2013年11月14日木曜日

跳ねるように歩くマキロイ [ゴルフ]




10代の頃から、ポスト・タイガーウッズとして期待されてきた「ローリー・マキロイ」。昨年は世界の頂点にたち、新時代の幕開けを予感させた。

ーー2012年、メジャーの全米プロで2位と8打差という大会記録をうちたて、米ツアーと欧州ツアーの両方で賞金王に輝いた(Number誌)。



彼のトレードマークは、その独特の歩き方。

ーーマキロイはいつも跳ねるように歩く。あふれる才能と若さが体内でパチパチ弾けあっているようで、何よりゴルフが楽しそうに見える(Number誌)。






ところが今年は一転、マキロイは不調に苦しんでいた。

ーー誰もが新時代の到来を予期して迎えた2013年。しかしフタを開けてみれば、上下に体を弾ませるマキロイの”バウンス”はすっかり消え失せていた(Number誌)。

最高位はテキサス・オープンの2位。メジャーどころか米ツアーでも1勝もあげられなかった。トップ10すら5回と前年から半減。



「シーズンがはじまった頃には、”悪いクセ”が顔をのぞかせていたんだ」

マキロイは言う。

「具体的には、テークバックでクラブがアウトサイドに上がりすぎて、下りてくるときにインサイドになっていた。それを直そうと思っていたのに、今度は直しすぎてテークバックがインサイドから上がるようになった」

スイングの修正をいったりきたりしているうちに、マキロイは世界ランキング1位の座から滑り落ち、自らのゴルフを「まったく馬鹿なゴルフ」と言い捨てた。

「スイングの修正というのは練習場でやるべきことで、コースではそういうのを忘れてスコアを出すことに集中しないといけないのに…」



すっかり舞台の隅っこに追いやられてしまったマキロイ。

ーー心地よくフェアウェーを飛び跳ねていた両足は、重りがついたかのようにラフに沈み、さえない足取りから抜け出せずにシーズンを終えてしまった(Number誌)。

一方、取って代わるはずだったタイガー・ウッズは完全復活。賞金王に輝いた。






苦悩のシーズンを終えたマキロイ。

ーーそんな時の彼には、いいショットが打てたときに地道に書き留めているスイング・ノートがある。不振の最中にはそのメモから必死にヒントを探すこともあった(Number誌)。

そして好調時の映像を見返していたとき、彼は気づいた。

”あの弾むような足取り”を失っていたことを。



「とくに意図的に歩き方を変えたつもりはなかった。でも、違っていた」

「たくさんバーディをとっている時なら、そういう歩き方をしたり、前向きな気持ちをキープするのは難しくない。調子が良ければそういう歩き方になるんだろうけど、調子の悪いときでも同じように振る舞うべきなんだと思う。少しでも”バウンス”を入れることで、ポジティブなエネルギーが戻ってくるんだから」



ーーゴルフではボギーの直後にバーディーを取り返すことを「バウンス・バック」という。不振の1年を過ごしたマキロイ、来年はバウンス・バックできるのか?(Number誌)

「もちろん、できる」

マキロイは力強くうなずいた。

そして、跳ねるような足取りでフェアウェーへと向かっていった。






(了)






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 11/14号 [雑誌]
「バウンス・ステップをもう一度 ローリー・マキロイ」



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2013年11月9日土曜日

移民に南北問題、そしてサッカー [ベルギー]


「ミスター、ミスター! あんた、鳥のフンがついてるよ!」

ベルギーの首都、ブリュッセルの駅前での光景。その声に振り返れば、”北アフリカ系の怪しい男”が立っている。

ーー彼らは旅行者の後ろから”白いペンキ(実際にそれは鳥のフンによく似ている)”を振りかけ、相手が驚いて立ち止まると、親切にもその汚れを拭くふりをして、ポケットの中の財布をすったり、もっと悪質な場合は、物陰からわらわらと男の仲間が出てきて、荷物をかっぱられることになる(近藤篤)。



このベルギーという国には、アフリカ、アジア、さまざまな国からの移民たちが暮らす。ヨーロッパの国では、上述のような移民による事件が頻発しはじめると、必ず「移民排斥」というスローガンが高らかに掲げられる。

もちろんベルギーでもそうだ。しかし、こと”サッカー代表”となると話はまったく変わる。

ーー駅前の悪い奴はなんとかしてほしいけど、ベルギー人はむしろ移民問題に感謝しなければならないかもしれない(近藤篤)。

「どうやら最近、ベルギー代表がかなり強いらしい」



わずかこの1年間で、サッカー・ベルギー代表は世界ランクを40位から5位まで、一気に35カ国もゴボウ抜きにした。

ーーもうこれはほとんど漫画の世界だ(近藤篤)。

その圧倒的な強さを支えるのが、多種多様な移民選手たちである。

ーーピッチ上に代表の面々が勢ぞろいする。こうして眺めてみると、改めてこのベルギーチームのもつ多様性に目を奪われる。屈強でパワフルな選手、小柄で巧みな選手、コンゴ系、モロッコ系、生粋のベルギー系、スピード系、パワー系、テクニック系…。平均年齢もかなり若い(近藤篤)。






過去を振り返れば、ベルギー代表は2002年の日韓W杯を境に

「この国のサッカーは一気に駄目になった」と、地元記者のルディは顔をしかめる。それ以来、W杯出場が当たり前ではなくなっていた。

「原因は世代交代の失敗、それに尽きると思います。この11年間、まぁきつかったですよ。今日は何点とられて負けるのだろう、と考えながらスタジアムに向かっていたのですから」



ではなぜ、ベルギー代表はここにきて、一気に強さを増したのか?

「あのさ、昨日あんた、いまのベルギー代表の選手のそろい方は奇跡的だとか言ってただろ。オレもその通りだと思うんだよ。あんなメンツはさ、育てようと思って育てられるわけないさ」

町のイタリア料理店で働くアンドレアは、そう話す。これだけの代表が集まったのは”神様の贈りもの”だ、と。

一方、サッカー協会は協会で、ちゃんと若手の育成をやってきた成果だと口にする。

「協会が若手の育成について本腰を入れはじめたのは、1990年代半ば。特徴ですか? 12歳まではひたすらドリブルをさせることですかね。ドリブルが上手くなれば、ボールを持っていても余裕ができるし、余裕ができれば周りを見ることができ、見ることができれば良いパスも出せますから」



いずれにせよ、いまのベルギー代表は強い。

激戦のW杯欧州予選、グループAをベルギーは首位通過。

ーーこのベルギー代表には期待したい。これまでのベルギー代表は”赤い悪魔”と呼ぶには若干怖さが足りなかったが、この代表はとんでもなく怖い”本物の赤い悪魔”になれるかもしれない(近藤篤)。






「ひとつさ、あんたが知っておいた方がいいと思うことがあるんだよ」

イタリア料理屋のアンドレアは、話しだす。

「最近、代表チームのことでこの国には”ちょっと奇妙なこと”が起こってんだ。あんたも知ってるだろうけど、この国は面倒くさい国なんだ。北と南はほんとに仲が悪いんだよ。全然仲良くなろうとしないんだ。だけど、この代表が勝つようになってから、なんていうのかな、ナショナリズムっていえばいいのか、どっち側の人間も『ベルギー人は…』みたいな話をするようになったんだ。これって、今までにはちょっとなかった妙な空気なんだ。あのベルギー人が、あの北と南の人間がお互いにサッカー通じてまとまってるって、すごいなぁって思うんだ」



アンドレアが”面倒くさい国”というベルギー。

その歴史的経緯から、北と南では話す言葉も異なる。北部のフランドル地方はでは”オランダ語に似たフラマン語”を話し、南部のワロン地方では”フランス語”を話す。もし北と南のベルギー人同士が話をするときには「彼らはあるときはフランス語で話し、あるときはフラマン語で話し、またあるときは英語で話す(近藤篤)」

いずれせよ、両者は絶対に「自分たちの言語を放棄しようとはしない」。

ーーつまりこの国では、2つの言語がいつまでも並行して使われ、2つの価値観がぶつかりながら存在してゆくことになる。そして当然のことだが、北と南は経済面も含めたさまざまな違いや差があり、ことあるごとに問題が表面化する(近藤篤)。



「北と南の人間は仲が悪いって本当?」

「政治になると、とくに仲が悪くなるね」

2010年の総選挙の際には、北と南の政党間で連立交渉が難航に難航をかさね、ついには541日間も正式な政権が存在しないという、およそ考えられない事態にまで陥っている。

ーー2時間の急行列車で北から南に移動すると、北と南にはものすごく大きな違いがあることを体感する。たとえば、北では普通に通じていた英語は、南に来るとほぼ通じなくなる。ゴミ一つ落ちていない歩道が、犬のウンチだらけになる。北ではほとんど冗談を言わなかったベルギー人が、南に来るとやたら冗談を言う。カメラを向けるとすぐにポーズをとってくれるのがベルギー南部、照れるのが北部である(近藤篤)。

そんな犬猿の両者がサッカーとなると、北も南もない「ベルギー人」になるという。






そのベルギーで活躍する日本人選手がいる。

川島永嗣(かわしま・えいじ)30歳

日本代表の正ゴールキーパー






彼は言う、「ベルギーでは、GK(ゴールキーパー)に対する視線は厳しいですよ。たとえば日本では、まずミスをしないことが求められますから、ボールをキャッチすることよりも”はじき出すこと”を優先することがあります。そんな場面でも、ベルギーでは途端に言われます。『ちゃんと捕れ!』って。すぐに違うGKの名前とかコールしはじめますし(笑)」

「ベルギー代表ですか? いまではすっかりいいチームになりましたよね。僕が感じるのは、この代表チームはなんだか”ベルギーらしいなぁ”ってことです。北の人間の真面目さと、南の人間の陽気さ、そういうものがうまく融合しているような印象を受けます。この国には、自分はベルギーが好きだ、とか言う人はあんまりいないですけど、この代表なら外に向かって誇ることができる。だから、みんな嬉しいんじゃないですかね」



世界ランクを急上昇させたベルギー代表。

その実態はじつはまだよくわからない。

ーーその理由を探しに訪れた地で見つけたのは、サッカーをめぐって織りなされる”稀有でハッピーな光景”だった(近藤篤)。












(了)






近藤篤「サッカーと僕たちの幸福な関係 ベルギー」

2013年11月7日木曜日

流れのなかで、自然から力を”借りてくる” [桜井章一]



話:桜井章一


カラダというものは、環境が絶え間なく変化する流れの中にあるものゆえ、その動きもまた同じように流れているのが自然である。ところが現代人は皆、流れるようにカラダを動かすことをしていない。”していない”というよりも、”できない”というほうが正しい。

動きが流れているとき、カラダには力が入っていない。ところが、目的意識をもって「ああしよう」「こうしよう」というときにはカラダに力が入り、動きは流れなくなる。思考することがクセになっている現代人は、カラダの動きより意識が先立ってしまい、どうしても流れるような動きができない。

カラダに流れをつくり、自然な動きをするにはどうすればいいか?



たとえば、こんな簡単な実験をしてみるといい。

立った状態で目の前の床に何かモノを置く。それを目標物として目でしっかり捉えながら、前かがみになり腕を伸ばしてつかみにいく。そして今度は、同様に立った状態から床の上のモノをちらっと見たあと”視線を外し”、モノのあるあたりを感覚に収めながら、同様に前かがみになって取る。

やってみると分かるのだが、カラダの動きは明らかに違う。前者は硬くて重いが、後者の動きは流れている。前者のように、”つかもう”といった「〜しよう」という目的意識をもつと、カラダの動きは途端に流れなくなってしまう。後者の場合は、目標物への視線を外すことで、流れをそこでつくっているのである。

このことは、”つかもう”ではなく、”さわりにいく”という感覚に置き換えてもいい。

たとえばプロの野球選手は、守備で飛んでくるボールに対して「つかみにいく」という意識でやっていないはずだ。むしろ「さわりにいく」という感覚に近いとおもう。「つかみにいこう」という意識だとボールはうまく捕れない。「さわりにいく」という感覚だと、カラダが流れる動きになってボールの流れとピタッと重なる。



全体が流れている中で動くカラダは、やはり流れていないといけない。

ものごとは流れの中で力を抜いて始末する。力が抜けてカラダが流れる動きになると、硬い動きのときに出来なかったことが出来る。”力を抜く”ということは力が入っていない状態だが、これは何に対しても”〜しよう”という思考のクセをもっている人にとっては難しい。だから力を抜こうと思うのでなく、”身体の動きを流れにする”という感覚をもったほうがカラダは素直になるかもしれない。

カラダが素直になる、正直になるということが、カラダの最も自然な状態なのである。流れの中で力を抜いたカラダというのは、常識では測れない力を秘めている。なぜならそれは、”自然から借りてきた力”に他ならないからだ。





引用:桜井章一『体を整える


2013年11月1日金曜日

”すべて”を変えた浅田真央。すべてを賭けて [フィギュア]



バンクーバー五輪(2010)

銀メダルをとった浅田真央(あさだ・まお)に、松岡修造は訊ねた。

「これから何を変えたいですか?」



彼女は即答

「”すべて”です」

19歳だった彼女は、銀メダルに悔し涙をながした。







松岡は言う

「じつは真央さんほど応援していて緊張する選手はいない。彼女の心がそのまま観ている僕たちにも伝わってくるからです。とくにトリプル・アクセルにむけて助走する数秒は”最も力が入る瞬間”。ぼく自身も緊張と興奮のはざまにいる。失敗したときには残念というよりも、真央さんの悲しむ表情を見ることのほうがツラくなる…」



——素直でまっすぐ、そして言い訳をしない。

 リンクにはいつも誰よりも早く立ち、最後まで滑り続ける。日々、繰り返しの練習。トリプル・アクセルも転んでは立ちあがり、コーチから止められるまで決して諦めようとしない(Number誌)。






今季、浅田真央はソチ五輪(2014)を”自らの集大成”とすることに決めている。じつは昨季、彼女の口から「スケートをやめようと思った」とこぼれていた。

松岡は言う、「一瞬、ぼくは言葉を失った。真央さんがそこまで追い詰められていたのか、と。彼女だったらどんなことでも乗り切ってくれるだろう、と安易に考えていた自分が後ろめたくなった」



はじめてスケートと距離を置く時期をすごした浅田真央。

昨季の戦績は6勝5敗と圧巻だった。それでも彼女に会心の笑みはなかった。

「自分の演技がまだまだだったので…」








バンクーバー五輪のあと、”すべて”を変えたいと願った彼女は、コーチ佐藤信夫のもと、スケーティング、ジャンプ、ステップのすべてで”新たな浅田真央”をつくりあげた。

今季の幕開けを前に、その”新しい”彼女の言葉は力強かった。

「いまは自分の目指している演技に近づけているとすごく感じています。良いシーズンになると思います」



その言葉を象徴した、今季GP(グランプリ)シリーズ開幕戦。スケートアメリカ。

——去年までとは、まるで別人だった。ジャンプや滑りだけではない、ちょっとした表情や仕草までが違うのだ(Number誌)。

ショート・プログラムは、トリプル・アクセルでわずかに両足着氷とはなったものの、ほかスピンやステップはすべて最高のレベル4。71.18点で余裕の首位発進。

浅田は言っていた、「初戦から”トリプル・アクセルに挑戦できる状態”なのが、これまでと違います。今季は練習でしっかり跳べているので、そのまま試合で出せばいいと感じています」



コーチの佐藤は「彼女は大人になった」と言う。

じつはコーチに就いた当初、佐藤は「まだ20歳の女の子。つかみどころがなく、会話することさえ難しい」と述懐していた。

佐藤は言う、「以前は”赤ちゃんがただ泣いているような感じ”で、何が欲しいのか僕が想像しなければならなかった。だが今は、彼女は自分で意思表示できる。ぼくも明確に指摘できるので、練習がぽんぽんと進むようになりました」

”大人”になった浅田は言う、「先生の目指すものが、ようやく身体に染み込んできたな、と感じています」



首位でむかえたフリーの演技

浅田は冒頭のトリプル・アクセルで転倒した。

その失敗をうけ、彼女は「3回転+3回転」などの大技を、その後すべて回避。無茶なジャンプを跳ばずに演技をまとめ、自己ベストまで約1点と迫る総合204.55点で優勝を飾った(GP12勝目・日本最多記録を更新)。

勝った浅田は、こう振り返る。「リスクを背負ってまで3+3をやらなくても良いと思って、とっさの判断で3+2にしました。後半も転倒の疲れで力が入らなかったので(3回転の回避を)判断しました」



そうした的確な判断は、佐藤コーチに言わせれば「スケートの定石」である。だが、今季好調の浅田に彼は”さらなる高み”を求める。

佐藤は言う、「去年は”ジャンプの調子をみて今日は無理と思えば止めなさい”と言っていました。でも今はいい感じで仕上がっています。作戦など考えず、途中でミスがあっても”攻めの気持ち”で強引にやらせる時期になりました。トリプル・アクセルも3+3もどんどん挑戦させてやりたいです」

浅田はそれにこう応える。「判断できたのは”成長”とも感じます。でも、判断した余裕があるとも、力不足とも思います。転倒してリズムが崩れて『もう失敗したくない』という気持ちが出てしまいました」

——作戦は「攻め」へと切り替える段階だというのだ。2人は一足飛びで階段を駆け上がっていくかのようだ(Number誌)。






松岡修造は、浅田真央をこう評する。

「何があっても上を向いて歩んでいく、一生懸命すすんでいく姿を愛さずにはいられない。それほどまでに”想いを共有できる選手”なのだ」

松岡は浅田に訊ねる、「集大成となるソチ・オリンピックでの、演技のこだわりは?」

彼女は間髪いれず

「”すべて”です!」

そう即答した。








——スケート人生を賭けた戦いがはじまった。

 いままででイチバン強い浅田真央を、今まででイチバン応援したい(松岡修造)






(了)






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 11/14号 [雑誌]
「浅田真央の人生をかけた舞台の幕があがるとき 松岡修造」
「ソチ五輪まであと100日 浅田真央」



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2013年10月25日金曜日

「鬼」の大松と「東洋の魔女」。1964東京五輪 [バレーボール]



高度経済成長の前夜

日本は朝鮮戦争の勃発(1950)を機とし、「糸へん景気」に沸いていた。文字通り「糸」に関わる繊維産業が、政府統制のくびきから解放されて大発展を遂げたのだった。

そんな活況にわく多くの紡績会社では、社員らが仕事の余暇として「バレーボール」を楽しめるようにとコートをつくり、そして次々と実業団チームが誕生した。



そのなかで最強を誇ったのが「日紡貝塚(にちぼう・かいづか)」。

大阪・貝塚市にある日紡の貝塚工場に集められた選手らは、敷地内にある寮に住み込み、一心、練習に打ち込んだ。

そして生まれるのが「東洋の魔女」。のちの東京オリンピック(1964)で金メダルを獲得することになる女たちである。



昭和29年(1954)に結成された日紡貝塚は、翌年には早くも日本一。昭和34年(1959)からは連勝記録をつづけていく。

その初代監督の任をうけたのが「大松博文(だいまつ・ひろふみ)」。鬼と呼ばれた男である。彼は大学時代、全国大会で2度優勝した実績を買われたのであった。



黙ってオレについてこい。

男・大松は、「泣くな!」と怒号を張り上げ、そのスパルタぶりを内外から恐れられた。

「いやー、ゾッとしましたもん」

のちの魔女の一人、宮本恵美子は高校時代、入部前の練習見学ですっかり怯んでしまっていた。



「先生の気に入らないことをすると連帯責任ですから、グランド走れってなったら、2時間でも3時間でも4時間でも延々と走らされるわけです」と、半田百合子。

「痛いって言ったって練習を休むことはできないから、言わないんですよ。ケガとか病気は休んで治すんじゃない、やりながら治すんだっていう教えだものですから」と、キャプテン河西昌枝。






■鬼



アマチュア選手は仕事もおろそかにしてはいけない。

その方針のもと、会社で資材係長だった大松は選手たちに朝8時から夕方4時まできっちり勤務に就くことを求めた。

鬼の練習はようやく仕事が終わったあとに待っている。”勤務時間を超える長い練習”はそれから始まるのだった。



「できないことやんのが練習やないかぁ!」

鬼の大松はその日の目標を定め、選手たちができるようになるまで練習をやめようとはしなかった。夜中の12時をすぎるのは当たり前。ときに練習は翌朝の日の出をみることもあった。

松村好子は言う。「練習おわるの、朝の5時ごろとかね」



体育館には始終、大松の怒鳴り声が鳴りひびく。

その最も叱られたのが谷田絹子だという。ある夜、練習で倒れる選手が相次ぐなか、谷田も倒れ伏していた。すると大松から、いきなりバケツの水をぶっかけられた。思わずコートから逃げ出した谷田。満点の夜空にむかって「大松のバカヤローーー!」と怒鳴り散らす。

谷田は言う。「すっとして体育館に入ったんですよ。大松先生に聞こえてますよね。こんなガラス一枚だから。そしたら先生、ニタニタ笑っててね。その顔見ただけで、また腹が立って(笑)」



あまりに厳しい練習は社内のウワサ話に吹かれ、ついには組合サイドまでが乗り出してきたこともあった。

「そんなことに怯むような先生じゃないですからね」と松村好子は言う。

「大松先生っていうのは、もの凄い信念もってる人です。こうだと思ったら、もう絶対に人がなんと言おうとも最後までやる」






■おじょう



信念の鬼、大松博文。

しかし意外にも、少年時代は”引っこみ思案のおとなしい性格”だったという。ついたアダ名は「おじょう」。

「お嬢さんの”おじょう”です。それぐらい優しかったんでしょうね」と、当時を知る人は語る。



”おじょう”を”鬼”にかえたのは、戦争だった。

第二次世界大戦の開戦直後に出征した大松は、中国を歴戦し、最後はビルマでインパール作戦に小隊長として従軍する。部下は年上ばかり。自らが人の嫌がることや危険な任務を率先してやらなければ、年上の部下らは動かなかった。

「人に任せられんちゅうことを学んだんでしょうなぁ。自分でやらなきゃとにかく納得できないっちゅう」。大松の軍時代を知る人はそう言う。



実際、日紡貝塚でバレーボール部を率いるようになった大松は、コーチをまったくおかずに、たった一人で選手たちにボールを打ち続けた。

キャプテン河西昌枝は言う。「私たちは汗でびしゃびしゃになれば着替えたりしましたけど、先生は汗をふくひまもなく着替えるひまもなくビタビタになりながら、連続して打ってるわけです」

そんな一心なる大松の姿に、選手らは次第に惹かれていく。

河西は続ける。「そういう姿を見てると、自分のためじゃない、誰のためじゃない。選手のためを想ってやってるのが分かるから。先生にしてみれば、何とかこの選手をうまくしてやろうと思って打ってるのを、選手がわかるから」



チームと監督の絆は、無言のうちにも養われていった。

「このチームが強かったのは、それなんですよ」とキャプテン河西は言う。



月に一回は”息抜き”もあった。大松が選手らを連れて外へ遊びにいくのだ。

松村好子はその思い出を語る。「かならず月一回、映画つれてってくれるんです。全員でバーッと難波へ出て、ほんで映画みて、帰りは『おまえら、好きなん食べよー』っていうてくれるんです」

(バケツで水をかけられた)谷田の記憶では、遊んで帰ったあと夜10時からでも練習がはじまることがあったというが…。






■世界



高度経済成長まっしぐらの昭和30年代。”豊かさ”が手の届くところにまで迫っていた当時の人々は、がむしゃらに生きていた。

そうした中、東京オリンピックの開催が決定した。アジアで初めてのオリンピックである。



しかしオリンピック開催決定の当初、バレーボールはまだオリンピックの正式種目ではなかった。バレーボールにとって世界最高峰の舞台は「世界選手権」だった。

そして、当時の王者は「ソ連」。昭和35年(1960)の第3回世界選手権で、日本代表は決勝まで駒をすすめるものの、王者・ソ連に敗れる。日本は、その高さとパワーに圧倒された(代表メンバー12人中、日紡貝塚6人)。

宮本恵美子はこう語る。「もう、凄かったですよ。(ソ連は)体格的に違いますもん。背は高いし、ガッチリしてるし、男かなと思うような感じ。いやぁ、これだけ違うかなと思った」



「打倒ソ連」

ソ連に敗れて以来、それが日本バレーの至上命令となった。

「世界選手権でソ連を倒す」






■回転レシーブ



「おまえら、ゴロゴロ転がってみぃ」

大松には、打倒ソ連へむけた”ある秘策”があった。

「そっから、ぽっと起きてみぃ」

そう言われてヨイショと立ち上がる選手たちに、大松は「そうやない」と言う。”起き上がりこぼし”のように、コロンと立ち上がれと言うのだった。大松は、子どもの遊ぶオモチャをみて新技「回転レシーブ」を思いついたのだという。

「なぜ、こういう回転レシーブをするかといいますと…」、大松はメディアに語る。「次の動作に敏捷にうつれるように、こういう回転をしては、また所定の位置に敏捷にかえるというための練習であります」



打倒ソ連へむけた回転レシーブ。ソ連の猛攻を凌ぎ切るには、「守るに守るしかない」と大松には思われた。ゆえに、練習のほとんどがレシーブの練習に費やされた。

そして、その練習はやはり過酷であった。大松は以前にも増して容赦なく、選手たちにボールを浴びせかける。

「ぼんぼんぼんぼん、投げられるわけすよ。まだ転んでるときにもボール投げられて、『こんなの誰がどないしても上げられんやないか!』という気持ちになってきたら、もうカーッてなって、私」

思わずカッとなった谷田絹子は、”蹴っちゃいけないボール”を足で蹴るや、大松にぐーっと食ってかかったという。それほど、選手らは大松に追い詰められていた。



大松は言い放った。

「むこうが100、練習してるんなら、体力が劣る分、150%練習せなあかん。ソ連が10なら、お前らは15、17練習せいっ!」






■東洋の魔女



昭和37年(1962)、ついに世界の頂点をかけて、ソ連と雌雄を決するときがやってきた(第4回・世界選手権モスクワ大会)。

苦杯をなめさせられた2年前と同じく、決勝のカードは「日本 vs ソ連」。

大松と選手たちは、この2年間、この場でソ連を倒すためだけにすべてを賭けてきた。



しかし、さすがソ連は強い。

第一セット序盤、日本はリードするものの徐々にソ連のパワーに圧倒されていき、このセット、ついには競り負ける。

コートチェンジの際、大松は選手らに声をかけた。「お前ら、会社で練習した回転レシーブを思い切ってやれ」と。



以後、厳しい練習に耐え抜いて身体に染み込んでいた回転レシーブが、要所要所で決まっていく。勢いに乗った日本は、そのまま3セットを連取。

日本はソ連をセットカウント3対1でやぶり初優勝。

悲願の世界一に輝いた。



「日本列島のミステリーだ!」

ソ連のマスコミは、驚くように書きたてた。

「魔法使いのようだ!」

ソ連の世界選手権4連覇をはばんだ日本。ソ連を不動の王座から引きずり下ろした衝撃は、「東洋の魔女」という言葉を世界に知らしめることになる。






■正式種目



すべてはやり遂げた。

この世界選手権での優勝を手土産に、大松も選手たちも「引退」するつもりだった。

そんな気持ちで、モスクワからの帰り道、優勝プレゼントの世界一周旅行を魔女たちは無邪気に楽しんでいた。



ところが…、帰国した彼女たちを待っていたのは、思わぬ知らせ。

「2年後の東京オリンピックで、バレーボールが正式種目に決まりました!」

報道陣は魔女らにそう告げ、金メダルへの期待を露骨にあらわした。



「えーーっ!?」

彼女らの脳裏に浮かんだのは、あのツラい練習だった。「もう、終わったと思っていたのに…」

半田百合子は、げんなりした。「なんでまた365日、夕方の4時半ぐらいから練習して、終わるの夜中の1時、2時でしょ。休みなしでしょ。もう、またあと2年かって…。こんな堪忍してくれって」

最年長だったキャプテン河西(当時29歳)も即答はしかねた。「じゃまたあと2年やりますって、そう簡単には返事ができなくて…。それからすったもんだ。やめるのやめないの、やるのやらないの(笑)」



「結婚か五輪か」

適齢期”東洋の魔女”日紡貝塚

予想つかぬ二年先

(大阪日々新聞 昭和37年)



金メダル確実とみられていた”東洋の魔女”が、東京オリンピックに出場するか否か。

それは社会問題にまでなっていった。






■キャプテン河西昌枝



キャプテン河西の両親は心配していた。娘はもう29歳。親の願望としてはやはり結婚してほしかった。末っ子だったからなおさらだった。

こうした話には大松も鬼ではない。彼はなにより選手たちに将来、しあわせになってほしかった。

大松は言った。「これ以上やれとは俺からは言えない。しかし、君たちがやるなら、俺もやる」



キャプテン河西は、悩んだ末に答えをだした。

「まぁ29で結婚しても、31で結婚しても変わりないか、みたいな(笑)。そう思って、結婚よりもバレーボールを選びました」

”あの河西”にそう言われると、他の選手らもやめるわけにはいかなくなった。



そして、また始まった。

地獄の日々が。

大松は叱咤した。「今までの練習の”倍の倍”もやらないとダメだ!」

半田百合子は冷や汗を流した。「なんかゾーッとしました(笑)」

恐ろしいことに練習時間はさらに伸び、大松の厳しさは一段と増していた。



大松のみならず、キャプテン河西までもが「鬼」となっていた。仕事で一足遅れてくる大松に代わり、選手たちにボールを打ち続けたのは彼女だった。

松村好子は言う。「先生より厳しかった(笑)」

大松の場合は厳しいといえど、どこか甘えられた。

松村は言う。「先生だったら、一本ぐらいミスしてもいいか、息抜きしたれっていう甘えがあるんですよ。でも、河西さんの場合は夢中でした。怒られたら怖いから(笑)」






■新人



東京オリンピックの金メダルにむけ、攻撃力強化のために一人の新人が加わっていた。

磯辺サタ(19歳)。高校No.1アタッカーであった。

しかし、そんな鳴り物入りの彼女でも、魔女らのなかに入ればぺーぺーにすぎぬ。まったく周りについていくことはできなかった。



キャプテン河西は容赦なく、「足手まとい」と磯辺に言い捨てた。

先の先を読んでプレーしていた中、磯辺のところにボールがいくと、その先が予測できず、後手後手にまわらざるを得なかった。

新人・磯辺は言う。「あんたがいないほうが楽だって言われましたよ(笑)。わたし一回ね、練習中に廊下にでて、5分くらい大きな声でワンワン泣いて帰ったんですよ。練習さぼって」



正気にもどった磯辺が、監督のもとへ謝りにいくと、大松は「バカなことすんな…」と優しく言ったという。それで「すごく気が楽になりました」と磯辺は振り返る。

両親のいなかった磯辺にとって、大松は父親的なものを感じさせる男であった。ほかの選手らも然り。大松は「男」として魅力的であった。

宮本恵美子は言う。「背は高いでしょ。精悍な顔してますよね。で、あんまりベラベラしゃべらない。みんなの面倒をみてくれる。結婚するんだったら大松先生みたいな人と結婚したいな、と私は思ってましたもの。先生が嫌いだったら、あの練習にはついていけませんよね」






■全国行脚



大松は、練習の緊張感をさらに高めるために、北は北海道から南は九州、日本全国で公開練習を敢行した。

キャプテン河西は言う。「どこの体育館いっても満員なんですよ。で、満員であればあるほど、ものすごく厳しいことをやるわけです(笑)」



”東洋の魔女”に国民が寄せる「金メダルへの期待」。公開練習を通じて、それが選手たちにビンビン伝わってくる。

観るほうも同様、「あんな厳しい練習をやってるんだから、勝ってほしい、勝たせてやりたい」という切なる思いが募る。

いつしか、国民と選手らの気持ちは一つに近づいていっていた。



そして昭和39年(1964)、いよいよオリンピックが東京にやって来た。

快晴の国立競技場。

灯される聖火。

入場行進の最前列には、女子バレーボールの選手たち。



彼女らの目が見据えるのは、ただソ連のみ。

ふたたびソ連との因縁の対決が迫っていた。






■決戦前夜



日本とソ連の実力は、他国から抜きん出ていた。

初戦、日本はアメリカを軽々と下し(15-1, 15-5, 15-2)、ソ連もルーマニアに圧勝(15-5, 15-6, 15-0)。

以後、日本はルーマニア、韓国、ポーランドに順当に勝利を収め、ソ連もまた、1セットも落すことなく日本との直接対決(決勝)を迎えた。



新聞は、東洋の魔女による目覚ましい活躍を報じる。

「当然の勝利。サァ、”金”で有終の美(日刊スポーツ)」

国民は皆、「金メダルは確実だ」と思っていた。



しかし、当時マネージャーとしてチームと接していた小島孝治は、そうは思っていなかった。

「余裕はあったと言うけど、ウソですなぁ。大松さんは変動なかったけど、選手はね、だんだんと目は血走ってくる。考えもだんだん焦ってくる」

谷田絹子は当時をこう語る。「口には出さずに、『負けたらどうしよう、日本にはおれんかもしれない』とかね。どっか山の中に籠って、みんなから逃げ出してしまいたいっていう、そういう気持ちがほんとにありました」

それでも谷田は、足首を捻挫してなお、ソ連との対戦を渇望してもいた。

「このために練習してね、一生懸命やってきたんだから。テーピンをして、痛み止めの注射をしながらソ連戦に出たんですよ。大松先生がメンバーチェンジと言われても、私はポールに食らいついてでも(コートの)外に絶対に出ないと思ったもの(笑)」






■決戦



1964年10月23日、決戦の日。

試合直前、大松は選手らに言った。

「今までワシの言うことを聞いて、よく頑張ってくれた。これが最後だからな。頑張ってくれるな」

宮本恵美子は言う。「みんな胸にグゥっときてね」



東洋の魔女、最後の戦いの幕が切って落された。

実況「ニッポンの河西、回転レシーブ、拾った! さあ、磯辺!」

一時は「足手まとい」とまで罵られた磯辺サタは、オリンピックでは立派なエースにまで成長していた。セッターのキャプテン河西は、勝負所では決まって磯辺にボールを集めた。

実況「磯辺のスパイク! 決まったー!」



練習につぐ練習で、練りに練られた日本にスキはなかった。

さすがのソ連も浮き足立つ。日本は順調に得点を重ね、2セットを連取。つぎの第3セットをとれば、夢にまでみた金メダル。



試合は大詰め。

第3セット、「14対9」と日本はソ連を追い詰めた。

「あと一点」

金メダルまで、あと一点。






■あと一点



5点もの差をつけてマッチポイントを迎えた日本であったが、この土壇場でソ連の猛攻に火がついた。

王座奪回を目指すソ連は、国家の強力なバックアップを得て日本のプレーを徹底的に研究していた。まさに国家を威信をかけた戦いだったのだ。



実況「ルイスカル、打った!」

ソ連のエース、ルイスカルのスパイクが光る。決まる。ルイスカルに集められたボールは、次々と日本のコートに決まっていく。

じりじりと差を詰めるソ連。



実況「おーっと、サービス・エース! 13点目であります。さすがに粘ります。ソビエト」

スコアはついに「14対13」。まさかの追撃に日本は不安定なプレーを連発してしまっていた。

キャプテン河西は言う。「なんかフッとこう、気の緩みというのかな。そんな時にミスが連続して。普段やらないようなミスが出たりしましたよね」




「あと一点」がとれないニッポン。

選手らはすっかり浮き足立っていた。



しかし、ベンチの大松は微動だにしなかった。どっしりと落ち着けた腰はそのままに、口はぐっと結んだままだった。

彼にはもう口を出す気がなかった。すべてを選手たちに任せていたのだった。



その監督の泰然とした様をチラと見て、キャプテン河西は理解した。

「私はもう全然冷静にしていて。大丈夫だからって。私は笑いもしないし、あんまり表情も崩さないから(笑)」

そのキャプテンの落ち着きぶりは、選手たちに伝わった。

半田百合子は頼もしさを感じていた。「やっぱりキャプテンは、ああいう時は強いかなぁ。やっぱりリーダーシップっていうのかな」






■最後



実況「バックトス。磯辺のスパイク。今度は宮本のスパイク。ソビエトもよく受けました。ルイスカル! とった。磯辺! ニッポンです。バックトス。磯辺! またとりました。ルイスカルだ。宮本、磯辺。」

「14対13」からの長い長いラリー。

宮本恵美子は言う。「いやもう、拾って拾われて、拾っては打ちしてね」

それを制したニッポン。ようやく流れを引き戻した。



そして、6回目のマッチポイント。

ついにその時はやってくる。

最後にソ連は前がかりすぎたか、手が出た。オーバーネット。



実況アナウンサー、鈴木文彌は叫んだ。

「ニッポン、優勝しました! ストレートで勝ちました。ニッポン、優勝しました! ニッポン、金メダルを獲得しました!」

感慨を込めて、鈴木は続ける。「苦しい練習につぐ練習。すべて”この一瞬”のために払われた涙ぐましい努力。厳しい練習に耐え抜き、青春をボール一途に打ち込みましたのも、みんな”この一瞬”のためであります」

※視聴率は66.8%を稼ぎだしていた。



欣喜雀躍する選手たち。

しかし、大松ばかりはベンチから立とうともしなかった。いくら選手らに手をひかれても、そこを動く気はないようであった。

娘たちのような選手たちが歓喜する光景を見やりながら、大松はひとり寂しさを感じていた。すべてが終わったという寂しさを。



いちばんの叱られ役だった谷田絹子の想いも、また似たようなものだった。

「その瞬間は金メダルをとれた嬉しさじゃなくて、『もうこれでみんなとお別れかな…』って。うん。その涙のほうが強かったですね」



メインポールには、高々と日の丸が掲げられた。

大松は、表彰台に上に立った選手たちを、静かに見ていた。

彼女らの胸には金メダルが輝いた。



大松の元に戻った選手らは、大松に金メダルをかけようとした。だが、彼はそれを拒んだ。

宮本恵美子は言う。「金メダル、もらわないんですよ、先生は。だから、『先生にかけてあげたいです』って言いましたよね。『親よりも兄弟よりも自分よりも、大松先生にあげたいです』って」






■後日



オリンピックの熱狂が去るとともに、大松博文は監督を引退。

最年少の磯辺サタをのぞいた東洋の魔女5人(河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子)も、あとに続いた。



東洋の魔女の強みであった司令塔、キャプテン河西昌枝は、オリンピックの翌年に日紡を退社。そして、2歳年上の自衛官と結婚した。

大松博文は、中国の首相・周恩来の招きで中国の女子バレーを指導することとなった(その後、中国は世界一の座につく)。

名門・日紡貝塚というチームは、東京オリンピックでマネージャーを務めていた小島孝治・新監督に受け継がれ、公式戦258連勝を記録した。以後、チーム名が「ユニチカ」となり、2000年の活動停止をもって「東レ・アローズ」へと引き継がれた。



東京五輪の金メダルを目指していた頃の魔女らは、当時、こんな歌を口ずさんで自らを励ましていたという。



♪やるぞ見ておれ 口には出さず

世界制覇の一途な夢を

負けてなるかよ くじけちゃならぬ

そうだ今年は東京五輪

乙女 望みを貫くときにゃ

敵はソ連だ こちらは日紡

なんの世界は怖くはないが

鬼の大松 練習がつらい♪



大松博文は昭和53年(1978)、57歳で他界。

墓石の脇には、「根性」の文字が刻まれた”石のバレーボール”が捧げられている。













(了)






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ソース:ドキュメント『スポーツ大陸』
「東洋の魔女 鬼の大松 コートの絆」

2013年10月22日火曜日

「小さな求道者」宮間あや [サッカー]



ロンドン五輪前の、昨年(2012)の4月下旬。

ドシャ降りの雨のなか、宮間あやはチーム練習後も居残りでシュート練習をつづけていた。

ずぶ濡れまま彼女は言った。「今日はオリンピック初戦のカナダ戦からちょうど90日前。ロンドンの決勝戦が終わるその夜まで、私は今から一切、気を抜かない—」



”降りしきる雨のなか、その決意を聞いて、なでしこの決勝進出を確信した覚えがある。宮間あや。アスリートというよりは「求道者」に近いのかもしれない(Number誌)”

周知のとおり、なでしこジャパンはロンドン五輪で銀メダルを獲得している。その大会中、キャプテンマークを巻いていたのは「小さな主将」宮間あやである。








世界の頂点を争ったロンドン五輪から1年。

今季の日本女子サッカー(なでしこ)は、予想外の苦戦が続いていた。



「これじゃダメだとは、すごく思ってました」

宮間は言う。

「うーん…、五輪もそう思いながらでした。本当のことを言えば、W杯(2011)で優勝してからずっとですね。やっぱり、あれだけ自分たちの置かれている状況が一瞬にして変われば、いろんなことが不安になります。W杯以降、一つのチームとして、すべてが上手くいっていたわけではなかったと思います」

それはチームがバラバラという意味だろうか?

「皆、へんに”役割みたいなもの”ができてしまって、互いに理解し合っていなかったですね。多分みんな凄いプレッシャーを感じていて。五輪は誰かが一言『もう、つらい』って言ったら、みんなそっちに行っちゃうような。それくらい追い込まれている状態だったと思います」



そうした状態が極まってしまったのが、今年(2013)7月の東アジア杯。

日韓戦に敗れ、宮間は号泣し、「もう、ごまかせない…!」ともらした。

その敗戦を、宮間はこう振り返る。「選手間でもどちらが悪いというわけではなく、互いが自分の良いところをどうしても出そうとするというか。『自分は良いプレーをしたい。だから、そちらはそちらで何とかしてよ』というように、あのときは思考が守りに入っていました。ここ1年半くらいは『誰か何とかしてよ』っていう考えが多くて…」

この大会、3連覇を狙っていた日本・なでしこジャパンは最終戦の日韓戦に「1−2」で敗れ、1勝1分け1敗の2位に終わっていた(優勝は北朝鮮)。






ようやく風向きが変わりはじめるのは、9月のナイジェリア2連戦。

”なでしこジャパンは長崎・千葉でナイジェリアと国際親善試合2試合を戦い、ともに2-0で勝利(Number誌)”



転機となったのは、その1試合目。そこにはロンドン五輪をともに戦った「澤穂希」と「近賀ゆかり」が復帰していた。東アジア杯のときとは違い、宮間の表情は明らかにリラックスしていたように見えた。

「そう見えるじゃなくて、実際そうだったと思います(笑)」と宮間。「本当に2人の存在は大きい。チームについて自分が感じていたことを澤選手と近賀選手には伝えていました。最初は2人とも『そんなことないでしょ』みたいなことを言っていたんですが、合宿がはじまると『あっ、そういうことね』みたいにすぐ分かってもらえたんです」

東アジア杯で見られた「誰か何とかしてよ」という考えは、この古株2人の参加によって「私はここをやるから、あなたはここをできる?」という発想に変わっていった、と宮間は言う。

「『もう一度原点を』じゃないですけど、『自分たちの良さを出そう』と話し合いました」








長く澤とプレーをともにしてきた宮間は、澤が「何をしたいか」がよくわかった。

宮間「『ここで止める』というのが分かる時は、思い切って前へ行く。また、『この次あっちへ行くな』というのが分かる時は、自分がカバーに入ります。だからバランスはすごく良かったと思います」

宮間「それから守備の面では、DF(ディフェンダー)に近賀選手がいたことがすごく大きい。セットプレーでGK(ゴールキーパー)と話すことはありますけど、守備全体の話としては足りない。そこに近賀選手がいたことで、いろんなことがスッキリしました。『それでいいよ。やって』って近賀選手が一声いうだけで、自分たちも安心して前へプレスにいける」






オリンピック以降、なでしこの一番の問題は「ボールを奪う位置が低い」ということだった。

宮間は言う。「たとえば6月にやったドイツ戦は、強い相手に引き気味になってしまい、自分たちの良いところがまったく出せなかった(0-4で完敗)。五輪以降、強い相手としかやってないので『やられる』っていうイメージがつねに頭の中にあって。特にディフェンスのときに『やられちゃう』っていうイメージがついてしまっていました」

そうしたチームの”引けた姿勢”を見て、澤も近賀も言った。「裏を取られるのは怖い部分もあるけど、それを怖がってたら何もできない。剥がされるのを怖がってはダメだ。まず、そこから始めていこう」と。

そうした意図のもとに1週間ほど練習した結果、先のナイジェリア戦では試合開始直後から”高い位置からのプレス”が効いた。

試合を振り返って、宮間は言う。「やっぱり最初から高い位置でボールを奪いにいかないと自分たちの良さは出ない。そこはすごくハッキリしました。やっぱりハイプレッシングはありだと思います。『なでしこの方が人数おおいんじゃないか』と思わせるくらいのプレッシングはできると思っているんです」






それでも正直、ドイツやフランスは日本をあまり恐れていない印象は拭えない。

「そうですね」と宮間。「実際、強豪国は『たった一回なにかの間違いでW杯を獲った』ぐらいに思っているはずですよ。でも、そう思われても仕方がない。でも、相手が恐れていないほうがいいんです。その方が、自分たちに勝ち目がありますから(笑)」

最後に、宮間は”今後のなでしこ”を語った。

「男子サッカーを応援することは『文化』になってきている。でもまだ、女子を応援してくれるのは『世界一になったから』という流行みたいな部分があると思うんです。だから、それが文化になるように頑張っていかなきゃと思っています」



来年(2014)5月には、サッカー女子W杯の出場権を賭けた戦いがはじまる。前回王者としてのなでしこジャパンは、そのメンバーをリフレッシュして”新たな世界一”を競うことになる。

勝敗よりも「自分たちがどこまでいけるか」ということにこだわったのが、前回W杯での世界一だった、と宮間は言う。



「小さな求道者」宮間あや

彼女は、かつて歩いた道にふたたび挑む。












(了)






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「もし、メダルが獲れなかったら」。なでしこ宮間の恐怖



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/31号 [雑誌]
「2年間ずっと、苦しかったですよ 宮間あや」


2013年10月20日日曜日

次元の違う”遊び”。内村航平と白井健三 [体操]



「どうやったら(着地が)もっと止まりますか」

17歳の白井健三は、24歳の内村航平に聞いた。返ってきた答えは「トランポリンで遊んでうまくなれよ」。

2人とも両親が元体操選手であり、体操の指導者。その体操教室にはトランポリンがあった。



そして、世界選手権へむけた強化合宿中、2人の「トランポリン着地止め対決」がはじまった。その勝負は、「前方伸身宙返り」で半回転ずつ”ひねりの回数”を上げていき、どこまで着地を成功させられるかを競い合うものだった。

1回、2回、3回…。

両者は一歩も譲らない。

3回半、4回と両者ともに成功は続く。

その様を見ていた元・金メダリスト、米田功氏は思わずうなる。

「内村にしても白井にしても、僕たちから見ても”違う次元”でひねっている。僕はトランポリンのない環境で育ったのですが、感覚で味わった回数としても3回半や4回が限度でした」



さすがに”4回半ひねり”になると、2人とも着地が止まらなくなった。何度やっても止まらない。結局最後は2人とも疲れ切って”引き分け”でお開き。

「ありえない…。”遊び”のレベルが高すぎる…」

周りで見ていた代表選手たちも、唖然とするしかなかった。

米田功氏は言う。「試合で4回ひねれるということは、練習なら5回もできているだろうし、トランポリンになると(着地は止まらなくとも)おそらく6回、7回というひねりの経験があるはず」






世界体操2013(ベルギー)

”大会は「シライ」で幕を開けた(Number誌)”

「シライ」というのは、白井健三の新技「後方伸身宙返り4回ひねり」につけられた名前。

”まだあどけなさの残る17歳が繰り出す「至高のひねり技」には、2万人ちかい大観衆が沸くばかり(同誌)”

試合会場には「”シライ”の動画のダウンロード回数が、いま30万回を超えました!」との場内放送が流れる(YouTubeに配信されていた公式映像)。

公式サイトに「ミスター・ツイスト(ひねり)」と紹介された新星・白井健三は、種目別「ゆか」で期待通りの金メダル。世界を欣喜雀躍させた。







「あいつなら普通にやってくれるだろうと思っていたけど、本当に期待通りにやるんだからスゴイ」

世界王者・内村航平でさえ舌を巻く。彼は種目別ゆかで白井におくれること第3位であった。「なんか、人間じゃないようなものを見ているような感じです」と内村。

その内村の言葉を伝え聞くや、白井は破顔一笑。

「えー? また航平さん、ヘンな言い方して…。でも嬉しいです、そう言ってくれるのは。あっちも人間じゃないですから(笑)」



確かに、王者・内村航平も”人間じゃない”。

”決勝の最終種目の鉄棒には、ほかの23人がすべて演技を終えてから登場。すると、白井のひねりにあれだけ沸き上がる試合会場が、鉄棒の前に内村が立った途端にスッと静まり返る(Number誌)”

最後までスキを見せずにビシッと演技を決めた内村。昨年につづき個人総合優勝を確定させた。

”ただ一人、6種目とも15点台にのせる完璧な演技で、男女を通じて史上最多となる個人総合「4連覇」を達成(同誌)”



「美しさで勝負する」と大会前にいっていた内村、その美しさを貫いた。

”「シライ」の新技で幕をあけた世界体操は、最終日の内村の平行棒・金メダルで幕を閉じた(Number誌)”

白井健三の「ゆか・金メダル」は体操ニッポン史上最年少という快挙であり、内村航平の「平行棒・金メダル」は日本にとって32年ぶりであった。







大会後、内村はこう話す。

「健三のゆかは本当にスゴイ。ただ、僕は体操は6種目できて当然であり、ゆかと跳馬だけでは…と思っている。世界の流れ的にはスペシャリストが増えているが、やはり日本で体操をやっているからには6種目できて欲しい」

内村航平に次いで個人総合(6種目)の2位に入ったのは、やはりオールラウンダーの加藤凌平。体操ニッポンが団体で金メダルを獲るためには、そうした力が必要なのだと、世界を知悉する内村は実感している。



その内村の言葉に、初の世界舞台で旋風を巻き起こした白井健三17歳は

「将来的には、チームを引っ張る存在であるオールラウンダーを目指します」

と屈託ない笑顔で応えた。













(了)






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鳥人的な空中感覚。内村航平に見える景色。

失った自分、そして取り戻した自分。金メダリスト・内村航平



ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/31号 [雑誌]
「2人だけのレッスン 内村航平・白井健三」


2013年10月18日金曜日

日本の「悲劇」、韓国の「奇跡」。ドーハ1993 [サッカー]



「ドーハの悲劇」

それは日本サッカーにとって、まったくの悲劇。

史上初となるはずだったW杯出場の夢が、あと数秒というところで絶たれた(1993年W杯アジア最終予選、イラク戦)。






一方、韓国にとっては「奇跡」となった。

”日本代表の手からすり抜けた「W杯行きの切符」を手にしたのは、韓国代表だった。日本と同じ2勝1敗1分の勝ち点5で並んだが、最後の最後でアメリカW杯出場権を手にしたのは、得失点差で上回った韓国だったのだ(Number誌)”

ゆえに韓国ではドーハの悲劇とは言わない。「ドーハの奇跡」と呼ぶのである。



当時、韓国代表の監督だった金浩(キムホ)は言う。

「無線で”日本vsイラクが引き分けた”と聞いたときは、黄泉の国から生き返ったような気分でした。選手やスタッフたちも我を失って大騒ぎでね。イラクの選手も次から次へとやって来て、感謝の印にスパイクや練習用具を手当たり次第にプレゼントしました。『私たちを救ってくれてありがとう!』と」

もし、日本にあの”悲劇”が起こっていなかったら、金浩(キムホ)は間違いなく監督をクビになっていただろうと言う。

「実際、もしも日本がイラクと引き分けていなかったら、私は監督をクビになるどころか韓国サッカー界から抹殺されていたでしょう。ドーハの”奇跡”で、私は命拾いをしたわけです」






この1993年のアジア最終予選。

「日本vs韓国」の直接対決において、韓国は初めて日本に敗北を喫していた(0−1、カズが決勝弾)。

”内容的にも日本の優位が目立っただけに、韓国のマスコミは「(日韓併合以来)第二の国辱日」と怒りを爆発させた。その非難を一身に浴びたのが金浩監督だった(Number誌)”

金浩は当時を振り返る。「テレビ番組で私の責任を問う公開討論番組が生中継されたほどで、国民もマスコミも怒り心頭でした」



当時、韓国は2度のW杯出場を果たしており、いまだ出場したことのない日本は格下も格下であった。

三浦知良(カズ)はこう語る。「韓国はアジアの中でもトップクラスでしたし、W杯にも2大会連続で出場していました。韓国と試合をやっても、力の差というものをすごく感じました。日本との勝敗を見ても、当時は圧倒的に韓国の方が良かったですしね。まさに、韓国に勝たなければ世界には出て行けないという感じでした」

金浩監督も、現役時代はDF(ディフェンダー)として釜本邦茂ら日本代表の前に立ちふさがり、負けたことは一度もなかった。



しかし、三浦知良やラモスが台頭していた日本代表は強かった。

当時、韓国代表だった河錫舟(ハソッチェ)は語る。「実際に戦ってみると、日本の強さは予想以上でした。だからこそ負けたときのショックも大きく、雰囲気は最悪でした。誰ひとりとして口をきかない。まるで葬式でしたよ」

彼のもとには、”身の危険”を案じる家族から国際電話がはいった。「当分のあいだ、韓国には戻ってこないほうがいい…」






アジア最終予選、最後のカードは

日本 vs イラク
韓国 vs 北朝鮮

韓国がW杯出場をはたすには、北朝鮮に3点差以上で勝ち、かつ日本が引き分け以下であることが最低条件だった。だがそれは、神にすがらねば叶わぬほど絶望的であった。

韓国代表(当時)の徐正源はこんな話をする。「最終戦の北朝鮮戦の前夜には、部屋にボールを祀ってひざまづき、何度もお辞儀を繰り返しました。いま振り返れば迷信じみた笑い話ですが、当時は真剣で、神にすがるしかないほど切羽詰まっていたんです」



神頼みもいとわず臨んだ北朝鮮戦。一つめの奇跡が、まず起きた。

韓国は後半早々に先制し、53分には追加点を挙げる。さらに河錫舟(ハソッチェ)が悲願の3点目を決め、その点差をW杯出場の最低条件であった3点にしたのである。

ところが、韓国ベンチはその3点目を誰も喜んでいなかった。その沈んだままのベンチを見て河錫舟(ハソッチェ)は悟った。「日本は勝っているのか…。もうダメなのか…」。日本vsイラク戦の戦況は10分おきに無線で連絡が入っており、日本は2−1でイラクに先んじていた。



そうした韓国ベンチの絶望ムードは、イラクが日本ゴールに決めた「ロスタイムの1点」の報によって、歓喜一色へと転ずる。

河錫舟(ハソッチェ)は言う。「とてつもない虚無感のなかで終了のホイッスルを聞きましたが、サポーターに挨拶して振り返ると、ベンチが狂ったように飛び跳ねている。それからはもう大騒ぎですよ!」



そのバカ騒ぎのあと部屋にもどった河錫舟(ハソッチェ)は、あるテレビ映像に釘付けになった。

”部屋に戻ってテレビをつけると、「茫然とする日本代表や号泣するサポーターの映像」が何度も流れていた。その映像に、それまで歓天喜地していた韓国代表の誰もが言葉を失ったという(Number誌)”

河錫舟(ハソッチェ)は言う。「笑っている者など誰ひとりいませんでした。三浦、井原、中山、柱谷にラモス…。何度も戦ってよく知る選手ばかりだっただけに、余計にもどかしかった。あの日本代表は歴代で最もW杯を渇望していた選手たちでした。そんな彼らが膝を落して泣いていたんです…」








あれから20年、日本サッカー界は「ドーハの悲劇」による傷口をただれさせながらも急成長を遂げた。

三浦知良は言う。「いまでは日本はW杯予選を突破するものだとみんなが思っている。そうやって成長してきたんです。でもドーハ以前は、W杯という存在すらどういうものか分からなかった人が多かったと思うんだよね」



一方、ドーハの”奇跡”を享受した韓国サッカー界は、そう楽観できぬ状況が続いている。

”韓国サッカー界が抱える課題は多い。たとえば、2002W杯開催のために新しく新設されたスタジアムのうち、黒字運営されているのはソウルだけ。そのほかは毎年赤字に苦しみ、管理もおぼつかない。国内Kリーグも観客動員は平均1万人にも届かず、テレビ中継も少ない(Number誌)”

ドーハの奇跡の渦中にいた金浩監督(当時)は、「20年前には想像できなかったことが起きている」と嘆く。「この20年で環境も選手層も豊かになり、表面的には発展しているように見えますが、肝心の質と中身は何も変わっていません」。



金浩(キムホ)はむしろ、塗炭をなめた日本を羨む。

「韓国にとって、ドーハの”奇跡”は得にもなりましたが失にもなりました。韓国は見かけばかりになってしまったのです。対して、日本はドーハの体験を発奮材料にし、準備と計画性をもって内面的な質を高め、この20年間、停滞することも自惚れることもなく順調に発展しています。本田や香川のような選手が次々と生まれてくるのもその成果でしょう」

かつてボールを祀って神頼みした徐正源も、同じようなことを言う。「いまの日本は当時の私たちが想像していた以上に強くなりました。香川などは技術や攻撃的センスが図抜けています。いまの日本はブラジルW杯でもかなりの好成績を収めるのではないでしょうか」








最後に金浩(キムホ)は、穏やかにこう言った。

「世界的に見ても、隣国同士は仲が悪い。まして韓国と日本のあいだには歴史問題もあって一筋縄ではいかない部分もあります。ですが、競い合う相手がいてこそ己が高められる。サッカーでいえば『ドイツとオランダ』。日本の方々にわかりやすく例えるなら『武蔵と小次郎』。韓国と日本はそういう関係なんです」

そして、目を細めてこう続ける。「憎くても相手を認めねばならず、認めなければ互いの成長も発展もない。韓国と日本はこれからも、そういう関係であってほしいですね」













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/31号 [雑誌]
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2013年10月16日水曜日

3連勝のち4連敗。近鉄バッファローズ「夢の跡」1989 [野球]




それまで近鉄バッファローズというチームに「日本一」はなかった。

それが1989年、その悲願に「あと一勝」というところまで肉迫することになる。

しかし…








その年(1989)のペナントレース、「河内(大阪)の猛牛軍団」は西武、オリックスとの三つ巴の死闘を制し、9年ぶりにパ・リーグを制覇。日本一を決める舞台への進出を果たしていた。

”いったいウェーブは何周したのか。鳴りモノもないのに、なぜあれほどの大音量が轟いていたのだろう。勝って喜んでいるはずなのに、怒号のごとき濁声、野次のごとき河内弁、汗のごとき涙が飛び交っていた(Number誌)”

あの年の秋、近鉄の本拠地「藤井寺球場」は沸点に達していた。胴上げの夜、藤井寺はかつてない喧噪に包まれていた。



そして、迎えた日本シリーズ。相手は巨人。

”当時、近鉄は唯一、日本シリーズで勝ったことのないチームだった。巨人を倒して日本一へ。藤井寺の熱は冷めるはずもない(Number誌)”

「おっ、阿波野やんけ。ワレ、今日は頼むで」

第一戦の先発は、近鉄のエース「阿波野秀幸(あわの・ひでゆき)」。入団して3年目の25歳。3年間で85試合48勝。押しも押されぬ実績を積み上げていた。



阿波野は当時を振り返る。「みんなが僕の車を知ってましたし、こっちに向かって『今日は頼むぞ』って言ってくれるんですけど、緊張感は極限状態でした。」

”実際、阿波野は極度の緊張と肉体的不安(腰とヒジ)から、思うようなピッチングができない。ストレートが走らず、パリーグの奪三振王が三振をとれないのだ(Number誌)”

2回にはホームランを食らい、4回までに3失点。それでも中盤以降、阿波野は変化球を軸にペースをつかみ、味方の援護から7回には4−3と逆転。阿波野は最後まで投げ切って、近鉄に白星をもたらした。

阿波野は言う。「いきなりやられると悪い流れになるし、ズッコけるわけにはいかないという責任感もありました。藤井寺のブルペンは目の前がスタンドで、そこに殺気だったお客さんがいるんで(笑)」






本拠地・藤井寺球場で白星発進した近鉄は、続く第2戦(藤井寺)、第3戦(東京ドーム)も巨人を斬りしたがえ、開幕から3連勝。河内の猛牛軍団は大いに猛っていた。

日本一まで「あと一勝」

そんな楽観ムードのなかだった。”あの発言”が飛び出したのは。



「巨人はロッテより弱い」

その言を吐いたのは、第3戦で勝ち投手となっていた「加藤哲郎」。そのヒーロー・インタビュー、お立ち台の上でのことだった。

しかし実のことろ、加藤はそうは言っていない。こう言ったのだ。「打たれそうな気ぃしなかったんで、たいしたことなかったです。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね。相手も強いし…」

だが、その言葉が報道によって独り歩きし、「巨人はロッテより弱い」に落ち着いてしまったのであった。



とはいえ、加藤の言葉は近鉄みんなが暗に感じていたことだった。開幕から負けなしで3連勝した日本シリーズにくらべれば、「パリーグでロッテと戦うより気楽やった(吉井理人)」。

それでも、選手らは「言い過ぎたんちゃうか…。加藤さん調子に乗ったな」「相手もあることやし、その辺にしとけ」と、加藤の浮かれ調子を危惧していた。






そして、日本一への王手。

第4戦(東京ドーム)

近鉄のエース・阿波野は、なぜか先発から外れていた。



「1、2、3と勝っちゃって、ウチの監督の仰木さんが突然『池上でいく』と言い出した」。権藤ピッチング・コーチは、そう回想する。

権藤コーチは「絶対に阿波野でいくべきだ」と監督に言い張った。「そうしたら、阿波野はヒジ痛のことを言い出したので、最後は仰木さんを『小野に決まっとるじゃないですか!』と一喝して、ようやく小野で落ちついたわけです」

だが小野は第4戦、6回途中でノックアウト。近鉄打線は巨人の香田に完封され、結果「0−5」で敗れた。



「あれでみんなが『流れはあっちへ行ってしもたな』と感じたと思います。一度流れが変わってしまったら、なかなか引き戻せないんですよね(近鉄投手・吉井理人)」

とはいえ、近鉄の3勝1敗と、巨人が崖っぷちに立たされている状況に変わりはなかった。






第5戦(東京ドーム)

先発の阿波野は5回で交代。

「あの日は調子もすごく良かった」と阿波野。「行くぞという気持ちだったんで、『あ、交代するんだ』と…。今まで1対2のスコアでマウンドを降りたことがなかったんで、全部出し切れてないというかア然としました。まぁ、怒っているようにも見えたかもしれません」

7回裏、近鉄1点ビハインドの状況で「吉井理人」がマウンドを引き継ぐ。



吉井は、満塁で巨人の原辰徳を打席に迎えた。

この年の日本シリーズ、原は「極度の不振」に喘いでいた。”第1戦で4番を打った原辰徳は、第2戦では5番、第3戦では7番に下げられ、3試合で10打数ノーヒット(Number誌)”。

吉井は振り返る。「いや、ナメてませんよ。調子は悪くとも一発あるのが原さんだし、いいところで回ってくる天性の何かも持ってる」

権藤ピッチング・コーチも原を警戒していた。「原からは徹底的に逃げろ。打たせると勢いに乗るから、歩かせてもいいぞ」



それでも吉井は、振るわぬ原を簡単に追い込めた。ツーボール、ツーストライク。

そして次の5球目、「インコースのストライクを狙い過ぎて、ド真ん中に行っちゃったんです。ええとこに投げようとしすぎたんですね」と吉井。

それを原の慧眼が見逃すはずはなかった。原の打球はレフトスタンドに届いた。



その瞬間だったという。阿波野が初めて危機感を抱いたのは。

「あぁ、ジャイアンツを完全に起こしてしまったな…」

阿波野は語る。「それまでの原さんは、調子が上がらず凡退を繰り返していたわけですよね。でも、本来の4番バッターが打った。核となる選手がああいうところで一発を打つと、チームは生き返るんです」






原の一発で目を覚ました巨人は、そのまま連勝の波にのった。そして、3連敗のち4連勝で、日本シリーズを制した。

近鉄ファンにとっては3連勝のあと、悪夢の4連敗。

眠れる原を起こしてしまった吉井は、こう振り返る。「僕らが一番だと思っていたら、一番じゃなかったんです。”慢心したら負けへの道が待っている”ということを、身をもって知らされました…」



巨人が優勝を決めた第7戦、それは近鉄の本拠・藤井寺球場(大阪)での決戦だった。その歓喜の胴上げを、河内のファンはその眼前に見せつけられたのである。

阿波野は言う。「手が届きそうなところにあったの日本一のゴールが、まさに直前で敗れたんで、その分、諦めきれない悔しさがありました…」



結局、近鉄は日本一になれないまま、その歴史に幕を下ろす(2004)。

いまから24年前の1989年、熱狂の渦中にあった藤井寺球場。だがもう、いまは跡形もない。



あるのは、「白球の夢」と名付けられた少年のモニュメント。

ボールの上に座って頬杖をつくその少年は、「兵どもが夢の跡」をただぼんやりと夢想しているかのようである…。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/17号 [雑誌]
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2013年10月11日金曜日

日本とは違う”何か”を求めて 佐野優子 [バレーボール]



「日本とは違う”何か”がある」

佐野優子がそう直感したのは、初めてバレーボール全日本に選ばれた2002年。海外のチームと対戦したときだった(当時23歳)。

「日本は長時間しんどい思いをして練習しているのに、海外のチームに全然勝てなかったんです」



日本とは違う”何か”を見てみたく、翌2003年、佐野は海外移籍を決意した。

”しかし、今よりも閉鎖的だった当時のバレー界でそれを実現させるのは容易ではなかった。親にも高校の恩師にも反対された。海外移籍に否定的な空気のなか、相談できる相手が周りにおらず、佐野には移籍先を見つける手だてがわからなかった(Number誌)”

困り果てた末、その年の海外移籍を断念することになる。しかし、それは痛恨の選択ミスであった、と佐野は振り返る。

「今までいろんな決断をしてきた中で、自分の一番の選択ミスはあそこかなと思う。海外に行かず日本に残っていたこと…」



東レを退社したあと、佐野は一人だった。海外どころか日本にも居場所がなくなっていた。さらに悪いことに、アテネ五輪代表12名からの「落選」を言い渡された。

「今思えば、リーグ期間中に試合に出ないで全日本に挑戦するなんて、無茶な話ですよね。まぁ、自分の力が足りなかったからだって自分に言い聞かせて、最終的には納得できたけど…。ちょっと時間がかかりましたね」

それでも、捨てる神あれば拾う神あり。

そんな時だった、フランス・リーグのRCカンヌからオファーが伝えられたのは。






佐野は初めて一人で国際線に乗った。

「ド緊張で、全然寝られへんかった」と佐野。「パリでの乗り換えは大丈夫かな? ニースの空港にはどんな人が迎えに来てくれるんだろう? って不安で。人見知りだから、気軽に『ハーイ』なんて挨拶はできないし、辞書で必死に自己紹介の仕方を調べてました(笑)」

不安募る空港で出迎えてくれたのは、”いかにもムッシュ”といった初老の優しげなマネージャーであった。そして、地中海の洒落たカフェで契約書にサインを済ますと、佐野は「プロのバレーボール選手」となった。



「とりあえず日本から離れたいという気持ちが一番だった」と佐野は言う。

東レにいた頃は、”社員として衣食住がきちんと用意され、バレーのこと以外ほとんど何も考えなくていいという、ある意味恵まれた日本のバレー環境”に疑問を抱くようになっていた。

一転、RCカンヌで求められたのは「結果」のみ。

”40代のベテランも若手も関係なく、皆がそこに生活を賭けている。そのシンプルさが佐野の肌に合った。相手に殴りかからんばかりの闘志をみなぎらせるチームメイトの姿に驚き、神経を擦り減しながらも、佐野は居心地のよさを感じていた(Number誌)”






2005年に帰国した佐野。

RCカンヌとは2年目の契約をしたものの、ふたたび渡仏するまで時間があった。その空白期間、なんと佐野はチョコレート菓子”たけのこの里”の製造ラインに入っていた。

「お金ないんですか?」

「チョコレート好きなんですか?」

一緒に練習することになった明治製菓の男子チームからは質問攻めにあった。

佐野は言う。「とりあえずいろんな経験をしたかった。それまでバイトもしたことがなかったから。ああいう仕事、性格的に合ってました。またやりたいな(笑)」



2006年、佐野は久光製薬の監督だった眞鍋政義(当時)に口説かれ、日本に戻った。そのシーズン、カンヌで磨かれたレシーブ力を披露した佐野は、翌年(2007)全日本に復帰。

眞鍋監督は、佐野に絶対的な信頼を置いていた。「彼女のサーブレシーブとディフェンスは、間違いなく世界で1番か2番。しかも、ずっと高いレベルで安定していますから」



アテネの代表から落選したことは、長らく佐野のトラウマとなっていた。そして、その呪縛が解けるのはロンドン五輪(2012)。

「トラウマというか、プライドといえばプライドなのかもしれないけど、ロンドン五輪で結果が出た時点で、それはなくなりました」と佐野は言う。

最高の武器であるレシーブで、コートに落ちそうなボールをしつこく拾いまくった佐野。不動のリベロは「日本の守護神」と呼ばれ、銅メダル獲得に大いなる貢献をしたのであった。






あの感動から一年たった夏。

佐野は完全にスイッチを”オフ”にしていた。

「今は全日本のことを考えなくてもいいから、どうやったら楽しめるかを優先して、好き放題に過ごせます」

”家族と海辺でキャンプを楽しみ、時には一日中テレビを観ながらゴロ寝して、「あーたのし。日本のテレビ面白いわぁ」とつぶやく(Number誌)”



フランスのほかにもアゼルバイジャン、トルコなど、日本を含め5カ国でプレーした経歴をもつ佐野優子。日本を飛び出して10年、34歳になった現在も、スイスのボレロチューリヒに所属している。

佐野は言う。「オリンピック直後は、『もうおなかいっぱい。続けるなんて考えられへん』とおもってた。でも、またおなかが空いちゃって、もう一回バレーボールつまもうかなって感じになっちゃった。結局、バレーやってるのが落ち着くのかもしれない。怖いことに(笑)」

初めての国際線はド緊張だったという佐野も、今では”機内でいくらでも寝られる”と笑う。

「日本が一番好きだけど、海外でお互いのことが何もわからない状態から、バレーを通じてわかり合えるのが楽しい。海外で日本の良さに気づいて、あー早く日本に帰りたいなと思う。それで日本に帰ったら、日本を倍楽しめる。その繰り返しです」

もう、すっかり肩の力が抜けている。



「ほかにやりたいことが見つかったら、全然、バレーは辞められる」と佐野は言う。

しかしまだ、バレーを上回るものは見つかっていないという。

「結婚したとしても、べつに辞めなくていいしね」と、意味深に彼女はほくそ笑む。













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/17号 [雑誌]
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2013年10月9日水曜日

「なすがまま、なるがまま」 高橋大輔 [フィギュア・スケート]



「”陸”で動くのは苦手なんです(笑)」

そんなユーモアを交えて、陸上トレーニングをする「高橋大輔(たかはし・だいすけ)」。

冬季オリンピックに向けた、夏場の土台作りに余念がない。彼が本領を発揮するのは”氷の上”だ(フィギュア・スケート)。



「なすがまま、なるがまま」

3度目となる大舞台を控えたシーズン。

その心境を高橋大輔はそう表した。








昨季は”悪くないシーズン”のはずだった。

グランプリ・ファイナルでは、7度目にして初めての優勝。日本男子としても史上初の快挙。

日本選手権では、羽生結弦にトップを譲り総合2位だったものの、フリーでは”競技人生で何度あるかという圧巻の演技”で、その凄みを知らしめた。



暗転したとすれば、その終盤。

”年明け2月、四大陸選手権で7位にとどまると、翌月の世界選手権では6位と、ここ6シーズンで最も悪い成績におわる(Number誌)”

「ちょっと焦ってしまったのかな」

高橋は言う。

「下からの突き上げもあって、国内で勝つのが難しくなってきていて、”負けられない”という思いが強かった。まわりの状況に流されたところがあったかもしれません」



羽生結弦をはじめとした若い世代の台頭は、意識せざるをえない。

前回オリンピック(バンクーバー)の銅メダリストである高橋大輔も、はや27歳。今度のソチ五輪が最後になるかもしれない。

高橋は言う。「バンクーバーの時は、なんだかんだ言って”選手として滑っている未来の自分”を想像しているところがありました。でもソチが近づくにつれて、『来年は何をしているんだろう』と思うと…」



なかなか先を見据えることが難しくなったという高橋。昨季は、どうしても目先ばかりに集中してしまったという。

「結果よりも中身を大切にしたいと思っていたのに、結果を意識しすぎてしまいました。”負けたくない”という気持ちは、ある面ではモチベーションになるので良いことではあると思うんですけどね」と高橋。

ギリギリの勝負の局面、アスリートの心理はどちらにも転びうる微妙なバランスの上に置かれている。



道具を変えたのも、悪い方に転んだ。

高橋は昨シーズン、それまで使用していたブレードから”より角度のきついもの”に変えていた。それはエッジワークが生きる良さがあったが、ジャンプは跳びにくくなるという両刃の剣であった。

”フタを開けてみると、滑りの良さを引き出す以上に、それまで安定していたトリプル・アクセルが不安定になるなど、マイナスに働いた(Number誌)”








本人的には、不本意に終わった昨季。

”人を気にしすぎていた”と彼は言う。だが振り返ってみれば、若手の成長など周囲の状況がどうあろうと、”やるべきこと”が変わるわけではなかった。

「流れに逆らわず、まわりに委ねる。自分はスケートをやるだけ。あまり考えず、なすがまま、なるがままに行きたい」

高橋はそう思い至っていた。

「想像も期待もしないと言ったらおかしいけれど、なるようにしかならないと思うんです。努力しないでダメなら後悔しますけど、やってダメだったら、そこまでの運だし能力だということです」



高橋大輔は過去、2回のオリンピックに出場している(2006トリノ、2010バンクーバー)。

高橋は語る。「トリノのときは、絶対でたいと思い出したのが前シーズンの世界選手権のあと。スパートをかけて臨んだ感じで、出られたことだけに満足した部分がありました(8位入賞)。バンクーバーはその2年前に大怪我をして、行けるかどうか不安があるなかで代表になって、試合の一ヶ月前から集中して良い練習ができて、銅メダルという結果を残せた」

そして、今回のソチ五輪。

「今回のオリンピックは3年前から準備をして、オリンピックに向き合いながらやってきた。これまでで一番準備ができていると思います」



高橋がフリーを依頼したのは、ローリー・ニコル。彼は、浅田真央も手がける”知らぬ者のいない名振付師”。

そのローリーから提示された曲は「ビートルズ・メドレー」だった。ローリーは言った、そのテーマが「アバウト・ラブ」であることを。そこには、”愛に欠ける悲しい出来事がしばしば起こる今日の世界への想い”が込められていた。

高橋は言う。「ローリーは『オリンピックでこの演技を見てくれた人たちが、そういうことに思いを馳せてくれたらいいな』と言っていました。滑っていても、曲を聴いて身体を動かしているだけで幸せになれます」






「いやぁ、フィギュア・スケートって奥が深いですね」

まるで、”スケートを習いたての選手”のようなことを言う高橋。ローリーからは「スケーティングができていない」とかなり怒られているという。

「もし、(オリンピック後も)現役を続けるにせよ、あと何年もできない。そう考えれば、今、こうやってスケートができていることは幸せなんだと思います」



最後になるであろうオリンピックに向け、高橋は言う。

「観てよかった、とホッとするような、幸せになってもらえるような、そういう演技ができればいいと思っています」

”その先に待つものは分からない。ただ、高橋は幸せとともに歩もうとしている。会うべき人に出会った流れに身を委ね、目の前を見すえて(Number誌)”



高橋がエキシビジョンのために選んだ曲は「Time to Say Goodbye」。

”暗示的なタイトルの曲はしかし、「ここからがスタートであり旅立ちだ」と歌っている(Number誌)”













(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/17号 [雑誌]
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2013年10月6日日曜日

完敗から得たもの。本田圭佑 [サッカー]



欧州CL(チャンピオンズ・リーグ)2013

「バイエルン(ドイツ)」vs「CSKAモスクワ(ロシア)」



CSKAモスクワは日本代表の「本田圭佑(ほんだ・けいすけ)」の所属するクラブ。対するバイエルン(ドイツ)は前回王者。

”欧州王者相手に、本田はどう戦い、なにを得るのか?”

そう聞かれた本田は、フフッと笑って、試合前のロッカールームに戻っていった(Number誌)。






日本でガーナ戦を終え、CSKAモスクワに合流したばかりだった本田は、こう語っていた。

「もし俺らがCLで優勝できるようなチームだったら、バイエルンの隙っていうのを感じることができるんでしょう。でも、今のCSKAにギリギリで出来るほどの力はない。その中で、どういう風にアウェイで結果を出すのか…? 個人的には、あんまりキレイな考え方はしていない」



今のCSKAモスクワというチームは、昨季1シーズンをかけて本田がつくり上げてきたといっても過言ではない。昨季は本田移籍後、初のリーグ制覇を成し遂げている。

「その作り上げたチームのメンバーが、バイエルン戦に何人でるのかが重要ですよね」と本田。

残念ながら、ドゥンビア、エルム、ザゴエフの3人は怪我で欠場。新しい選手ばかりで戦わなければならない。難しい試合になるのは予測されたことだった。

「チャンスの数はきっと少ないんでね。その中でどれだけ質の高い攻撃を繰り広げられるか。あのバイエルンと対等にやり合えるのは、高さとパワーの部分なんでね」



頭のなかで「勝ち目の薄いゲーム」をシミュレーションする本田圭佑。

「なんかしらのスピリットを見せない限りは、失うものは大きいって思ってます」

鮮やかな金髪は、真剣な眼差しのままエレベーターに消えた。






9月17日

”そこで待っていたのは、想像以上に残酷な結果だった”

トップ下で出場した本田は、時おり粘り強いボールキープからカウンターの起点となったものの、結局、CSKAモスクワはバイエルンに「0対3」で完敗。



日本のメディアは、こう報じた。

「本田は中盤のパスさばきで健闘した」

それに本田は苦笑し、こう語る。

「結局、つなぎの場面でのボールさばきしかほとんどなかったからね…。FK(フリーキック)の場面がほとんどなかったりとか、自分ならここで勝負できるという場面でボールを受けるシチュエーションが少なすぎた。最初の失点で相手に余裕を与えてしまったよね。俺がバイタルエリアでボールを持っても、まったく彼らは慌てる様子を見せなかった」



それでも、彼は「とても晴れやかな表情」をしていた。

本田は言う。「得たものはいろいろあって。結局、ビビらずにいくっていうのが、僕はひとつの選択肢だと思っている」

そして、対戦したバイエルンが昨季とはまったく違うチームになっていたことに希望を見出していた。

「なんて言うんやろ、リベリーにバルサ色が入ってきているなとか。監督の力でこうもチームって色を変えていくんやなっていうのは、選手としてもまだまだ成長できるっていう希望を、すごく持たせてくれた」

ちなみに、バイエルンは王者ながらに飽くなき進化を求め、今季、グアルディオラという名監督を新たにスペインから迎えていた。






最後に、日本代表について聞かれた本田は、こう語った。

「日本代表は、CSKAとはまったく違うサッカー。日本代表なら、バイエルンと打ち合おうと思えば、打ち合えると思っている。下手したら3〜4失点するでしょうけど、2〜3点取れるクオリティが日本代表にはあると思ってますから」



ビッグクラブ・ACミランへの移籍が消滅した夏。

CSKAモスクワとの契約が切れるまで、あと3ヶ月。

頂点を見据える男は、ロシアからどこへ向かおうとしているのか…?













(了)






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2013年10月4日金曜日

祝! 楽天リーグ初制覇! 「東北の底力」



無人の野を行くがごとき投手「田中将大(たなか・まさひろ)」楽天イーグルス。

9月13日、彼は連勝記録を更新するシーズン21勝目に挑み、そして勝った。

にも関わらず、田中はこう言い切った。「記録を伸ばすためにやっているのではありません。日本一になるためにやっているんです」



”特別に調子が良かったわけではない。それどころか、バッファローズ相手に、毎回のように走者を出した。8回を投げて8安打。普通の投手なら降板していそうな出来だった(Number誌)”

それでも田中は、ピンチになるとトップギアに入った。

”球速は140km台から150kmに乗り、スプリットも鋭さを増す。『走者は出しても点は許さない』という意志がボールにこもる(同誌)”








9月21日のファイターズ戦もまた、田中は連勝記録を更新した(シーズン22連勝)。

3回に先制を許したものの、「それ、マサヒロ(田中)が1点とられたぞ。ここから逆転だ」、そんな申し合わせでもしてあるかのように、攻撃陣は即座に逆転。そのまま勝利に直結した。

「マサヒロが投げているときは、リズムが良いので守りやすい」

楽天の野手は、そんなコメントをしていた。そうした守りの要は捕手「嶋基宏(しま・もとひろ)」。

「優勝チームには名捕手」という古くからのセオリー通り、嶋は、バッファローズ戦でもファイターズ戦でもピンチに陥るたびに”1球ごとに細かく守備位置の指示を出していた”。田中の投球が要求通りに来てくれるので、打球の予測がつきやすかったという。






7月下旬に単独首位に立ってから、楽天イーグルスにはいよいよゴールテープが近づいてきた。球団創設以来の悲願、初優勝が迫っていた。

2年前の東日本大震災に遭って誓った、東北の、そしてイーグルスの「底力」、それを万民に示す時がきていた。



9月26日、チーム初優勝のかかった西武ライオンズ戦。

絶対エース・田中将大がマウンドに立ったのは1点リードした9回。なんと、4年2ヶ月ぶりとなるリリーフだった。

「マサヒロを出したから大丈夫と思ったんだ」と星野監督は試合を振り返る。「が、よもやね」



よもや、エース田中は窮地に陥っていた。

ツーベース・ヒットを浴び、四球を与え、その後ワンアウトを取ったものの、ランナー2、3塁。

”長打が出れば、対戦相手ライオンズのサヨナラ勝ちが濃厚だ。優勝は決まらず、前例のない連勝記録にも終止符が打たれる(Number誌)”



「でも、走者が三塁に行ったとき、『やってくれる』とは思ったよ」

ピンチをむしろ喜んだ星野監督。ピンチになるほどに勝負強さを増す田中に対する信頼は絶大だった。

”その後の田中の投球は、ピンチがまるでフィナーレを盛り上げるための演出ではなかったかと思わせるほど圧倒的だった(Number誌)”



ストレート

ストレート

ストレート

ライオンズの3番・栗山巧は、”黙ってストライクのコールを聞くだけだった(三振)”。

4番・浅村栄斗もまた、4球連続ストレートで追い込まれ、最後もストレート。浅村のバットが切ったのは空ばかり。

”8球すべてストレート。ライオンズの3番、4番が球種を読んでいても、バットに当てることすらできなかった(Number誌)”







7回宙に舞った星野監督。

”胴上げされた星野監督の表情は終始穏やかだった。激情の人らしからぬ温顔である(Number誌)”

チーム創設9年目、設立当初は1シーズンに38勝しかできなかった楽天イーグルスが、ついにリーグ制覇を果たした。



「絶対に見せましょう、野球の底力を」

捕手であり選手会長でもある嶋基宏は、震災直後、そう宣言していた。

「避難所を訪問したところ、皆さんから『おかえりなさい』と声を掛けていただき、涙を流しました。その時に、『何のために僕たちは闘うのか』、ハッキリしました。それは『誰かのために戦える人間は強い』ということです」



「生かされている僕たちは、前を向いて自分の人生を切り拓いていく使命があります。『ヒトの力』はこんなものではないはずです。一緒に感動を分かち合い、熱くなり、『ヒトの力』を信じて、明日からまた一緒に前を向いて歩きましょう。きっと、できるはずです(嶋基宏)」













(了)






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