2013年2月28日木曜日

自然な動きを追求する「ピラティス」。動物としての人間



「上半身を左右に回転させながら歩くのは、じつは人間だけです。」

ピラティスを指導する「中村尚人(なかむら・なおと)」さんは、そう言う。



人間は歩く時、右半身と左半身が違う動きをする(左右交互に足を出す)。さらに、上半身と下半身でも違う動きをする(手と足の振りが一緒にならない)。

「ほかの動物は、人間と同じ動きができないんです。肩甲骨や肋骨の位置・形状を見れば、それが分かります」と中村さん。

なるほど、つまり、左右上下の半身をねじりながら歩けるのは、人間だけということか。それは二足歩行を得意とする「人間の最も人間らしい動き」なのかもしれない。







こうした「人間の原理・原則にのっとった正しい動き」をその元とするのが、「ピラティス」というボディワークの基本である、と中村さんは言う。

「ピラティス」というエクササイズには、どこか目新しい響きがあが、それは日本で普及したのが最近だという話にすぎない。

じつはピラティス、その歴史は日本の合気道と同じくらいに由緒あるものである。

ちなみに、合気道の開祖とされる植芝盛平翁と、ピラティスの創始者ジョセフ・ピラティス氏の生没年齢はほぼ重なっている(1880年代生まれ・1960年代死去)。



ドイツに生まれたピラティス氏は、体操選手、ボディービルダー、プロボクサーなどなど様々なスポーツを経験していた。

ところが時は第一次世界大戦、たまたまイギリスに滞在していたピラティス氏は、イギリス軍に捕らえられると、捕虜収容所(ランカスターキャッスル)に送り込まれてしまう。



しかし、運命は奇なるもの哉。じつは、この収容所での抑留期間中に、ピラティス・メソッドは産声をあげることになる。

同じ収容所の仲間たちにピラティスを指導したピラティス氏、その結果、仲間たちの健康状態を保つことに成功。自分の考案したメッソドに確信を持つことになる。



ヨガや動物の動きをエクササイズに取り込んだというピラティス。

冒頭の中村さんの話にも、人間と動物の動きの違いがサラリと言及されるのは、それゆえなのだろう。







第一次世界大戦が終結すると、ようやくピラティス氏は生国ドイツに戻ることが叶うが、彼はその後、アメリカへの移住を決意する。ピラティスという新しいエクササイズを携えて…。

アメリカでまずピラティスに飛びついたのは、ショービジネスの世界で身体を酷使するバレエダンサーたちだったという。



彼ら彼女らは、ピラティス氏に身体の正しい使い方の指導を受けたおかげで、腰やヒザといった身体の悪い部分が改善されたと喜んだ。

そして彼ら彼女らが、その効果を絶賛することで、ピラティスは全米各地のみならず、世界各地へと羽を広げていったのである。



「簡潔に言えば、人間の根源的でもっとも効率的に動くことができるエクササイズが、ピラティス・メソッドです」と中村さんは言う。

「そのためのレッスンは、その人が何をしているのかを問題にするのではなく、『何がその人にとって欠けているのか』を見つけることが重要になっているんです」







「お腹を出さないで呼吸しろ」

ピラティスはそう教える。つまり胸で呼吸する「胸式呼吸」である。

それに対して、日本古来の武道は、腹で呼吸する「腹式呼吸」を教える。それは相手にこちらの動きを見破られないためだ。腹で呼吸すれば、肩の上下動を抑えることができる。

しかし、腹式呼吸は「人間の自然な動きに逆らう動き」でもある。子供たちにとっては自然な呼吸法である腹式も、大人たちは意識しないとできなくなっている。



ある意味、日本の武道は「人間の原理・原則から外れた動き」を体得することに、その道をつけていったのかもしれない。

それに対して、ピラティスの発想は「まず原理・原則どおりの正常な動きを覚えて、そこから原則を外した動きを体得していく」という立ち位置である。







ピラティスの運動の一つに、マーメイド・エクササイズというものがある。それは片方の腕を上にあげて、片側に身体を傾けていくエクサイズである(ラジオ体操の側屈のような動き)。

この時、呼吸は胸で行う(胸式呼吸)。そうしないと、肩の骨(肩甲骨)が動かず、胸の骨(胸椎・肋骨など)が十分に動けないためだ。



胸で呼吸をしながら身体を片側へ傾けていくと、それに従って、片側の胸郭が膨らんでいく。

「これは何故かというと、肺に空気は均等に入っていくので、片側が潰れていれば、入りやすい方へ多くの空気が入るからです」と中村さん。

「つまり、内側からのストレッチとなるわけです」



なるほど、ピラティスが「身体の中心(コア)を内側から鍛える」と言われるのは、このためか。

なかなか聞けない「コアの声」であるが、ピラティスはそれを「聞く耳」を持たせてくれるようなボディワークである。

そして、「動物としての人間」という根源的な自分をも、再発見させてくれそうだ…。








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ソース:月刊 秘伝 2013年 02月号 (特別付録DVD付)[雑誌]
「ピラティスで見直す身体活用の要諦 中村尚人」

2013年2月27日水曜日

祝・五輪出場。「あと一歩」に届いた女子アイスホッケー。



女子アイスホッケー日本代表。

ゴールキーパーの中奥梓は、ケンタッキー(KFC)、

フォワードの坂上智子は、宅配ピザ、

同じくフォワードの平野由佳は、派遣社員。



日本代表選手たちは、合宿や海外遠征があるたびに長期休暇を取らなければならない。しかし残念ながら、そのような都合のいい条件で採用してくれる企業はほとんど存在していない。

それゆえ彼女らは、時間の自由のきくアルバイトなどに勤しむより他にない。



そんな厳しい経済環境の中でも、彼女らはソチ五輪出場を決めた。

それは長野オリンピック以来16年ぶり、自力では初めての切符であった。



思えば、過去3大会、アイスホッケー女子は「あと一歩」のところで苦杯を舐めさせられ続けてきていた。

ソルトレークシティ五輪の最終予選は、「あと1勝」足りなかった。

トリノ五輪の最終予選は、「あと1点」足りなかった。

バンクーバー五輪の最終予選は、中国との全勝対決に惜敗した(0−2)…。



昼間は働かなければならない日本代表の面々。

必然、所属チームの練習は夜間になる。遅い時は、夜10時から始まり、深夜12時まで汗を流す。

それでも、彼女らは臥薪嘗胆、「あと一歩」のために精進に精進を重ねてきた。



そして遂に手に入れた、オリンピックへの切符。

まさに「悲願」とは、このことか…。



今回の女子アイスホッケーに幸いしたのは、新たに加わったアンダー世代(18歳以下)の高校生3人(床亜矢可・浮田留衣・青木亜優子)のレベルがじつに高かったことだ。

「悲願の歴史」を知らぬ高校生たちは、じつにノビノビとプレーしていた。多くのベテランが第一線から退いた穴は、彼女たちの若い力が見事に塞いでみせ、そして高めてみせたのだった。



ソチ五輪に出場を決めたのは、日本を含め8カ国。

世界ランク11位の日本は、その8ヵ国中、最下位のランキングだ。



それでも彼女たちは、やってくれるだろう。

15年前の長野オリンピックでは、5戦全敗だった日本代表。

今度こそ、新たな悲願の「オリンピック初勝利」に向けて、邁進してくれるに違いない…!



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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 3/7号 [雑誌]
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2013年2月26日火曜日

イタリアの恩師から学んだこと。「川島永嗣(サッカー)」



「最初は、こんなハイボールなんてあんのかよ、って思いましたよ」

30mは上がったであろうか、フルゴーニが真上に蹴り上げたハイボールは、ひたすら空を目指して舞い上がった。

そして、真上から落ちてくるボールをキャッチする「川島永嗣(かわしま・えいじ)」。不思議そうな表情をする彼を尻目に、フルゴーニは平然とボールを高く蹴り続けた。



当時の川島は弱冠18歳。のちにサッカー日本代表の正ゴールキーパーとなるこの男も、その時は今ほどの貫禄はなかった。というよりもむしろ、自信を失いかけていた。

高校卒業後に入団した大宮アルディージャでベンチにも入れず、コーチに言われたことも上手くこなせない。練習でもシュートを思うように止められない…。

プロとして初めて突き当たったカベを眼前に、この若者は悩んでいたのである。



そこにもたらされたイタリア留学の話。彼は一も二もなく飛びついた。

ところが、実際イタリアに来てみると、コーチ・フルゴーニの練習メニューは不可解なものばかりであった。

延々と続くハイボールのキャッチをはじめ、ある時は、突然フルゴーニがピッチに寝っ転がって、「来い! 俺のヒザを使って前転しろ」などと言い出す。ゴールポスト横で側転を命じられたことまである。

日本では見たこともないメニューばかりを、半信半疑のままにこなす川島。ずっと、それらの練習の真意がつかめずにいた。「こんな奇っ怪な状況なんて、試合中はまずないだろ…」。



ところがある日、たまたまユースの大会で、ゴールエリアに天高くハイボールが舞い上がる。

「あっ…、あの練習とおんなじだ…」

そう思った川島は、ようやくコーチ・フルゴーニの摩訶不思議な練習メニューの意味が判りかけた。

「そうか、フルゴーニは実際に起こりうる、いろんな状況をメニューに組み込んでいたんだ…!」



フルゴーニ独自の練習メニューは、130を超えた。そこにはフィジカル、テクニック、戦術のすべてが詰め込まれていた。

一ヶ月後、最初は首をかしげたメニューの数々も、日を追うごとに川島の若き肉体にミルミル染み込んでいく。そして、川島の動きはあらゆる局面でスムーズになっていった。

イタリア留学中に参加したユースの大会では、最優秀ゴールキーパーの賞も授かり、現地メディアの間にも、この若き日本人GKの名が知られるようになった。



日本で挫折の一歩手間まで追い込まれていた川島は、遠くイタリアの地で息を吹き返していた。

のちの川島は、こう語る。「今の自分があるのは18歳の時にフルゴに出会うことができたからなんです。あの時イタリアに行ってなかったら、僕は今頃プロですらなかったと思う」

彼の言う通り、18歳当時の川島はそれくらい切羽詰まっており、自信を失っていた。そして、フルゴーニが新たな自信を植えつけてくれたのであった。



絶望の淵で巡りあった恩師フルゴーニ。川島はその恩師の言葉を今も忘れない。

「Attaca la palla!」

ボールへアタックしろ! 待つな! フルゴーニは口を酸っぱくして、川島に言い続けた。



「僕はその時まで、ゴールキーパーはボールを受けるという感覚が強かった」と川島。「でもフルゴは、『待ってちゃダメだ! ボールに向かって行け!』と」。

「攻めるセービング」、それがフルゴーニのゴールキーパー観そのものだった。ちなみに、フルゴーニは30年を超えるキャリアをもつベテランGKコーチである。

「最後に守るのがゴールキーパーの役割。時にはカウンターを受けて、ディフェンダーが一人しかいない、なんて状況も多い。でも、どんな状況でも最後はゴールキーパーが止めるものなんです」と川島。



「どんな状況でも止める、それが『攻めるセービング』だと思います」。

フルゴーニの薫陶を受けた川島は、そのことを肝に命じてゴールに立ち続けた。

そして、川島の活躍をテレビで眺めるフルゴーニは、そのプレーに自らの教えが宿っていることを確認すると、満足そうに微笑むのであった。



ふたたび川島がフルゴーニの前に姿を現すのは、今から3年前の冬(2010年1月)。

「あのとき、エイジ(川島)は少しだけ自信がなさそうに見えてな…」とフルゴーニは、その冬の日を思い起こす。



「エイジは言っとった。日本代表には年上の正ゴールキーパーがおって、もうずっと彼がゴールを守っている。だからワールドカップ(南アフリカ)でも、たぶん僕は出ない、とな」

18歳の頃にくらべ、川島のガタイはずいぶんとガッシリしていた。しかしその心には、かつての弱さが鎌首をもたげてきていたのである。



当時の日本代表のGKは楢崎正剛。「ファンもメディアも、世の中の誰もが、南アフリカの地で日本のゴールマウスに立つのは楢崎だ、と当然のように考えていた(Number誌)」。

しかし、久々に川島のプレーを見たフルゴーニだけは、そう考えなかった。

「驚いた。その時に見せたパフォーマンスが信じられないほど良くてな」とフルゴーニ。この名伯楽は感じていた、川島がすでに世界で戦えるゴールキーパーにまで成長している、ということを…。


川島が帰国する前、フルゴーニは彼を呼び止めて、こう言った。

「エイジ、覚えとけ。半年後、ワールドカップの舞台で日本のゴールマウスに立っているのは、オマエだ」

戸惑う川島に、フルゴーニは念を押す。「まあ、見てろ」。



半年後、日本vsカメルーンの試合を見ようとテレビをつけたフルゴーニ。

「ほーら、見たことか」

小さなテレビ画面のむこう、南アフリカのゴールマウスに立っているのは、川島永嗣にほかならない。彼の鬼気迫る表情には、フルゴーニの前で見せる弱さなどは微塵も感じさせなかった。



川島永嗣が正ゴールキーパーとしてW杯でプレーしたことで、世界にその名が鳴り響く。

そして、川島はその夏、ベルギーのリールセへ移籍。昨夏には強豪スタンダール・リエージュへと移籍し、着実なステップアップを果たしている。



そんなある日、フルゴーニから川島に一通の手紙が届く。

「決して慢心してはならない、君はもっとやれるんだ」

そこには、恩師の温かい警句と励ましがつづられていた。



「もう、ワシが言うことなど、ほとんどないんじゃがな…」

そう前置きしてから、フルゴーニはこう続ける。

「エイジに伝えてくれ。ブラジルW杯だけじゃない、オマエはあと2回ワールドカップに出るんだ、と」



川島の、ドロに塗れたその両手のグローブには、老コーチの教えが深く深く染み込んでいる。

130もの摩訶不思議な練習メニュー、どこまでも高く高く舞い上がるハイボール…。

川島は今、その天空のハイボールに負けずに、上へ上へと向かい続けている…!








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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 3/7号 [雑誌]
「国境を超えた師弟の物語 川島永嗣」

2013年2月25日月曜日

一見遠そうな「岡崎慎司(サッカー)」の近道



「俺、プロになるまで洋服を買いに行ったことがなかったんスよ」

サッカー日本代表の点取り屋「岡崎慎司(おかざき・しんじ)」。彼は高価な時計にも惹かれなければ、派手な車にも興味がない。

頭の中は、いつもサッカーのことだけ。



岡崎がプロのサッカー選手になってすぐの頃、彼は自分の車を持っていなかった。そのため、寮と練習場の往復移動のために、ほかの選手の車に乗せてもらうことにしていた。

しかし、それではチーム練習後に、満足のいくような個人練習ができない。他の誰よりも練習したかった岡崎、帰りの車を気にすることが苦痛になっていた。

「ほかの人が練習後に居残りでボールを蹴っているのを見るとするじゃないですか。すると、『ここで他のヤツに負けていいのか? 帰るのはやめて、もうちょっと練習しよう』、みたいに思っちゃうんですよね」と岡崎。



「往復100分の自転車通勤」

気がつけば、岡崎は自転車で練習場に通うようになっていた。

——寮から自転車で片道50分もかかることなど、どうでもいい。大切なのは、心ゆくまで練習できるかどうかだった(Number誌)。

そんな岡崎、効率性とは無縁の場所にいた。



誰よりも遅くまで練習を続けたいと思うのは、「上手くなりたい」からだった。

「自分は下手くそだ。このままではマズイ。上手くなりたい。上手くなるのは楽しい。だから、もっと練習しよう!」

そんなシンプルな思考が、岡崎のサッカーの原動力となっていた。

——シンプルであるがゆえに、止まることがない(Number誌)。



ジュニア時代の岡崎も、そうだった。

「普通の子は、ある時期、急に上手になったり、逆に伸び悩んだりする。でも、慎司(岡崎)の場合は、毎年、毎年、少しずつでも確実に上手くなっていくんですよ」

岡崎の恩師、山村俊一コーチ(宝塚ジュニアフットボール)はそう語る。「そんな子、他におらんかったですわ(笑)」。



シンプルに「上手くなりたい」と専心する岡崎は、ほんのわずかずつでも確実に成長していく。

——岡崎は円を描きながら、少しずつ上へと進むラセン階段のような人生を送っているのだ(Number誌)。

上手くなるのがあまりにも楽しいから、上手くなりたいと願わない日はない。「それだけは、圭佑(本田)からも『すげぇなぁ』って言われますね(笑)」と岡崎。



現在、岡崎の日本代表での活躍は目覚ましい。

——現役の代表選手の中で最多のゴールを決め、史上最速で30ゴールに到達した。通算59試合で31ゴールと、2試合に1ゴール以上のペースでゴールを積み上げている(Number誌)。

今月(2月)6日に行われたラトビア戦でも、2ゴールを決める活躍を見せた。



その活躍はドイツでも知られ、現在所属するシュツットガルトのラバディア監督からも、大いに期待の目を向けられている。

「明日は日本代表のユニフォームを持ってこいよ!」

冗談まじりにラバディア監督は、岡崎にそう声をかける。

「そうすれば、毎試合のようにゴールを決められるんじゃないか?(笑)」



いまや、稀代の点取り屋となった岡崎慎司。

しかし、彼は「ゴールだけでは満足できない」と語る。

「飛行機が一番速いとしても、それで何が面白いの? って思うんですよ」と岡崎。

「大事なのは自分が楽しいかどうか。その基準で選んだルートが『一番の近道』だと信じています」



岡崎は効率性など見ていない。

自転車で行くのが楽しいと感ずるのならば、嬉々として自転車をこぐのだろう。たとえ遅くとも…。そして、「これこそが一番の近道!」と彼は断言するのだ。

サッカーならば「上手くなること」が、岡崎にとって一番楽しいこと。上手くならんとする欲望は、泉のように湧き出てくる。その決して枯れない泉こそが、彼の才能なのだ。



シュツットガルトでの練習後、あたりが暗闇に覆われるまで、岡崎はひとり、カベに向かってボールを蹴り続けていた。

ボールを蹴る。跳ね返ってきたボールを丁寧に止める。そして、また蹴る…。

キックの精度、そしてトラップの正確さを噛み締めるように、岡崎はひたすらボールを蹴っていた。



そして、30分ほど経ったのち、岡崎は満足そうな笑みを浮かべた。そして、ボールを拾い集めはじめる。

チーム練習後のグラウンドには、ボールが散らばったままになっていた。ここでは誰も片付けようとしないのだ。

岡崎がすべてのボールを袋の詰め終わった頃、あたりは真っ暗になっていた。



「ああいうのが好きなんですよ」と岡崎。

「自分は未熟なんだな、というのはいつも感じることなんで。上手い選手だったら、プライドとかあるのかもしれないですけどねぇ(笑)」

それはジュニア時代から変わらぬ、岡崎の地道な姿であった。トップ・プレーヤーになってなお…。











(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 3/7号 [雑誌]
「ゴールだけじゃ嫌なんですよ、僕は。 岡崎慎司」

2013年2月24日日曜日

イタリア人よりも陽気な「長友佑都(サッカー)」



「アイツはホントに日本人なのか!?(笑)」

元イタリア代表のマルコ・マテラッツィは嬉々として、「長友佑都(ながとも・ゆうと)」のことを話し出す。

「あの陽気さというか、開けっぴろげの性格とか、とにかくアイツが日本人だとは、到底おもえないんだ(笑)」



長友がイタリアのビッグクラブ「インテル」に行ったのは、今から2年前。

インテルといえば、過去ヨーロッパ王者に3回輝き、イタリア国内を制すること18回。伝統と格式ある名門クラブである。



「初めてインテルに来た日だったかな…」

マルコは、2年前に初めてチームに入ってきた日本人(長友)のことを振り返る。

「世界一マジメなはずの日本人が、ヘタな冗談は言うわ、みんなとゲラゲラ笑ってふざけ合ってるわ…。初日の一発目から、チームメート全員を虜(とりこ)にしたわけ(笑)」



長友の独特のキャラクターは、文句なしにチームメート全員から愛された。

「ヤツ(長友)は朝から晩まで、ずっと笑ってる」とアントニオ・カッサーノ。「あえて欠点をあげるとしたら、ヤツが何を話しているのか、よくわからないんだよ(笑)」。

長友の話すイタリア語は、なぜか訛(なま)っている。

「人一倍愛嬌のある小さな日本人が、イタリア南部なまり全開で話しかけてくるんだ。それだけで周りのみんなは笑いをこらえるのに必死だよ(笑)」



そんな笑える新人・長友佑都。

名門インテルに抜擢されたのは、古巣チェゼーナでの活躍がイタリアで脚光を浴びたからであった。

しかし、「出る杭を打つ」ことは、多くのイタリア人選手たちが得意とするところだ。インテルに入ったばかりの輝ける新人は、敵チームから徹底的に狙われた。そして、その活躍を封じられた。



「ナガトモはインテルの穴だ」

思うような活躍ができない長友を、イタリアの多くの識者たちが酷評した。

「悪い時の長友に対するメディアの評価は、10点中おおむね4点台という酷いものでした。もし、あそこで外圧に屈していれば、長友は消えていたかもしれない…」と、ある記者は語る。



しかし現実には、長友が外圧に動じることはなかった。

いやむしろ長友は、持ち前の脳天気さで、その重圧を自らのエネルギーへと昇華させてしまったのだ…!







結果的に、長友は名門インテルの主力に、わずか2年で登り詰めることになる(今季はほぼ全試合にレギュラー出場)。インテルの指揮官ストラマッチョーニは、そんな長友を手放しで褒め称える。

「私がインテルの監督になってから、最も成長した選手は、ほかでもないユウト(長友)だ。インテルというビッグクラブのプレッシャーをモノともせず、こんな短期間でチームに適応していることは驚異的ですらある」



辛辣なコメンテーターでさえ、長友の話となると、お得意の辛口が鳴りをひそめる。

「これまでヨーロッパに渡った日本人の中で、長友は本物のジョカトーレ(サッカー選手)と呼ぶに、最もふさわしい」と、大御所のマリオ・スコンチェルティも太鼓判を押す。



インテルのチームドクター(フランコ・コンビ)は、長友の驚異的な身体に驚いた。

「ユウト(長友)は右肩を脱臼した。手術を検討するほどの重傷だったが、今では痛みを全く感じていないと彼は言う(結局、手術はせず)。彼の身体を診ていて思うのは、ほかの選手よりもケガの回復時間が短いんだ!」

記者のロベルト・モンツァーニも、長友の身体能力に舌を巻く。

「今までそれなりの数の選手を間近で見てきたが、あれほど卓越したスピードと耐久力を備えた選手は、ナガトモ以外にいない。あの速さを90分間維持できるとは、とても信じ難い!」



「たどり着くよりも、そこに留まるほうが、格段に難しい」

古い格言はそう言うが、長友は名門インテルにたどり着き、そして留まり続けている。

「聡明な彼は、この国で生き延びていくために何が必要かに気づいているのでしょう」とモンツァーニ記者は言う。



長友がインテル移籍後に初ゴールを決めた時、彼は深々と頭を下げた。いまや誰もが知る「お辞儀パフォーマンス」である。

「あれは全国的なヒット作だからね(笑)」

今では、親友のカッサーノも長友と一緒に「お辞儀パフォーマンス」をやってくれるまでに。



「インテルのクラブハウスで私を見つけると、ユウト(長友)は必ずアレをやってくれるんだ」とインテル前任、クラウディオ・ラニエリ。「その姿がじつに愛らしいというか、こちらが癒されるというか…」

そして彼はこう締めくくる。

「ユウトは本当に愛すべき人間なんだなぁ…、としみじみ思う」








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2013年2月23日土曜日

達人「塩田剛三」の感化力。そばにいるだけで…?



「『塩田剛三』館長のような不世出の達人のお側にいると、何というか、身体の質が変化するんです」

そう言うのは、塩田剛三の内弟子でもあった安藤毎夫師範。

「内弟子になって4年目ぐらいに、塩田館長に感化され、心がすごくキレイになってきたというか…、誰と組んでも、相手の動きがスローモーションのように見えることがあったんですよ」



そんな時に迎えた1987年の演武会、中曽根内閣の葉梨大臣をお招きしてのものだった。

安藤師範は塩田館長の「受け」を務めることになっていたのだが、安藤師範は「今日なら、塩田館長にも勝てる」とすら思っていたという。

なにせ、どんなに素早い動きでもスローモーションに見える。だから誰とやっても怖くない。たとえ館長といえども…。



そんな安藤師範の気を察してか、塩田剛三館長は動かない。

「いつもだったら技がはじまるタイミングになっても、塩田館長が動かないんです」と安藤師範。「あれ? と思っていたら、大臣のほうを向いて合気道の説明をし始めて…、そして、その話の最中にいきなり振り向きざまに攻撃が来て!」

それでも、館長の動きはスローモーション。安藤師範は「ものすごくいい受け身」がとれたことを鮮明に覚えている。



「でも、その受け身を終えた途端に、それまでの聡明に澄み切った気持ちが崩れてしまって、普段の私に戻ってしまったんです…」と残念そうな安藤師範。

後日、塩田館長は「安藤がすごく伸びた」と人に語っていたという。






またある時、内弟子ではない指導員が、たまたま塩田館長と喫茶店でお茶をして、40〜50分ほど雑談を交わしたことがあった。

するとその後、その指導員が道場へ行ったら、「自分でも信じられないほど、バンバン技が決まる」。館長とは技の話をしたわけではなかったのに!

「きっと館長の側にいただけで、塩田館長の身体に感化され、自分の身体が活性化したんでしょうね」と安藤師範。



しかし残念ながら、バンバン技が決まったのは、やはりその日限り。

翌日以降は、本人も「あれは一体なんだったんだ…?」と呆然となるばかり。



「彼の場合は、一夜漬け的に塩田館長の身体感覚のようなものが共鳴し、一時的に達人の能力を体現できたのかもしれません」と安藤師範。

「塩田館長ご自身も、『オレが合気道の本質をつかめたのは、オヤジのおかげなんだ』と仰っていましたから」







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ソース:月刊 秘伝 2013年 02月号 (特別付録DVD付)[雑誌]
「内弟子 学びの四訣 忍ぶ・察する・観る・捨てる」

2013年2月22日金曜日

「ツイッター、日馬富士、卵焼き」。相撲人気、復調へ


「相撲のチケットって、プロレスより安いんですね」

2,100円の当日券(自由席)や3,600円の椅子席には、「若い観客の姿」が多く見られた。

それは相撲協会によるTwitterやFacebookでの若年層へのアピールが、奏功したからだろうか? 初場所直前には「ちゃんこ鍋の無料配布」などのPRイベントなども開催されていた。



その初場所、「満員御礼」の垂れ幕が下がったのは、昨年の5度を上回る「6度」。

国技館の入場者数の一日平均は8,183人を数え、前年比300人増だった(Number誌)。



思えば、ここ数年、相撲界の「客離れ」は深刻だった。

朝青龍の電撃引退(2010)に始まり、数々の不祥事が明るみに出たことなどが原因で、相撲界はすっかり衰退していた。

それがここに来て、「人気復活の兆し」が見え始めている(昨年比35億円の増収)。



「一年の相撲界を占う」という初場所の見どころの一つは、先の九州場所で「不甲斐ない横綱デビュー(9勝6敗)」となってしまった日馬富士(はるまふじ)。

終わってみれば、日馬富士の全勝優勝。千秋楽を待たずして白鳳に2差をつけていた。



しかし、世間の話題をさらったのは、日馬富士の優勝ではなく、「昭和の大横綱・大鵬」の訃報であった(場所7日目)。

「巨人、大鵬、卵焼き」

あらゆるメディアは、判で押したように当時の流行語をその見出しに掲げていた。横綱・大鵬が引退したのは1971年、そして亡くなったのは72歳であった。



大鵬の現役時代を知るのは、50代以上の人だろう。

だから、「巨人、大鵬、卵焼き」と言われても、何のことやらピンとこない。

説明するならば、このコピーに並べられた3つは、昭和30年代から40年代にかけての「強い者の代表」であった。



川上監督の巨人は圧倒的な強さを誇り、大鵬は毎場所のように優勝していた。

しかし、オヤジたちの中には、「巨人嫌い・大鵬嫌い」も少なからずいた。

そうしたオヤジたちは、「大鵬なんて、ただ勝つだけじゃないか」「川上監督の野球は、勝つばかりで面白くない」などなど、ひねくれた見方ばかりをしていたものだ。



そんなひねくれたオヤジたちは、いつの時代にも存在する。

彼らは、初場所で日馬富士が全勝優勝しても、「横綱相撲とは言えず、余裕がない」と、あくまで辛口だ。

とはいえ、賛否両論であるほうが、相撲界は盛り上がる。そこに時代を知らず、相撲も知らない若者たちが参戦してくるのなら尚更だ。



「相撲とTwitter」

そんな水と油が、新しい流れを生み出すのかもしれない。

バラエティで活躍する力士たちも、ずいぶんと増えたものだ…。







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「勝つべくして勝つ」。存在そのものが横綱の格



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/21号 [雑誌]
「明るい兆しの見えた初場所」

2013年2月21日木曜日

「姿勢」を問うた女子柔道選手たち。



「パーーーンッ」

乾いた音が大会会場に響き渡った。

決勝戦で敗れた女子選手の頭を、監督が思い切り引っ叩いたのである(2011年世界選手権)。



「普段からああなんですよ」

衝撃的な出来事にも関わらず、選手たちは淡々としていた。

なるほど、これが女子柔道界の「日常」であったのだ。






「手打ち、竹刀で叩く、足で蹴るなどの暴力行為」

それを全柔連(全日本柔道連盟)が認めたのは、先月30日(2013年1月)。

その裏では、暴力行為を告発した女子選手たちに「死ね!」「代表から外すぞ」との罵声が浴びせられていた、そうJOC(日本オリンピック委員会)は報告している。



なぜ、彼女たちはJOCに訴え出るという「異例の行動」に踏み切ったのか?

それは、全柔連の「姿勢」にあった(Number誌)。




JOC(日本オリンピック委員会)への告発に先立ち、彼女たち15人はまず、全柔連(全日本柔道連盟)に監督の暴力行為を訴えていた(2012年9月)。

しかし、全柔連は「何事もなかったかのように」、暴力監督の続投を発表(11月5日)。「監督の謝罪により収束」と選手たちの訴えを退けた(11月28日)。







その6日後であった。全柔連の「姿勢」に憤った女子選手たちが、JOCへの告発に踏み切ったのは。

「全柔連には、誠実に対応する気はない。変わる意志はない」

そうとしか思えなかった。だからこそ、動かざるを得なかった。



「私たちは、『連盟のため』に存在しているの?」

そう実感する選手たちも少なくなかったのである。



本来、「選手のために」こそ、連盟は存在すべきであった。

ロンドン五輪で活躍したアスリートたちの裏方には必ず、「選手のために」全力でサポートしたスタッフたちが存在している。






ところが女子柔道は、ロンドン五輪、金メダル一個にとどまった(男子ゼロ)。複数の金メダルを獲れるポテンシャルがあるはずだったのに…。

はたして、監督をはじめとする指導陣と選手との間に、信頼関係はあったのか? そんな疑問が呈されるのも無理はない。



それでも選手たちは耐えていた。全柔連の対応を、固唾を飲んで見守りながら…。

しかし、淡い期待は儚くも消えた。ろくな検証もないまま、何の臆面もなく暴力監督を続投させたのだから(前述)。

「もし真摯な検証と、再出発へのプランがあれば、告発はなかっただろう(Number誌)」



世論の激しいバッシングも奏功してか、全柔連が暴力行為を認めたその翌日(1月31日)、一転して園田監督は辞意を表明した。

しかし、「監督の交代で幕引きとなるなら、選手たちの想いを踏みにじることになる(Number誌)」

なぜなら、選手たちの根本にあるのは「柔道界を変えたい」という熱い想いだからだ。



「本来、連盟や協会といった団体は、『選手のために』あるはずだ(Number誌)」








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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/21号 [雑誌]
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2013年2月20日水曜日

クレイジーな42歳の「知的で繊細な駆け引き」。伊達公子(テニス)



「ときどき、選手のお母さんが私よりも若いこともあります(笑)」

現役を続けているだけでも驚異的な42歳、テニスの「クルム伊達公子(だて・きみこ)」は、そんなジョークを飛ばす。



一度引退したは、伊達が26歳の時、世界ランク4位、全英でベスト4に入るという絶頂期の引退であった。

そしてそれから11年のブランクを経て、伊達は2008年に現役復帰。「ツアー最年長選手としてコートに立つだけで話題になった(Number誌)」。



しかし、さすがの伊達も昨年あたりからはズルズルと世界ランクを下げ、146位にまで落ちてしまった(2012年11月)。

「伊達のチャレンジも、そろそろ限界ではないか…、引き際はいつなのか…」

そんなヒソヒソ話がささやかれることも…。



それでも伊達は、コートに立ち続けた。

「低迷の原因はケガだ」と彼女は確信していた。だから、ベストの体調で勝負してみるまでは、諦めきれない強い想いがあったのだ。

「ケガをした時点で、このままでは終われないと思いました」と伊達。



伊達は体幹の強さには定評も自信があったが、引退している時に負った左アキレス腱の断裂ばかりは長く尾を引いた。

「痛めるのはいつも脚。どんなに鍛えても筋肉がつかないという左ふくらはぎ。そこをかばって痛めてしまうことの多い右ふくらはぎ、さらにあるときは足首、あるときは太股。とにかく、連鎖するケガを克服したい…(Number誌)」

昨年、左ふくらはぎを痛めたのをキッカケに、伊達はコートよりもジムにいる時間の方を長くとっていた。



「もともと私は、重いウェイトを持つ筋力トレーニングには、あまり賛成じゃなかったんです」

そう言う伊達は、ピラティスなどをトレーニングメニューに取り入れ、ファンクショナル・トレーニングという方法で、身体を機能的・効果的に使うということに重点を置いていた。



「今行っているジムは、マシンすら置いてないんです」と伊達。

そうした知的なトレーニングにより、徐々に体調の上がってきた伊達。「身体の調子が良いから、勝ちは必ずついてくる」と信じられるようになっていた。






そして迎えた全豪オープン。

世界中が驚きを隠せなかった。

真夏の豪州で、最年長選手が単複ともに3回戦に進出したのだから…!



惜しくも破れたシングルス3回戦、相手はセルビアのホープ、ヨバノフスキー(世界ランク56位)。

「キミコは凄いわ! 私が生まれた時、もう今の私の年だったのよね(笑)」

ヨバノフスキーは21歳、伊達は42歳である。



「それで今もあのスピード、あの体力だもの。私よりも速い! あんな42歳に私もなりたいわ」

試合後、ヨバノフスキーは屈託のない言葉で、ツアー最年長の友人、クロム伊達公子に敬意を示した。



一方の伊達、「ヨバノフスキーが持っているもので、何か一つもらえるとしたら?」との質問に、こう即答した。

「若さですね」

それは、どんなにトレーニングをしても、どんなに技術を磨いても、今からでは決して得ることができないものである。






なぜ、伊達のテニスはベテラン記者やオールド・ファンを惹きつけるのか?

それは、あの年でまだ頑張っているから、という理由だけではないだろう。

「圧倒的なパワーと気迫に満ちた女子テニスの勝負の中でいつからか失われた『知的で繊細な駆け引き』を、伊達のテニスに見ることができるからだ(Number誌)」



「テニスをやめたら、やりたくないこと?」

そんな質問をされた伊達は、こう答えた。

「強いて挙げるなら、バナナはもう食べたくないですね(笑)」



枯れることのないキミコ・スマイル。

すでに引退してしまっているかつてのライバルたちは、伊達と顔を合わせるたびに、激励や祝福の言葉をくれるという。

「ついでにみんな口をそろえて言うんですよ。『ユー・アー・クレイジー!』って(笑)」



クレイジーな42歳。

その驚異的な復活劇は、自分自身の肉体との「知的で繊細な駆け引き」の結果であった。

若さだけじゃない、力だけじゃない「プラスαの何か」、それを伊達は周到に準備していたのだ…!








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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/21号 [雑誌]
「クレイジーな42歳の周到な復活劇 クルム伊達公子」

2013年2月19日火曜日

「フェードの罠」と宮里藍(ゴルフ)



「30までに結婚するって昔は思っていたんですけど、あと3年しかなくなっちゃいました(笑)」

ゴルフの「宮里藍(みやざと・あい)」は、今年27歳。アメリカでの挑戦は早8年目。



「ミック(キャディ)に、『3年ってすごくリアルだけど、結婚できるかな?』って訊いたら、『Time will tell(時間が教えてくれるよ)』って言われて…(笑)」

宮里藍が高校生で優勝してから(ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン)、ちょうど10年。2人の兄から「弟」と呼ばれていたボーイッシュな少女は、そんなこと(結婚)を気にする年になっている。



昨シーズンの宮里は、序盤から好成績を連発。初戦で単独2位発進すると、続く4月のLPGAロッテ選手権では、4年連続となるシーズン1勝目を挙げた。

「バーフェクトな仕上がり。不安はない。期待しかない」

スイングコーチでもある父の優さんが、そう言う通り、昨季の出来栄えは渡米以来、最高であった。「手首の柔らかさを活かした、深いタメで玉を弾くことができている」と父の優さん。

父の期待通り、宮里は7月、ウォルマートNWアーカンソー選手権で、2勝目も手にすることになる。






しかしその後、前半の勢いはどこかへ消え去ってしまい、宮里の逡巡(スランプ)が始まることに…。それは「フェードの誘惑」でもあった。

フェードボールというのは、落ち際で左から右へと切れ、スライス回転がかかるために地面をとらえると転がらずに止まりやすい。このフェードを、宮里は苦手にしていた。



「『あぁ、ここでフェードが打てれば楽なのに…』ってラウンド中に何十回も思ったんですよ。『なんで、フェードが打てないんだろ?』ばっかり…」

そんな宮里に、キャディのミックは疑問を感じていた。宮里はフェードなしでも十分に戦える選手であったからだ。



それゆえ、「本当にフェードが必要なの?」と首をかしげるミック。

「必要だと思う!」。宮里はもう、意地になっていた。



かつて米ツアーデビューの2年目に、宮里はスランプに陥っているが、そのキッカケとなったのもフェードだった。アメリカではフェードを打てないと攻められないと、宮里は思い込んでいたのだ。

一ヶ月以上の試行錯誤、「クラブをどこに上げて、どこに下ろせば良いのかさえわからなくなっていた」という宮里。

そして結局、「なんかフェードが打てなくても戦えるんじゃない?」と薄々気づきはじめた宮里は、難なくスランプから脱出することになる。



その6年前と同じだった、昨シーズンのスランプは。

そして、「フェードが打てなくても、スマートに攻められる」と、今回も気づいた。



部外者から見れば、宮里は6年前と同じことを繰り返したように見える。だが、それは「まったく違う」と宮里は主張する。

「戻ってくる場所は同じなんですけれど、前回とは戻ってきた道筋が違うんです」と宮里。「前回はテンポの重要性を再認識し、今回はコースマネジメントに気づいたんです」。

「違う理由、違う思いがいっぱいあるから、そのたびに戻ってくる帰り道も違ってくる」と宮里は言う。



スランプに落っこちるたびに、宮里は何かを拾って、その穴から出てくる。

「そういう経験が、樹の幹が太くなるみたいに、私を強くしてくれるんじゃないかと思っています」と宮里。



アメリカでの試行錯誤は、彼女を大きく変えている。

日本にいた頃は、父の教えを素直に受け入れる「優等生」だったという宮里。しかし、昨季のスランプを脱出してからというもの、父がスイングをチェックしに行っても、「教えてくれるな!」という拒絶のオーラを発するようになったという。

「親離れ、コーチ離れも、ゴルファーにとっては必要なんです」と苦笑いの父、優さん。






宮里の強烈なオーラには、ときにキャディのミックも怯(ひる)んでしまう。

それはミックがクラブ選択をミスした時。

「ミックが『ここは絶対7番だ』って言い出すから、オーケーって。で、ふたを開けてみたら、ものすごいオーバーしてたんですよ!」と怒る宮里。

「そのときは彼に対して、すごぉく怒りましたっ!」



全身の毛穴から怒りを発する宮里。「藍ちゃん」などという可愛さは、もはや微塵もない。

その隣で、針のムシロに座らせれたようなキャディ・ミック。

宮里の怒りがおさまらないのは、「なんで自分の直感のクラブでいかなかったんだろう」という自分に向けられた怒りもあったからだ。「直感でプレーするというのが、自分のゴルフのコアな部分のはずなのに…」。



そんな怒りの宮里が良いショットを放った時、ミックは言った。

「Welcome back(お帰り)」

それでも怒っている宮里、「はっ? それ私に言っているの?」。

あわてたミックは、「違う、違う、ぼくのこと」と言い訳をする。



「思わず笑っちゃいました(笑)」と宮里。

笑うと途端に「藍ちゃん」が顔を出す。



アメリカという大地に根を張った宮里藍は、年を追うごとにその幹を太くしている。

そして、その大樹を慕うように、後輩たちが続々と彼女の背中を追いかけている。

「今まで米ツアーで日本人が5人もフル参戦したことはなかったと思います」と宮里。アメリカのマスコミも「ツアーに『ジャパニーズ・センセーション』が巻き起こる」と囃し立てる。



今年こそ、悲願のメジャー優勝へ。

パワーヒッター揃いの強敵とタフなコース。彼女の行く道は、長く険しい。



「メジャーに関しては『なるようになる』と思っています」と宮里。「それでダメだったら、しょうがない」。

彼女の言う「なるようになる」は、決して投げやりではなく、入念な努力の末の言葉である。

「アメリカで7年やって、まだメジャーでは全く結果が出せていません。でも、メジャーに対して毎年ちゃんと準備はしてきたつもりです」と宮里。



たとえどんな結果が出ようとも、宮里藍という大樹の幹は太くなり続ける。

そしてその大きな背中を今、未来の宮里藍たちはシッカリと見つめているはずだ…。








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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/21号 [雑誌]
「今年こそ悲願のメジャー優勝へ 宮里藍」