2014年6月4日水曜日

弱い者が強い者に勝つ [攔手拳]




「サンフランシスコに『徐谷鳴』という凄い武術家がいる」

そんなウワサが流れたのは、20年も前だった。



また同時に、こんな話もまことしやかに囁(ささや)かれていた。

「上海で”強い”といわれる太極家は、じつは秘密裏に取得した『攔手拳(らんしゅけん)』を使っている」



徐谷鳴とは、その攔手拳の遣い手であった。

かれが武術を志すようになったのは17歳の頃。時の中国は、文化大革命という動乱期(1966〜)。

——この時代は警察などあってないようなもので、治安は乱れ、自分の身は自分で守らなければならなかった(月刊秘伝)。






「武術は、弱い者が強い者に勝つためのものである」

徐老師は武術をそう位置づける。

自然界にあっては弱肉強食がその掟とされる。人間の場合もまた然り、力の強い者が力の弱い者に、速い者が遅い者に勝つ。しかし…

「そういった常識をくつがえすのが武術だ」

そう確信している。






もともと謎多き「攔手拳(らんしゅけん)」は、凶猛な実戦拳術として語られることが多い。

徐老師も若き頃は、「あの先生は激しくて、弟子はみんな病院送りになる」と恐れられたことがあった。その動きはまさに肉食動物のそれであったという。

それでも老師は、保守派に批判されるほど考え方がオープン。中国伝統の拝師という制度も意に介さず、教えを請うてくる者は門派を問わず、皆等しく弟子として迎え入れてきた。「秘伝」とされる奥義さえ惜しみなく公開する。



中国武術の根幹をなす「勁(けい)」

それを徐老師はレベルに応じて「明勁」「暗勁」「化勁」「神勁」の4段階に分類する。



第一段階の「明勁」

これは外形的な動作から発せられる、通常の人間の動きである。

この段階においては、「外側の身体(通常の肉体)」に「内側の身体(心・意・気)」が追従する形となる。外側の力が内側の力にまさる。



第二段階の「暗勁」

先の明勁とは逆に、内側の身体から発せられる力が優位を占め、その内なる動きに従って外側の身体が導かれることになる。

老師いわく、このレベルに達してはじめて、アーティスト(武芸者)と呼べる域にはいる。



第三段階の「化勁」

この段階になると、外側の身体がまったくない状態となる。

——そのため、相手はこちらの存在を感知することができなくなる。目の前に立って接触しているにも関わらず、まったく存在感を感じることができなくなってしまうのである(月刊秘伝)。

この化勁が高まると、内側の身体に”神的な領域”を感じだす。

——内側の身体(心・意・気)に神がある状態で、その神に導かれて動く。その結果、その場の”空間”を制圧することができるようになる(月刊秘伝)。



その神的な感覚を、徐老師は”歌手の歌声”にたとえる。

「一般的な歌手は、目の前の観客にむけて歌声を発するが、一流の歌手の歌声はホール全体にひろがって場を支配する。観客は、耳ではなく全身で歌声を浴びることになる」

内側の身体は相手に”霧や雲”のように覆いかぶさり、相手はまるで”網にかかった魚”のように動けなくなってしまう。

「空(から)の空間からでも力を与えることができる」と老師は言う。「相手の攻撃は逆に空間に溶け込んで、私に作用しない」






そして最後の「神勁」

この段階になると、外側の身体(肉体)だけでなく、内側の身体(心・意・気)の感覚までもが薄れてくる。そしてやがて、純粋に神だけの状態に入る。

ここに至ってフィジカルな要素(心身)が消滅し、老師のいう「弱い者が強い者に勝つ」という世界がひらける。



しかし、なぜか?

「同じルールでゲームをしないからだ」と老師は言う。

力と力が争えば、力の強いものが勝つ。しかし”質の異なる力”を用いれば、相手はこちらを理解できない状態に陥り、一般的な力の強弱は無に帰することになるのだという。

——実際、徐老師が攻撃すると、拳が届くまえに相手が崩れはじめる。最終的には拳で衝撃をくわえるのだが、拳が届いたときに相手はすでに死に体になっている。その感覚は確かに、周囲の何もない空間から圧力をかけられているようである(月刊秘伝)。



「胴体が先に届き、遅れて拳が届く」

現実とはまるで逆だが、そんな錯覚に陥ってしまうほど、老師の”間”は避けがたいという。






そんな徐老師の世界では、”陰”も”陽”も分け隔てがない。

——たいていの人の身体のつかい方は、陰から陽へ、陽から陰へと陰陽が交互にあらわれる。しかし徐老師は、陽の中に陰を入れたまま動く。陽の代表である攻撃の際も、つねに陰を保ちつづける(月刊秘伝)。



陽を放出とすれば、陰は吸収。攻撃しつつも吸収するという老師の拳は、まるで相手の力を吸収するかのような不思議さをもっている。

「まるで地面を押しているようだ…」と、対戦者は述懐する。

——相手の力はまるでアースで電気が地面へ流れるように、老師の身体には影響を及ぼさない。逆に相手は”地面から這い上がってくる力”で押し潰されてしまう。



まさに攻防一体。

どこまでが矛で、どこからが盾か?

その理解不能の矛盾のままに、相手は崩れ去ることになる。






「武術はアートであり、絵を描くように、書を書くように戦うのだ」

どれほど強い相手でも、”意識の及んでいない箇所”を”意識していない角度”から攻められれば、指一本でも簡単に崩れてしまう。

かたや老師の練る「神丹田」は、天地の隅々にまで満ちている。空も味方すれば、地も味方する。



「弱い者でも強い者に勝つ」

そんな革命を、老師は唱える。






(了)






ソース:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
徐谷鳴「空間から得る力」



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