「じつは、僕は試合前から、そして試合が始まってからも『伊達さんがグラフに勝つチャンスはない』と思っていました」と、松岡修造は語り始める。
それは、今から17年前(1996)の国別対抗戦フェドカップにおける日本vsドイツの試合。「伊達公子(だて・きみこ)」は、ドイツが誇る世界ランクNo1の「シュテフィ・グラフ」と戦っていた。
それまでの伊達は、過去6回、女王グラフと対戦して一度も勝ったことはなく、グラフは「越えられない壁」として伊達の前に立ちはだかっていたのである。
さらに悪いことに、伊達は前日の試合で「左ヒザの靭帯」を伸ばしてしまっていた。
「歩行にも支障をきたすほどの最悪のコンディション。テーピングをぐるぐる巻きにし、かばいながらの動きでは女王の相手になるわけがなかった」と松岡修造。
第一セット、0-5。
最悪の予想通り、伊達は一方的に試合を進められていた。
脚のケガのために動きが十分でない伊達は、いきなり女王グラフに5ゲーム先取を許してしまっていたのだ。
「無理するな!」
松岡は思わず叫んでいた。
「うるさいっ!!」
そう言わんばかりの鋭い睨みを、伊達は観客席の松岡に突き刺した。
「そこからだった、伊達さんの心にスイッチが入ったのは…」
それまでとは別人のように、巧みにコースを打ち分ける伊達。スピードとキレも、決して女王に劣るものではない。
女王グラフのバックハンドにミスが目立っていたことに気づいた伊達は、執拗にバックハンドにボールを集める。
その策が奏功し、なんと伊達は連取された5ゲームを、まさかの5ゲーム連取でタイに持ち込み、最終的には、タイブレークの末にものにするのであった。一方的かと思われた第一セットを…。
フェドカップという大会は、国と国とが名誉と威信をかけて闘う試合。
「ともに闘う観客の心が、国を代表するという重圧と限界を超えた左ヒザにかわり、彼女の気力を支える大きな力となっていた(松岡修造)」
続く第2セットを奪ったのは、意地を見せた女王グラフ。
そして決戦は第3セットへともつれ込む。
「最終セットは両国のNo1同士の対決にふさわしいシーソーゲームとなった」
ともに譲らない一進一退の攻防。「4-4から伊達がグラフのサービスゲームをブレイクすると、すかさずグラフはブレイクバックして伊達のマッチポイントを凌ぐ」。
息詰まる展開に、息を飲む9,600人を超える大観衆。
松岡修造が「にわか応援団長」となって、有明コロシアムを大いに盛り上げる。
「これが国の威信をかけて闘うフェドカップ独特の雰囲気だ!」
第3セットは10-10までもつれた。
このセットはタイブレークシステムを採用しないから、相手に2ゲーム差をつけないと試合は決着しない。
「ここまでくると、技術うんぬんの話ではない。疲労はピークを迎え、集中力さえ途切れがちになる。まさに気力勝負となるのだ」
3時間25分の死闘。
それは、女王グラフのフォアハンドがネットにかかったところで、終止符が打たれた。
7-6、3-6、12-10。
「伊達さんは右手の拳を突き上げた」
一万人の観客の雄叫びが、コロシアムを震わせる。
「この瞬間、僕の魂が震えた(松岡修造)」
伊達公子が女王グラフを破ったのは、自身のキャリアで初めてのことであり、そしてそれは結果的に、生涯唯一の勝利(公式戦)となった。
試合後の伊達は、こう言った。
「私のテニス人生の中で、今日の試合は最高のものでした!」
女王グラフは、こう言った。
「この一敗は、なんら恥じるものではありません」
エース同士の一騎打ちを制した日本は、ドイツを3−2で撃破し、32年ぶりにフェドカップのワールドグループで準決勝にコマを進めることとなる。
しかし、この年の秋、伊達公子は「突然の引退」を発表すると、第一線から身を引いてしまう。
当時の伊達の世界ランクは8位(最高位は4位)。まさに絶頂期に、伊達は世界のコートから姿を消すのであった…。
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/4号 [雑誌]
「女王グラフを倒した伊達公子の闘志に火がついた瞬間(松岡修造)」
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