オリンピック会場でシャンパンを「一気飲み」。
それは長野五輪で金メダルを獲った「里谷多英(さとや・たえ)」。スキー・モーグルの選手である。
「金メダリストが『その場で祝杯をあげた』のは、初めてではなかったか…(Number誌)」
彼女が初めてオリンピックに出たのは、まだ高校生の頃(リレハンメル)。
「高校生なのに緊張した様子もなく、果敢にコブを攻めて11位になった(同誌)」
長野で金メダリストになった後、ソルトレークでは「銅メダル」を獲得。
「前々シーズンの骨折などで、好成績は無理だろうと思われていたが、ケガに強い肉体的なタフネスぶりを見せつけた(同誌)」
4度目のオリンピックとなるトリノでは、15位。
「腰痛がひどくなったりして、出場さえ危ぶまれた中での15位だから、大健闘といってよい(同誌)」
このオリンピック前である、週刊誌に取り上げられるような「暴れ方」をして、自ら強化指定を外れたのは…。
先行きの暗くなりつつあった里谷多英。
その代わりに、メキメキ台頭してきた選手が「上村愛子(うえむら・あいこ)」であった。
「里谷には、上村を追いかけるメディアへの腹立ちや、上村への対抗心もあったのかもしれない…(同誌)」
それでも、里谷は自身5回目のオリンピックとなるバンクーバーのスタート台にも立っていた。
その決勝の滑走。
「メダルはほぼ無理という順位で決勝に臨んだが、猛烈に攻撃的な『暴走と紙一重の滑り』で第2エアまでブッ飛ばし、そこで転倒して終わった…(同誌)」
振り返ってみれば、予選11位から優勝した長野オリンピックでも、里谷の滑走タイムは上位選手中トップであり、「スピードが飛び抜けていた」。
彼女の自負は、そのスピードにあったといえる。
トリノ五輪のあと、里谷は「私はスキーがうまいから」と自信満々であった(結果は15位だったが…)。彼女の言う「うまさ」とは、取りも直さずその「スピード」にあったのだろう。
「スキーもスケートも板やブレードのような『スピードを増幅させるモノ』の上に乗って競技をする。地上から離れた異次元のスピードの世界で、いかにコントロールを失わずに、しかも人より速く動けるかが冬の競技の基本的な構図だ(Number誌)」
里谷の誇るスピードは、「冬の競技の本質」に他ならない。エアなど演技の得点は二の次だったのだ。
今年の里谷多英は、もう36歳になっていた。
それでも彼女は、来年のソチ五輪を視野に入れていた。
「それを聞いたとき、『そんなの無理だろう』と考えていたが、彼女は本気で準備をし、その前段階であるワールドカップ出場を狙っていた(同誌)」
しかし、彼女は自覚した。
自分の「うまさ」が、その水準に届かなくなってしまっていたことを…。
そして今年2月、里谷は猪苗代で「ラストラン」に臨むことになった。
その前日の引退会見、里谷は「あまり良い滑りはできないと思う…」と自信がなかった。
その言葉は現実にもなった。コース途中からスタートしたラストラン、里谷はエアでバランスを崩す「冷や汗のゴール」。
「ひどい滑りを見せてしまってゴメンナサイ…」
最後に里谷は声を震わせながら、そう謝った。この言葉は、一緒に引退した男子選手がスポンサーやファンへの感謝を淀みなく述べたのとは対照的だった。
それはそれだけ、彼女がスキーの「うまさ」に最後までこだわり続けた証のような言葉であったともいえる。
冬季オリンピック日本女子初の金メダリスト、里谷多英。
そのラストランでは、懐かしき長野五輪で使ったゼッケンを着けていた。
滑走後、花束を手渡して抱き合ったのは上村愛子。「多英さんいてくれたおかげで、私もここまで強くなれた…」と涙なみだ。
詰めかけた大勢のファンは、ただただ温かい拍手を2人に送るばかり。
ゴールエリアで日本チームの選手全員に4度、胴上げされた女王・里谷多英。
「金メダルを首から下げた身長165cmの元エースには、依然として風格が漂っていたが、表情は涙に濡れていた」
今後は「とりあえず、フジテレビの方でOLとして働いていく」という里谷。
笑って、泣いて、別れを告げた…。
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/4号 [雑誌]
「『スキーがうまい』金メダリスト、里谷多英の最終滑走」
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