日本球界を仰天させる決断。
ドラフト1位の最有力候補だった「田澤純一(たざわ・じゅんいち)」は、不敵にも12球団に"NO"を突きつけ、宣言通りにアメリカへと渡ってしまった(2008)。
「1位クラスがアメリカ行きを盾に指名を拒否するというのは、前代未聞の選択だった」
泡を食った日本球界は、緊急会議の末に「田澤ルール」というものを策定する。
「今後『第二の田澤』の出現を阻止するために、日本のドラフト指名を拒否して海外に行った選手は、帰国しても一定期間、日本の球団とは契約できないという申し合わせ」、それが田澤ルールだった。
だが、当の田澤本人には、このエピソードのような勇ましさがどこにもない。
「純一という名前のイメージ通り、素朴で、話し方もどこかノンビリとしている。とても、日本球界を揺るがすほどの決断をした男には全く見えない」
むしろ田澤は、意外なことを言い出す。「基本的には『マイナス思考』なんです。練習中も試合前も不安で仕方ない」。
最高球速156kmを誇った田澤は、社会人球界ではナンバーワンの右腕であり、それゆえ2008年はドラフト1位候補の筆頭にあった。
ところが、その豪腕の田澤は「じつは心配性」であり、自分がプロの第一線として活躍できるとは思っていなかったというのだ。
「社会人時代もプロの二軍と試合したことがありました。でも、打たれることが多くて、いきなり一軍で通用するとは思えませんでした」と田澤。
ドラフト1位指名ともなれば、当然「即戦力」と目される。実際、「当時、ドラフトの目玉だった田澤を即戦力として考えていない球団はなかった」。
しかし、田澤はそれが不安で仕方なかった。「実力ねえのに、って言われるだけですよ…」。
高校時代の田澤の実績は「なきに等しい」。
横浜商大高で甲子園には出場するものの、「控え投手だったため登板機会はなかった(高2)」。翌年は県大会の準決勝で、横浜高に3−16で大敗。甲子園にも行けなかった(高3)。
高校卒業後、田澤は社会人チームで唯一声をかけてくれた新日石エネオスに入社。だが、「最初の1年半は鳴かず飛ばず。2年目にはクビになりかけた」。
ようやく田澤が頭角を現すのは、社会人3年目に「抑え」として大活躍してから。4年目にはチームの大黒柱になっていた。
それでも田澤はまだ「マイナス」に考えていた。「先発としての実績は、全くありませんでした」と田澤。そんな中で彼は、ドラフトの目玉とされてしまったのだ。
最低でも、もう一年、田澤は社会人でやりたかった。自分をもっと磨く必要があると思っていたのだ。それでも、もはやプロ入りは免れられそうにない。
そこでようやく、「アメリカ」が彼の選択肢の中に飛び込んでくる。
「最初は笑い話みたいな感じで、僕もまったく考えていなかったんです」という田澤だが、新日石の監督であった大久保秀昭(元近鉄)の話を聞くうちに、アメリカに興味が出てきた。
大久保監督の語るところによると、どうやらアメリカは原則的に「育成」を前提に考えてくれるらしい。アメリカの育成プログラムは非常に合理的かつ計画的だと言うのである。
まだまだ実力不足だと自ら考えていた田澤にとって、「成長」の可能性があるアメリカは日本以上に魅力的に思えた。大久保監督からは同時に、「日本の育成事情のマイナス面」も聞かされていたのだから、なおさらだ。
そしてついに、田澤は国内12球団に「指名回避」を求めるファックスを送り、「アメリカ行き」を表明するに至るのである。
なるほど、田澤の渡米は「挑戦」とは一味ちがう。じつはそれは「安全策」であり、心配症の田澤にとって「より不安の少ない選択」だったのだ。
「しかし、日本の各球団も、メジャー挑戦をブチ上げた田澤が、よもやそんな観点でアメリカと日本を天秤にかけているとは思わなかったに違いない。いや、球団だけでなくメディアもそうだった」
田澤がアメリカに行くと明言すると、日本球界からは一斉に「米マイナーリーグの環境の厳しさ」を指摘する声が上がった。皆一様に口にしたのが「食事と移動」の過酷さである。
「遠征になるとホットドッグだけとかもありました。夜通しで10時間のバス移動とかも…」と田澤。
それを心配したツインズの西岡剛からは、「おまえ、日本でもバリバリできたのに、よくこんなところでやってるな…」と同情された。
ところが、当の田澤の口からは「苦労らしい苦労は、ほとんど聞かれない」。
「もともとハンバーガーとピザは嫌いじゃないんで…。朝はオムレツが出たりして、けっこういいんですよ」
「バス2台で移動するトリプルAは2つの席を独占できるんですけど、ダブルAだと1台で移動するので、一人1席みたいなこともありました。でも、それはそれでという感じでしたね」
そんな田澤の話を聞いていると、「アメリカのマイナー暮らしは過酷ではないのかと思えてくる」。田澤は「どこまでもアッケラカンとしている」のだ。
「僕はそんなにいい野球人生を歩んでいないですから」と田澤。「社会人でもクビになりかけたりして、常に崖っぷち。だから苦にならないんじゃないですかね」。
田澤本人は「マイナス思考」で「後ろ向き」と自らを評するのだが、彼の口から出る言葉は「プラス思考」でじつに「前向き」に聞こえる。
「(マイナーの過酷さを)何食わぬ顔で語る田澤の神経は、実は、誰よりも太いのではないか?」
レッドソックスと総額330万ドル(約3億円・推定)の3年契約を結んだ田澤は、わずか一年目でメジャー昇格を果たし、さっそくの初勝利を上げている。
「入団当初、『3年でメジャー』が目標だったことを考えれば、出来すぎとも言えた」
昨季、セットアッパーとして大ブレイクした田澤は、今シーズンからは「抑えのエース」という声も挙がっている。
アメリカでこれだけの実績を上げられる選手が、まさか「日本の一軍で通用するかどうか、不安を抱いていた」というのは、到底信じられない話だ。
田澤はどこまでいっても「低姿勢」のままである。「アメリカの水が自分に合っていたかどうかは分かりません。自信を持ってやっているわけではないので…」。
もはや、誰も田澤を「実力もねえのに」などと思わないだろう。
それでも「アメリカで適応できたからといって、日本でも通用するとは思えません…」と、最後まで彼は不安を隠さなかった…。
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「僕がアメリカ行きを選んだ理由 田澤純一」
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