2012年11月16日金曜日

「1つ」に専心した「小久保裕紀」の野球一本道


「本当に最高の野球人生だったとつくづく思いました。『ありがたいな、幸せやな』と」

今年の9月30日、現役引退を表明していた「小久保裕紀(こくぼ・ひろき)」は、10年ぶりとなる「2打席連続ホームラン」を放った。しかも、ソフトバンクの本拠地、福岡のヤフードームで。

「打った本人がビックリですよ(笑)。今年はヤフードームで一本も打てなくて、最後辞める前に一本くらい福岡のファンの前で打っておきたいなと思ってたんです。それが2打席連続なんて(笑)」



左中間に大きな放物線を描いた2打席目のアーチ。

「よく『無心で打て』と言いますが、僕が19年間でたどり着いたのは、無じゃなくて『1』なんです」

2つも3つも余計なことを考えてしまうと、反応が鈍くなって打てなくなってしまう。だから小久保は、チェックポイントを「1つ」に絞る。

「2打席目のホームランは、『スライダーが来たら振る』、その1つだけでした」



無心ではなくて「専心」。それは19年前にプロ入りした時から、無意識にも小久保の胸の内にはあったのかもしれない。

今から20年前の1992年、バルセロナ・オリンピックの野球日本代表として活躍した大学生・小久保裕紀。その獲得を巡って、巨人とダイエーは熾烈な獲得合戦を演じていた。

しかし、当の小久保はと言えば「合宿所から一歩も外へ出ず、電話の取り次ぎも断って、ドラフトの日を待っていた」という。それは巨人・ダイエーの攻勢を避けるためであり、心に一つ決めていたダイエー(現ソフトバンク)を逆指名するためだった。

「あの注目度の中、全国区の巨人に飛び込んでいたら、潰れていたと思うんですよ。19年間も野球はできていないと思いますね」と小久保は当時を振り返る。



1994年のオフ、ダイエーの監督が根本陸夫から「王貞治」に代わる。そして、ハワイにいた小久保のもとをわざわざ訪れた王監督は「来年、一緒にやろう」と声をかける。その日のことを小久保は今も鮮明に記憶しているという。

そして迎えた翌年の1995年。「2年目の若造」は欲をむき出しにしてホームランばかりを狙っていた。その様を見ていた石毛宏典から「みっともない!」と言われるほどに。

「そりゃ、欲も出ますわな。2年目の若造なんですから」と小久保。その強欲の甲斐あって、そのシーズン、本塁打王に輝いた。しかし、その報いは思わぬ形で彼を襲うこととなる。



「この世はオレのために回っている」と勘違いしていたという小久保は、プロ野球脱税事件(1997)で開幕戦から8週間の出場停止処分。復帰してなお、右肩の故障で戦線離脱を強いられてしまう。

その後、右肩痛に悩まされながらも、1999年に日本一、2000年もリーグ優勝、自身も2002年までに3年連続で30本塁打を達成。

しかし、悪夢は再び小久保を待っていた…。



「なんでキャッチャーが自分の上に乗るんや?」

ホームに滑り込んだ小久保はキャッチャーと交錯。右膝前十字靭帯断裂、外側半月板損傷、内側側副靭帯断裂、脛骨・大腿骨挫傷という大ケガを負ってしまう。

「あの試合、本当は休みだったんですよね…。それまで人を恨んだことはなかったんですけど…」

小久保は必死に「人生に無駄は一つもない」と自分を納得させようとしていた。「人生で自分に降りかかってくることは『必然』、必要なこと…」。



確かに、大ケガをして棒に振った一年は小久保にとっては「必要」だったのかもしれない。手術を受けたアメリカで、小久保は一年をかけてみっちりと体幹を鍛え直した。

「もし、あのままレギュラーで試合に出続けていたら、1年間かけて身体を作り直すことはできなかったでしょう。あのままだったら、たぶん41歳までプレーできていません」

大ケガを機に、重いウェイトでガンガン筋肉を太くするトレーニングを改め、食事も変えた。プロ入り10年目の転機は、次の10年に確実につながることとなっていたのだ。



「これはちょっと、自分の力じゃないな…」

そう思いながら、小久保はダイヤモンドを一周していた。大ケガをしたちょうど一年後の同じ日、しかも同じ場所のヤーフードームで…。

この時の小久保は巨人のユニフォームを着ていた。巨人へと無償トレードされていたのだ。そして、そのホームランを打った相手は古巣のダイエー・ホークスであった。



3年間を巨人で過ごした小久保は、2006年、FA(フリーエージェント)を宣言。

そして、フリーになった小久保のもとを真っ先に訪れたのが、胃の全摘出手術を受けたばかりの王監督(ダイエー)であった。小久保は一も二もなく、無条件で移籍を快諾。ここに念願の古巣への復帰が叶うこととなる。



移籍後初となる日本シリーズ出場を果たすのは昨シーズン。

「よっしゃ、MVP獲りにいったろ!」

満塁のチャンスで打席が回ってきた小久保は、若かりし日のような強欲さでホームランを狙いにいく。

ところが…、「センターフライ(笑)」。それでも結果的には、史上最年長のMVPに輝くこととなる。第4戦、第5戦で放った先制打などが高く評価された。見事な日本一であった。



そして迎えた今シーズン。6月24日に念願の「2,000本安打」を達成。

「怖かったです。やっぱり最後まで怖かったです。残り100本を切ってからダメだった人もたくさん見てきてるんで…」

この2000本安打の達成とともに、小久保の心の深いところに「やりきった感」が芽生え始める。人知れずそんな想いを抱えていた7月14日、「尊敬する王さん」から名球会のブレザーを送られた時には明らかに、「引退の2文字」が頭に浮かんでいた…。



現役引退を公にしたのは、それから1か月後。

そしてその後、小久保のバットからは冒頭の「2打席連続ホームラン」が飛び出す。

「僕の人生、メッチャついてます。本当に」



10月19日、CS(クライマックス・シーズン)ファイナルステージ第3戦。

日本ハムに2点リードされて迎えた最終回、9回表、2死満塁。一発出れば同点の大チャンスに現れた小久保。しかし、3球目を打ち上げてしまった小久保は、あっさりとショートフライに打ち取られてしまう。

それはソフトバンク2012シーズンの終わりであると同時に、小久保の野球人生19年の幕切れともなった。



「最後の打者が自分になるなんてね。僕まで回してくれたのが嬉しかった。野球の神様からご褒美をもらえたんだと思います」

出場した試合数2075。波瀾万丈だった19年間の野球人生も、終わってみれば「一本道」。彼の打席に「無駄なものなど一つもなかった」。

野球一筋に生きた男は静かに、しかし満足気にバッターボックスを後にした…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「小久保裕紀 それでも歩んだ一本道」

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