2015年10月19日月曜日

札幌とリーチマイケル [ラグビー]



リーチマイケル(Michael Leitch)、のちのラグビー日本代表キャプテンは、ニュージーランドの南東、クライストチャーチ郊外のパパニュイに生まれ育った。

リーチは物心つく前から、幼なじみのニコラス・イーリ(愛称:ニック)とともにラグビーに明け暮れていた。

”マイケル(リーチ)にとって、ニックの家に遊びに行くことはちょっとした体験だった。というのもニックの母は札幌生まれの日本人で、刺身をはじめ、見たこともない日本食を食べさせてくれたからだ。育ちがよく、流暢に日本語を操る親友を見て、自分もあんなふうになりたいという思いが膨らんでいく(Number誌)

その大親友ニックが、日本の山の手高校(札幌)に留学するという。

それに続くようにリーチもまた、日本行きを志願した。






◆ウォーリー?



2004年6月下旬

新千歳空港で、黒田弘則氏(山の手高校ラグビー部コーチ)はじりじりしていた。今日の便でニュージランドから来るはずの交換留学性が、いつまでたっても出て来ないのだ。

その留学生の名前はマイケル・リーチ(15歳)。NZカンタベリー州で年代別代表に選ばれ続けている有望株だ。黒田コーチは「その若者はきっと筋骨隆々の猛者に違いない」と思い込んでいた。しかし閑散としてきた到着ゲートには、「モヤシのような外国人」が不安げにキョロキョロしているばかり。

「まさか…」

なんと、そのモヤシのようなヒョロヒョロが、かの”猛者”だった。



黒田コーチは言う。

「『ウォーリーをさがせ!』のウォーリーにそっくりなんです。これでラグビーできるの? と心配になるくらいヒョロっとしていて」

メガネこそしていなかったが、高校時代のリーチは、今の逞(たくま)しさが想像できないほど、細かった。





ウォーリーならぬリーチを預かったのは、寿司屋を営む森山家。

主人、森山修一さんは言う。

「私たち夫婦は英語がぜんぜん話せないから、留学生を預かるなんて困ったなぁと思っていたんです。でもマイケル(リーチ)は日本語を学びたくて日本に来たわけだから、無理して英語を話す必要もないだろうと、言葉も含めて日常生活では一切、特別扱いしませんでしたよ」

リーチに与えられた四畳半の一間。その天井には50音のひらがな表が貼られていた。

”森山家で10ヶ月、その後もチームメイト宅や蕎麦屋さんなどホームステイ先を転々としたが、リーチは外国人にありがちな自己中心的な振る舞いを一切しなかった。彼はむしろ古風な日本人のようで、誰からも好かれた。トラブルを起こすこともなかった。親友ニックの存在もあってホームシックに悩むこともなく、新天地の札幌は不思議なくらい居心地がよかった(Number誌)



山の手高校ラグビー部、当時のキャプテン、塚原隆敬さんは言う。

「マイケルはね、空気を読める留学生だったんです」

”ホストファミリーに「マイケル、何食べたいの?」と尋ねられると、大好物の蕎麦や寿司が食べたくても、気を遣って「いえ、何でも…」と小声で返す。塚原さんの家に暮らしていたときは、仲良くなった姉と一緒に沢尻エリカ主演のドラマ『1リットルの涙』を見てはウルウルしていた。気が乗らないカラオケの誘いも断らず、お付き合いでついていく。しかも場を白けさせまいと、一生懸命ふざけようとするのだ(Number誌)










◆豹変



リーチはシャイな留学生であったが、いざラグビーとなると人が変わった。

”ラグビーに向き合うと、”空気の読める留学生”にはない熱が噴き出してくる。練習でのマイケルは、仲間たちに得意のタックルを熱心に指導し、キャプテンを立てながらも、ポジショニングやサインプレーについて積極的に発言した。悪いプレーがあったら「それは違う」と躊躇なく指摘する。周りに気を遣うあまり食べたいものも言えないようなシャイな少年が、ラグビーでは素をさらけ出すのだ(Number誌)

その感心するほどのラグビーへのひたむきさ。祖国ニュージーランドでは考えられない”土のグラウンド”に膝をさんざんに擦りむきながら、「痛い」「つらい」といった泣き言はひとつとして言わなかった。いつも最後まで練習していたリーチ。少しでも筋肉をつけようと、夕暮れの校舎をひとり黙々と重りを抱えて走り続けた。

”密集でヒョウのような動きを見せるマイケルは、動きの鋭さ、激しさゆえに反則を取られることが少なくなかった。そんなときは黙っていない。血相を変え、英語で何か言いながら審判に詰め寄っていく。そのたびにマイケルのことが大好きな父兄たちは「いいから落ち着いて!」と叫ぶのだった(Number誌)

トンガ留学生を抱える正智深谷高校の監督、佐藤幹夫さんは、リーチと対戦したことのことをよく覚えている。

「細身のマイケルが、怪物のような敵に何度も吹き飛ばされても諦めずに食らいついて、ものすごいタックルを決めました。『ニュージーランドの男としてトンガ勢には負けられない』という意地があったんでしょうね」



リーチの山の手高校は、3年連続で全国の舞台、花園に立った。

しかし、いい思い出はない。いって2回戦だった。

”2年のときは2回戦で大工大に0-55と完敗。試合後には「本場の留学生といっても大したことない」という声を耳にして、悔し涙を浮かべた。0-55のスコアボードを背にうつむくマイケルは、まだウォーリーのように細くあどけなかった(Number誌)






◆大学時代



ニュージーランドの親友ニックは、1年で帰国していた。

だがリーチは高校卒業後、さらに東海大学へと日本に留まった。大学選手権での優勝は叶わなかったが、リーチはここで急成長をとげた。身体はずっと分厚くなって、プレーには凄みが宿った。

U20日本代表、そのキャプテンも任された。と同時に、本国ニュージーランドから声もかかって、世界最強オールブラックスへの可能性も見えていた。それでもリーチは日本を選んだ。



2008年、日本代表、初キャップ。

こうなってくると、リーチの日常は多忙をきわめた。

”(東海大学)木村監督は、代表チームの活動スケジュールを見て頭を抱えた。カレンダーは遠征と合宿に埋め尽くされ、肝心の授業には半分ほどしか出られない。監督とマイケルは、授業に出られないときは課題を提出することで出席扱いにしてもらうよう、担当教官に頭を下げて回った。何事もちゃんと取り組まないと気が済まないマイケルは、ジャパンでの過酷な4部練習を消化して、出られる授業にはすべて出て、大学の部活にも全力で取り組んだ(Number 誌)

木村監督(東海大学)は言う。

「絶対に手を抜いたりしないんです。レポートもコピペなんてせず、しっかりと自分で考え、漢字も交えた手書きの文章を書いてきました」



のちの日本代表の盟友、五郎丸は言う。

「リーチで思い出すのは、東海大のときの大学選手権で、帝京大がFW(フォワード)でひたすらボールキープしているとき、ラックにドカーンと体当たりしていたこと。反則をとられると分かっていても、黙って待っていられない勝負へのこだわり。勝ちたいという気持ちの強さが印象的だった」

一方のリーチ、こう返す。

「日本に来たばかりの札幌山の手高1年のとき、ゴローさん(五郎丸)は早大の1年生で、ずっとレギュラーで試合に出てて、キックがめちゃめちゃ上手いし、オフロードパスは上手いし、スゲエなと思ってた。テレビで見ていて『怖いなぁ』と思ってました。『オレに近寄るな』というオーラが出てた(笑)」






◆日本代表キャプテン



2011年、リーチマイケルはW杯の舞台にはじめて立った。

リーチは振り返る。

「試合の前は緊張しました。最初のフランス戦のウォームアップのとき、相手を見たらすごくデカくて、プレッシャーを感じました。でも試合がはじまったらその緊張感がスッと消えて、試合に集中できた。時間がたつのがすごく早くて、充実していた。本当に最高の舞台でした」



2014年、廣瀬俊朗から日本代表のキャプテンの座を引き継いだ。

リーチは言う。

「最初はイヤでした。最初にキャプテンをやれと言われたときは、ゴローさん(五郎丸)やハタケさん(畠山健介)、トシさん(廣瀬俊朗)に相談して『お前しかいない』と言われても『そんなことない』と思っていました」

キャプテンを譲った廣瀬は、そのときから裏方に徹した。練習では常に一番早くグラウンドに出て準備を整え、試合のメンバーを外れれば全力でメンバーのサポートに徹した。

「トシさん(廣瀬)にはいろいろなことを相談したけれど、いつも僕を安心させてくれた。僕にとってはメンター。トシさんがグラウンドの外のことを全部やってくれたから、僕はグラウンドの中のことに集中できた」



キャプテンになってから、日本代表のHC(ヘッドコーチ)エディ・ジョーンズと話す機会はずっと増えた。

リーチは言う。

「オレはもう日本に10年住んでいるし、日本の学校にずっと通っていたから、頭の中はかなり日本人になっています。日本人の考え方とニュージーランド人の考え方の両方があるんだけど、エディーは、オレの中の日本人的なメンタリティーにはすぐダメ出しをするんです。たとえば日本には、みんなが平等であること、みんながハッピーであることを良しとする考えがあるけど、オレがちょっとでもそういう考え方をだすと、エディーは『ダメだ。それじゃ勝てない』と言う。『スタンダードを落としたら絶対に勝てないんだ』と。オレもそれは分かるけれど、相手によっては、ここは優しく指摘したほうがいいかなという言い方を考えるときもある。だけどエディーに言わせると『その考え方は日本人的すぎる』となるんです。そういうことがよくありました」



2015年

リーチは期限付き移籍で、スーパーラグビーのチーフスへ。日本代表の練習を離れ、世界最高峰のリーグにもまれていた。

リーチは言う。

「スーパーラグビーに行っている間、LINEなんかで(日本代表の)チームメートの何人かとやりとりしていたけど、『これヤバイぞ』とホントに思ってた」

鬼軍曹エディーの課す日本代表への練習メニューは、スーパーラグビーさえも真っ青のハードさだった。

「クラウドにあげられた練習の映像を見たりして、そのたびに『ホントにハードな練習をしているんだなぁ…』と、胸が痛くなった。スーパーラグビーから戻ってジャパンに合流して、最初に感じたのが『みんな走れるなぁ』ということ。みんな強度の高いプレーができてるし、息が上がらない。『スゲエなぁ』と思った」



2015年、イングランドでのW杯前、日本代表は五郎丸率いる国内組と、リーチをはじめとする6人(リーチ、田中史郎、ツイヘンドリック、山田章仁、稲垣啓太、松島幸太朗)のスーパーラグビー組にわかれていたが、ついに合流。いよいよ世界との戦いがはじまろうとしていた。

その初戦は、W杯優勝2回の巨人、南アフリカ。

対戦前、リーチは言っていた。

「勝つイメージはあります。というか、勝つイメージしかない」










◆ブレイブ



エディーHC(ヘッドコーチ)は監督室から

「ショット!」

と叫んだ。



2015年W杯、南アフリカ戦
「29 - 32」の3点ビハインドで迎えていた後半残り0分

日本は南アのゴール前で、絶好のPK(ペナルティキック)を獲得していた。ショットが決まれば同点という場面だった。



当然、リーチの耳にはエディーからの「ショット!」の声は聞こえていた。

だが、ピッチを預かっているのはキャプテンたる自分である。

「戦っているのはオレたちだ」



リーチはあえて、エディーの指示を無視した。

レフェリーに、ショットではなく「スクラム」と伝えた。

リーチは言う。

「オレたちは南アに勝つつもりで今日まで準備してきたんだ。引き分けじゃつまらない。勝ちに行くと決めていた。相手の表情を見ても『やべぇ』という感じだったし足も止まっていた。木津(武士)もヤンブー(山下裕史)も『スクラムで』と言っていた。ナキ(マフィ)も『サイドでトライを取れる』と言っていた。チームが自信をもっていた」



PG(ペナルティーゴール)を狙わないと分かったとき、監督室のエディーは椅子を蹴り上げて、怒声を張り上げた。

「南アの怖さを知らないのか? 引き分けでも大事件なんだぞ!」

リーチの「スクラム」という選択は両刃の剣だった。決まれば歴史的勝利だが、しくじればみすみす同点、および勝ち点獲得のチャンスを逃すことになる。この場面、ショットこそが世界の常識だった。



それでもあえて、リーチは勝ちにいった。

仲間のFW(フォワード)の肩を叩くと、

「行くぞ!」

と叫んだ。



この勇気ある日本の決断に、3万人の大観衆は沸騰していた。

ジャッパン!

ジャッパン!

”フィールドの中の1ヵ所、スクラムを組む南アフリカのゴール前が、異様な熱量を発散する(Number誌)

運命のスクラムからボールが出た。リーチは自ら3度もボールをもち、南ア鉄壁の防御網へ「これでもか!」と突き進んだ。

”5次攻撃でリーチがゴール前右隅に持ち込む。南アのディフェンスが集まる。そこから日本は一転、左へ展開。日和佐から立川、マフィ、そして途中出場のヘスケスにボールが渡り左隅へ(Number誌)

トライ!

”W杯で過去1勝の最弱国が、優勝2回の最強国を破る。ジャイアント・キリングは完成した(Number誌)







「信じられなかった…」

エディーHCは言う。

「アシスタントコーチに何度も聞き直しました。スコアボードを見て、本当に信じていいのだろうか、と。自分は興奮するタイプではなく、終わるとホッとする方なのに、あの時ばかりは目の前で起きていることが信じられなかった」

エディーは続ける。

「リーチの選択はサプライズでした。でもあの朝、私はリーチと一緒に海岸に行き、コーヒーを飲みながら『今日は失うものは何もない』と話しました。そして『重要な場面でペナルティをもらい、もしも行きたいと思えば、ためらわずに行っていい』と話したんです。そうしたら、現実にそんな場面がやってきて、リーチはスクラムを選択した。本当に彼の勇敢な姿勢、心に私は感謝しています」



リーチは言う。

「キャプテンはあらゆることを考えて決断しないといけない。試合では、ピッチで身体をぶつけている人間だから分かる部分もある。エディーにも、自分で考えたとおり決断しろと言われています」

エディーもうなずく。

「リーチは試合が進んでいくなかで、『本当に南アフリカに勝てる』という手応えを得たのでしょう。彼はスーパーラグビーで南アフリカのチームとも試合をしていましたから。彼が『勝てる』という信念をもって選択し、その気持ちがチームにも伝わったのです」






歴史的勝利はあった。だが、W杯の予選プールは3勝1敗で敗退がきまった。3勝してなお決勝トーナメントには駒を進められなかった。

”ワールドカップが5チーム4組に分かれてプール戦を行なうようになった2003年以降、3勝してベスト8に進めなかったのは初めてのこと。「史上最強の敗者」、日本代表は大きな財産を手に、2015年大会を終えた(Number Web)



「次の目標こそ8強か?」

その問いかけにリーチは首をふる。

「それが目標になると、その目標に縛られてしまう。今回も、正直言うと、8強に入れないとわかった時点で、自分の中に少し動揺があった。もうそんなことに絶対左右されたくない。最初から最後までベストを出す。一つの試合を大事に。それでいい」






W杯開催地のイングランドから、遠く隔たった札幌。

「あの子はね…」

札幌育ちのリーチマイケルは、すっかり自慢の息子だ。

「マイケルは今でもフラッと、好物の寿司を食いに、”実家”に戻ってくるんだよ」






(了)






ソース:
Number(ナンバー)特別増刊 桜の凱歌。 エディージャパンW杯戦記[雑誌] Number



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2015年10月9日金曜日

「奇跡じゃなくて必然です」日本vs南アフリカ [2015ラグビーW杯]



「勝つイメージはあります」

W杯の南アフリカ戦を前に、ラグビー日本代表の主将リーチは言っていた。





しかし、日本が南アフリカに勝てるなどとは誰も思っていなかった。

”南アフリカ代表スプリングボグス。恐るべき腕力と闘争心、おそろしく無慈悲、アパルトヘイト、人種隔離政策の黒い過去のもたらす影、その妙な深み。強い。… 敵の攻撃をぶっ潰す。ぶちかましに生きがいを覚える。そんな怪力国…(Number誌)” 

「どう見積もっても、最低で50点差をつけるのがスプリングボグス(南アフリカ)の仕事」と、マイク・グリーナウェイ(南アフリカ『ケープ・タイムズ』記者)は試合前に書いた。

”スプリングボグス(南アフリカ)には勝てない。白状するまでもなく思った。… 南アフリカのチームもやってきた。… 青い空。連中にとってはよい午後だ。本日ばかりは我らのボグス、スプリングボグスの負ける心配はまったくないのだから。断言できる。この時、この空間にあって、約4時間後の地球規模での大嵐を予測できた者は皆無だった(Number誌)” 



対戦前、ラグビー日本代表のエディ・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)は言っていた。

「南アフリカは相手にボールを持っていて欲しい。ディフェンスを好む国民なんです」

ジョーンズHCはかつて、8年前のW杯において優勝した南アフリカのコンサルタント(参謀)を務めていたことがあった。相手の手の内は知り尽くしている。一方で日本側の戦術は、本番までラインアウトもBKのムーブも封印、すべてをひた隠していた。



事件勃発の機運は満ちていた。

”ラグビー史に、いや、世界のスポーツの歴史に刻まれる大事件が、目の前で起きようとしていた(Number誌)










時計は70分59秒をさした。

ラグビーW杯、日本 vs 南アフリカ

残り時間、0分。

29 - 32

日本、いまだ3点のビハインド。



徹底して攻めた日本代表は、残り0分、南アフリカのゴール正面でPK(ペナルティーキック)を獲得した。

ここで日本代表は重大な選択を迫られた。

キックかトライか?



キック(PG, ペナルティーゴール)が決まれば3点。試合を同点に終わらせることができる。日本のキッカー五郎丸の成功率は80%以上だ。一方、一か八かでトライを選択すれば5点以上、つまり逆転を狙うことができる。が、失敗すれば0点、敗北が確定する。

”世界最強のディフェンス国を相手に、トライはそうそう取れるものではない。PG(ペナルティーゴール)を選択すれば、五郎丸歩が難なく3点を入れるだろう。引き分けでも大事件だ。南アフリカ代表スプリングボグスといえば、ニュージランド代表オールブラックスと並ぶ世界ラグビー最強国の双璧。世界最大の雄大な体躯で、愚直に頑強に、ひたすら激しいプレーを反復する。1995年から参加しているW杯で敗れたのは、5大会でわずか4度。ニュージーランドとオーストラリア、イングランドという優勝経験国以外には敗れていないのだ。そんな南アフリカと引き分けたなら、それは充分に事件だ。胸を張って引き分けを狙っていい。それは当たり前の選択だ(Number誌)

だが、桜のエンブレムを胸にした勇敢なる15人は、そうはしなかった。

主将リーチマイケルが両手で示したのは「スクラムの形」。



スタンドの3万人がどよめいた。

総立ちになった。そして絶叫した。

ジャパン!

ジャパン!

ニッポン!

ニッポン!

”日本のサポーター、中立のはずの英国のファン、さらには緑の南アフリカ・ジャージーを着たファンまでもが叫んでいた。日本代表の背中を押す声がスタジアムを覆い尽くす(Number誌)

リーチ主将は「同点じゃなくて、勝ちに行くことしか考えなかった。全員が勝ちにくという気持ちだった。その気持ちをガッカリさせるわけにはいかなかったし、トライを取り切る自信もあった」と試合後に語っている。



「南アフリカくらいなら押せますよ」

HO(フッカー)堀江翔太がそう豪語していた日本のスクラム。

日本がボールを動かす。

南アフリカの大男たちが、タックルに来る。

”普段なら鈍い音を立てて対戦相手を粉砕する緑のジャージー(南アフリカ)を、赤白のジャージー(日本)が鋭く突き飛ばす。右をブロードハーストが突く。左にもう一度リーチが出る。日和佐が素早くさばく。次から次へと繰り出される連続攻撃に、疲れ切った南アフリカFW(フォワード)の足はついていけない。目の前で起きている事態が理解できない。

「ありえないぞ…、こいつら何者だ?」

そんな悲鳴が聞こえてくる(Number誌)



ゴールラインまで、あと1m。

ここが勝負!

南アフリカのFW(フォワード)が必死に駆け寄ろうとするのを見すまし、日本は一気に攻撃の向きを変えた。立川がオープンへと大きくパスを飛ばす。

それを最高の男が受け取った。

日本の最終兵器、マフィだ!



マフィは左に流れながら突進、タックラーをハンドオフで外しながら、左へとボールを飛ばす。

その先にいたのは、ヘスケス!

本場ニュージーランド生まれの弾丸ライナー!


”最後のスクラムの直前、備忘のため手元の録音機に自分の声を吹き込んだ。「ヘスケス、ヘスケス」。組む前からそれしか言っていない。カーン・ヘスケスのあの強靭な足腰を南アフリカ人は知らない。そこで勝負!(Number誌)”


ヘスケスは言っている。

「スペースが見えた。そこに一直線にドライブすることだけ考えた」


トライっ!

トライだー!


ヘスケス「信じられなかった。起き上がろうとしたら、みんなが押し寄せてきた。あんな気持ちは初めてだ!」

”スタジアムの3万人は、もはや誰もが立ち上がっていた。悲鳴と絶叫がとどろく中、赤白のジャージーが左コーナーに滑り込んだ。ここに、世界のラグビー史上最大の…、否、そんな表現ではおさまらない、世界のスポーツ史で最大といっていいセットアップ(番狂わせ)が完結した(Number誌)



トライ成功!

スコアが、ついにひっくり返った。

日本 34 vs 南アフリカ 32



見たか!

ジャパンがやったんだぞ!

そう言わんばかりに、ラストパスを放ったマフィはジャージーの胸を両手で引っ張り、桜のエンブレムを観客たちに見せつけた。



ジョニー・ウィルキンソン(W杯2003優勝、イングランド代表)はすぐさま、こうツイートした。

「日本の素晴らしいパフォーマンス。私の心臓は最後の数分からドキドキして、今もまだそれが収まらない」

クライブ・ウッドロワード(イングランド優勝監督)は、こう言った。

「Wow, 日本がキックを狙わずトライを狙いにいったのは、W杯史上最大の決断、W杯史上最高の試合。ブリリアント!」


”ジャパンは、短気と実行力と毒舌と努力の指導者(エディ・ジョーンズHC)のもと、理の外の理を生きた。理にとどまってスプリングボグスをやっつけられるはずもない。だってスプリングボグスだぜ。 … 泥酔にふらつく中年の南アフリカ人に「ジャパン、見事なり」と声をかけられた(Number誌)

”鍵となったのは「Relentless Motion(容赦ない絶え間ない動き)」という言葉だ。Relentlessはアメフトでよく用いられる。相手に対して容赦なく襲いかかり、圧倒する。エディーHC(ヘッドコーチ)の場合は「 Motion」という言葉にオリジナリティがある。相手を疲弊させるほどの動き。この発想を実行するのは極めて難しいから、エディー以外は誰も掲げない。そして、南アフリカ戦で80分間それを実現させた。合宿の3部練習や、肉体を酷使したあとに午後6時からスクラム練習をするなど、常識はずれのメニューを課した結果が勝利へと結びついた(Number誌)

”誇張を嫌う英国BBC放送のサイトの報告記事に「奇蹟」とあった。 … 進行中のW杯の最終到達点がどこであろうとも、「ジャパン、スプリングボグスを倒す」の偉業は不滅だ。芝の上の勇士たちは、半世紀先まで英雄である。 … 向こう数十年、日本vs南アフリカ戦はいたるところで話題になる(Number誌)



「日本勝利」の歴史的価値は、ラグビーに疎い日本人よりも、むしろイングランド人のほうに衝撃をあたえた。

Out of a clear blue English sky came a thunderbolt
青く澄んだイングランドの空に稲妻(オブザーバー)

Great shock in sport
スポーツ史上最大のショック(サンデー・テレグラフ)

The biggest shock I will ever live to see
こんな衝撃は生きているうちにない(サンデー・タイムズ)



どこも感嘆詞のオンパレード。

「桜が満開」

「ロマンチック・アップセット(番狂わせ)」



そんな中、勝利の立役者、五郎丸はいつものポーカーフェイスでこう言った。

「これは奇跡じゃなくて必然です。ラグビーには奇跡なんてありません」










(了)






ソース:
Number(ナンバー) 887号 BASEBALL CLIMAX 2015 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))



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