見とっても、9割がライナー性の当たりなんだ!」

そして最後にこう言った。「鈴木は3位でいかないと獲れんぞ!」






■ドラフト4位



しかし、甲子園で残したイチローのバッティングは、それほど目立つものではなかった(1安打)。

それに加え、「線の細さ」も不安視された。

結果、オリックスはイチローを「ドラフト4位指名」とする。



抽選に望んだオリックスの土井正三監督は、着々と当たりクジを引いていく。

1位、田口壮(関西学院大学)
2位、萩原淳(東海大甲府)
3位、本東洋(三菱重工長崎)



「さすがに4位にイチローは残っていないのでは…?」

スカウトの当銀は不安になっていた。

「イチローを上の順位で指名するとしたら中日だろう。バッティングで評価していたのは、中日とウチぐらいだったからな…」



パンチョ伊東の甲高い声が響き渡る。

「オリックス、鈴木一郎、18歳、投手、愛工大名電」

幸いにも、4位でイチローを入札したのはオリックスだけだった。



そうして静かにプロ入りした男は、のちに日米の野球界にとって新たな風となる。

しかし、まだ高卒だったイチローにその姿を予見し得た者など、本当の意味ではいなかった。前人未到となるその道を知る者などいなかった。



その22年後である。

イチローが日米通算4,000本安打というトンでもない高みに昇って行ってしまうのは…!













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/19号 [雑誌]
「甲子園で流した、たった一度の涙」
「ドラフト秘話 本当は1位指名もあった」


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