2013年5月30日木曜日

道なき道を13年。女子アメフト「鈴木弘子48歳」アメリカ代表に




6月のフィンランドで開催される「女子アメリカン・フットボール世界選手権」

そのアメリカ代表のメンバー表にある「Betty SUZUKI(ベティ・スズキ)」という名前。



日系アメリカ人?

いや、彼女は生粋の日本人だ。

東京・浅草生まれのちゃきちゃきの。



本名「鈴木弘子(すずき・ひろこ)」

アメフトを始めたのは30歳の時(1995)。

「初めて見たアメフトの試合が『自分が出た試合』だった」という、ブッツケ本番のアメフト・デビューだった(レディコング)。



友人に誘われて「お稽古感覚」で始めたというアメフトだったが、その「豪快かつ緻密なプレー」に一発で虜となり、2000年には単身アメリカへと渡ってしまう。何のつてもないままに(当時35歳)。

本場アメリカ・プロリーグの入団テストに、鈴木さんは見事合格。日本女子初、プロ選手第1号となる。

米国プロリーグWFAの平均体重は120kgというなか、鈴木さんはその半分程度の65kgしかない。巨漢アメリカ女性らに比べれば、大人と子供である。だが体格で劣る分、鈴木さんの持ち味は「速さと技術」だった。



アメリカ初年度、鈴木さんはフロリダのチームに所属(デイトナビーチ・バラクーダス)。だが、英語が全くわからない。それでも、遠い異国からアメフトだけのためにやって来た鈴木さんに、誰も彼もが親切にしてくれたという。

そしてチームは地区優勝。オールスター戦への出場も果たした鈴木さんにとって、華々しいデビューとなった。



2年目はアリゾナへ(アリゾナ・カリエンテ)。

チームメイトには「EQ」とか「Aボーン」とかいうニックネームの選手たちがいた。よくよく聞いてみると、EQは「Earthquake(地震)」、Aボーンは「Atomic Bomb(原子爆弾)」だそうで、鈴木さんは「凄いチームに来てしまったな…」と思ったらしい。

灼熱のアリゾナでは2シーズンを過ごし、それぞれ地区優勝と準優勝を果たすことになる。



そして今度は一転、フィラデルフィア(フィラデルフィア・フェニックス)。

サボテンの州から氷の州へ。とにかく寒い。クルマは氷に滑って回ってしまう。この地に一年しかとどまらなかったのは「寒さに懲りたから」だとか…。

次は太陽燦々、カリフォルニア(ロングビーチ・アフターショック)。アリゾナの暑さよりもずっと快適だった。



ところで、アメフトの起源はサッカーであると言われている。

ヨーロッパで頭蓋骨を蹴っていたサッカーが、オーストラリア大陸に渡ってラグビーとなり、それがアメリカ大陸でアメフトになったとのことである。

アメフトのルール・ブックは「電話帳ほどの厚さがある」といわれるほど複雑だが、基本的には「戦争を意識した陣取りゲーム」。攻撃側は4回の攻撃で10ヤード(約9m)以上進めれば、さらに4回の攻撃権が与えられ、進むことができなければ、攻守は相手チームと交代する。



その戦い方は、アメリカの文化を象徴しているともいわれる。

自由の国というイメージのアメリカも、こと仕事となると命令系統がじつにハッキリしており、命令を出す人とそれに従う人が厳密に区別されている。まさに軍隊。だから、アメフトにおいて各選手が自由に動き回ることはまずない。すべて決められた動きなのだ。



攻撃の場合、まずフォーメーション(隊形)を組み、そしてプレーが指示される。フォーメーションのパターンが10あって、プレーのパターンが30あれば、それだけで300種類もの攻撃バリエーションになるが、選手全員にその無数の戦術が頭に叩きこまれているという。

ちなみに、日本の大学で「京都大学」が強いのは、選手の頭で覚えている攻撃パターンが尋常でなく多いからだという意見もある。だが、鈴木さんに言わせれば、京大は5年制を取り入れて、4年生で就活と部活がかぶらないようにしているシステムも上手く機能しているとのことである。



ルールも攻撃も緻密なアメフト。攻撃の選手と防御の選手もまったく違う。攻守交代の際には、選手が総入れ替えすることになる。

鈴木さんのポジションは、攻撃ラインの「ぶつかるだけ」の選手だという(OL = Offensive Line)。そのセンター。

ぶつかるだけの鈴木さんのポジションは「危険」だと思われがちだが、止まった状態からぶつかるため、加速もついていないし相手がどこから来るかも予測できるので、思ったほど危険ではないという。

より危険なのはランニングバックという走りながらぶつかられる選手で、さすがに大きな怪我が多く、選手寿命も長くて30歳くらいまでといわれている。



アメリカでプレーする鈴木さんの「最大のモチベーション」は、全米チャンピオンになることだったが、それは昨年ついに達成された(2012)。

女子リーグWFAの中でも人気のある「サンディエゴ・サージ」という強豪チームで、悲願のチャンピオンとなったのだった。

徒手空拳の渡米から、じつに12年目の快挙であった。



そして今年、冒頭でも触れたとおり、世界選手権のアメリカ代表のメンバーに選出された。

「Betty SUZUKI」48歳

代表となるには「アメリカ国籍」を取得することが必要だった。つまり、日本国籍を捨てるという決断だ。



「ご先祖様に悪い気がしました」

と迷ったというが

「ずっと『アメフトのSUZUKI』だった自分が、アメフトのために国籍が変わるのも不思議でないかも」

と踏ん切りをつけたという。



代表の座をかけてトライアウトに望んだ全米の猛者どもは180名以上

その中の45人に「ベティ・スズキ」は選ばれたのだった。

アメリカ代表は昨年の世界選手権の決勝では、66-0という大差をカナダにつけて世界一の座についている。目指すは大会2連覇である。



「趣味はお酒」と豪快な鈴木さんだが、最近は身体に気をつかい「シーズン中は控えている」とのこと(若い頃は試合前日も飲んでいたというが…)。

今季のチームはロサンゼルのチームだが、プロといっても待遇はあまりよくない。1試合のギャラは100〜300ドル(1〜3万円)ほどなのだとか。

チームのフトコロ事情も厳しいもので、選手たちがイベントを行なってお金集めを行うときもある。たいていの選手はみな別の仕事を持っており、主婦やお母さん選手も。



孤軍奮闘

アメリカ、プロ13年目、9月には49歳

「選手としての可能性を信じて、できる限り本場で選手を続ける」

そう宣言する「ベティ鈴木」選手。

その道はどこまで続くのか。







(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
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2013年5月29日水曜日

巨人軍の名トレーナー「ハギさん」。心も体も柔らかく [野球]




巨人軍の「身体と心を揉みほぐして」27年

名トレーナー「萩原宏久(はぎわら・ひろひさ)」さん

「江川卓から阿部慎之助に至るまで、萩原さんの世話になっている(Number誌)」



穏やかな丸っこい温顔の萩原さんは、選手からもメディアからも親しみを込めて「ハギさん」と呼ばれていた。

「ハギさん」に電話をすれば、いつでもすぐに駆けつけてくれる。たとえ結婚記念日の料理に祝杯を上げているさなかでも。



その夜、ハギさんは清水隆行(当時:巨人軍選手)から電話がかかってきた。故障を抱えていたか、体調に不安があったか…。

「わかった。すぐ行く」

結婚記念日の食事を早々に切り上げたハギさんは、一路、清水選手の元へ駆けつけたという。

「『明日、朝一番で行くよ』と答えたとしても、十分感謝されただろう。だが、萩原さんはその日に駆けつけなければ気が済まない人だった(Number誌)」



1944年、終戦直前の東京に生まれたハギさん

高校時代は、甲子園を目指した熱血球児。名門・日大三高の三塁手として決勝にまでコマを進める。が、決勝で敗れ準優勝。

その後、母校・日大三高の監督に就任したハギさん。1971年の春のセンバツで見事、選手時代には果たせなかった「優勝の栄誉」を手にする。



「萩原さんが監督として優勝したのは26歳の時である。20代で『甲子園優勝監督』となれば、高校野球の世界では大きな勲章だ。名将の看板を下げたまま、長く活躍しても不思議ではない(Number誌)」

なのになぜか、ハギさんは優勝後、あっさりと監督を辞めてしまう。そして生涯の生業となる「プロ野球のトレーナー」になったのであった。



その転身の理由を、ハギさんはほとんど語ったことがない。妻・誠子(まさこ)さんは、「無口な人でしたから」と言いながら、ポツポツと微かな思い出を語る。

「なんですか、『ほかにもやりたい人がいたから』なんて言ってました」

「『怪我で苦労したり、大成できなかった子をたくさん見てきたから』と漏らしたのを聞いたこともあります」



鍼灸の学校で、一からスポーツ・マッサージを学んだハギさん。

「近鉄バッファローズのトレーナーを3年務めたあとジャイアンツに移り、1978年から定年で退く2005年まで、じつに27年にわたって巨人軍のトレーナーとして活躍した。その間、監督は延べ7人(Number誌)」



プロ野球のトレーナーには、身体を揉みほぐす手技に加え、心をほぐしてリラックスさせるような信頼関係も必要とされる。

選手のケガの具合がチームの浮沈にかかわることもあれば、時にプロ野球選手の身体の状態は「機密情報」ともなる。

「誰からも信頼される口の堅さ、ほどよい秘密主義を貫ける人でなければ、長くは務まらないだろう。温顔の萩原さんはそのサジ加減が絶妙だったのではないか(Number誌)」



定年で巨人のトレーナを退いたあと、ハギさんは自分で治療院をはじめた。だが、開業した場所も開業することさえも、チーム関係者には一切教えなかった。

「選手たちがチームのトレーナーを差し置いて、オレのところに来たら迷惑がかかるだろ」

ハギさんは、そんな男だった。いつもいつも他人のことばかりを思いやっていた。だからこそ、ジャイアンツの選手たちもハギさんには心を許したのかもしれない。



自身の治療院にはもちろん、元巨人軍トレーナーといった仰々しい看板は出さない。ただ一人黙々と、肩凝りや腰痛持ちの人たちと向き合い続けた。

「どんなに早くやっても、1日に8人を相手にするのが精一杯だったそうだ。決して割りのいい商売とはいえない。それでも今年2月、ガンで床につくまでは元気に仕事を続けていた(Number誌)」




そして今年3月、ハギさんはこの世を去った。

巨人・原監督は、「僕の若い頃、調子が悪かった時に『おまじないをかけてやる』と身体を見てくれた。不思議といい結果が出たことを覚えている」とハギさんの思い出を語った。

葬儀に参列できなかった長嶋名誉監督は、「ハギさんは腕も一流だったが、メンタル面でも一流だった」とのメッセージをわざわざ人づてに伝えたそうだ。



いくたの名監督、名選手に愛された丸顔のハギさん。

「長嶋さんや松井秀喜といっしょの写真を見せてもらったが、2人ともほかの写真にはないような『警戒心のない』表情をしていた(Number誌)」

きっと、ハギさんの手で、心も身体も揉みほぐしてもらったからなのだろう…






(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
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2013年5月28日火曜日

「失敗を引きずらない」。吉田麻也 [サッカー]




イングランド、プレミアリーグ第31節

サウサンプトン vs チェルシー



「あれはまさに、自分の読みが当たったプレーでした」

吉田麻也(よしだ・まや)がそう言うのは、後半、モーゼス(ナイジェリア代表)がゴール前に抜け出してきたところを、CB(センターバック)の吉田がストップしたシーン。

「こっちに来るぞ、来るぞ…、よし来たーっ! という感じで守れましたから」



屈強な外国人選手を突き飛ばすような、力強い吉田の防御。

「ああいう守備ができた瞬間が一番CB(センターバック)をやっていて気持ちいいですよね」

吉田にフっ飛ばされたモーゼスは、ファウルをもらおうと倒れこんだ。だが、吉田が先に身体を入れていたから全く問題はなかった。

そしてこのプレーは、吉田の考えるCBの「あるべき姿」であった。



この快心のプレーを決めるまで、吉田はずっと「あるプレー」に引きずられたままだった。それは日本代表のヨルダン戦、相手のカウンターで最終ラインの吉田があっさりかわされ、決勝点を与えてしまった痛恨のプレーだった。

「あれは絶対にやってはいけないプレーだったんです」

敗戦後、吉田は自分の情けなさに沈んでいた。



イングランドへと帰る飛行機の中でも、まだ割り切れずにいた。

そして迎えた冒頭のチェルシー戦。代表戦の痛手からわずか3日後の出来事である。

吉田は「一回だけ空振りしちゃって(笑)」と自嘲的に笑うも、「それ以外ではミスはありませんでした」と言い切った。もうすっかり「切り替え」は完了。さらなる強さを増していた。



「年齢も今年で25歳になるし、いつまでも若手のようにミスを引きずるようでは弱々しい。割り切る。これは大事ですよ。外国人選手はまったくミスを引きずらない(笑)」

責任感の強い日本人は、どうしても過去の失敗に引きずられてしまいがちだが、「責任感が強すぎて、次に進めないのでは意味がない」。この点、外国人選手のタフさ、メンタリティは大いに参考になる、と吉田は言う。



「たった1秒、2秒の瞬間的な判断だけど、その間に味方や敵の動きを予測して、自分も動く。動きがハマれば成功する」

それがサッカーの面白さだと吉田は言う。ずっと一緒にプレーしてきたチームメイトの動きを信頼することで、自分の動きも見えてくる。



だが、味方を過信すれば、失点につながることもある。第35節のウェストブロムウィッチ戦の失点は、そんな過ちだった。

「守備は『だろう運転』ではダメなんです。『かもしれない運転』をしないと。だから『味方がやってくれるだろう』ではなく、『味方がミスするかもしれない』という意識ですよね」



第35節ウェストブロムウィッチ戦では、味方の右SB(サイドバック)クラインを信頼しすぎて、敵方のルカクの侵入を許してしまう。

「僕はルカクがいる右側に身体をもう一歩、二歩寄せていたら…」

DF(ディフェンダー)としての吉田の判断と動きに間違いはなかった。ただ時には、そのセオリーを覆す判断も必要となる。

「あそこでセオリーを覆してでも的確な判断ができるようになれば、もっとCB(センターバック)として良くなるはず。そんな悔しさが残っています」



一進一退

快心のプレーの後に、落とし穴。

それでも昨年(2012)9月にプレミアリーグ・デビューを果たした吉田は、半年以上の間に、この世界トップレベルのリーグで「31試合連続フル出場」という申し分のない数字を残した。



「名古屋(グランパス)での1年目もそうだったけど、試合に出れば出るほどいろんなものを吸収できているという感覚でした」と、吉田は振り返る。

そんな吉田にも想定外が一つあった。それは「ヘディング」。

「正直、こんなに競り負けるなんて思ってもいなかった」と吉田。



守りの要、CB(センターバック)がヘディングで競り負けてしまうと、イギリス人からは「あれれ?」と思われてしまうのだとか。

このヘディング以外の能力では、他のCB(センターバック)に引けをとらないと自負する吉田も、さすがに「あれれ」だ。

この点に関しては、来季への課題となった。



「大事なのは2年目以降」

吉田の意識は、すでに2年目のシーズンを見据えている。

「さらに次へ次へと思っています。人間は欲深いですから(笑)」







(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
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2013年5月27日月曜日

マンU移籍1年目、香川真司は「赤い悪魔」になれたのか [サッカー]



イングランド「プレミア・リーグ」

赤い悪魔「マンチェスター・ユナイテッド」がリーグ優勝を決めた後

香川真司は「自分はもっと貢献できたと思う」とコメントしていた。







移籍1年目、香川真司への評価はファンの間でも分かれている。

「よくやった」と主張する者もいれば、「期待はずれだった」と言う連中もいる。

裏を返せば、ドルトムント(ドイツ)から鳴り物入りでやってきた香川真司に対して、ファンらの期待が相当に大きかったということでもある。



プレミアリーグ20試合出場 通算6ゴール 3アシスト

これが今季、香川真司の戦績である。「6ゴール」が多いのか少ないのか? 移籍前のドルトムンドで香川は「13ゴール(31試合出場)」を挙げている(2012)。

香川自身は「満足していない」と言う。だが、マンチェスター・ユナイテッドで香川を上回るゴールを決めたのは、ファンペルシ、ルーニー、エルナンデスの3人だけ(ファンペルシの25ゴールは別格)。



何より、香川のゴールは印象的なものばかりだった。

初ゴールはホーム開幕戦。先発出場した香川が決勝弾を決め、フラムFC戦をものにした(2012年8月25日)。この活躍で、香川はユナイテッド8月の月間MVP(最優秀選手賞)に選ばれる。

今年(2013)3月のノリッチ戦では、一試合3得点の「ハットトリック」を達成。プレミアリーグにおいて、アジア人選手初の快挙であった。



そして最終戦(5月19日、ウェスト・ブロムウィッチ戦)。ファーガソン監督の最後となるこの戦いで、香川は先発として抜擢され、期待通りに先制点を挙げる。

「香川はピッチのあらゆるエリアで印象的なプレーを披露し、ユナイテッド5得点のうち3点に絡んだ(スカイ・スポーツ)」

この月もまた、香川はチーム月間MVP(最優秀選手賞)。2位エルナンデスの得票率31%を大きく上回る51%という高い得票率を得た。開幕の8月MVPと合わせて、まさに「香川にはじまり香川に終わった」。







なるほど、ゴール数、そしてインパクトは申し分ない。

それでも不満を述べるのならば、「アシストだ」と、ミカエル・ラウドルップ(現スウォンジー監督)は言う。

「香川のような選手に求められるのは『ラストパス』『ラストタッチ』の2つ。前者は『味方を生かすプレー』、後者は『味方に生かされるプレー』という解釈だ」



「味方に生かされるプレー」、つまり自分がゴールを決めるプレーにおいて、香川は及第点。

「だが、味方を生かすプレーが、今後は必要とされるだろう」とラウドルップ氏は期待する。

というのも、今季をもって、イングランド最高のMF(ミッドフィルダー)の一人「ポール・スコールズ」がチームを去る。そこでファーガソン監督は、その後継者として香川真司に白羽の矢を立てた、というのである。



そもそも、ファーガソン監督は「一人の選手のゴール数が突出するのを好まない」。

「昔からファーガソン監督は、スペシャリストよりも『ユーティリティー性の高い選手』を重用してきた(Number誌)」

戦術的なオプション(選択肢)を増やすため、ユナイテッドの選手たちには「複数の役割」が求められるのである。それは「選手としての幅」ということだ。



この点、「新世代の10番」である香川は、ファーガソン監督の厳しいメガネに適った。

だからこそ、27年にわたる長期政権を去ろうとしていたファーガソン監督は、「最後の愛弟子」の一人に、香川真司を選んだのだろう。

自分が勇退したあとのチーム像を描いていたファーガソン監督。若いだけではなく、キャリアも超一流の香川真司の獲得は、まさに象徴的だった。ファーガソン監督は何度も「シンジ(香川)こそがチームで『次代の10番』を担う選手だ」と記者連中にほのめかしている。



「香川は戦術的な理解が早かったし、どのポジションでも自分の役割を全うしていたと思うよ」と、マイケル・オーウェン(元マンU選手)は香川の働きを認める。

「動きは鋭いし、何よりパスセンスとサッカー脳の良さが頭抜けていた」と、マーク・オグデン(デイリー・テレグラフ紙)も評価する。

「攻撃的MFとして、香川のパス成功率は特筆すべきレベルなんだ!」



「でも、シンジ(香川)は謙虚すぎるよ(笑)」

サイモン・マロック(サンデー・ミラー紙)は、そう笑う。

「イングランドでは、(謙虚さは)自信がないんじゃないかと、勘ぐられることもあるから(笑)」



ミックスゾーンでは、頭を下げて「ソーリー」と言いながら記者たちの前を通り過ぎていくという香川。その謙虚さや腰の低さが、記者たちには「嬉しい気遣い」なのだという。

「バレンシアなんか、こっちに目もくれず、前だけ見てドンドン歩いて行くからね! 振り切るのはDF(ディフェンダー)だけにして欲しいよ(笑)」



物静かな香川は、すぐにチームに馴染んで「いじめられ始めた」ともいう。

クリスマス・パーティーではカラオケを熱唱させられ、優勝パーティーの後の打ち上げでは、2次会、3次会、そして最後の最後、朝の6時まで粘らせられた。

「まさか、シンジがいるとは思わないからビックリしたよ!」



ユナイテッドの選手の中には、チームともファンともずっと距離を置いたままの選手もいるが、「人間臭い香川」は地元ファンから「親近感」を持たれているのだという。

「すごく好感がもてるね」とサイモン・マロック(サンデー・ミラー紙)は言う。

「だけど、『自分のやっていることは間違っていない』と言うくらい傲慢で、ちょうどいいんだけどね(笑)」







(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
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2013年5月26日日曜日

無名からカリスマへ。本田圭佑 [サッカー]




「なぜ、日本人はそんなに『ホンダ』に興味があるんだ? ロシア人は大統領にすら興味がないぞ」

ロシアのサッカークラブCSKAのスルツキ監督は、「本田圭佑(ほんだ・けいすけ)」のもつ異常な人気に首をかしげる。

スルツキ監督がホンダの実力を認めていないわけではない。本田の強さとインテリジェンス(頭脳)を誰よりも認め、「攻撃の自由」を本田に与えているのは、彼本人なのだから。



それにしても、なぜ日本人は、そこまでホンダに熱を上げるのか?

それが、ロシア人であるスルツキ監督には理解しきれないようである。










◎カリスマ



「もうカリスマでしかないですよね。『これぞサッカー選手』って感じで。僕が子どもだったら絶対に憧れる。昔でいうとカズさん(三浦知良)、ヒデさん(中田英寿)、今は圭佑(本田)」

そう言うのは、同じ日本代表のユニフォームを着る「今野泰幸(こんの・やすゆき)」。彼は本田の4つ年上である。



本田が日本代表に初選出された時、今野はすでに代表に定着しつつあった。

本田の初選出は、2006年11月のサウジアラビア戦(アジアカップ予選)。まだプロ2年目のこと。

だがその頃の本田からは、今野が「カリスマ性」を感じることはなかった。カリスマどころか「それほど印象にも残っていない」と今野は言う。



その2年後の2008年。本田は北京オリンピックのメンバーに選出される。本田を起用したのは「反町康治」監督(現・松本山雅)。

だがやはり、「本田を初めて見た時は、そんなにスーパーだとは思わなかったなぁ…」と反町監督は振り返る。

「次元が違うな、とか、手のつけようがないな、という存在じゃなかった。小野伸二とかに比べると、スーパーな感じはしなかったから」



反町監督も、今野同様、過去の本田を必ずしも「ズバ抜けている」とは思っていなかった。

当時の本田は、とても「カリスマ」などではなく、どうしても小粒な印象が否めなかった。






◎我



「でも、強い我はあった」

反町監督は言う。

「ほら、日本人選手ってヨーロッパに比べると、我が弱いところがあるだろ。でも本田の場合、強い我があった。そして我を持ちつつも、人の意見に耳を傾ける柔らかさもあった」



人懐っこいし、話も聞く。なおかつ自分の意見も言ってくる。

北京オリンピックの頃の本田に、反町監督はそんなイメージを持っていた。



その北京五輪、日本代表は3戦全敗で1次リーグ敗退と、まったく振るわずに終わる。

そしてこの敗戦の責を一身に負ったのは、本田だった。大会前に彼が発した「金メダルを獲る気でいかなきゃ、勝てるわけがない」という言葉が格好の餌食となり、その結果、本田は「戦犯扱い」されることとなってしまう。



本田の柔らかさは敵を作ってしまうことに決して無頓着ではなかった。だが、「強い我」の発する「破天荒な物言い」が、心ならずも敵を作ってしまうことも少なからずあった。

生まれてしまった敵は、もうどうしようもない。ならば、それを「自分を高めるエネルギーにしてやろうじゃないか」。本田はそんな男だった。



「逆風」が吹き付けるたびに、本田は変わっていった。

そして、バッシングを乗り越えるたびに、彼は「カリスマというオーラの衣」を一枚一枚まとっていくことになる。

心の芯にあった強い我は、そのカリスマの源となっていく。






◎変化



「圭佑(本田)の存在感が増してきたのは、オランダに渡って結果を出し始めたくらいから(2009)だと思います」と日本代表の今野は言う。

日本Jリーグの名古屋グランパス時代、本田は必ずしも「点を獲る選手」ではなかった。

だが、ヨーロッパ(オランダ・VVVフェンロ)に行って変わった。「得点しなければ認められない」ということに気づき、短期間でスタイルを変えたのだった。



本田がVVVフェンロに移籍した年(2008)に、チームはまさかの2部リーグへの降格。それでも本田は翌年も残留。

1部昇格のかかった翌シーズン、本田は開幕から攻撃の軸となりチームを牽引。首位独走の原動力となり、シーズン途中からはキャプテンを任されるまでになる。



「絶対に優勝します」

本田は試合後、たびたびそう口にしていた。まるで自分自身に言い聞かせているかのように。

結果、VVVフェロンは2部リーグを制覇。1部へ昇格。本田は16ゴール13アシストを挙げ、2部リーグにおけるMVP(最優秀選手賞)を受賞した。



かつての北京オリンピックにおける惨敗。そして、海を渡ったオランダでの、まさかの2部落ち。

それらの挫折に、本田の我は屈しなかった。むしろそれらをエサとするかのように、自らの強さを強めてった。

本田はサファリ系の肉食動物がたいそう好みで、ライオンがサバンナで狩りをする様子をYouTubeなどで熱心に見て、チームメイトにも見るように勧めるほどだというが、それはまた、本田自身のイメージの一つでもあった。










◎南アフリカW杯



挑まれるたびに強まる、本田の闘争本能。

時にはあえて、自らの言葉で自分を追い込んでいく。



2010南アフリカW杯

初戦カメルーン戦、その前夜

「オレ、決める気がするんだよね」と本田は、今野に言った。

だが今野は、「なんでそんなこと言って、自分にプレッシャーかけるんだ」と不審に思ったという。



そして迎えたカメルーン戦

前半39分、本田の予言は現実となる。決勝点を挙げたのは本田だった。

その本田は、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ(その試合での最優秀選手)」に選出される。







「とにかく、あの時の圭佑(本田)はメチャクチャ頼もしかった。言葉やプレーでチームをぐいぐい引っ張っていた。まだレギュラーになったばっかりだったのに」と今野。

有言実行

自分の決めたことは絶対にやり遂げる。絶対に自分が勝利に導くんだ。そんな強烈なオーラが、本田の毛穴の隅々から発せられているかのようであったという。



第3戦のデンマーク戦

ゴールから37mもの距離のフリーキックを、本田は無回転シュートで決めた。またもや「マン・オブ・ザ・マッチ」。決勝トーナメント進出を決めた。

決勝トーナメントにおいて、日本はパラグアイに敗れることとなるのだが、それでも異才を放ち続けた本田。敗戦チームとなったにも関わらず、本田は異例の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出されている。










◎市場価値



「ホンダが南アフリカW杯で2ゴールを決めたこと自体は、それほど驚かなかった」

CSKAモスクワのスルツキ監督は、そう言う。

本田は南アフリカW杯の前に、VVVフェロンからCSKAに移籍していた。移籍金600万ユーロ(約8億円)、4年契約である(〜2013末)。



「だが本当に驚いたのは、『W杯後の変貌ぶり』だ」とスルツキ監督。

「自信を深め、野心を燃やし、『もう一つ上の次元の選手』になっていたんだ。W杯後、ホンダは『世界の主役』になれることを確信しているかのようだった」

このW杯後に大化けした本田に、イタリア・セリエAのACミランが1,000万ユーロ(約13億円)の移籍金をロシアCSKAに示したのは有名な話だ(当然、CSKAは断った)。



「シュートが正確かつ強力で、フィジカル(肉体的)に優れ、ピッチを正確に見渡す目をもっている。そして頭も良い」

いまや本田の市場価値は、1,500万ユーロ(約20億円)とまで言われている。










◎ロシアのチームメイト



本田の選んだ「CSKAモスクワ」というチームは

「力のある若手を見つけてきて、プレーの場を与えて成長させる」

それが流儀だという。



この点、まったくの無名、そしてカリスマもないような状態から頭角を現してきた本田にとっては、またとない場所の一つでもあった。

本田が移籍を決めた時には、まだ欧州2部リーグの優勝実績しかなく、W杯での大活躍もその後の話だ。

いわば、当時の本田はヨーロッパでは「ほぼ無名」だった。



CSKAのスルツキ監督に言わせれば、本田は「ロシア語も話せない」。チームメイトとの会話も、「英語のグループ」に偏りがちになってしまう。

それでもチームメイトの本田に対する信頼は、極めて厚かった。



「言葉が通じないと黙っている時間がなるけど、ホンダはサインを頼んだら絶対してくれるし、すごく優しい」とロシア代表のMFザゴエフは言う。

南アフリカ出身でチリ代表のMFゴンサレスは、ラテンの気質が大阪の感性と呼応するのか、「ホンダはチームメイト以上の存在、親友だよ」と話す。



ただ、本田のまとう「鬼気迫るオーラ」、それが身体中から発散されている時は、さすがのロシア人たちにも近寄りがたい。

「試合前はホンダに話しかけられないよ! ホンダは黙って集中力を高めるタイプ。邪魔したら怒られるだろ?」と、コートジボワール代表のFWドゥンビアは言う。

だが、このドゥンビアはJリーグにいたこともあるため、日本語ができる。ときおり、本田とは漫才のような掛け合いを見せるのだとか。






◎CSKAモスクワ



今季、CSKAモスクワは6シーズンぶりのリーグ優勝を果たした。

だが、優勝を決めた大一番クバン戦のピッチ上、本田の姿はなかった。右太モモの負傷のため、本田はベンチ外になっていた。



リーグ優勝が決まった瞬間、最上階のVIP席にいた本田は、「スッと席を立ち上がると、口元を少しだけ緩め、小さく拍手した」。

一方では、大はしゃぎするチームメイトたち。そんな彼らに対して、本田はあまりにもクールで、その喜びはささかやもののように見えた。



だが、熱狂するファンたちは、裏口から出ようとするホンダを見かけると容赦なかった。

「チャンピオン! ホンダ! チャンピオン!」

そう大合唱しながら、ホンダの肩でも背中でもバンバンバンバンと叩くのだった。興奮状態が極まり、ことによっては暴動にもなりかねない勢いだ。

それでもホンダは冷静に笑ったままで、手を振りながら、用意されたバンに乗り込んだ。



右ヒザの半月板手術などから、最近の本田はケガに休養を余儀なくされる期間も少なくなかった。その点、今季は南アフリカW杯以降、本田にとっては静かなシーズンの一つであった。

それでも、リーグ優勝というタイトル獲得は、本田の3年半にわたるロシア挑戦の結晶であり、自身にとっても初の欧州一部リーグでの優勝であった。






◎個とチーム



サッカーにおいては、「効率性」と「献身性」という両立の難しい2つの概念がある。

もし「効率性」を求めるのであれば、自分の体力を温存すべく、ムダな体力は使わずに、頭を使いながら洗練されたプレーをする必要がある。どちらかと言うと、本田はそうした知的かつ芸術家肌のプレーヤーである。

一方、「献身的なプレー」というのは、パスが来ないと分かっていてもディフェンダーの裏へとがむしゃらに走り込み、相手を一人で引きつけようとチームに尽くす。まるで日本代表の岡崎慎司のように。



だが、ロシアカップ準決勝ロストフ戦における本田は、「別人であるかのように献身的に動き続けた」。

たとえば見方ディフェンダーの選手がボールをもった瞬間、本田はほぼ必ず、相手の裏のスペースへ走り込みを開始していた。守備の意識も高く、味方がボールを失うや、本田はすぐさま反転。自陣にダッシュで戻る。



「効率的」か「献身的」かというのは、「個」と「チーム」の優先度合いにも起因する。然るべき時の活躍のため、自分の体力の消耗を抑えておくのか、それとも消耗を厭わずに、力尽きるまで走り続けるのか。

2011年のアジアカップ、本田はその狭間にいた。それは、優勝後のコメントに顕著であった。

「とにかく優勝したかったから、チームのためにエゴを捨ててプレーした」と本田は言っていた。



だが一方で、「自分を貫けなかった」と悔しさを滲ませる。

「オレはどこにもいない『オリジナル』になりたい。そうじゃなきゃ、歴史に名前が残らへんでしょ」



チームか、個か?

効率的か、献身的か?

矛盾とも思える2つの概念を両立させること。そうして初めて、歴史に名が残る、と本田は考えている。










◎剛と柔



本田には「剛」の面と、「柔」の面がある。

その切り替えはハタ目にも明らかであり、「剛のホンダ」の時には、漫才の相方ドゥンビアでさえ近づけない。

強い我を宿すその芯は、何事にもブレぬ軸となり、「決めたことは絶対にやり遂げる」。



スルツキ監督でさえ、本田の強さに押し倒されることがある。

スルツキ監督が本田にボランチを命じた時、本田は「トップ下でないのであれば、試合に出さなくていい」と突っぱねた。

結局いまは「トップ下」が本田の定位置だ。



「柔のホンダ」は、大阪人気質そのままの「エンターテイメントの塊」。なにか面白いことを言おうとする。そして彼は、その言葉の表現センスも備えている。

サッカーにおいても、献身的なプレーを厭わなかったり、エゴを封じ込めたりと、芯まではブラさぬまでも、できるかぎりチームや監督の指示に従い、最高の結果に至ろうと尽力する。










◎変われる強さ



「人は変われるんだ、ってことを証明してくれました」

本田の一年下にあたる日本代表「高橋秀人(たかはし・ひでと)」は、そう言う。



「他人からどう思われようが関係ない。自分がどうなりたいかが重要だ」、それを言葉にする本田に、高橋は「強烈な強さ」を感じるという。

「圭佑さんの言葉は、他の選手とはカケ離れている。2ランクぐらいレベルが高い」



「あれはオマーンだったかな。圭佑(本田)さんと佑都(長友)さんの会話が偶然、聞こえてきた…」

昨年(2012)11月のオマーン遠征。練習前の競技場の一室で筋トレをしていた時のことだったという。



「オレ、次の扉、開いたわ」と長友佑都が言う。

すると本田は「オレ、目の前の扉で格闘してるわ」と返す。



本田と長友は同期1986年生まれ。本田はロシア(CSKA)、長友はイタリア(インテル)でそれぞれプレーしている。それにしても、2人の会話は、高橋の住む世界とはずいぶんと異なっているようだった。

「何、この会話、ヤバくない? ドラゴンボールの世界?」

高橋は、一緒にいた権田修一と思わず目を見合わせ、鳥肌が立っていた。







「6月の最終予選のときは、『神』だなって思いましたよね」

今野泰幸の目には、左ヒザの怪我から復帰した本田が一回り大きく見えていた(オーストラリア戦)。

「オレに寄こせ、何とかするから、という感じで、本当に心強かった。なんでもできちゃう」

高橋も「青の代表ユニフォームをまとった時、圭佑さんはメチャクチャ大きく見えるんです」と言う。










◎サラダとラーメン



「ここまでサッカーにすべてを捧げている選手を、私は見たことがない」

ロシアCSKAのスルツキ監督は、本田をそう称える。

「自分のキャリアを高めるために、あらゆることをしているんだ」



今野もまた、本田のこだわりを肌で感じている。それはピッチの外でもだ。

「試合のあとって、疲れてるから、好きなものを食べたいじゃないですか。だけど圭佑は『疲れた身体には、まずサラダからだ』って言うんです」

「この前も、ラーメンが出てきて、おかわりしたら、『今ちゃん、全然アカンわっ』て(笑)」



柔から剛へ、剛から柔へ。

ブラさぬ軸の外側の表情は、自分をそしてサッカーを高めるためならば、他人にどう思われようと構わない。

ときには口をまったく閉ざし、恐ろしく固い殻に閉じ籠る。



今の本田は、まさにそんな時。

「この約2ヶ月間、あらゆるメディアから本田の『声』が消えている(Number誌)」

怪我のために日本代表を離脱。ロシアCSKAからも一時離れた。

CSKAモスクワというチームは、ロシアのお国柄か、機密の管理が極めて厳重。本田はその秘密のなかにある。日本サッカー協会もCSKAに同調する形で、怪我に関する情報は一切漏らしていない。



「柔のホンダは封じ込められ、剛のホンダでバリアを張っている。ここまで本田が口を閉ざすのは、2010年南アフリカW杯以来だ(同誌)」

思えば、本田が世界へとブレークスルーしたのは、その沈黙の南アフリカW杯以降。

また、何かが起きようとしているのだろうか…?






◎無言



春の訪れたモスクワ。

空からはようやく、ぬくもりのある陽も差し込んでくる。



「ひとつだけ…」

Number誌で本田を追う番記者・木崎氏は、練習場から去ろうとする本田に追いすがった。

「自分も想像しなかったような進化が起ころうとしているんじゃないか?」



本田は無言。

だが、小さくうなずいた。

そして一言

「今、しゃべる時期ではないんでね」






◎帰ってくる



「圭佑は、すごく怒っていると思います」

日本代表・今野がそう言うのは、W杯アジア予選におけるヨルダン戦(3月26日)、日本が1-2で敗れたことだ。W杯出場を決めることもできたこの一戦、本田は怪我のために欠場している

「『勝ちグセをつけなければダメだ』って圭佑は常々言ってるし、『代表が負けたら、オレが出てなくても絶対に説教する』って言ってたから(苦笑)」



本田はかねがね「W杯優勝」を言ってきた。

有言実行、「絶対にやり遂げる男」が。

そのW杯は、いよいよ来年(2014)。



現在、沈黙の中にある本田は、繭の中で飛翔の時を待つサナギのような状態なのだろうか。

W杯アジア予選は、残すところあと2試合。6月4日にオーストラリア戦、そして同月11日にイラク戦。早ければ、オーストラリア戦に引き分け以上でW杯本戦出場が叶う。



そしてそのオーストラリア戦、本田圭佑は日本代表に帰ってくる。

あの金狼が…













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
「本田圭佑は3度、蘇る」
「本田圭佑 雄弁なる沈黙」
「私はホンダに攻撃の自由を与えている スルツキ監督」
「日本代表の本田像 今野泰幸・高橋秀人」
「本田圭佑と中田英寿」


2013年5月25日土曜日

錦織圭とレッド・クレー(赤土) [テニス]




「レッド・クレー(赤土)」のコートは滑る。

このタイプのコートは、ヨーロッパの選手には当たり前でも、日本人選手には特殊な環境。

「日本人選手にとって、レッド・クレー(赤土)は『最も難しいサーフィス(表面)』と言われる。球足は遅く、ボールは高く跳ねる。独特のフットワークも要求される(Number誌)」



マドリード(スペイン)で行われた大会は、このレッド・クレー(赤土)。日本人選手には不利と考えられた。

ところが、このコートで日本人「錦織圭(にしこり・けい)」は大金星を挙げた。世界ランキング3位の「フェデラー」に土をつけたのだ(日本人がつけられっぱなしだった赤土を!)。







「彼に勝つなんて…。しばらくは、この喜びに浸りたい」と、錦織は汗も乾ききらぬ記者会見で、その大きな喜びを口にした。

思えば2年前(2011)、スイス室内の決勝でフェデラーと対戦した錦織は、完敗だった…。



そして今回、マドリードでついにリベンジを果たした。「フェデラーは自分の憧れの選手。彼を倒すことが目標だった」と錦織は喜んだ。

負けたフェデラーも、「錦織のほうが良いプレーをした。強かった方が勝ったんだ」と、錦織のプレーを素直に称えた。

「強いサーブを持たない錦織は、クレーでは相手の強烈なリターンに苦労していたが、コースと球種をうまく打ち分け、フェデラーに自由に返球させなかった(Number誌)」



現在、世界ランキングNo.1は「ジョコビッチ」。

そのジョコビッチにも「圭(錦織)は、世界で最も才能のある選手だ」と言わしめている。

ただ、こう注意もした。「圭の敵は唯一、怪我だけだ!」







錦織圭は、わずか18歳という若さでツアー初優勝を成し遂げるほどに強さを持っていた。だが、2009年にヒジを痛めてメスを入れ、1年間のツアー欠場を余儀なくされてしまう。

あの時点で、普通の選手はカムバックできない。「ランキングを失ってから上位に返り咲きできる選手はほとんどいない」と松岡修造も心配した。

それでも、錦織は戻って来た。さらなる強さを持って!



現在、世界ランクトップ10以内にいる選手の平均身長は187cm。それに対して錦織圭は178cmと、10cm近く小柄である。

「そんな錦織が、時には5時間位上にも及ぶ試合で、約30km、ダッシュ・アンド・ストップを繰り返すことができる怪物のような選手を相手に戦わなくてはならない(松岡修造)」

世界で戦うテニス・プレーヤーは、年間約10ヶ月の海外遠征を強いられ、身体を休める時間さえないという。



さらに悪いことには、マドリードのようなレッド・クレー(赤土)のコートでは、とくに怪我をしやすい。

クレー・コートで幾度となく怪我に泣いたクルム伊達公子などは、最近、クレー・コートでの試合を意図的に避けているほどである。



日本人の苦手とするクレー・コート。だが逆に、このコートで勝てなければ世界トップ10は狙えない。

現在、世界ランク4位の「ナダル」は「クレーの殺し屋」とも呼ばれるほどクレー・コートに強く、今季は38戦中36勝という強烈な強さを発揮している。

ナダルをはじめとするスペイン勢にとって、クレー・コートは当たり前。そのサーフェス(表面)で育ってきたのだから。







錦織圭の世界ランキングは、現在15位。

世界トップ10に入るには、どうしてもクレー・コートでも勝てるような選手になれなければならない。

この点、レッド・クレー(赤土)のマドリードで、世界ランク3位のフェデラーを打ち破ったことは、世界トップ10への壁がグッと低くなったことを意味する。



そして、今月(5月)末から開催される全仏オープンもまた「レッド・クレー(赤土)」。

今季は一味違う錦織圭。

11歳の時から錦織を知っているという松岡修造は、「『錦織圭、世界のトップ10入り!』という見出しが今年8月までに紙面を飾る可能性は十分にある」と語っている。







(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
「世界トップ10を目指す錦織圭が戦う『敵』」
「フェデラー撃破の錦織圭 全仏の赤土にも手応え」

80歳で見たエベレストからの光景。三浦雄一郎




その瞬間、拍手が湧き起こった。

三浦雄一郎さん80歳、エベレスト完登。



「ヒマラヤが眼下に見えて、美しいです」

見上げても見えないほどの高い山を、上から見下ろす。

それは、その頂に立ったものだけに見える景色。



現地の気温は氷点下15℃。

風は不思議とほとんどなかったという。



若い頃にはスキーを志した三浦雄一郎さん。

エベレストの登山ルートをスキーで滑り降りたこともある。37歳の時だ。その記録映画「エベレストを滑った男」は、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞した。

冒険心旺盛な三浦雄一郎は、「世界7大陸の最高峰すべてをスキーで滑る」という目標を掲げ、53歳の時にそれを達成した。途中、南極大陸で雪崩に巻き込まれながらも(奇跡的に生還)。



「エベレストに登る」という新たな挑戦は、60代半ばで決意した。

だがその頃、標高500m程度の低山にさえろくに登れないほど、三浦雄一郎さんの体力は衰えてしまっていたという。

それでも一念発起。身体を一から鍛え直した。そして70歳。本当にエベレストの登頂を成し遂げてしまう。







さらに5年後、75歳でエベレスト2度目の登頂に成功。

気を良くして「80歳で、もう一度登る」と宣言。



ところが、76歳の時、三浦雄一郎さんは全治6ヶ月の大怪我に見舞われてしまう。札幌のスキー場で滑走中に転倒。骨盤と大腿骨の付け根を骨折してしまったのだった。

「再起不能になるかもしれない…」

さすがの三浦さんも、そこまで弱気になっていたという。



それでも2ヶ月半後には退院。医師たちを驚かせた。さらに半年後にはトレーニングを再開。さらに医師たちを驚かせた。

そして80歳となった当年。有言実行、3度目のエベレストの山頂に立ったのだった。

80歳での登頂は、5年前に76歳のネパール人男性が作った「世界最高齢での登頂記録」を塗りかえる大偉業。



「皆さん、本当にありがとう。これ以上ないぐらい疲れていますが、80歳でもまだまだいける。頑張って、頑張って、頑張ってたどりつきました」

衛星電話で登頂成功の連絡をしてきた三浦雄一郎さんは、そう話した。



その声を聞いて、待機していた家族らはホッと胸をなでおろす。

長女の恵美里さん(52)は、「またきっと、90歳、100歳になっても新しいチャレンジがあると思います」と笑顔をこぼす。

一方、妻の朋子さん(80)は、「とにかく後ろを振り返らない。夢の多い主人で(自分が)幸か不幸かわかりません(笑)」と冗談交じりに喜んだ。



三浦雄一郎さんとエベレストに同行していた次男の豪太さん(43)は

「(父は)フラフラしている」と心配していた。

さすがに体力的な消耗が激しく、下山開始後、一時は脱水症状にも見舞われたという。

回復を待って下山を再開。なんとか無事に第4キャンプ(C4)にまで到着。25日にはベースキャンプ(標高5,300m)まで移動する予定である。



そのベースキャンプに待つのは、長男の雄大さん(47)。

父・雄一郎さんはエベレストの山頂から「最強の登山家たちが、僕をここに引っ張りあげてくれた」と、心からの感謝を示したという。







(了)






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ソース:NHKニュース
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2013年5月24日金曜日

苦労人2人、2,000本安打の偉業。中村紀洋・谷繁元信 [野球]




「国民栄誉賞のW受賞がある5月5日だけは避けたいですね」

目前に迫る「2,000本安打」達成の前に、そう話していた「中村紀洋(なかむら・のりひろ」39歳。22年目の大ベテラン。



だが「不幸」にも、大記録達成はその日と重なってしまった。

しかし「幸運」にもこの日、部活動の都合でこの日しか見に来れない3人の娘の前での晴れ姿となった。

「フルスイングで放った2塁打」

「パパ、凄い!」と、娘から頬にキスされた中村に、最高のスポットライトが浴びせられた。



「バットを振れば、新たな道が拓ける」

その信念を、22年間貫き通した中村紀洋。

ドラフト4位で入った近鉄時代、連日バットを振り続け、「血マメが潰れ、痛くて手袋を脱げずに、バットを握って眠った夜もあった(Number誌)」。



ロサンゼルス(ドジャース)でも、バットを振り続けた(2005)。

しかし2010年、楽天に戦力外通告を突きつけられた中村は、表舞台から去らざるを得なくなる。それでも、バッティング・センターでバットを振り続けた。

「パパは、まだやれるよ」

3人の娘たちは、そう言って励ましてくれた。



そして2013年5月5日、横浜DeNAのユニフォームを来た中村紀洋。

通算2162試合目で、「日本通算2,000安打」を達成した(史上43人目)。







祝福してくれた人の波には、「谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)」42歳もいた。この日、谷繁も同様に2,000本安打まで、あと2本と迫っていた。

「お先に失礼します」

一足先に2,000本安打を達成した中村は、谷繁の祝福にそう答えた。



そしてその翌日

三男・朗くんの見守る神宮球場で、谷繁元信は2,000本安打を達成。

スタンドの朗くんは、「凄すぎる」と胸を張る。この日は、彼の誕生日でもあり、谷繁本人「どうしても決めたい」と言っていた日であった。



「7番・8番を打っている自分が2,000本安打ですから、積み重ねしかないでしょう」

そう言って、谷繁は笑った。



「オレは休むのが嫌いだ」といって、キャッチャー・マスクをかぶり続けた谷繁。キャッチャーとしては、野村克也、古田敦也に次いで3人目。

25年目の快挙であった。







(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
「ノリと谷繁 苦労人が刻んだ2,000本という偉業」