高校2年生でのオリンピック選出。
それは本人も驚く大抜擢だった。
ノルディック・スキーの「渡部暁斗(わたなべ・あきと)」は、長野県白馬村の出身。
小学3年生の時に白馬のジャンプ台で目にした長野オリンピック以来、「自分もオリンピックへ!」と志すようになっていた。
その渡部は、2006年のトリノ五輪に高校2年生という若さで出場することになる。
当時、渡部を大抜擢した理由を聞かれた河野孝典ヘッドコーチは、こう答えている。
「ひとつ聞いたら10のことができる選手であり、着実に積み上げることのできる選手です」
このコーチの言うとおり、渡部暁斗はオリンピック初出場以来、着実にその実力を積み上げていくことになる。
初オリンピックとなったトリノ(2006)は、個人スプリントで19位という結果に終わったが、2度目のオリンピックとなったバンクーバー(2010)では、個人ラージヒルで日本人選手中最高位の9位、団体戦では6位入賞を果たしている。
世界選手権での成績は、もっと凄い。
2009年の世界選手権(リベレツ)では団体戦のメンバーとして「金メダル」を獲得(日本勢として14年ぶり)。
昨シーズンは個人での躍進が目覚しく、4度にわたって優勝。総合2位に輝く。「着実な歩みを見せていた渡部の才能が、一気に花開いた」。この快挙は「キング・オブ・スキー」の異名を取った荻原健司以来のものであった。
キング・オブ・スキー「荻原健司」は1993〜1996年にかけてW杯個人総合「3連覇」。双子の荻原兄弟が牽引したこの1990年代、日本勢の活躍や凄まじく、世界で圧倒的な強さを誇っていた。
オリンピックでは2大会連続の団体金メダル(1992アルベールビル・1996リレハンメル)。世界選手権でも、1993〜1997年の3大会で、団体で2つ、個人で2つの金メダルを荒稼ぎしている。
この時代、ノルディック複合(コンバインド)は、まさに日本のお家芸となっていた。
ところが、この日本の圧倒的強さは「裏目」に出る。
国際スキー連盟は日本勢が不利になるようなルール改正を何度も実施。具体的には、日本の得意としていたジャンプのポイント比率が下げられ、クロスカントリーを重視する方向へと動いていった(ノルディック複合競技は、前半ジャンプ、後半クロスカントリーで競われる)。
日本勢の勝利パターンは、前半のジャンプで他選手をブッチぎり、後半のクロスカントリーで逃げ切るというスタイルだったため、ジャンプのポイントを下げられてしまうと、たちまち低迷の淵へと転がり落ちていってしまう。
「その後、個人は二桁順位が当たり前、団体でも表彰台は遥か遠いものになってしまった…」
低迷のさなかにあった2000年代、日本チームが起死回生を図らんと大抜擢した選手の一人が、当時高校生だった「渡部暁斗」。彼はジャンプよりもクロスカントリーを得意とする選手であった。
ヘッドコーチの見越した通り、渡部は着実に世界での順位を上げていく。W杯での個人成績は、47位(2006)から始まり、38位(2009)、18位(2010)、11位(2011)、そして昨季は総合2位にまで到達した。
昨季の渡部によるW杯・複合個人優勝は、荻原健司(キング・オブ・スキー)、高橋大斗、河野孝典に続いて4人目であり、日本勢としては「8季ぶりの快挙」。ついに日本チームは王国復活の兆しを見たのであった。
日本代表のヘッドコーチ河野孝典は、渡部を「もっとも質問してくる選手」だと言う。
その貪欲な探求心によって、新しい技術を一つ一つ吸収していく渡部。入社した北野建設には、ジャンプの先輩である竹内択や横川朝治氏らもいる(ちなみにキング・オブ・スキー荻原健司も北野建設だった)。
クロスカントリーよりもジャンプを苦手としていた渡部は、大先輩らと練習をともにすることにより、不得意だったジャンプでも着実な成長を遂げることとなった。
さて今季のW杯、渡部暁斗は5戦中4戦で10位以内と「安定感」は見せているものの、最高位は今のところ6位。「昨シーズンの躍進を考えれば、物足りない成績にとどまっている」。
「原因は明確だ。開幕前に2度、ジャンプスーツのルールが変わり、その対応に追われるなどしたため、ジャンプの調子が上がっていないのだ」
それでも渡部は「時間をかけて、コツコツ積み上げる選手」。きっと新ルールにもいずれ対応していくだろう。
そして、その先に待つのは…、ソチ五輪。
日本がノルディック複合王国として再興する日は近づいている…。
ソース:Number web
「ノルディック複合で金メダルを狙う! 渡部暁斗は荻原健司を越えるか?」
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