2016年4月23日土曜日

「ぼくの仕事ですから」 [堀江翔太とスーパーラグビー]



サッカーでは、なかなかゴールキーパーが決まらないことがある。誰もやりたがらないからだ。小学生ならなおさら、そうだろう。

だから堀江翔太(ほりえ・しょうた)は手をあげた。

堀江は言う。

「FW(フォワード)をやりたかったのに、GK(ゴールキーパー)をやる人がいなくて。それで仕方なく手をあげたんですよ。誰もやらないのは申し訳ないと思って」



のちにラグビー日本代表、不動の背番号2となる堀江翔太。

そのはじまりはサッカーだった。Jリーグのヴェルディにあこがれ、幼稚園からはじめた。そして小学生のサッカークラブでゴールキーパーに志願したのだった。誰もやりたがらないGKに。

「そしたら、シュートをどんどん止めちゃって(笑)」



ラグビーと出会ったのは小学5年生。

地元、吹田(すいた)のラグビースクールに誘われた。

堀江は言う。

「身体が大きかったのでチヤホヤされました。次の週には、ルールも知らないまま試合。ボールをもてば抜けるので、おもしろくて」



身長175cm、77kg。

大きな小学生だった堀江翔太は、

「堀江にボールをわたせばトライ」

であった。



中学ではバスケ部にはいった(南千里中学校)。

ラグビーのスクールは日曜だけだったので、平日はバスケットボールにいそしんだ。ポジションはセンター。体力と技術のみならず「献身」においても群をぬいていた。

チームメイトだった土屋健一は言う。

「堀江は大黒柱。1年から主力でした。ちかくの強豪中学の先生が試合中、『ホリエがきたー』と叫んでいたのを覚えています」



とあるバスケの試合で、堀江はじつに献身的に、こぼれ球をひろってはシュートを決めていた。その挺身ぶりを、応援にきていたチームメイト土屋健一の父は思わずほめた。

すると堀江は一言。

「ぼくの仕事ですから」

その言葉に、寿司屋の大将、土屋健一の父(毅)はぐっときた。

大将は言う。

「あれからざっと15年。15歳かそこらだった子供(堀江翔太)の言葉を、わたしが使わせてもらっています。お客さんがたてこんで、てきぱきと寿司をにぎり、さすが、とほめられると、『ぼくの仕事ですから』。この言葉を口にするたび、(堀江の)『使用料10円』なんて頭をよぎる(笑)」

土屋健一は言う。

「(堀江は)自分をまげない。シューズもみんなが最新のアシックスなのに、古い型のナイキ。彼がギターをひくのを知ってますか? 流行のJポップやヒップホップには目もくれず、一貫して山崎まさよし。まったく流されない」







高校は、府立の島本高校をえらんだ。

堀江は言う。

「兄が私立の大学にすすんだこともあり、公立でラグビーの一番つよい島本にきめました」

ラグビーの強さでは私学が上回っていた。学力的にも、もっと上を目指せた。進路指導でも「それでいいのか」と諭された。

しかし堀江の決意は揺るがなかった。

「まったく他は考えていません」

バスケにも誘われた。だが断った。

「ゴメン、俺はラグビーやから」



高校3年、堀江翔太をようする島本高校は、花園予選で決勝に進出。

しかし、東海大学付属仰星にやぶれた。

当時の島本高校の監督、天野寛之はいう。

「負け惜しみではないんですけど、あそこで仰星に負けてから、堀江の生活はすべて良いほうへ進んだのかな、と。悔しさがあって、ここまできた。高校日本代表になれなかったこと、花園に出られなかったことが、あいつのコンプレックスになったんです。そして、それが支えになった」

堀江は言う。

「コンプレックスはありましたよ。練習がきつくなると、『いつか、あいつらより上にいくねん!』と思いながら走ってました」

それでも堀江の「コンプレックス」はささくれだたなかった。どこか飄々としていた。



帝京大学へは、入学金免除ではいった。

大学をでると、トップリーグの誘いを断って、ニュージランドに渡った。ナンバー8からフッカーに転向したのは、かの地でだった。骨格からして、そのほうがチャンスが広がると考えたのだ。

こうして「ほかに類のない2番」が誕生した。



2008年、三洋電機(現バナソニック)に加入。

2011年、日本代表としてW杯に出場。

2013年、スーパーラグビーのレベルズに入団。



順調におもわれる堀江のキャリア。

堀江は言う。

「レールを敷いてもらい、自分はチョイスをしただけ。会う人がみんなよかった」



そして2015年のW杯。

五郎丸は言う。

「もしぼくが『W杯のベスト15』を選ぶなら、堀江選手をえらびます」

リーチマイケルは言う。

「フィールドプレーもすごく良いし、それより今回の日本代表の一番の勝因である『スクラムとラインアウト』、その両方とも(堀江選手が)中心としてやってたから。ものすごくプレッシャーがかかる場面で成功率も高かったし。マイボールスクラムは100%で、ラインアウトも88%を超えると良いといわれるなかで、93%もとった。フィールド外のリーダーシップも抜群だし」


堀江翔太はスクラム最前列のフッカーを務め、なお最後尾からフィールドを俯瞰するように考え、読み、動く。かわして、蹴って、抜いてみせ、いざ必要ならば吹き飛ばす。

ジャパン不動の背番号2は、南アフリカ戦金星の最大級の功労者であり、日本ラグビー界が、すこしも迷わず、世界に提出できる才能である。

(Number誌)






そしてスーパーラグビー参戦。


いまや世界120カ国で放映されるSR(スーパーラグビー)は、各国代表選手が選抜される場としての役割をもつ。

トップクラスの各国代表選手はもちろんのこと、代表入りを目指す若手もしのぎを削る。また、かつて代表で活躍した、いぶし銀のベテラン選手も加わってバラエティーに富んだチームがそろっている。

昨年のW杯イングランド大会では、ベスト4までを史上はじめて南半球の国が独占した。この事実とSR(スーパーラグビー)の存在は無関係ではないだろう。

そして今年(2016)、南アフリカ相手に”世紀の番狂わせ”を起こした日本の「サンウルブズ(Sunwolves)」がSR(スーパーラグビー)に参戦する。はたしてこんな日が来ると想像していたラグビーファンはいただろうか。

日本のプロチームが海外のリーグに打って出る。野球だってサッカーだって、そんな計画はなかった。

(Number誌)






じつは日本のSR(スーパーラグビー)参戦には、一悶着あった。

それは当時、日本代表のHC(ヘッドコーチ)であったエディー・ジョーンズが深く絡んでいた。


エディーは選手たちに、意気揚々とSR(スーパーラグビー)参戦を高らかに宣言した。

「SR(スーパーラグビー)で戦い、本当に強いジャパンをつくるんだ」

沈黙が部屋を支配した。

無言はさまざまな意味をもつ。ある選手は「世界への道がひらける」と思った。しかしある者は、その言葉をまるで歓迎する気になれなかった。

(Number誌)


廣瀬俊明は「選手の待遇」が不明瞭であることに不安をおぼえた。

「SR(スーパーラグビー)で選手生命を棒にふるようなケガをした場合、補償されるのか? どのような条件で参加するのか交渉しなければならない」

廣瀬はIRPA(国際ラグビー選手会)に助けをもとめた。

「他国のプロ選手たちの待遇はどうなっているのか? 補償や年金は?」


ところが、こうした廣瀬たち(堀江翔太、小野晃征)の動きが、エディーの耳にはいった。

エディーは激怒した。

「オレに隠れて、こそこそ何やってるんだ!」

SR(スーパーラグビー)参戦は、2019年日本W杯開催にむけてのマスタープランの一部だと認識するエディーは「裏切られた」と感じた。

「SR(スーパーラグビー)でプレーできるのに、どうしてお金のことなんか気にしてるんだ。プロのラグビー選手として、こんな栄誉はないのに、条件だの何だの四の五の言うなんて信じられない。しかもオレに黙って海外と交渉するとは。

断じて許せない

廣瀬には怒りのメールをおくった。


廣瀬はベッドのなかで、まだ眠い目をこすりながらメールをチェックした。差出人のひとりに「Eddie Jones」の名前があった。メールは午前4時に送信されていた。液晶画面にローマ字が浮かびあがる。

「あなたのおかげで、チームはめちゃくちゃです」

廣瀬は凍りついた。

(Number誌)






エディーの怒りはおさまるところを知らなかった。

そしてついに、SR(スーパーラグビー)のディレクター職を蹴った。それでも怒りはやまず、W杯がおわれば、日本代表のヘッドコーチの任をも退くことに決めた。


エディーの口から日本を離れることを聞いたとき、廣瀬には想像もしていなかった感情が押し寄せてきた。感謝の念が芽生えたのだ。

主将をまかされ、主将をはずされた。そして、チームを空中分解させている下手人とまで名指しされた。しかし、ここまでやって来れたのもまた、エディーのおかげなのだ。

日本代表がW杯にむけて最終準備をしていたこの時期、SR(スーパーラグビー)の選手登録期限が8月31日にせまっていた。廣瀬たちは少しずつ条件をととのえ、契約までの道筋をつけた。あとは個々の選手がどう判断するかである。

しかし期限の数日前には、関係者から

「メンバーをそろえるのはもう無理。撤退しましょう」

という声がきこえてきた。しかし最終的にはトップリーグの各チームの理解と協力をえて、どうにか陣容をととのえることができた。

チームの名は「サンウルブズ(Sunwolves)」に決まった。

(Number誌)


ラグビー愛好者は、サンウルブズの選手リストに

「堀江翔太=パナソニック」

の字のならびを見つけて安堵した。

「よくぞ身を投じてくれました」

と。


歴史的参戦のチームを束ねるのは

やはりこの男だ。


「サンウルブズ」初代キャプテンは

世界が認めた”トータル・フッカー”

ショウタ・ホリエ(堀江翔太)

(Number誌)


堀江は言う。

「代表の合宿中に、『選手があつまらなかったら日本のチームはなくなるよ』という話があって。そうなると、次に入れるのはいつか? もう一生ないんではないか、と。僕らはいいとしても、ユース年代の選手の目標がなくなってしまう。それにフミ(田中史朗)さん、リーチ(マイケル)などスーパーラグビー経験者がどんどん海外にでていく。ここで僕までいなくなると…」



小学校のサッカーチームで、誰もやりたがらなかったゴールキーパーをやったこの男は、SR(スーパーラグビー)でもまた「無償の使命」を果たそうとしている。人間には、野心や功名とはまったく無縁の「なにか」が必ずある。

きっと堀江はこう言うはずだ。

「ぼくの仕事ですから」






(了)








ソース:Number(ナンバー)896号 SUPER RUGBY 2016 スーパーラグビー開幕 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
堀江翔太「僕の仕事ですから」



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2016年4月20日水曜日

東大阪とトンプソン [ラグビー]



「だいじょうぶやでぇ〜」

もう、すっかりできあがったオッチャンが自販機の前でへたりこんでいる。

ここは東大阪。


ラグビーファンの集まる居酒屋で話しかけたヒゲ面の男性は、酒を飲むのも忘れて、身振り手振りをまじえて熱弁をふるっていた。

「膝も悪いのに全力疾走して、ガツガツ当たりにいく。ねんでトンプソンさんはボロボロになっても、日本のためにこれほどまでに身体をはってくれるんやろ。彼のプレー見てると、泣けてくるんや…」

(Number誌)


ラグビー日本代表、トンプソンルーク(Thompson Luke)は東大阪に暮らしている。もう9年になる。

トンプソンは言う。

「ぼくはクライストチャーチ(New Zealand)の牧場で育ったカントリーボーイだからね。都会は疲れちゃうから、あんまり好きじゃなくて。でも、ここ(東大阪)は生駒山にも近いし、自然がたくさんあるでしょう。地元の人たちはフレンドリーに声をかけてくれるし、仲良くなった人から野菜やお米をいただくこともあるよ。タコ焼き、お好み焼き…、食事はなんでもメッチャおいしい。そしてなにより、この街にはラグビーの文化が根づいてるんだ。東大阪はパーフェクト。実家みたいなとこやね、ホンマに」



Number No891 P50



トンプソンは学生時代、ニュージーランドのカンタベリー州代表チームでプレーしていた。

来日したのは2004年、23歳のとき。群馬県にホームがあった三洋電機ワイルドナイツに入団した。

トンプソンは言う。

「ニュージランドには、プロのラグビーチームは5つしかないけど、選手はとても多いから競争は激しい。プロのチームでプレーしたい気持ちはあったけど、僕は身体もそんなにデカくないし、特別な選手じゃないから…。でも三洋電機がチャンスをくれたんだ。こんなに素晴らしいチャンスを断る理由はないでしょう。日本の文化を知りたい、勉強したいという気持ちもあったし、チャレンジすることに決めたんだ」



196cmという身長は、日本ではかなりデカイ。しかし、本場ニュージーランドでは特別な大きさではなかった。まずは日本でキャリアを積んで、いずれはニュージーランドに戻り、あこがれのオールブラックスでプレーすることを夢見ていた。

だが三洋電機とて、そうそう甘くはなかった。控えにまわされたトンプソンは、わずか2年で契約を打ち切られた。異国の地で宙ぶらりんになってしまったトンプソン。声をかけてくれたのは近鉄ライナーズだった。

トンプソンは言う。

「三洋電機をクビになった僕に、プロとしてラグビーをつづけるチャンスをくれた近鉄には、とても感謝しています。僕は特別な選手じゃないから、たくさん努力するしかないでしょう。チームのために、少しでも貢献できるように頑張ってきたよ」



恩を返すため、トンプソンは身体をはりつづけた。セットピースをしっかりやって、クリーンアウトをしっかりやって、タックルをしっかりやって…。

そんな献身的なトンプソンに、日本代表からオファーがきた。2007年、フランスW杯大会メンバーに選ばれたのだった。

トンプソンは言う。

「桜のジャージを着るというのは、メッチャ特別なこと。家族、東大阪の人たち、近鉄のチームメイト…、応援してくれるすべての人たちのためにも、恥ずかしいプレーはできないでしょう」

はじめてのW杯、フランス大会の結果は「0勝3敗1分」。孤軍奮闘したトンプソン。そのの「捨身のコンタクト」は彼の代名詞となった。







2010年に日本国籍取得

ルーク・トンプソンから「トンプソンルーク」になった。

2011年、自身2度目のW杯をへて、2015年、イングランド大会でラグビー日本代表は爆発した。南アフリカを破る大金星。3勝1敗という過去最高の成績。



東大阪の酒場のオッチャンらは言う。

「トンプソンこそがMVPだ!」

骨のきしむタックル。

ひたすらなハードワーク。

「思い出しただけで、泣ける…」


エディージャパン、栄光の陰にトンプソンあり。

トンプソンが相手チームの猛進をことごとく潰し、突破口を開いたからこそ、エディージャパンの快進撃が生まれたともいえる。

MVPにも値する、堂々と胸をはるべき仕事を、トンプソンはしてのけた。

(Number誌)






帰国後、東大阪ではトンプソンのためにパーティーが開かれた。

トンプソンは言う。

「Shrineって日本語でなんて言うんだっけ? そうそう、神社ね。だんじりが飾ってある神社に50人ぐらいの人が集まってくれたんだよ。ほめてくれるのはありがたいけど、かえって恐縮しちゃったよ。ぼくは普通の選手だし、W杯でやったことといったら、少しでもチームに貢献できるように努力しただけなのにね」



トンプソンは自分の献身よりも、家族のことを気にかけていた。

「今年の5/26に息子がうまれたのに、僕は合宿で宮崎にいたから何もサポートできなくて、奥さんにはゴメンナサイの気持ちだった。上の女の子もまだ2歳半で手がかかるのに、ホンマに大変だったと思う」



定食屋「まんぷく亭」の話がでた。

「東大阪を離れているときも、奥さんとは毎日電話してたんだけど、『今日はまんぷく亭に行った』と聞くと、あそこの大きなオムライスを思い出して食べたくなったよ(笑)」

まんぷく亭のおばちゃんは言う。

「トンプソンくんはねぇ、あんなに凄い選手なのに、礼儀正しい、ええ子なんよ。わたしはラグビーのことは全然わからないけど、『どうか怪我しないで』と祈りながらテレビを見ていたわ」



トンプソンは言う。

「良くしてくれるお店のお母さんもそうだし、ぼくを応援してくれる人が、この街にはたくさんいるんだ。今回のW杯で、そのみんなが喜んでくれたのが、ホンマにうれしかった。奥さんと子供たちはイングランドまで応援しに来てくれたんだけど、南アフリカとの試合後、スタンドにいた家族に会って娘を抱っこしたんだ。娘を抱っこしたとき、これが僕にとっての『W杯ベストモーメント(最高の瞬間)』だったね」



こんなに気持ちのいい男を、東大阪の人々が放っておくはずがない。

サインをねだるラグビー少年には「スーパーマン」、おばちゃんたちにとっては「できのいい息子」のようなものなのだろう。

花園ラグビー場界隈の飲食店には、必ずといっていいほど彼のポスターやサインが飾ってある。

(Number誌)



インタビューを終えて、花園ラグビー場前の広場に出た。近鉄のチームメイトに

「写真に撮ってもらうんやったら、もうちょっとええ自転車にしときぃや。オレの貸したろか?」

と冷やかされた。トンプソンは笑いながら、サビの浮いたママチャリにまたがった。背中にしょったリュックのサイドポケットには、パチンコ屋が配っていたティッシュが無造作に突っ込んである。

ゴツい体格をのぞけば、そのたたずまいは「東大阪のおっちゃん」そのものだ。

(Number誌)



トンプソンは言う。

「将来のことはまだ考えてないけど、選手を引退したあとも、できることならこの街で暮らしたいと思ってるよ。東大阪、メッチャ好きやからね」










(了)






ソース:Number(ナンバー)891号 特集 日本ラグビー新世紀 桜の未来 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
トンプソンルーク「愛されて、東大阪」



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2016年4月19日火曜日

ビートたけし『野球小僧の戦後史』



Number(ナンバー)894号より





戦後2年目の1947年に東京都足立区で生まれたビートたけし。彼こそ団塊のど真ん中にいる世代である。

傷痍軍人が道端でハーモニカを吹き、ラジオで野球と相撲の中継を聞くしか娯楽がない時代、彼にとって最初の英雄は川上哲治だったという。赤バットをトレードマークとした川上にならい、実家の商売道具だったペンキでバットを赤く塗り、こっぴどく叱られる少年たけし。

教育熱心な母に隠れて野球をするため、こっそり買ってもらったグローブを庭の銀杏の樹の下に埋め、使う時だけ掘り返す少年だった。ちなみにある日、その穴を掘ったらグローブではなく参考書が出てきたというエピソードが書かれている。昭和の母強し。





本書には、彼だからこそ語れるエピソードや率直な選手評が盛りだくさん。

読者は、長嶋の伝説的な天才(天然)っぷりに声を出して笑い、イチローと松井秀喜の差異には、ふむふむと頷くはずだ。

野球小僧は、独自の視点で永遠に白球と時代を追い続ける。







引用:Number(ナンバー)894号 〝エディー後〟のジャパン。特集 日本ラグビー「再生」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
幅允孝「Book Sommelier」55



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2016年4月18日月曜日

カリーの3Pシュート [バスケ]



「彼はバスケ界のスティーブ・ジョブズだ」

そう評されるのは

ステフィン・カリー
Stephen Curry





「ステフ・カリーは、この先のバスケットボールのあり方を変えた。歴史的なことだ」

それは、カリーのプレーがバスケットボールという競技を変えるほど、革新的だということだ(Number誌)


カリーの革新とは?

それは3P(ポイント)シュート



ダンクシュートだけで魅せる時代は終わった。

NBAの観客が3Pで総立ちになる時代がやってきた。

彼の手にボールが渡ってから、わずか0.3秒後、

ボールは美しい弧を描き、リングへと向かう(Number誌)


このカリーには、一瞬のスキさえ見せてはならない。

どんなに遠い距離からでも、かなり高い確率で3Pシュートを決めてしまうからだ。



対カリーの戦術に頭を悩ます、ロン・アダムズ(ウォリアーズのアシスタント・コーチ)は言う。

「3Pを打たせないような対策は、もう効かない。最近の彼は3Pと同じくらい、ドライブインの技術を向上させてきたからだ。今では、彼にボールを持たせないようにトラップするしかなくなってきた」






カリーの父、デル・カリーもまた、3Pシューターだった。NBAで16シーズンのあいだに、通算1,245本の3Pを決めている。

だが当時の3Pはまだ、「試合の中で、たまに打たれるシュート」にすぎなかった。1試合平均3本前後が打たれ、そのうち1本が決まるかどうかだった。


だが今は「3Pシューターが主役になれる時代」だ。

カリー自身が昨シーズンのリーグMVPに選ばれたことで、そのことを証明してみせた。

昨シーズン、カリーが打った3Pは1試合あたり8.1本で、そのうち3.6本を決めている。今シーズンはさらに増え、1試合あたり10.4本打って4.6本決めている(Number誌)


父デル・カリーは16シーズン、1,083試合をかけて通算1,245本の3Pを成功させた。だが息子カリーは7年目にして、すでに父の記録を抜いている。父の半分以下の427試合で、だ。

昨シーズン、カリーは通算286本の3Pを決め、自身のもつNBA記録を更新した。







試合開始1時間前

カリーがウォームアップのためにコートに出てくると、待ってましたとばかりにファンやメディアが群がってくる。


約15分間、黙々と、いつものドリブルを続けていく。ボールを2つ使い、足の間をくぐらせてのドリブルワークや、試合での状況を想定したシュート。ボールはカリーの意のままに動き、放たれたシュートは次々とネットを通過する。

派手なダンクシュートの1本もするわけでないのに、ドリブルやシュートだけで見世物になってしまうのだ(Number誌)


カリーは言う。

「僕がやるプレーは、ほとんどの人が『自分もできる』と思っているようなことなんだ。たとえば、アンドレ・イグダーラが決めるような豪快なダンクは、僕でも出来ないし、ほとんどの人が出来ないことだ。でもシュートすることは誰でも、その人なりのやり方で打つことができる。誰でも決められるわけではないけれど、『誰でも打つことはできる』んだ」



確かにカリーのプレーは、「やろうと思えばできそうなプレー」を別次元なほど高い完成度でやってのけるところに、その魅力がある。

カリーは言う。

「僕はリーグで誰よりも足が速くてスピードだけで相手を抜き去ることができるわけではないから、相手をあざむくように工夫し、スペースをつくりだす色々な方法を見つけなくてはいけないんだ。想像力と創造力をつかって『プレーが実際に起こる前に見極めること』が、僕にとってはとても大事なことなんだ」


カリーは、「誰でもできること」を究極まで突き詰めたことで、歴史を変えてしまったのだ(Number誌)







カリーは、カメラを一斉にむけられても、照明のまぶしさに惑わされないようにしているという。

カリーは言う。

「今を楽しむようにしている。と同時に『自分がどうやってここまで来たか』、ものの見方や考え方を忘れないようにもしている。『いつもの自分』のルーティンを守り、変えないことで、同じリズムをもちつづけるようにしているんだ」






「さ、行くぞ、チューバッカ」

試合後の囲み取材をおえたカリーは、スターウォーズのキャラ「チューバッカ」の形をしたバックパックをひょいと背負ってロッカールームを後にした。



最近のバスケ少年たちは、基礎練習もそっちのけで3Pシュートにいそしんでいるという。

カリーがあまりにも楽しそうに、軽々と3Pを決めるのを見ているからだ。


世の中の常識なんて、ちょっとしたことで180度かわってしまうものだ。

実際、カリー自身がそれを証明する存在でもある(Number誌)







True genius lies not in doing extraordinary thing 
but in doing ordinary things extraordinarily well.

Louis H. Wilson


真の天分とは、並外れたことをするのではなく、
普通のことを並外れてうまくする才能のことだ。

ルイス・H・ウィルソン






(了)






ソース;Number(ナンバー)894号 〝エディー後〟のジャパン。特集 日本ラグビー「再生」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
ステフィン・カリー「大切なのは想像力と創造力」



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2016年4月17日日曜日

酒とラグビーと、大野均



高校時代は、野球部の補欠だった。

大野均(おおの・ひとし)

いくら努力しても、レギュラーには手がとどかなかった。


高校一年、背丈を見込まれて、野球部の投手候補に。

「2球投げたら、監督にもういいって」

野手に回っても、肩は強いのにバットにボールが当たらなかった(Number誌)


大野は言う。

「高校の野球部では、1年のときはベンチプレス45kgしか挙げられなかったのに、3年で100kgまで伸ばした。それでも試合に出られない。単純にセンスがなかったんでしょうね」






ラグビーと出会ったのは、大学に入ってから。


1997年の4月某日

福島県郡山市の日本大学工学部キャンパスの入学式翌日、背の高い新入生が学生食堂へ向かう道を歩いていると、いきなり両脇を「ガッ」と抱えられた。やけに体格がよくて力も強い。ラグビー部の勧誘である。

「ちょっと、こっちへ来てもらえるかな」

不気味に優しい声で勧誘された。こうして、地元の高校では野球部(清陵情報高校)の補欠、ひょろりと長い少年は楕円球と遭遇した(Number誌)


ノートに、名前と自宅の電話番号を書かされた。

すると、毎日電話がかかってくる。



野球部に入るつもりでいた大野は

「僕、コンタクトレンズなので、ラグビーは無理だと思います」

と断った。するとすかさず、

「おおっ、俺もコンタクトだよ!」



断りきれなかった大野は、グラウンドに顔だけ出してみた。

大野は言う。

「グラウンドの雰囲気がすごくよかった。先輩が遅れてグラウンドにやってきて、実習がちょっと延びちゃって、と言いながら、ぱっとジャージィに着替えて、もうバチバチとタックルしてる。なんか、それがすごく『カッコいいなあ』と思ったんです。次の日に新入部員歓迎の飲み会が、大学のそばの中華料理屋であって、それでもまだ断るつもりで出席したんですけど、これが楽しかった」

こうして、仲間と「酒」の彩る人生がはじまった。


1、2年時は東北リーグ1部所属、最後の2年は2部暮らしだった。

ロック、フランカー、ウィング、ナンバー8と、ポジションを転々とした。

休日には「先輩のクルマに分乗して、心霊スポットめぐりや海でのバーベキュー」を楽しみ、アルバイトに精をだす(Number誌)


居酒屋チェーン「天狗」で2年間、バイトした。あこがれは、女性スタッフの多いホール勤務。だが「制服のサイズがない」という理由で、厨房おくり。

「キミは身体が大きくて、お客さんが怖がるから」

どうしても、ホールには出してもらえなかった。



大学4年の春、

「お客さんが怖がる」ほどのサイズを買われて、国体予選の福島県選抜に選ばれた。これがキッカケとなり、東芝への門がひらかれた。


5月、東芝府中工場に呼ばれて、トライアルの練習参加。肩を亜脱臼しながらも隠し通し、夜、薫田真広コーチとの「脂まみれのカルビ焼肉面談」で

「3日以内に返事を」

と内定をもらう。2日後に返事をした。

地方の下部リーグ出身者がいきなり、「親に見せられぬ練習」を矜持とする鋼鉄の集団に放り入れられた(Number誌)


みるみる実力がついた。

入社2年目に公式戦に出場。

4年目には日本代表の初キャップ。



「灰になっても、まだ燃える」

その座右の銘のとおり、大野均は無類のタフネスを示しつづけた。

日本代表キャップは、歴代最多の96(3度のW杯含む)。







そして酒。

世界的にも、ラグビーのチームは遠征先で土地の人々と酒を酌み交わす伝統と文化がある。

五郎丸は言う。

「ラグビーの試合が終わると、(アフターマッチファンクションで)両チームが集まって軽食をとったり、ビールを飲んだりするんですよ」

大野は言う。

「そこの地元の方と飲むのも、すごく好きなんです。いろいろな話を聞くのが。地方にこそ、ラグビーの大好きな熱いファンがいるんですね」

「地獄」といわれたW杯直前の宮崎合宿でさえ、大野は楽しんでいた。

「宮崎もよかった。次の日が休みだと街へ出て。自分にはその部分(酒の楽しみ)があったんで」



酒の思い出は尽きない。

大野は言う。

「2005年、フランスで日本代表が合宿しました。リモージュという田舎にあるスポーツ施設で。(酒豪の)伊藤剛臣さんと同室でした。どうしても飲みたい。『おい探しにいくぞ』と。ありました。タバコ屋の中のカウンターで店のおばあちゃんがビールを注いでくれる。雰囲気がすごく良くて、合宿中に(酒豪の)廣瀬佳司さん、剛臣さんと3人で毎日通いました」



2007年のW杯では、カナダと引き分けて帰国したとき、解散するのがどうしても寂しかった。東京に一泊しようとなって、熊谷皇紀、木曽一、山本正人、大西将太郎と六本木に繰り出した。

飲みに飲んで、翌朝4時。

いよいよ解散となると、ますます寂しくなった。大野均と木曽一は抱き合って、わんわん泣いた。六本木の交差点のド真ん中で。







2015年、ラグビーW杯イングランド大会

大金星をあげた南アフリカ戦のあとも飲んだ。

大野は言う。

「(チームの)ルールとしては、飲んでもよかった。ただ、スコットランド戦が4日後なので、ほとんど飲んでいる選手はいませんでした」







大金星もまじえ、3勝1敗という過去最高の成績で、2015W杯イングランド大会は終わった。


これで英国ともお別れだ。

最後にホテルの前で、みんなで記念写真をとった。

山下裕史は

「終わっちゃうんですね、本当に」

と漏らしてしまった。

「なんだか寂しい…」

と続けると、

「まったく女々しい奴だな、オマエは」

とからかわれた。

W杯という大舞台を戦い終え、誰もが幸せな気分に浸っていたが、一抹の寂しさもそこにはあった(Number誌)



2015年10月12日

ラグビー日本代表をのせたバスは、一路、ロンドンのヒースロー空港へむけ発車した。



1号車は静かだった。メールをうったり、車窓をぼんやり眺めたり。

2号車は、まったく違った。窓の外など一切、見ていなかった。



「こんなもの、いらないね!」

エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)自ら、ネクタイを放り投げた。そのボスの姿に、田中史朗がのってきた。

「エディー、ドリンク! ドリンク! ドリンク! エディー!!」

エディーに、ビールを注ぎまくった。

「あんなことできるの、フミさん(田中史朗)しかいないよね…」

チームメイトらは、変に感心していた。



途中のパーキングエリアでは、堀井翔太がはじけた。

「もう、うまいモン食ってもええやろ」

ビールからハンバーガー、ポテトまで大量に買い込んだ。バスに戻ると

「ハンバーガーいる人?」

と言いながら、ポイポイ、ハンバーガーを投げて配った。W杯が終わるまではと、アルコールもハンバーガーも節制していた選手たちが、帰りのバスで一気にはじけた。

「好きなだけ食べて、飲んでしまえ!」

空港までのバスは、まさに解放の空間となっていた。



大野均は、もちろん「ビール号」こと2号車、堀江翔太の隣りにいた。

飲む、飲む、飲む。

いったい何本やっつけたのか?



大野は言う。

「本当は栓抜きのいるビンだったんですけど、ニュージーランド人がよくやるじゃないですか、そのへんの角でカーンと。」

座席のあらゆる突起はすべて、栓抜き代わりとなった。

「バスの中、相当、傷ついたと思います(笑)」



ところで酒豪の真壁伸弥は、不幸にも1号車に乗ってしまっていた。

「乗るバス間違えた…」



興にのった「ビール号」2号車では、合唱がはじまっていた。


♪ジャパニーズ・ソルジャー

毎日つかれた

Red and white jersey

Play for our country


Aye ya ya

Aye ya ya ya

Aye ya ya…♪


ボブ・マーリーの「バッファロー・ソルジャー」の替え歌だった。

8月の秩父宮で、ウルグアイに完封勝ちした後、ツイヘンドリックが歌詞をつけたものだった。


♪ハードワークしました

Play for each other

Pride in our journey

Play for our country


Aye ya ya

Aye ya ya ya

Aye ya ya

Aye ya ya ya…♪







酒と仲間と、ラグビーと。

大野は言う。

「ラグビーは仲間がいないとできないスポーツ。仲間の大切さを感じます」

大野はつづける。

「いつも厳しい練習を一緒にしてきて、『アイツのために体を張ろう』と思わせてくれる、そう思わせてくれる人間のたくさんいるチームが強い。今回の日本代表、『これだけ練習してきたのだから勝てなかったらウソだろう』とみんなが思って、事実、結果を残せたのは本当にうれしいですね」







大野均、現在37歳。

次のワールドカップは、さすがに難しい。

それでも「もしかしたら…」という期待を、大野は人に抱かせる。



エディー・ジョーンズは言う。

「キンちゃん(大野均)がもう一度W杯の舞台に立ったとしたら、私もさすがに驚くでしょうね(笑)。何歳までプレーするんでしょうね。私も楽しみにしますよ」






(了)






ソース:Number(ナンバー)894号 〝エディー後〟のジャパン。特集 日本ラグビー「再生」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))



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2016年4月16日土曜日

エディーの課した「人生最大の負荷」 [湯原祐希]



エディーは警告していた。

W杯直前の合宿は

「地獄」になる

と。







そして、ラグビー日本代表にとって”地獄”となる宮崎合宿がはじまった。

エディーHC(ヘッドコーチ)は淡々と言った。

「耐えられない人には、帰ってもらいます」



ある日、練習が終わるとマイケル・ブロードハーストは、同じ部屋の伊藤鐘史(いとう・しょうじ)

「今日の練習が人生でいちばんキツい練習だったな」

と話し合った。ところが、その会話が何日も繰り返される。いったいハードな練習がどこまでエスカレートしていくのか? 想像もつかない。明日はオフだと知らされてビールを飲むと、当日になって「今日の午後は練習」といきなり予定が変更となり、面食らったこともあった。

「間違いない。人生で、これ以上つらい日々はない」

厳しい練習に耐えるには、回復をうながすことが先決だ。食事、睡眠。保育園のように、昼寝の時間まで指定されていた。五郎丸歩は

「昼寝の時間まで管理されるのか」

と苦笑いした。リーチマイケルがスーパーラグビー参戦で不在のあいだ、畠山健介(はたけやま・けんすけ)がキャプテン代理を務めていたが、自分たちが磨耗していくのを実感していた(Number誌)。







2015年6月

”地獄”の合宿は3ヶ月目に突入していた。

その日は「ラインアウト」の練習だった。ボールスローワーは湯原祐希(ゆはら・ゆうき)。レシーバーはトンプソンルーク。

ルークが両腕を伸ばしきったところへ、湯原は”ピンポイント”でボールを投げ入れなければならない。エディーHC(ヘッドコーチ)は”寸分の狂いもない精度”をもとめた。このセットプレーこそが、日本代表のアタックの核となるものであったからだ。



「低い…」

ボールを投げた瞬間、湯浅はミスったと思った。

それでもルークは肘を少し曲げると、しっかりボールをキャッチした。



そのとき、間髪入れずに怒声がとんできた。

「ダメ、ダメ、ダメ!」

エディーだった。

「このレベルでラインアウトの練習をやっても意味がない! 次の練習にうつるぞ!」



エディーは常々、こう言っていた。

「ワンチャンスで勝負は決まる。チャンスは1回だけなんだ。1度のミスが負けにつながるんだ」

湯原のスローイングは、エディーから見れば、「負けにつながるミス」だった。







翌朝のミーティング、エディーはいきなり湯原を叱りつけた。

「なんだ、あのスローイングは! トップリーグではあれでいいのかもしれないが、とてもインターナショナルレベルとはいえない。あの程度のことしか出来ないのなら、もう帰ってください! その方が、ご家族もハッピーじゃないですか?」

湯原には2人の小さな子どもがいた。1歳の子の面倒をみる妻の負担は多大なるものだった。それでも、誰が湯原の帰宅をのぞむというのだ。

なおも、エディーの癇癪はおさまらない。

「JR! チケット!」

JRというのは総務の大村のことだった。大村に「羽田までのチケットを用意せよ」とエディーは言うのだった。

そしてエディーは荒々しく部屋をでていった。



「31歳だってのに、涙が出そうになることがあるんだな…」

大の男が半泣きだった。

しょげかえったまま、湯原は自分の部屋にもどった。



部屋にはルームメイトの畠山健介がいた。

「ハタケ…、終わったかもしれん…」

湯原はか細い声をしぼりだして言った。

畠山と湯原は、U19代表時代からの盟友だった。しかし、畠山には湯原にかける言葉がなかった。



とその時、湯原の携帯がブルブルと振動した。

通訳、佐藤秀典からのメールだった。

”続けるかどうか、今日の午後までに決めてください、とのことです”



顔面蒼白になった湯原は、エディーの部屋に駆け込んだ。

「つづけます!」

エディーはちょっと微笑んだようだった。

「その言葉を待っていました。明日のゲームでは、インターナショナルなプレーを期待します」

その言葉に、湯原の身は引き締まった。

”明日は、絶対に下手なプレーはできない…!”



部屋では畠山が待っていた。

「がんばりましょう!」

湯原は、また泣きそうになった。







エディーは選手たちを徹底的に追い込むことに決めていた。選手たちに「人生最大の負荷」をかける。経験上、とことん落とせば落とすほど、いざ、その”くびき”を解き放たれた時、人間は信じられない力を発揮する。その振れ幅が「想像をはるかに超えたエネルギー」を生むのだ。

この宮崎で、選手たちは自分が与えるプレッシャーに耐えられるか、否か? 人物の器を見極める。

そして9月のW杯本番にむけ、選手たちをストレスから解放していく(Number誌)







(了)






ソース:Number(ナンバー)894号 〝エディー後〟のジャパン。特集 日本ラグビー「再生」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
生島淳「桜の真実 エディージャパン 知られざる闘い」



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