2015年4月30日木曜日

「世界5位」という看板の下で [錦織圭]



「It's just a number」

”ただの数字”、と錦織圭(にしこり・けい)は言った。

その数字とは、世界ランキング『5位』という数字だ。



そして迎えた2015全豪オープン

それは錦織が世界ランク5位という看板を背負って戦った、はじめての四大大会(グランドスラム)であった。1年前の錦織は、世界17位の第16シードで大会にのぞんだ。それが今年は、世界ランク5位の第5シードである。

「Kei is great! We love Kei's Tennis!」

国内にとどまらず、海外での人気も一挙に高まり、今大会、優勝候補の一角に挙げられていた。

松岡修造は言う。

「空港に降りた瞬間から、メルボルンはテニス一色だった。どこを見渡してもスター選手の写真が目に入ってくる。錦織選手はその中心にいた。圭はすでに "日本の錦織圭" ではなかった。世界の "Kei" になっていた」



かの悪童、マッケンローは言う。

「ニシコリが驚きをもたらすかもしれない」

世界ランク4位のナダルは、こう言う。

「Keiはトップ中のトップ選手だ。あとはグランドスラム(四大大会)で勝ちきるメンタルだね」







そうした喧騒に、錦織は戸惑いを隠さなかった。

錦織圭「僕はまだ5位になって数ヶ月しか経っていない。だから居心地が良くないんだ。慣れるには時間がかかる。経験が必要なんだ。いま5位にいることによって、正直、20位前後にいたころより考えることは多くなってきた。”5位という看板” を背負うのは簡単なことではないので」

記者から、すかさずツッコミが入った。

「じゃあ、世界ランクが何位だったら居心地がいいの?」

錦織圭「わからないけど…。まあ、15~20位ぐらいかな」

日本人らしいその謙虚さが、みなの笑いを誘った。とにもかくにも、錦織圭を取り巻く周囲の視線は、一年前とは一変していた。急成長した錦織圭。しかし、その双肩には世界5位という ”未知の重圧” がずっしりとのしかかっていた。






全豪、初戦の相手は「ニコラス・アルマグロ(スペイン)」

かつて世界ランク9位にまでいった強豪で、錦織は「1回戦の相手ではタフさランキング、トップ」と警戒していた。最初のゲーム、錦織はいきなりブレークを許してしまう。その後に挽回して第1セットを奪うも、錦織から硬さは抜けない。第2セットも先行を許しながらの逆転。第3セット、アルマグロは戦意が萎えたか、ミスを連発して自滅していった。



2回戦、対「イバン・ドディグ(クロアチア)」

昨年、錦織とは2度戦い、2度とも錦織がストレート勝ちした相手だった。しかし序盤、やはり錦織はリズムをつかめない。果敢にネットに詰めてくるドディグに第1セットを奪われた。それでも、つづく3セットを連取した錦織。ようやくギアが上がりはじめた。



3回戦、「スティーブ・ジョンソン(アメリカ)」

またも第1セットを落としてしまう。硬さがほぐれたのは第2セット以降。いつもの「技のデパート」を披露した錦織は、本来のリズムを取りもどして勝利を収めた。



”立ち上がりに暗雲が垂れ込めかけても、次第に雲間から光が差し込み、終わってみれば晴れ間が広がっている。それが3回戦までの展開だった(Number誌)

錦織自身、立ち上がりのぎこちなさを認めていた。

錦織圭「すこし硬くなって、自分から打っていけなかった。気持ちの問題がある。でも、そんなに最高のプレーでもない割にしっかり勝っているのは、いい出来だと思います。四大大会(グランドスラム)では、内容よりも勝つことが第一なので」






いよいよベスト16

4回戦の相手は、野獣「フェレール(スペイン)」

錦織圭「本当に、彼とやる前は、けっこう恐怖なんです。身体を最後まで壊されて戦うので」

ツアー屈指のスタミナを誇る「鉄人」フェレール。錦織は昨季のマドリードで勝った後、大会途中で棄権に追い込まれた。パリでも日付が変わるまで死闘が続いた。



しかし終わってみれば、錦織のストレート勝ち。

錦織圭「フェレールに3セットで勝ててびっくりした!」

”4回戦は、雲一つない快晴。真夏のメルボルンに広がる青空のような圧勝劇だった(Number誌)”



その勝因を錦織はこう語った。

「リズムをつかみやすい相手だった。(3回戦までは)パワープレーヤーでリズムがつかみづらく、ラリーが続かないことが多かった。こうやってリズムがつくれる相手というのは、自然と自分のレベルも上がってくる」

忍耐強さや守備力なら、今の錦織はツアー屈指。ストローク戦が長引くほどに勝機は高まる。しかし逆に言えば、「Kei 攻略」のカギはそこにあった。

松岡修造は言う。

「それぞれの選手が、自身本来のテニススタイルではなく ”Kei 対策” を施して挑んできた。完全なる攻撃テニス。圭のセカンドサーブになると、迷いなく攻めてネットについてくる。ストロークで120%強打を含め、とんでもない攻撃を仕掛けてきたのだ。それによって圭はどうなってしまったか? ”リズムをつくらせてもらえなかった”。」






いまや世界ランク5位の錦織は、世界の実力者たちから徹底的にマークされる立場におかれている。もはや錦織はチャレンジャーではない。かの強豪たちこそが錦織へのチャレンジャーなのだ。当然、相手は周到な準備をして、錦織の強みを封じてくる。

準々決勝で当たった「ワウリンカ」もやはり、徹底した ”Kei 対策” を施してきた。異名「スタニマル(名前のスタンとアニマルの合成語)」と呼ばれるワウリンカ。肉食獣ばりの闘争心で錦織に食ってかかってきた。

”ワウリンカが周到な準備で臨んでいたのは明らかだった。ワウリンカはパワーを誇示するかのように打ちまくる。最高時速222kmのワウリンカのサーブに錦織は手を焼き、コートに返球できたのは全体の54%にとどまった。ワウリンカのパワーがつくった奔流に飲み込まれた錦織は、8強で大会を終えた。この大会で錦織は、実力者がチャレンジャーとして牙をむく恐怖を味わったに違いない(Number誌)”

この大会を通じて、錦織は試合の前半にリズムを崩されていた。そこをワウリンカも突いてきた。”ケイにリズムを与えたらやられてしまう”と。



「Hey !  What's happening to Kei !」

”圭はどうしちまったんだ?”

松岡修造は会場で、そう声をかけられた。声の主はマッツ・ビランデル。かつて四大大会(グランドスラム)を7度まで制覇したスウェーデンの英雄だ。

マッツ・ビランデル「ケイには明るい未来があるよ! あとはグランドスラムで勝ちきるメンタルだけだね!」






錦織は、大会をこう振り返った。

「いろいろなことを考えてしまい、平常心でいることができなかった。これから格下の相手とやるときに、どれだけメンタルを強くもってテニスができるか。それがずっと課題になる。はやくメンタルの強さを手に入れたい」

父・清志さんは、こう言う。

「下位との対戦では横綱相撲をとりたいんだろうけど、まだ横綱じゃないから苦しむんですよ。彼は ”積み重ねていく人間” なので、(世界ランク5位に)慣れないものは慣れないんですよ。慣れなくてもできる人はいるかもしれないけど、彼にはできないんです。それがアイツの良さでもあるし。だから、少しずつだと思うんですよ。積み重ねて、それを咀嚼して、そのうちにどこかで伸びる時期が来るんじゃないかと思う。彼は理由もなく適当に伸びていくタイプではないんです。今回はそこに向かう第一歩なのかな、と」






ATP(男子プロテニス協会)の世界ランキングには、2,000人以上のプレーヤーたちが名を連ねている。錦織の5位という数字は、そのピラミッドのほぼ頂点。

だがその積み上げたポイントも1年後には消えてなくなってしまう。それは輝かしくも空しい、”砂上の楼閣” 。その地位にとどまり続けるには、崩れる砂を積み上げ続けるよりほかにない。



2015年の全豪オープンを制したのは、世界ランク1位の「ノバク・ジョコビッチ」。オープン化以降では歴代最多となる5勝目だった。

”ラリーが駄目ならネットに出る。フィジカルが駄目ならメンタルで粘る。相手より勝っている部分を少しでも探し、対抗し、しぶとくチャンスをつかむ。つねに揺れ動く試合の流れのなかでジョコビッチはそれができる。そこが世界ナンバーワンの強さであり、錦織をふくめた若い挑戦者たちにも求められる資質なのかもしれない(Number誌)”





 ジョコビッチは言う。

「本当に小さなディテールが厳しい試合の勝敗を分ける。何度も何度も壁にブチ当たった。自分を信じられず、無理かもしれないと思った日々。ただ最後は、信じ続けるしかなかった」

いまはピラミッドの頂点に立つジョコビッチ。

しかし10年前、彼は初出場した2005年の全豪オープンで1回戦負けを喫している。たった3ゲームしか奪えなかった。それが今は堂々たる王者である。



そのジョコビッチが言う。

「Keiのランキングは5位だが、間違いなく世界一だと言っていいテニスだ。彼の時代はこれからだ」

昨季、錦織はこの絶対王者を相手に勝利をおさめている。



『スコットランド・オン・サンデー』の女性記者、ラムジーは言う。

「才能はまちがいないし、時間の問題よ。ケイはユーモラスで、自尊心みたいなものが全くないのがいいわね」










(了)






ソース:Number(ナンバー)871号 ジャパンクライシス 日本サッカーはなぜ弱くなったのか? (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
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2015年4月29日水曜日

家に卓球場、卓球家族と石川佳純



石川佳純(いしかわ・かすみ)

テニスの錦織圭が世界ランク5位で、日本に大ブームを巻き起こしているが、テーブルテニス(卓球)の石川佳純は「世界ランク4位」である。





彼女は卓球家族に育った。

父・公久さん、母・久美さん。2人は同じ大学の卓球部。それが縁で結婚した。だが2人とも、結婚してからラケットを握る機会はなくなっていた。父・公久さんが広告代理店の営業マン、いわゆる企業戦士になったからだった。

転機は山口市に引っ越してから。卓球の盛んな地域で、周りから勧められてラケットを握った。じつに7年ぶりの卓球だった。当時、未来の石川佳純(かすみ)はまだ2歳の幼子だった。



母・久美さん「娘が将来どんな人間になるかは、私次第だと思ったんです。だから、自分の時間はすべて子供に捧げよう、と」

久美さんは「子育てが何より大事」と、赤ちゃんの頃から佳純を1分以上泣かせることはなかったという。1歳からフラッシュゲームを使った知育教育を、2歳から公文、3歳から水泳とピアノ、バレエを習わせた。



家事と育児に忙殺される中、母・久美さんは自分の卓球にも手を抜かなかった。現役復帰を決めた以上は「1位になりたい」という闘争心が燃え上っていたからだった。国体出場を目標に、日々の練習に励んでいた。

夢中で白球を追う母。それを横目で見ていた娘・佳純(かすみ)。お絵かきしていた手を休めて、こう言った。

石川佳純「私にも卓球を教えて」

小学校1年生のときだった(1999)。



母・久美さんの返答は意外なものだった。

「遊び半分だったり、すぐ飽きてしまうなら、やめておきなさい」

実際、久美さんに「遊びで卓球をする時間」などなかった。久美さんはすでに国体選手になっていた。

「”教える” ってことは、ママの大事な練習時間を佳純にあげることなの」

それでも佳純はひるまない。まっすぐな目で母を見つめて、強くこう言い切った。

石川佳純「必ず、やり続ける」



正直、「困ったな…」と母・久美さんは思った。

「その頃は、次女の梨良も生まれてテンテコ舞いでしたからね。でも、子どものリクエストには応えてあげたいから、自分の練習時間を佳純のために使うことにしたんです」

父・公久さんは言う。

「国体選手として周りから讃えられる妻を見て、子供心に『かっこいい』と思ったんじゃないですか。だって、『卓球をやりたい』と言い出したのは、妻が国体に出場したすぐ後ぐらいでしたから」






当初、佳純の練習時間は10分だけだった。

それが段々、20分になって30分になった。佳純はおもしろいほどに吸収が早かった。だから母・久美さんも、教えることが面白くなっていったのだった。

練習をはじめて3ヶ月、佳純が7歳になった時、両親は「赤いユニフォーム」を誕生日のプレゼントとした。その晴れの衣装を身にまとった佳純は、はじめて卓球大会に出場した。いよいよ天才少女が世に羽ばたく時が来たのであった。



なんと、山口県でいきなり2位。全国大会への出場を決めた。

「親が言うのもなんですが、佳純は間違いなく "天才肌"。教えたことををすぐに覚えるのはもちろん、教えていない技もできた。たぶん、私の練習を見ていて頭に入っていたのかもしれません。とにかく飲み込みが早かったんです」






佳純が小学校3年生になった時、父・公久さんがとんでないことを言い出した。

「卓球場のある家を建てたい」

当時、卓球に夢中になりはじめた佳純を、母・久美さんは防府市のスポーツセンターにまで送り迎えをしていた。往復で2時間はかかった。下の娘・梨良はまだ手のかかる5歳。そして久美さん自身は山口県代表の国体選手として活躍している最中であった。

そんな久美さんを見かねた公久さん。「練習場付きの一軒家を建てれば、すべてが解決できる」と踏んだのだった。



だが母・久美さんは気が気ではなかった。家に卓球場を備えるとなると、柱を減らして広い空間を確保しなければならない。となると、躯体を重量鉄骨にしなければならない。当然、建築コストが大幅にかさんでしまう。住宅ローンが心配だった。

不安がる久美さんに、公久さんはこう言った。

「僕が卓球教室を開いて、少しはローンの足しにするから」

しぶしぶ承諾した久美さん。だが、そうはいかなかった。

「夫の『早く帰るから』は口だけでした。生徒は集めたものの、夫の帰りが遅いので、結局わたしが子供たちの指導をすることになったんです(苦笑)」




”表向きは普通の一軒家。40畳もの卓球場があるとは、とても思えない。だが、玄関を開けるとすぐに、広い空間が目に飛び込んできた。そこには卓球台が2台。もし、家を建てるとき、両親が「卓球場をつくろう」と考えなければ、日本卓球界の躍進は今ほど望めなかったかもしれない(Number誌)






家が新築されたとき、石川佳純は小学3年生だった。

その当時の憧れは、女子卓球界の絶対的王者「王楠(ワンナン)」。自宅での練習が終わると、2階の自分の部屋で彼女の試合のビデオを繰り返し見ていた。



小学4年生の頃の思い出を、父・公久さんは語る。

「小学4年のときに、ベスト8を狙っていたけど負けたんです。そのときの佳純の悔しがり方は半端じゃなかった。普段は緊張もしないし、ひょうひょうと試合をこなすタイプなんですが、そのときは違いましたね。『1位以外は負け』と断言するところは、女房そっくりでした」

小学5年生になると、佳純はもう国体選手の母を打ち負かすほどになっていた。



「オリンピックに出たい」

そう佳純が口にするようになったのは、その頃からだった。

オリンピックがどれほど遠い場所にあるか、選手であった母・久美さんは身をもって知っていた。それでも娘がそこを目指すと言うならば、何が何でもサポートしてあげたかった。どんなに日々の生活が忙しくとも。

「娘が夢をもった以上、その夢を後押ししてやるのが親の役目」



家事、育児、練習、レッスン…。主宰していた山口ジュニアクラブ、久美さんの指導が評判を呼んで、子供のみならず大人の入門者もあふれていた。昼食はいつも立ったまま食べた。

「主人が早く帰ってきてくれれば『5分でも横になれるのに』と思っていたけど、主人は会社人間。悩むヒマも、怒る余裕もありませんでした」

父・公久さんも、早めに帰宅したときは、どんなに疲れていようと佳純の練習相手になった。

「佳純の強みは攻撃と言われるんですけど、僕は密かに "ブロックがいいからだ" と思っています。小学校低学年のときから "ショートせいっ" って、僕の強い球を打ち返す練習をさせていましたから」






”地獄の特訓”

それが佳純の才能を開花させた、と母・久美さんは言う。

福岡と山口を代表する強豪中学生らが集まる合同練習が、毎月一回おこなわれていた。土日の2日間で50試合をこなす。普通なら根をあげてしまうような猛特訓に、佳純は小学校4年生のときから参加し続けていた。

「土曜日は朝8時から夜8時まで。日曜は朝8時から午後5時。そのあいだ休憩はなく、15分で昼食をとらなければならない。私語も許されず、ピリピリした雰囲気のなかで試合をやり続ける。あの練習で根性が鍛えられたのかもしれません」

天才肌の佳純はもともと "繰り返しの基礎的な練習" が嫌いだった。そういう練習をいかにして佳純にさせるか、母・久美さんは困っていた。そこに、この合同練習があることを聞きつけたのだった。試合なら佳純は大好き。自然と基礎も磨かれた。

「たぶん、あれだけ苦しい練習はもう経験することがないと思います。でも、子供の頃にそんな経験をしておくと、大人になってどれだけ苦しいことがあってもスッと乗り越えられる。実際、佳純は今でも『あの練習が一番きつかった』と言いますから」



メキメキと腕をあげた天才少女・石川佳純。

大人を打ち負かすことが面白くて、ますます卓球にのめり込んでいった。ときに、その強さを鼻にかけ、天狗になることもあった。

「卓球のスキルのことで娘を怒ったことは一度もないですけど、鼻が高くなったり、練習態度が悪かったりした時は、ガツンとやりましたね」

現在、日本トップの座に就きながら、つねに謙虚な石川佳純。天狗の鼻をポキンと折られた少女時代もあった。






卓球家族から、巣立つときが来た。

12歳のとき、ミキハウスから勧誘を受けた。

「ミキハウスの大嶋(雅盛)先生に、何か佳純に感じたものがあったらしく、すぐに声をかけていただきました。『一度、ミキハウスの練習環境を見に来て欲しい』と」

その練習環境は驚くほど良かった。オリンピック経験者もそこにいた。俄然、佳純の目は輝いた。

「佳純がもっと上のクラスに行くには、やっぱり環境が大事。もちろん親として娘に教えたいことはまだありましたけど…。なにより、佳純が行きたがっていたので、反対する理由は何もありませんでした」

両親には寂しくも、佳純は大阪へと旅立ち、中学校の寮生活に入った。



全日本クラスの選手らに揉まれた佳純は、みるみる腕を上げていった。

2007年、史上最年少(13歳)で全日本選手権ベスト4に入ると、そのまま世界選手権の代表に選ばれた(史上最年少)。2009年の世界選手権ではベスト8.2010年の全日本選手権では、ジュニアの部で史上初の4連覇を成し遂げた。






そして記憶の新しい、ロンドン五輪での大活躍。

シングルスでは日本勢史上最高の4位入賞。

団体では日本卓球界史上初のオリンピックメダル(銀)を獲得した。


”これまでの日本人選手は、鉄壁の中国勢をなかなか崩せないでいたが、ロンドン五輪シングルスで4位につけた石川佳純が、昨年(2014)はワールドツアー・グランドファイナルに優勝するなど、確実に世界トップの一角に食い込んでいる(Number誌)







「佳純が、現在のコーチに、”パパは風邪をひこうが熱があろうが、絶対に仕事を休まず本当にすごかった" と話していたらしいんです。僕も娘たちに "背中" を見せられていたのかな」


「子供は親の所有物じゃない。子供を授かってから、"ひとりの人間" として接しようと準備していました。子供の能力を "親のモノサシ" で決めては駄目だと思うんです」






(了)






ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
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2015年4月28日火曜日

「僕を導いているのは努力だけだ」 [C.ロナウド]



クリスティアーノ・ロナウド
Cristiano Ronaldo (Portugal)

彼はバロンドール授賞式の日、いつになく固い表情をしていた。

C. Ronaldo「毎年同じで、封筒を開いて受賞者の名前が呼ばれる瞬間が一番緊張する。ああ、正直に言うと、ちょっと不安だった」

バロンドール(Ballon D'or)とは、FIFA(国際サッカー連盟)の選出する最優秀選手賞。年間を通じて優れたパフォーマンスを見せた選手が選ばれる。ロナウドは過去2回、その栄光に輝いていた。

C. Ronaldo「僕は生来のオプティミスト(楽観的な人間)で、自分に自信をもっているタイプだけど、確信はまったくなかった。だから、もの凄くドキドキした」





去年(2013)、FIFAバロンドールを受賞したのはロナウドだった。トロフィーを受け取った瞬間、感に耐えて涙を流した。

そして今回(2014)、2年連続の受賞が決まると、ロナウドは ”雄叫び” をあげた。

C. Ronaldo「間違いなく勝利の雄叫びだった。ゴールを決めたり勝利が決まった瞬間に、僕らがチームでいつもやっている雄叫びだった。チームメイトと喜びを分かち合い、彼らとともに獲得したトロフィーであることを示したかったんだ」






ロナウドは昨季春ごろ、左ヒザに深刻な怪我を負った。ブラジルW杯も、その膝を抱えたままの出場となった(ポルトガル代表)。

C. Ronaldo「選手はそういう局面によく直面する。完治しきらないうちにプレーを再開せざるを得ないのは、宿命といっていい。僕らは毎日トレーニングをして、3日おきに試合に出なければならない。それを続けて関節が悲鳴をあげていた。それをそのまま、ずっとプレーを続けるのはけっこう厄介だった」

ブラジルW杯、ポルトガルはグループGの予選リーグで、ドイツ、アメリカに次いで3位(勝ち点はアメリカと同点)。惜しくも決勝トーナメント進出を逃した。

C. Ronaldo「後悔はない。ものごとは、なるようにしかならないわけだから。自分がリスクを冒していたことはわかっていた。『負傷してプレーできない。だからバカンスに行く』と言ったほうが、たぶんずっと簡単だったかもしれない。でも僕はそういう人間じゃない。僕には野心がある。だからポルトガルが、できる限り先に行けるように、全身全霊を捧げて貢献したかった」



じつは今回のバロンドール、ブラジルW杯で優勝したドイツのGK、ノイアー、そして準優勝したアルゼンチンのメッシの名前も挙がっていた。

C. Ronaldo「率直に言って今年は、ほかの2人の候補者、メッシとノイアーも堂々たる勝者だったと思う。W杯を制したノイアーは素晴らしいシーズンを送った。メッシは年の始めこそ難しかったけど、W杯ではとても良かった。誰が勝ってもおかしくなかった」





 ロナウドとメッシは、常に競争関係にある。

C. Ronaldo「メッシが僕のモチベーションの一部をなしているのは間違いない。メッシはバロンドールを4度獲得し、僕は3回獲った。長年にわたって僕らはトップであり続けている。記録したゴールだけでも凄い数になる。誰も僕らには近づけない」

過去のバロンドール受賞歴
2014 1位 ロナウド 2位 メッシ
2013 1位 ロナウド 2位 メッシ
2012 1位 メッシ  2位 ロナウド
2011 1位 メッシ  2位 ロナウド
2010 1位 メッシ  2位 イニエスタ
2009 1位 メッシ  2位 ロナウド
2008 1位 ロナウド 2位 メッシ





2010年にロナウドは第一子、長男を授かっている。

C. Ronaldo「彼が生まれて僕は落ち着いたし、性格も少し穏やかになった。心理的に平静を保ち、感情を抑えられるようになったんだ。サッカーに関しては、違いはほとんどない。成功したい気持ちに変わりはないからね」

クリスティアーノ・ジュリオール、彼の息子の育つ環境はかなり特殊だ。

C. Ronaldo「大きな家と高級車を何台ももつ父親との暮らし...。簡単ではないけれど、彼には人生は複雑であることを分かってほしい。努力が必要だし、気高く、尊敬される人間になるべきだ、と」





ロナウドは現在、スペインの名門サッカークラブ「レアル・マドリー」に籍を置いている。

C. Ronaldo「レアルで言い訳は許されない。僕らは絶対に負けられないんだ。ひとたびピッチに立てば、どんなときでも優れたパフォーマンスを発揮しなければならない。世界最高のクラブでプレーするのは、そんな過剰なプレッシャーを背負うことでもある」





C. Ronaldo「レアルの一員として獲得すべきタイトルはたくさんある。リーガやCL、国王杯…。僕にとって最も重要なのは、チームのために貢献することだ。クラブは第二の家族で、勝利を求めて一つにつながるべきものだ」

ロナウドはリーガの得点王であるばかりか「アシスト王」でもある。

C. Ronaldo「僕は年ごとに進化している。将来、僕の最高のパフォーマンスが、得点ではなくアシストになるかも知れないと、誰が予測できるだろう。誰も一人では勝てない。利他主義こそが不可欠だ。だが、これまでの僕は、たぶん自分のことばかりを考えていた。今は違う。チームのために働ける選手になった」


 


C. Ronaldo「与える者にこそ与えられる、ということを僕もようやくわかった。僕は自分の役割を全うしたからこそ、(バロンドールを)獲得できたんだ」



C. Ronaldo「膨大な努力なくして物事はうまくいかない、と謙虚に理解すべきだ。僕を導いているのは『努力』だけだ。それがすべてさ」










(了)






ソース:Number(ナンバー)871号 ジャパンクライシス 日本サッカーはなぜ弱くなったのか? (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
クリスティアーノ・ロナウド「与える者にこそ与えられる」



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2015年4月24日金曜日

美声の吹く大相撲 [呼出・秀男]



秀男「『いったい日本てどういう国なんだろう』なんてことを考え出したら、伝統のある世界が面白く見えだしたんだよ」

高校卒業後に大相撲の世界に入った。時は全共闘時代。紛争を起こす大学に行くことに疑問を感じての決断だった。

秀男「実際に相撲をとるつもりは、もちろんない。やるなら行司か呼出(よびだし)。でも行司は型みたいなものに縛られる気がして、呼出のほうに魅力を感じたんだ」

呼出(よびだし)とは、大相撲で取り組みの際、力士の名前を呼び上げる者。行司と違い、下の名前しかない。






入門したのは伊勢ケ濱部屋。

秀男「巡業なんかで先輩から教わるんだが、手取り足取りなんてことはない。自分の場合は、橋の上でひとりでよく練習したね」

伊勢ケ濱部屋は隅田川の向こう岸にあった。歩いて橋を渡りながら声を張り上げた。

「部屋のなかで大声を張り上げるわけにはいかないけど、橋の上なら車がたくさん通るんで、声を出しても気にならない」

腹から声を出した。隅田川の川風が秀男の声を鍛えた。



しかし、ただ大きな声を出せればいいというわけではない。

先輩から言われた。

「おまえの呼び上げはプツンと切れるね」

声に伸びがなく、余韻に乏しいというのだ。

秀男「演歌で『コブシを回す』っていうでしょ。そういう工夫をしてみた。山なら『や』の部分を少し伸ばして回すようにする。そういう稽古をつづけたら、『良くなった』って言われたよ」

力士のしこ名は多彩だ。むずかしい名前もある。

秀男「昔から『5文字は呼びやすい』といわれていたね。逆に難しいのは『ん』が入るもの。とくに最後に『ん』が来るのは厄介だね、音が伸ばせない。『栃ノ心(とちのしん)』なんてのは苦手だったね、本人のせいじゃないけど」



奔放な秀男はタバコも吸うし、酒も飲んだ。カラオケも大好きだった。

秀男「カラオケを歌いすぎて、声が出なくなって苦労したこともあった。タバコは幕内土俵入りのあと1本吸って、あとは結びが終わるまでは吸わない。それくらいかな」

小柄な身体に、柔和な表情。秀男は好角家のみならず、力士からも愛された。朝青龍と会うと、いまだに声をかけられるという。



去年(2014年)の九州場所

秀男はそれ限りで定年を迎えた。結びをさばく行司を「立行司」というが、結びを呼びあげる呼出を「立呼出」という。秀男はじつに11年間もトップとして結びの土俵に立ち続けたことになる。

秀男「(結びの一番は)ずいぶんとやりにくかったよ、両横綱よりも自分への歓声が妙に大きくてね」

優勝した白鵬はむしろ、引退を迎えた秀男に花束を手渡した。













(了)






ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
立呼出・秀男「川風で鍛えた美声」



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