2013年7月30日火曜日

球場の神「審判」 友寄正人 [野球]


「子供の頃から、長嶋茂雄さんや王貞治さんより、『審判』の方がカッコ良く見えていたんです」

そう話すのは、友寄正人さん。勤続36年になるプロ野球のベテラン審判員。

「で、高校2年生のときに思い切って、『野球未経験者でも審判になれますか?』と県の高野連(日本高等学校野球連盟)の人に聞いてみたんです」



ん?

野球、未経験者?

そう、じつは友寄さんの野球経験は「ゼロ」に近い。中学では野球部に入部したものの、理不尽な厳しさに嫌気が差して、すぐに「帰宅部」に転落した。友寄さんの「選手としての経歴」は以上。



それでも、野球が見るのが好きだったという友寄さん。

「高校は、沖縄県の野球のメッカともいわれる奥武山野球場のすぐ隣で、授業が終わるとアマチュアの試合をよく見ていました。選手よりも審判目当てで(笑)」

そして、高野連(日本高等学校野球連盟)に問い合わせたのだ。「野球未経験者でも審判になれますか?」と。



高野連の回答は、なんと二つ返事で「OK」。

意外なことに、野球の審判になるには「野球経験は不問」。投手にボールが届くだけの肩の力さえありすれば「可」というのである。

審判には「高齢者」が多かったため、友寄さんのような若い高校生は「大歓迎だった」と友寄さんは述懐する。



めでたく審判となった友寄さんは、高校時代は土日中心、大学生になってからは「授業をサボって毎日のように審判に没頭していました」と話す。

野球の盛んな沖縄では、小中高大それに職域野球とクラブチームが数百チームもあり、毎日どこかしらで野球の試合が行われているのだという。

「早朝から日没まで、多い日は一日で5試合を裁きました」と友寄さんは言う。








凄まじい試合数の経験を積んでいた友寄さんに「転機」が訪れたのは、大学2年生の時。新聞のスポーツ欄で知った「セ・リーグ審判員の募集」に応募したのである。

試験会場は東京。早くもその晩には結果がもたらされた。

「きみに決めたから。2月からのキャンプにきてくれ」と電話でいきなり言われた。

驚いた友寄さん。「こんなに簡単に決まっていいのかと驚きました(笑)」



プロ野球の審判として正式に採用が決まると、友寄さんは大学を中退。1978年、弱冠19歳にしてプロの球場に立った。

一軍での球審デビューは8年目、27歳の時。

「最近では少なくなりましたけど、昔はベンチからの野次も多かったし、監督がすぐに抗議してきました。もちろん毅然とした態度で突っぱねますしたが」と友寄さんは語る。



プロ野球における「神」は、長嶋茂雄でも王貞治でもない。審判こそが「神」であった。

ストライクかボールか? アウトかセーフか? 「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」と公認野球規則にはある。また、「審判員の裁定に対して、異議を唱えることは許されない」とも規定されている。

審判の御宣託はかくも「絶対的」であり、グランドを彩るのは選手たちだとしても、それを司るのは審判なのである。



とはいえ、その神とて「一人の人間」である。

「実際のところは『しまった』と思うこともあります。人間ですから間違えることもあります」と友寄さんは素直に語る。

「もし、間違った判定のせいでゲームの流れが変わったとしたら…、そんな日の夜は眠れません。選手はエラーしても、サヨナラ・ホームランを打ったらヒーローになれます。でも、審判は間違えないのが当たり前で、ミスをしても挽回するチャンスがないのがつらいところですね(笑)」








現在55歳の友寄さんの肩書きは「シニア・クルーチーフ」。年間90試合ほどこなす。審判の契約は一年であるため、定年の58歳まで務められる保証はないという。

友寄さんの座右の銘は「いつも普通に」。

選手として野球経験が「ゼロに近い」からこそ、「客観的に」そして「普通に」裁けるのかもしれない。本当の神様だって人間の経験などないのかもしれないのだから…。













(了)






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2013年7月25日木曜日

悪夢の5年間をへて。野口みずき [マラソン]


2004年、アテネ・オリンピックの金メダリスト「野口みずき」。






その快走は翌年も続き、ベルリン・マラソンでは日本新記録で優勝(2時間19分12秒)。国内では敵なし、日本選手として初めて東京・大阪・名古屋の三大女子マラソンを完全制覇(2007)。








だが、その足は北京オリンピック(2008)を前にして、ピタリと止まってしまう。

「左足臀部の肉離れ」

それは北京五輪の本番をわずか2週間後に控えた、調整中の悲劇だった。



その悲劇を受け入れられなかった野口は、ここで痛恨の無理をしてしまう。

「北京オリンピックを前にしたら、自分の精神状態をコントロールできませんでした…」と本人は語る。

怪我の完治を待てずに動き出してしまったことが、左足首、両ヒザとさらなる故障の連鎖を引き起こす。泣く泣く欠場を表明するのはレース本番5日前のことだった。



「オリンピック2連覇の夢を奪い去った痛み」

塩をすり込んでしまったようなその傷は、なんとその後5年間にわたり野口を苦しめ続ける。

「まさに地獄のようでした…」と野口はその辛い日々を振り返る。

「人の目も気になり、顔を上げて走ることもできませんでした。被害妄想で沈んだところを人に見せてしまったり…、そんな自分が嫌いでした」



自己嫌悪の悪循環。

ガンバレと応援されても、「話しかけないで」と感じたり、のびのび活躍している選手を妬んだり…。

追い詰められて追い詰められて、いっそのこと「マラソンなんて辞めてしまおう」とも考えた。オリンピックでメダルも取ったし、日本新記録も出した。「このまま終わっても、いいんじゃないか…?」



「でも、カッコ悪い終わり方は嫌だったんです」と彼女は語気を強める。

「『カッコいい終わり方』で伝説を作りたいと思ったんです」



以来、無理をやめて、徹底的に怪我を治すことに専心。

そしてようやく今年1月、あの悪魔のような痛みが消えた。今までしつこく根をはっていた炎症がほとんどなくなったと診断されたのである。じつに5年ぶり、ついに永き苦悩から解放された瞬間だった。



今の彼女は明るい。

「今となっては、あの経験も財産になったかなって思えます。それまではガムシャラに走っていただけだったけど、今は走りながら自分の身体の異変に気付けるんです。足の声、体の声をしっかり聞いてコントロールできるようになったんです」

苦悩は彼女をランナーとしてさらに鋭敏にし、そして、人間的にも強さを増していた。



今年3月、生まれ変わった野口みずきは34歳にして、名古屋ウィメンズマラソンで3位と好走。8月にモスクワで開かれる世界選手権の切符を獲得した。

レース後、野口は「全盛期と同じような強気の走りができました」と笑顔でコメント。

世界選手権への出場は、じつに10年ぶりの快挙となる。








「野口さんにとって、マラソンとはなんですか?」と松岡修造は問うた。

野口はこう答える。「マラソンがどういうものか言えたら、私はもう満足して辞めると思うんですよね。わからないから、まだやってるんです」



カッコいい終わり方とは?

「年齢を超えて、ただ速いではなく、何もかもひっくるめて『強い野口みずき』で終わりたい。そして、自分を超えたい」

彼女は、心からの笑顔でそう言い切った。



「走った距離は裏切らない」

これは彼女の座右の銘である。

5年という長き潜伏期をへて、彼女はふたたび世界へ向けて走り出している…!













(了)






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2013年7月24日水曜日

記録よりも記憶に。新庄剛志、幻のホームラン3発 [野球]



日米通算225本のホームランを放った「新庄剛志(しんじょう・つよし)」。

「記録よりも記憶に残る男」と言われた彼には、記録に残らなかった「幻のホームラン」が3本あった。



その一本目は、阪神時代の1995年6月20日、横浜戦(横浜スタジアム)。

1点ビハインドで迎えた最終回の攻撃、新庄は大魔神・佐々木主浩のストレートを強振。

打球は一路、左中間スタンドに一直線…と思いきや、その白球は興奮したファンの振り回していた「応援旗」に包まれ、グラウンドに落ちてしまう…!



物議を醸した「旗にくるまれ弾」は、球審によって「フェンスオーバーではない」と判定され、無念の二塁打に。場内は騒然、怒った阪神ファンは次々とメガホンを投げ込み、太鼓までブン投げた。しかし判定は覆らず、阪神はそのまま敗れた…。

試合後、新庄は「入った、入らないはもういいです…」と、怒るよりも肩を落としていた。というのも、新庄の打球の行く手をさえぎった旗は、皮肉にも「新庄の応援旗」だったのだ。

旗を振っていたファンは「打球はフェンスの上だった…」と嘆くばかり…。ちなみにこの事件後、解禁されていた横浜スタジアムでの「旗振り」は再び禁じられることになる。新庄の幻のホームランがルールまで変えてしまったのだった。



次の二本目は、日本ハムに移籍した直後の2004年4月17日、千葉ロッテ戦(東京ドーム)。

珍しく右方向へと伸びていった新庄の打球は、フェンス際でファンが差し出したグラブにすっぽりと収まった。

そのため、その打球は「フェンスを超えていなかった」と判断され、二塁打にされてしまう。またまたファンの思いが熱すぎたあまり、そのホームランは「入っていたはず」と思わせたまま幻と消えることとなった。名付けて「ファン好捕弾」。








最後の三本目は、かなり異色である。

2004年9月20日、本拠地・札幌ドームのダイエー戦における「幻の満塁ホームラン」。それは「9対12」の3点を追う展開から同点、そして9回裏2死満塁という一打サヨナラの劇的なシーンで起こった珍事であった。

新庄の渾身の一振りは文句なくホームラン。その最高の逆転劇に、満員の札幌ドームは熱狂の坩堝(るつぼ)と化していた。



その完璧なホームランが、なぜ幻となったのか?

それは一塁にいた田中幸雄が興奮しすぎたためであった。新庄の一打に「頭が真っ白になった」というこの大ベテラン、喜び余って塁を回ってきた新庄に思わず抱きつき、そして抱き合ったままワルツよろしくクルクルと回転。

その瞬間、一塁の塁審は「アウト!」とコール。「走者が入れ替わった」と判断されたのであった。



嗚呼…、幻の満塁ホームラン…。

だが幸いにも、この試合は日本ハムが勝った。というのは、田中がアウトを宣告されるその直前、辛うじて三塁走者がホームを踏んでいたのだ。その結果、1点だけが認められ、試合は「13対12」の日本ハム勝利となったのであった。

試合後、せっかくのホームランを帳消しにしてしまった田中は恐縮しきり。だが、小さなことは気にしない新庄は素直にチームの勝利を喜んだ。そしてお立ち台では「今日のヒーローは僕じゃありません。…みんなです!」と叫び、満員のファンを狂喜乱舞させた。



ちなみにこの試合、球界を激震させたスト明けの一戦であり、この球界未曾有の危機に新庄は「ゴレンジャー」の被り物で仲間たちと札幌ドームに参上していた。

そして放った奇跡の一打。さらにそれは幻にされてしまうという「落ち」がついたというわけだ。



新庄はいつも「こうなったら面白いだろうな」とプレーしていたというが、そんな彼のサービス精神と童心が、一連の幻を見せてくれたのかもしれない。

珍事も笑いに変わる「稀代のエンターテイナー」新庄剛志、その真骨頂、あり得ない幻のホームラン3発であった…!













(了)






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2013年7月22日月曜日

ホームランと王貞治 [野球]



「ホームランは長打の延長線上にあるものだと、王さんは考えている」

ソフトバンクの会長秘書はそう言った。



「王さん」とは言わずと知れた「背番号1」、王貞治(おう・さだはる)。

一本足打法によって通算868本のホームランを打った「世界のホームラン王(世界最高記録)」。現在は福岡ソフトバンクの会長の任にある。








王さんは「ホームランが出ない試合って、なんか物足りないでしょ」と話し始める。「一振りでガラっと試合を変えられる快感。野球の華というのかな。野球を知らない人でもホームランでワーッと盛り上がりますからね」

王さんのホームランはどこかゆったりとしていた。「ホームランを打つ」というよりも「スタンドにボールを運ぶ」というような王さん特有の時間の流れ、達人ならではの。



「ボールを遠くに飛ばしたい。これは人間の本能なんじゃないかと思うんです」と王さんは言う。

「僕の場合は、小さい時から不思議とボールが飛んじゃったんです。遠くに飛ばすというのは、先天的なものがあるんじゃないかと思いますよ。自分が意図しない、何か生まれつきのものは感じていましたね」

本能としての「遠くへ飛ばしたいという欲求」、そして「生まれつき」のホームラン。王さんは最初っから「飛んじゃった」と言うのであった。



それでも、自分を「不器用だ」と言う王さん。一本足打法は「ホームランの打てる幅」を広げるための工夫だったと語る。

「ボールを遠くへ飛ばす確率を上げていくためには、ボールを人一倍しっかり見なきゃいけない。だから早めにバックスイングして、ボールが来るのを待ち構える形にする。いつでも打てるよという形をあらかじめ作っておくんです」

王さんの打撃コーチだった荒川博さんによると、一本足打法の極意は「ボールを待つ」、そして「ボールが来たら打つ」ということだった。







その「待つ形」を作るために、王さんは「素振り」を繰り返した。

王さんは言う。「荒川さんの指導は、素振りで体に再現性をつくっていくというものでした。朝から晩まで荒川さんに素振りをさせられました。一人だったら、ああいう練習は絶対にできなかったなぁ」

素振りというのは、実際にボールを打つティーバッティングよりも「しっかりした足腰」が求められる。というのは、ティーバッティングならばボールの衝撃がバットにブレーキをかけてくれるが、素振りとなると衝撃を吸収してくれるものは何もない。

「本当にしっかりした土台がないとおさまらない。振り終わった時にフィニッシュが決められない。空振り(素振り)の練習をした方が足腰を鍛えられる」と王さんは語る。

素振りが正しく振れた時、「ビュッ」という音がする、と王さんは言う。「ブーン」ではなく「ビュッ」。そして、インパクトの瞬間は「ピュッ」だそうだ。








バッティングの「極意」を聞かれた王さんは、こう答える。

「やはり、キャッチャーが『あっ』というようなミス、失投を逃さず打つことだと思うんです」

王さんは「四角いストライク・ゾーンの四隅」を打つことは「無理だ」と言う。

「四隅の球をしっかり打というというバッティングは、100年かかっても無理だと思います。だって、みんなが何でも打っちゃったらピッチャーがいなくなっちゃうじゃないですか」

そう飄々と言う王さんは、じつにサバサバしている。バッターの打率というのは2〜3割。逆にいえば7〜8割は打てない球なのである。王さんが待っていたのはその2〜3割、とりわけ失投、甘い球だったのだという。



王さんは言う。「いいバッターは、1球も甘い球がなかった時はサバサバしてますよ。『あ、いま打つ球なかったよな。この打席は自分が打てなくてもしょうがない』って」

そう割り切れる選手は良い成績を出す、と王さんは言う。逆に「速い球も緩い球も、高いのも低いのも何でもかんでも打たなきゃいけない」と考えている選手は、ますます打てなくなってしまうのだという。

「あきらめるというより、次に引きずらないということかな。だってバッターは7割はミスるんですから。これ、人生そのものじゃないでしょうか。どの世界でも結局、同じことだと思いますよ」と、世界の王さんは語る。

好機を待てるということは、未来を信じられるということか。








本能でやっていたという王さんは、「集中力が持続しないタイプだ」と自らを評する。

「僕はアバウトなところでやってるんですね。ゴルフなんかも集中力が持続しないからやっぱり上手くならない。ところが不思議なことに野球だけは持続したんですよ」と王さんは言う。

なぜ、野球だけが?

「やっぱり、ホームランの感触が最高だからです」

王さんはキッパリとそう言い切った。



「でも、今はもうその感触を忘れてしまったんです」と、王さんはバットを優しく撫でながら続ける。

「自分でどう打っていたかというのも、40年も経てば忘れちゃうものなんです。良い当たりをした時ほど、あんまり手応えがありませんからね。悪い当たりの時は痛かったりマメができたりしますけど」



「ホームランは皆さんの気持ちの中に残るだけで、本人の中には残らないんです」と王さんはバットを手にもったまま、少し寂しげに話す。

良いホームランほど感触がないというのも皮肉なら、それが他人の心にしか残らないというのも意味深いものを感じる。



「でも僕にとっては、それだけ夢中でのめり込むものがあったということが幸せなことだと思います」

自伝「野球にときめいて」によれば、王貞治868本のホームランのうち、600本は今は亡き奥様と一緒に打ったものだと語っている。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 7/25号 [雑誌]
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2013年7月18日木曜日

「2本の不思議なホームラン」松井秀喜 [野球]



日米通算507本ものホームランを放ってきた「松井秀喜(まつい・ひでき)」。

その中でも「332号」と「333号」の2本のホームランを打った時だけは、「不思議な感覚」に襲われたという。

「自分が打ったのに『何か違う力』が働いた感じのホームランでした」と松井は言う。



「332号」は松井が巨人のユニフォームを着て打った「最後のホームラン」。

それは2002年10月10日のヤクルト戦、東京ドームでの最終戦、8回の第4打席。マウンドには五十嵐亮太、彼は2年後に当時日本最速の158kmをマークする豪球投手。打席に立った松井はこの時、「シーズン50本塁打」に大手をかけていた。

「東京ドームの最後の打席。メジャー移籍とかそういうんじゃなくて、やっぱり49にいったから50本打ちたかったんです。打席に立っている時からちょっと違う感じでしたよね」と松井は振り返る。

そして6球目、150kmのストレートを松井は左中間スタンドに打ち込み、50本塁打を達成。史上8人目となる快挙だった。








そして「333号」はその翌年、巨人からアメリカ大リーグ、ニューヨーク・ヤンキースに移籍して最初に放った「メジャー1号」、しかも「満塁ホーマー」。

「やっぱり今でも、あの場面でよく打ったなと思いますよ、ホントに」と松井は言う。

4月8日のミネソタ・ツインズ戦の5回。ヤンキース4番のバーニー・ウィリアムスが敬遠されたため、松井がバッターボックスに立った時には満塁になっていた。



松井は言う。「満塁になった瞬間にスタジアムがすごい熱狂になっちゃって、『なんだ、これ!? とんでもないな!』と。ヤンキースタジアムは全く異質でしたね。空気の重さが違うという感じ」

一斉に総立ちになるヤンキース・ファン。猛烈な拍手と歓声と口笛の中、「マツイ・コール」が巻き起こる。

「ファンがつくるあの雰囲気を初めて経験してビックリしました。打席に立ったときには『ちょっとみんな、静かにしてよ』って、ホントにそう思いましたから(笑)」

あらゆる音がゴチャ混ぜになって、球場全体は物凄い喧騒に包まれていた。



そんな異様なムードの中、松井は珍しく普通の感覚ではいられなくなっていたという。

「最初は何かフワフワして落ち着かなかった。だからあの打席でフルカウントまでいったのが良かったんです。ボールを見ているうちにだんだん集中力が高まっていきました」と松井は言う。

そしてマウンドの右腕、J.メイズが投じた6球目は「甘いチェンジアップ」だった。



「引きつけて、完璧に打てました」と松井。

打った打球は、ライトスタンドに一直線。

「打って、見上げて『これ入るわ!』と思って…、覚えているのは、その辺まで。何か自分が打った感じがしませんでした」と松井は言う。

飛んでいく打球を見送ったあと、ベース一周をどう回ったのかも覚えていないという。



「本当にあんまりないですよ、そんな感覚って」と松井は言う。

「でも、この2本ってつながっているんですよ。巨人で最後に打ったのが332号で、ヤンキースでの1号が333号なんです。それも何かとても不思議な感じですね」

終わりと始まりの「不思議なホームラン」であった。






松井は昨季、20年間ホームランを打ち続けたバットを置いた。

そして振り返る。「プロになるような野球選手って、だいたい子供の頃はみんな『ホームラン・バッター』だったんですよ」

少年・松井秀喜もそうだった。だが、プロになってもずっとホームラン・バッターでいられるのは「ほんの一握り」だと松井は言う。

「僕は運良くずっとホームランへの夢を捨てずに済んだ。だから、メジャーに来てもそこは捨てたくなかったし、最後までずっと持ち続けていました。自分の中でのホームラン・バッターへの意識は最後まで萎えることはなかったです」








松井にとってホームランは「チーム」のためであった。それが野球選手としての松井を支えてきた軸だったという。

松井は言う。「ただホームランを打つだけのバッターだとは思われたくはなかった。チームのためにプレーすることと、自分がホームランを打つことのどっちが大切かと問われたら、チームのためですから」



だが、「不思議なホームラン」となった332号と333号だけは、結果的に「自分のため」に打ったホームランだった、と松井は語る。だから松井はずっと、この特別な2本を忘れることがなかった。

この2本を打った時に感じた「見えない力」、それはもう一人の松井だったのか…?













(了)






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2013年7月17日水曜日

異次元の場外ホームラン「トニ・ブランコ」 [野球]



「僕の中では、ケンカをしないということもプロフェッショナルである条件の一つなんだ」

横浜DeNAの「トニ・ブランコ」はそう言う。たとえ死球(デッドボール)を受けても、彼はそれを怒って態度に出したりしない。



打てば打つほど死球を当てられるブランコ。

Number誌「来日1年目、39ホームランをマークした2009年は14死球も受けた。打撃好調の今年もすでに死球は7個を数える。これはリーグトップの数字だ(7月3日現在)」



横浜の野手総合コーチである二宮至は、死球を当てられても怒らないブランコを別の意味で感心する。

「当てられて怒るってことは、インコースを嫌がっていることをアピールしてしまうようなものだからね。そうしたら相手はますますインコースを突いてくる。投げさせないためには怒らないことが一番だよ。トニは頭がいいから、それをわかってるんだと思う」

体つきや雰囲気は怖いイメージを漂わせるブランコだが、じつは性格温厚、寡黙で内向的だと二宮コーチは言う。ドミニカ生まれだからといってラミレスのように陽気なわけではないそうだ。

Number誌「笑うときも天に向かって『ハハハ』と哄笑するのではなく、ちょっと俯いて『ヘヘヘ』とはにかむ」




今季2,000本安打を達成したチームメイト「ラミちゃん」ことラミレスからは、学ぶことが多いとブランコは言う。

「ラミちゃんからは我慢することを教わった。日本の文化も日本の野球も、ゼロから学ぼうとする姿勢が大切だ、と。僕が会った中ではラミちゃんは一番頭のいい選手だと思う」とブランコは話す。

一方、大先輩ラミレスは「日本で活躍できる外国人選手と、そうでない選手の見分けはすぐにつく」と言う。「まずは日本に野球を教えにきたか、学びに来たか。それと食事でも何でも日本の文化に挑戦しようとしているかどうかだね」とラミレス。この点、ブランコは二重丸だそうだ。

出されたものは何でも口にするというブランコ。外国人が敬遠しがちな紅ショウガも今では大好物だ。一番好きなのは焼肉の牛タンで、タレに大量の塩とレモンとにんにく、それと胡椒を混ぜて5〜6人前は軽く平らげるのだそうだ。



アメリカでプレーしていたブランコが、日本に来て最初に戸惑ったのは「ピッチャーの独特のリズム」だったという。

ブランコは言う。「アメリカのピッチャーの方がシンプル。みんな同じような投げ方で、同じような球を投げてくる。でも日本人はそれぞれ投げ方も違うし球種も違う。3ボールになったらアメリカのピッチャーは99%、まっすぐを投げてくる。でも日本人はスライダー、チェンジアップ、フォークと何でも投げてくる。読みを磨かなければ対応できない」






昨シーズン、中日を実質「お払い箱」になったブランコだったが、横浜DeNAに移籍した今季は驚異的なペースでホームランを量産している(4月14本、5月6本、6月4本)。

ある野球ファンは「今年はブランコの場外ホームランを見に来ているようなもの」とビール片手に上機嫌。「去年までのDeNAは先制点を取られただけで終わりだと思ったけど、今年はブランコの存在が大きい。4、5点差つけられてもまだ期待がもてる」と話す。

確かに、去年のDeNAは完封負けが多かった。ところが今季、5月10日の巨人戦では最大7点差を逆転したほどに攻撃力が格段にアップしている。

Number誌「昨シーズン、6月までのDeNAのチーム本塁打数は24本だった。ところが今季は倍以上の57本のホームランが飛び出した。その約4割を叩き出したのが、中日から移籍してきたブランコである」



ブランコは自身のホームラン増加と「飛ぶボール」の関連には「ノー」と首を振る。

「ボールが変わったからといって、僕は何も変えていないよ」と言う。

よくブランコと比較されるのは、セ・リーグで熾烈なホームラン王争いを繰り広げている「バレンティン」。だが、バレンティンが「ライナー性の当たりでホームランをスタンド最前列ギリギリに放り込んだりする」のに対して、ブランコにギリギリのホームランはほとんどない。たとえボールの反発係数が増して数メートル飛ぶようになったところで、ブランコの130〜140m級の特大ホームランには関係ないのかもしれない。

バレンティンはこう言う。「僕はレベル(水平)スイング。ブランコは下から上。スイングの軌道がまったく違う」と。



まるで次元の違うブランコの打撃。放たれたボールの描く軌道はゴルフのドライバー・ショットを見ているような錯覚に陥る。

そのケタ違いのパワーの秘密を問われたブランコは、「競輪選手のように巨大に膨れ上がった両太もも」を自慢気に叩いてみせる。その丸太のような太ももを使えば、ボールを打ち上げることができるのだそうだ。

中日時代の広い球場と違い、横浜スタジアムは狭い。ブランコのパワーならばコンパクトに振っても入ってしまうという。



だが強打者の宿命として、ブランコには死球だけでなく「三振」が多い。

だがブランコは「それが野球」と意に介さない。「パワーヒッターは必然的に三振が多くなる。三振と同じくらいヒットを打てばいいんだから、全然気にしてないよ」と静かに微笑む。



ホームランを量産中とはいえ、そのペースは減少傾向(4月14本、5月6本、6月4本)。そんな時は「我慢」だとブランコは言う。

「悪い時ほど自分の気持ちをコントロールすることが大事。今は我慢の時期だよ」

外国人選手として初めて2,000本安打を達成した大先輩ラミレスも、やはり「我慢」を言っている。ラミレス同様、「教え子」のブランコも日本人以上に日本人的な匂いを感じさせる。



最後に、なぜホームラン王を争っているバレンティンに死球が少ないかという質問に対して、ブランコはこう答えた。

「たぶん僕のほうが恐れられてるからじゃないかな」

ブランコがヘルメットを目深にかぶって見せた瞬間、その魔神のごとき眼光に戦慄が走る。













(了)






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2013年7月16日火曜日

ネイマールの覚醒とブラジルの復活 [サッカー]



サッカー・コンフェデ杯でブラジル代表が優勝を見せる前まで、ブラジル国民は「懐疑的」だった。とりわけ、点取り屋である新10番「ネイマール」に対しては。

それも無理はない。ブラジル代表として初の国際大会となった2011年の南米選手権、ネイマールは4試合で「たったの2ゴール」に終わり、チームは準々決勝で敗退。翌年のロンドン五輪においても何も出来ずに決勝でメキシコに敗れている。

ブラジルのクラブチーム「サントス」では圧倒的なプレーを見せるネイマールであったが、ブラジル代表のユニフォームを着た彼のパフォーマンスは「何とも物足りなかった」。



「なぜホームでプレーしているのに、ネイマールにブーイングが浴びせられるのか? 私には理解ができない」

ブラジル代表のスコラーリ監督は、コンフェデ杯の開幕前、そう不満を表していた。そしてこう訴えた。

「ブラジル国民はセレソン(ブラジル代表)を信じて欲しい。国が一つになってこのチームを後押しするのが、何よりも大事なことなんだ」



そして迎えたコンフェデ杯。

ネイマールの覚醒は、わずか3分で起きた。

Number誌「今大会、ネイマールが主役となるまで時間はかからなかった。開幕戦では日本を相手にわずか3分で先制点を決めた。ブラジルの観衆に挨拶するかのような、美しい右足のハーフボレーだった」

続くメキシコ戦、今度は左足ボレー。イタリア戦ではフリーキックから名GK(ゴールキーパー)ブッフォンを破ってみせた。

Number誌「右足、左足、セットプレーと、ネイマールはあらゆる形から得点を生み出していく」



ブラジルのサッカー専門誌「ランス(Lance!)」は、覚醒したネイマールをこう称賛した。

「今大会のネイマールはこれまでと明らかに違った。得点にアシスト。ドリブルにも切れがあり、何度もファウルを奪いFK(フリーキック)も決めた」

そして、こう締めくくる。「彼がブラジルを優勝に導いた! ついにネイマールは厳しいブラジル人のテストをクリアしたんだ!」










ブラジル代表が優勝を決めた夜、コパカバーナの一角にある飲み屋には、カナリア色のユニフォームを着たブラジル人たちがわんさかと詰めかけていた。

「なぁ、見たよなお前!」

店内のテレビ画面には、数時間前にゴールネットを揺らしたネイマールの左足のシュートが、何度も何度も繰り返し流されている。

「O campeao voltou!(戻ってきた王者たち) セレソン(ブラジル代表)は居るべき場所に戻ってきたんだ!」



コンフェデレーションズ杯、決勝の相手は世界王者スペインだった。下馬評ではスペイン有利。

そんな下馬評をものともせず、セレソン(ブラジル体表)は国民の目の前でスペインを破って見せた。スコアは「3 - 0」。90分間にわたりスペインを翻弄し続けたカナリア軍団。

「それは冗談みたいな圧勝だった(Number誌)」

ブラジル人たちは「幸せな時間」に酔いしれた。もうとっくに日付は変わっているが、そんなの関係ない。飲み屋の外も、通りの向こうもみな黄色に染まり、浜辺にも黄色い笑い声が響いていた。



Number誌「今大会のブラジルの優勝は、代表に対する国民の評価を180°変えた」

開幕前、不正を糾弾される政治家のようだったスコラーリ監督は、一転してその采配を絶賛されることになる。彼の見事なところは、批判されていたチームの体制を変えることなく、基本となる11人にはほとんど手を加えなかったことだ。

スコラーリ監督は言う。「色んな意見があった。ルーカスを使え、グスタボじゃなくエルナメスを起用しろ。それでも私はこのチームを信じていた」

一方、スペインやイタリアなどは大会中にメンバーを代えながら戦っている。今回のコンフェデ杯は短期間で行われたこともあり、テストの意味合いも強かったからだ。



スコラーリ監督の戦い方は明白だった。それは「ネイマールの能力」を最大限に活かすように、チームの連携を深めていったのである。

今大会、ブラジルの集大成ともなった決勝のスペイン戦はそれが象徴的だった。左サイドのオスカルが守備を捨てて攻め上がると、スコラーリ監督は「もの凄い形相」で怒鳴り、攻めを最前線の2人、ネイマールとフレッジに集中させた。

フレッジは決勝で2得点の大活躍を見せるのだが、そのフレッジも自らの得点よりもネイマールに効果的にボールを落とすことを最優先に考えていた。



大会後、ネイマールは「チームが僕を活かそうとプレーしてくれたんだ。彼らがいなかったら、僕が大会MVPになることもなかったと思っている」と謙虚に述べている。

ネイマールは大会MVPもさることながら、5試合を通して4度のマン・オブ・ザ・マッチ(最優秀選手)に選ばれている。つまり彼は大会中、満遍なく活躍して見せたのである。

「正直に言って、僕も開幕前はこんなにうまく行くとは思っていなかったんだけどね(笑)」とネイマールは素直に笑う。






稀有な才能ネイマールを活かすことに加え、スコラーリ監督のもう一つのポイントは「バランス」であった。

ブラジルのサッカー専門誌「プラカール」はこう記す。「インタビュー中、スコラーリ監督は『Equilibrio(バランス)』という言葉を、1時間半で13回も繰り返したんだ。彼はピッチ上でのバランスに、ほとんど取り憑かれているといってもいい」

ネイマールの美しいプレーは、チームのバランス力に裏打ちされたものだといい、じつはスコラーリ監督の采配はそれほど慎重なものであった。

Number誌「試合中、スコラーリ監督がベンチから飛び出すことがある。そのほとんどが『中盤やサイドの守備バランス』のことだ。監督は身体全体を使って、大げさなジェスチャーで選手に指示を送る」



「コンフェデレーションズカップ決勝、スペインを圧倒した『ブラジルの守備』は本当に見事でした」とサッカー解説者の小倉隆史は言う。

「前線から積極的に追うのでもキープレーヤーを徹底マークするのでもなく、中盤で素早く激しくボール保持者を囲い込む。この方法でパスの供給源であるスペインのシャビに仕事をさせなかったことが一つの勝因と言えるでしょう」

絶妙なバランスを保ったブラジルの中盤は、スペイン自慢の中盤を凌駕した。過去数年を振り返ってみても、スペインの中盤が劣勢に立たされたことはほとんどなかったにも関わらず。



この点に関して、スコラーリ監督は興味深い話をしている。

「私はバルセロナ(スペイン)よりもバイエルン(ドイツ)に惹かれている。彼らは技術だけではなく、激しさとフィジカルを兼ね備えている。私はそんなサッカーが好きだ」

スコラーリ監督がそう言う通り、ブラジルは技術というよりも「フィジカル(肉体・力)」でスペインを圧倒したのであった。そしてそれは明らかに「欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)準決勝でスペイン・バルセロナを破ったドイツ・バイエルンの守備」を参考にしたものだった。

コンフェデ杯決勝のスペイン代表は「悪い時のバルセロナ」のようであり、一方のブラジルは「バルセロナを粉砕した時のバイエルン」を見るかのようであった。スペインの個々の動きは少なく、ブラジルの運動量は多かった。



ネイマールが「古き良きブラジル」の美しさを持つとすれば、スコラーリ監督の求めるのはそれと「最先端のサッカー」の融合であった。

「今のセレソン(ブラジル代表)は世界のどんな国にも勝つことができる」と、ブラジル代表のダニエウ・アウベスは俄然強気だ。

その言葉を今、懐疑的だったブラジル国民も信じられるようになっている。王国はついに復活の狼煙を上げたのだ。



だが、本番はあくまで来年のワールドカップ。

そして、王者は確実に「居るべき場所」へと戻りつつある…!













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 7/25号 [雑誌]
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2013年7月12日金曜日

「老い」を受け入れて。ボートレーサー加藤峻二「71歳」



「71歳」のチャンピオン

ボートレーサー「加藤峻二(かとう・しゅんじ)」

いかに「ボートレース(競艇)」が現役を続けられる期間が長いとはいえ、71歳で優勝戦を制した人物は初めてだった



3月25日、JCN埼玉杯

風の強い、雨の日だった。

加藤がスタートで出遅れたのは致命傷であったものの、「1コーナーでの減速の判断」は絶妙。他のレーサーらが追い風という難しい状況下で減速のタイミングを決めかねている中、加藤は冷静に減速。その後、するりと加速して集団を抜け出した。

そして2つ目のコーナーでは、すでに「勝った」という確信になる。



「えらいことやっちゃった」

それが加藤峻二、71歳、勝利後のコメントだ。

70歳代での現役レーサーというだけでも前人未到。それが優勝である。過去ボートレースの最年長優勝記録は65歳(高塚清一)。それを5年以上も加藤は更新したのであった。



「10年以上も優勝してなかったから興奮してね」

加藤が最後に勝ったのは自身60歳の時。それ以後10年間、優勝からはずっと遠ざかっていた。






ボートレーサー加藤峻二は太平洋戦争のさなか、1942年生まれ。小泉純一郎(元首相)、ポール・マッカートニー(ビートルズ)と同い年。

この世界に入ったのは17歳の時(1959年)。

「身体が小さい自分にとって、本当にぴったりの仕事が見つかったなって」

現在、身長163cm、体重50kg。何よりも「負けず嫌い」のメンタリティがこの世界に向いていた。若い時などは肋骨が骨折してもレースから帰って来なかった、と妻のヨシエさんは言う。



全盛期は30代後半〜40代。

Number誌「SGと呼ばれる最高峰のレースで4度優勝するなど一時代を築いた。通算優勝回数は120回(歴代7位)。勝利数3,268(歴代2位)」






ところが60歳の時に「びわこ」で優勝して以来、ぱったり勝てなくなった。

加藤はこう振り返る。「48歳くらいの時から、うっすらと衰えを感じることはあった。でも自分でははっきりと認めなかったんですよ。直視したくないというか」

負けん気の強い加藤は、年の大きく離れた弟子たちに「若い子には負けない」という張り合いはあった。でも勝てない。



そしてついに、レーサーの等級が「B1」に落ちてしまう。66歳の時だった(2008)。

等級は上からA1、A2、B1、B2。B1落ちは、相撲でいえば十両に転落するようなものである。歴代7位の優勝回数を誇っていた加藤峻二が…。

最初は「1回くらい落ちても戻ればいい」と考えていた、と加藤は言う。だが、半年ごとに送られてくるライセンスの通知はいつまでたっても「B」のまま。

「B、B、またBと…」



そして悟った。

「もうA級に戻るのは難しい」と。

そして考え方を変えることにした。

「現実を受け入れよう。自分が衰えたことを」



その途端、なんだか楽しくなってきた、と加藤は言う。

それまでは、勝っても「ホッとするだけ」だったという。勝って当たり前と思ってきたからだ。だが、開き直って老いを受け入れてみると、勝つのが普通に「うれしい」。

「勝って『うれしい』と思えるようになったんですよ。負けても気持ちが楽なんです。『負けることもあるなぁ』って。すると楽しくなっちゃってね」と加藤は微笑む。



負けん気がなくなったわけではない。

「むしろ必死にやり過ぎちゃってたんですよ。自転車乗ってもスピード出し過ぎるし、スキーをやっても孫相手に勝とうとしてしまう」






思い返せば、加藤が受け入れていないのは「自分の衰え」だけだった。

弟子たちには「ルール変更に文句を言うな。対応することを考えろ」と語っていた。ボートの世界では「昨日までOKだったことが今日はNO」ということが日常茶飯事。スタートの方法、体重制限などなど。

そうしたルール変更に文句を言っていても仕方がない。それを受け入れ、我先に対応してきたからこそ、加藤は50年以上も勝ち続けてきたのであった。



かくも柔軟な思考をもっていた加藤。だが、自分は「受け入れている」と思っていたのは実は盲点で、加藤はつい最近まで「老い」を受け入れていなかったのである。

だが、それに気づくと早かった。あっという間に10年ぶりの優勝を果たしてしまったのだから。






「自分はもしかして思ったよりも年を取っているのかな(笑)」

そう言って笑う加藤は、「いまは過去の経験を食い潰しているだけですよ」と謙遜する。

だが弟子たちに言わせれば「師匠は何でもできる天才」。71歳になってなお優勝を決めた時など、そのレースには筋力、瞬発力、判断力など凄まじいまでの技術が濃縮されていた。



「ホントに好きなんですよ。ボートに乗っているのが。レース前に試走しているだけでも楽しい」と加藤は話す。

「すでに老いた部分は受け入れたとしても、この先どう老いるかは分からないでしょう(笑)」

そう笑う加藤は、まだ「これから先の老い」を受け入れてはいない。もちろん、引退などはまだ考えたこともない。

「まぁ、辞めろと言われたら辞めるしかないけど(笑)」













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 7/11号 [雑誌]
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2013年7月11日木曜日

シンプルに、気持ちを乗せて。上原浩治 [野球]



アメリカ大リーグ「レッドソックス」

ピッチャー「上原浩治」38歳。

メジャーはオリオールズ、レンジャーズと経て今季5年目となる。



その投球スタイルは、日本時代とほとんど何も変わっていないという。

「基本的な武器は、140km台前半の『ストレート』と『フォーク』の2つだけ。この2つの球種だけで、巨人時代もメジャーに来ても、18.44m離れた相手を見事なまでに牛耳ってきた(Number誌)」



上原は言う。「スピードガンはあくまでファンサービスだからね。それよりもバッターの体感スピード。速ければ速いほどいいというわけじゃない。僕は150km出したことないんで(笑)」

140km台前半という上原のストレートは決して速いわけではない。だが、「このストレートを高めに投げると、面白いようにメジャーの打者から空振りを奪える」という。

その秘密はボールの「回転」と「切れ」にあるのだという。






上原のストレートは、いま流行りの動くボール(ツーシーム)ではなく、メジャーでは少数派となった「フォーシーム」。

「きれいに縦回転がかかってホップするようなボールが高めに決まると、ツーシーム系の球筋に慣れている打者たちは思わずバットを出してしまう(Number誌)」

ツーシームというのは、サッカーでいえば無回転の「ブレ球シュート」のようなもで、左右に微妙にブレる。一方、フォーシームというのは一般的なストレートのことである(それぞれは指のかける縫い目が異なる)。

上原は言う。「動かせ、動かせって確かに今の時代、そういう風になっていると思うけど、基本はやっぱり『きれいな真っ直ぐ』だと思う。ツーシームは投げられないというのもあるけど(笑)」




そして「決め手」はフォークボール。

打者の目線をストレートで高めに誘っておいて、最後に落とす。高低の幅を存分に生かした投球術。それが上原浩治が常に追い求めてきたものだという。

彼にとって、球種を増やして投球の幅を広げるという考えはない。むしろその2つだけの球種をいかに磨き、コントロールの精度と切れを高めていくかというのが上原にとっての「幅」なのだという。



「巨人時代に工藤(公康)さんに『球種を増やそうと思っているんです』って相談したことがあるんです」と上原は言う。「そうしたら、『いま持っているボールの精度をもっと上げる方がいい』と言われました」

その言葉を頑なに守った上原は、一つのボールを磨けばその幅が広がるということに気づいていく。

「ストレートにしても、切れのあるボールをきちっとコースにコントロールできるようになれば、それだけで2つの球種と考えることができるんです。ものは考えよう。ストレートが1つじゃなくて2つになる。フォークもそう。フォークも単に1つの球種じゃない。きちんと投げ分けができれば、全然違うと思うんです」

腕の振りも変えれば、さらに2倍にも3倍にも「違うボールの種類」として打者に映るのだという。






そしてあとは「気持ち」だ。

「迷ったりしたら、やっぱりその迷いがボールに伝わるんです。気持ちって正直だと思う。ホントに自分が投げたいボールに100%の気持ちを乗っけて投げれば、ド真ん中にいってもそんなに打たれることはないんです」と上原は語る。

100%の気持ちが乗り移ったストレートは、たとえ140kmというスピードといえど、唸りを上げて打者に映るのだという。

なるほど、スピードにしろ球種にしろ、上原の投球術はその上辺では判断できないということだ。



ちなみに上原は3年前にフォームを少し修正している。それはメジャーの硬いマウンドに合わせたもので、踏み出す左足を以前より前に流すようにしたのだという。

それを上原はこう説明する。「それまでは、踏み出した左足の真上にピンと立つイメージでしたけど、今は立つ前にキャッチャー方向に逃がすという感じですね。逃がすといっても前に逃がしている。投げる方向はその前方向なんで、パワーを損するという感じじゃなくて、より勢いが乗るという感じ」

すなわち、ますますボールに勢いと気持ちが乗りやすくなったということだ。



だが上原にも「フォークボール・ピッチャーの宿命」はつきまとう。

上原は言う。「僕の場合は、一歩間違えればホームラン。フォークボール・ピッチャーには、どうしても一発がつきまとう」

今季の失点は、ほぼ全部がホームランだという。

「ホンマ、気持ちよく打たれるか、気持ちよく抑えるか。中途半端がない(笑)」






今年で38歳の上原浩治。

その右腕は精神的にも技術的にも円熟の境地に入りつつあるが、気持ちはますます高まりつつある。

「38歳でもまだまだ伸びると思っています。決してこれが頂点だとは思っていない」と上原は言う。それは「ゴールをつくっていない」からだという。

彼は最後にこう語る。「何かを求めたら、そればっかり求めてしまうので、数字は求めない。その日、その日を全力で投げるだけです」



湧き出でる「気持ちのガソリン」

その精緻かつシンプルな投球は、メジャーの強打者たちから「気持ちの良い空振り」を奪い続ける。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 7/11号 [雑誌]
「ガソリンが切れるまで突っ走る 上原浩治」


2013年7月9日火曜日

ブラジルの日向と陰。バランスの妙 [サッカー]



その日のネイマールは、ブラジルの「大統領」だった。

「Presidente Aplaudido(喝采を浴びた大統領)」

ブラジルのスポーツ紙「LANCE!」の一面がこれである。



コンフェデ杯の開幕戦、日本を「3-0」で圧倒したブラジル代表。そのキックオフ直後、前半3分に今大会のオープニング・ゴールを決めたのがネイマール。

「黄色いユニフォームを着てピッチの上に立っていた大統領。ネイマールだ。日本戦ではユニフォームが汗で滲まないうちにあっさりと先制点を決め、試合の流れを決めてしまった。シュート練習をするかのような、抑えの利いた弾道だった(Number誌)」








一方、ブラジルの「本物の」大統領ジルマ・ルセフ氏は、コンフェデ杯のその同じ会場で「大ブーイング」を受けていた。

「ジルマ・ルセフ氏は2011年に就任した『ブラジル初の女性大統領』である。就任当初は国民から支持されていたけれど、飛ぶ鳥を落とす勢いだった経済が停滞し始めた最近では、もっぱら不評だ。物価は上がる一方で、バスの運賃は街角で売られているヤシの実の値段を超えた(Number誌)」

そのバスの運賃値上げに端を発したブラジルの「デモ」は、またたく間にブラジル全土へ野火のごとく燃え広がり、法外な額が投資されたサッカー・スタジアムがその槍玉に挙げられていた。






スタジアム外の騒然としたデモの中、スタジアム内のネイマールは「息を飲むような美しいゴール」を決めて、大観衆の大喝采を受けていた。

じつはネイマール、代表とクラブではここ9試合連続で「不発」だった。だが、この鮮烈な一発で彼は完全に蘇った。その後、ネイマールはメキシコ戦、イタリア戦、スペイン戦と合計4得点。コンフェデ杯のMVP(最優秀選手)に選ばれることになる。

その覚醒のきっかけが初戦、日本ゴールへの一撃だった。大会開始早々、ネイマールの肩の荷は一気に軽くなったのである。



ブラジル代表のスコラーリ監督はネイマールを「絶対の選手」として位置づけ、
ネイマールが振るわない間もずっと彼を中心にチームを作り続けてきた。

「スコラーリ監督は、ネイマールと役割が重なる可能性のあるかつてのスターたち、ロナウジーニョやカカを代表に呼ぶことはなかった(Number誌)」



そのネイマールが「絵に描いたようなエースの活躍」をついにコンフェデ杯で見せた時、誰よりも喜んでいたのはスコラーリ監督だった。

「ネイマールが魅せ、チームはしっかりと結果を出す。コンフェデ杯は指揮官にとってこれ以上ない形で始まった(Number誌)」






「愛する10番、ネイマールに気持ちよくプレーさせることを望むスコラーリ監督は、どこか『古典的なブラジル人監督』のようにもみえる。規律や統制には目をつぶり、『ジョゴ・ボニート(美しきプレー)』を追い求める、ブラジル人監督の姿だ(同誌)」

だが、本当のスコラーリ監督の「サッカー観」が表れているのは、この派手なネイマールではない、と言う人もいる。じつは、地味な守備的MF(ミッドフィルダー)「ルイス・グスタボ」こそが、スコラーリ監督を物語っているのだ、と。

このグスタボ評は世間では低い。ある新聞はグスタボを「冷静だ。効率的で、戦うこともできる。しかし地味だ。おそらくは現チームの中で最も目立たない。どのクラブでプレーしているのかさえ知らない国民だっている」と辛く評する。



きらびやかなネイマールのとは全く対照的なグスタボ。だが、スコラーリ監督がグスタボに寄せる信頼は厚い。ある地元記者にこんな話をしている。

「私は日本戦のMVPはグスタボだと思っているんだ。ドイツで戦術面を学んだ彼は、私にとって非常に重要な選手だ」

日本戦において、グスタボの姿を見ることはほとんどなかった。彼に任された仕事はCB(センターバック)の前でスペースを埋め、相手のカウンターの芽を摘むことだった。それ以外、グスタボは余計なことをしなかった。

スコラーリ監督は続ける。「日本戦でカガワ(香川真司)とホンダ(本田圭佑)の2人をうまく抑えることができたのは、『グスタボの仕事』があったからだし、私はとても評価している」






縁の下を支えるグスタボを愛するスコラーリ監督は、決して「古典的なブラジル人監督」のように「統制や規律」に目をつぶっているわけではない。

スコラーリ監督は言う。「私が望むのは『統制されたチーム』だ。現代サッカーはそれなしに成功はあり得ない」と。

華やかなネイマールにしろ、その卓越した「個の力」を統制なしに発揮しているわけではない。スコラーリ監督はネイマールを「チームプレーができる」と評価している(もっとも、以前のネイマールはサッカーの王様ペレにも批判されるほど個人プレーに走ることがあったのだが…)。



「日本の左SB(サイドバック)ナガトモがあまり攻撃参加できなかったのも、フッキをはじめ、チームの組織的動きがあったからだ。日本戦では『組織としての動き』が上手くいった」とスコラーリ監督は語る。

代表選手の一人、パウリーニョはこう話す。「監督はいつも僕に言うんだ。『とにかくバランスを見るんだ』ってね」

「ネイマールの陰でスコラーリ監督が愛するもう一人の男、グスタボの評価は今も低いままだ。彼の献身が正当に評価される日は、この国ではもしかしたらやってこないのかもしれない。しかし指揮官の信頼は、試合をこなすごとに高まっている(Number誌)」



日本戦を終え、ネイマールはこう言っていた。

「今のブラジルはチームとしてプレーしながら、試合のポイントで個人の力量を出すことができるようになったんだ」と。






一方、ブラジル戦で「らしさ」をまったく発揮できずに惨敗した日本代表。

その試合後の夜、ザッケローニ監督は突然、キャプテン長谷部誠を呼び出していた。その緊急トップ会談の席上、監督はこう問うた。

「みんなは個人でプレーしたいのか? それとも、チームとしてやっていくつもりがあるのか?」と。

普段、ザッケローニ監督は感情を高ぶらせることは滅多にないというが、この時ばかりは違ったと、長谷部は振り返る。



監督が日本代表に期待していたのは「ネイマールのように3人を抜いてゴールを決めるサッカー」ではなかった。「組織として連動して相手を崩すサッカー」こそ、日本にふさわしいと考えていた。

ところがどうだ。事前にブラジルの弱点を分析して、その対策を練習でやってきたはずなのに、ブラジル戦のピッチ上ではそれが全然表現されていなかった。

「お前たちなら世界のトップ相手でもできるのに、なぜやらない?」とザッケローニ監督は長谷部に迫っていた。



元ブラジル代表のジョルジーニョも、日本のブラジル戦には失望していた。

「決勝にさえ行けたかもしれないのに…」








日本代表の「個」と「チーム」のバランスが崩れたのは、W杯出場を決めたオーストラリア戦の後だったかもしれない、と人は言う。その翌日の記者会見の席上、本田圭佑や長友佑都は「個」の重要性を強調していた。

だが、本田にしろ長友にしろ組織プレーを放棄してまで「個の成長」を訴えたわけではない。ザッケローニ監督の疑心を長谷部がチームメイトに伝えると、「日本らしい組織で勝負するのは、当たり前のこと」とすぐに心が一つになった。

そして次に迎えたイタリア戦、日本代表のパフォーマンスは世界に高く評価されることとなる。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 7/11号 [雑誌]
「ブラジル 開幕戦への秘策」
「レシフェの夜にザックと長谷部が語り合ったこと」