2015年1月27日火曜日

クルム伊達の語る「錦織圭」 [テニス]



「錦織くん、天才だったでしょ?」

クルム伊達公子は言う。

「だって、(全米オープンの直前に)足の手術して練習してないんですよ。ちょっと様子見にニューヨークに来て、いきなり準優勝ですよ。普通、ありえないでしょ」

錦織圭は昨年8月の全米オープンで、日本人には不可能とさえ言われたグランドスラム(四大大会)決勝に進出。その後、世界ランクを一気に駆け上がった(現在5位)。







クルム伊達はつづける。

「自信が自信を呼ぶっていうか、一度一段上がっちゃうと、そのレベルが当たり前になってくる時ってあるんですよね。もう、負けない相手には負けなくなる。絶対に。何をやっても負けなくなる。自分が勝ちたくなくと思っても負けなくなる」

クルム伊達、彼女自身、そういう経験があったという。

「現役時代の時、海外の試合が嫌で嫌で、早く日本に帰りたくて仕方がなくて、”もうしんどいから勝てなくてもいいや”って思いながら試合をしてたことがあったんです。でも、勝っちゃうんです(笑)。もう疲れてるのに、とか思ってるのに、勝っちゃう。それも、全力を出さずに。1994年ぐらいからだったかな、わたしもグランドスラムの1週間前は力を温存するようになってましたから」

グランドスラムの2週間、フルにいったら体がもたない、とクルム伊達は言う。

「いかに1週目で力を温存するか。そこがグランドスラムで勝ち上がっていくためのカギ。だから錦織君も、いまは1週目、あんまりギア上げてないとおもいますよ。上げなくても勝てるし、上げてたら持たないし」







全米オープンでの準優勝のあと、錦織圭は世界の注目を一身に集めることになった。必然的に、これからの錦織は相当なプレッシャーを受けながら戦い続けなければならない。しかし、この点、クルム伊達は心配していないという。

「だって、スルーさせることがうまいもん。わたし、スルーさせられないから。なにか言われると、全部反応しちゃうから。その点、錦織君は感情の起伏も激しくないし、ホント、おっとりしてるもん。大丈夫? って心配になるぐらい。もうちょっとビシっとした方がいいんじゃない? と思うぐらい」

クルム伊達に言わせれば、錦織圭は草食系だという。

「草食。完全に草食。オフコートの彼って、”伊達さん、何食べますかぁ”みたいな(笑)。”何食べたい?”って聞いたら、”何でもいいっすよぉ”みたいな(笑)」







(了)






ソース:Number(ナンバー)869号 錦織圭のすべて。全豪OP直前総力特集 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
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2015年1月26日月曜日

ナダルの「魂」 [テニス]




 ジュニア時代の錦織圭は、2006年全仏決勝前に、ラファエル・ナダルのヒッティング・パートナーを務めたことがある。その際、全球本気だったというナダル。あまりにもボールが重かったために、錦織は驚いたという。

 杉山愛も驚いた。「ウォームアップの時から100%全力。それで疲れてしまわないの?っていうぐらい。強烈なフィジカルな強さですよ。あとスピンが凄い回転量で、頭の上に跳ねていってしまうぐらい」






 その前年(2005)、ナダルは初出場にして全仏優勝という衝撃的なデビューを飾っていた。

―― 19歳の誕生日を迎えたばかりのナダルは、赤土に大の字になって幸福を噛みしめた。全力でボールを追い、渾身の力でボールを殴りつける。1球たりとも気を抜かない。ナダルは、一目見ただけで惹きつけられるプレースタイルで、我々の前に登場した(Number誌)。



 若きナダルは言った。

「すべてのボールに対してファイトした。うまくいかないときもファイトして、どのゲームもファイトした」

 たどたどしい英語だった。それが逆に、彼のスピリットを率直に伝えていた。その後、ナダルは全仏で9度の栄冠に輝いている。






「僕には才能がない」

 ナダルはしばしば、そう言ってきた。

―― 彼は自分が不器用だと自覚している。だから反復練習で体に技術を染み込ませ、常に頭を使ってプレーする。トレードマークともいえる派手なガッツポーズとは裏腹に、できるだけ感情を封じ込める。本当の彼は、常に自分を律して戦う選手だ(Number誌)。



 ナダルの自伝を読むと、「利き腕の左手小指を骨折したまま試合をして勝った」という記述がある。

 幼い頃のコーチは叔父のトニ・ナダル。彼は、決して褒めるということをしないスパルタ教師だった。トニは「スポーツが理不尽であること」を、幼いラファ(ナダル)に教えたかったのだとか。










無事これ名馬

この言葉は、ナダルに当てはまらない。



「ケガは僕の代名詞だ」

ナダルがそう言うように、彼は大きなケガに何度も見舞われ、長期離脱を余儀なくされたことが少なくない。

ナダルは言う、「なにしろ限界ギリギリまでチャレンジして、勝利のためにすべてを犠牲にする覚悟でやっているから」






「ナダルが打ち出すボールには『魂』と書いてある」

ナダルのプレーに心打たれた植田実氏は、いみじくもそう言った。

―― 走って、拾って、思い切りトップスピンをかけて打ち返す。しつこく、かつ攻撃的に、冷静にファイトする。その積み重ね。必然的に体を酷使するが、仕方ない。そうしなければ勝てないと彼は知っている(Number誌)。













(了)






ソース:Number
ラファエル・ナダル「甦る、魂のファイト」



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”一万分の1”の少年、錦織圭。 [テニス]




「教えなくてもできちゃう。そういう子は、感覚的に”100人に一人”くらいいる」

当時、小学生を教えていたテニスコーチ、柏井正樹氏はそう言う。そして、その”100人に一人”が、まだ身長150cm足らずの錦織圭だった。



柏井氏は試しに、ドロップショットを錦織に打ち込んでみた。

「圭は『何それ?』って顔をしてましたね。でも負けず嫌いだから、必ず真似してくるんです(笑)」

昔から日本のテニス界では、ドロップショットを”姑息なプレー”としてタブー視する風潮があり、”禁じ手”という意識が小学生の頃から植え付けられる。しかし、柏井氏にとってそんな常識、知ったことではない。

柏井氏は言う。「テニスは何でもあり。正々堂々とやっていたのでは勝てません」

現在、世界ランク5位になった錦織圭。彼が要所で繰り出すマジシャンのようなドロップショット。それを伝授したのは柏井氏だった。



ボールコントロールのセンスと、ゲームセンス。この2つの要素を兼ね備えた選手もやはり,
”100人に一人”と柏井氏は言う。

「100分の1と100分の1だから、確率的には”一万分の一”になるんじゃないですかね」

柏井氏の目には、身長150㎝の錦織の体に”日本の未来”が詰まっているように見えていた。

「パワーで劣る日本人が、これからどうやったら世界と戦えるのか? その答えを見つけた気がしました。あんな衝撃はもう、最初で最後でしょうね」



しかし、「圭(錦織)の基礎体力はしょぼかった」と柏井氏は振り返る。

パワーのない日本人の間ですら、錦織はパワーで圧倒されることがしばしばだった。

一学年上だった富田玄樹は言う、「うまかったですけど、ま、そんなに強くはなかったです」。富田は小学生時代、非力だった錦織に負けることはほとんどなかったという。






■ おんぼら



2003年、錦織圭は富田玄樹、喜多文明らとともアメリカに渡る。アメリカのフロリダ州にあるプロスポーツ選手の養成所「IMGアカデミー」のテニス部門に合格したのだ。

中学2年生の夏だった。



アメリカ時代、最初の3年間、錦織は「目立たない存在」だった。

島根弁で言うところの”おんぼら”な子。”おんぼら”とは”穏やかな”という意味だ。錦織は子どもの頃から”おんぼら”であり、気の抜けたように「ふぁ~い」と返事をするのが常だった。

「ふてぶてしいけど、なんかふにゃっとしてるんですよ。僕の知っている圭は超テキトー(笑)」と、一緒にアメリカに行った富田は言う。

喜多の印象も同様だ。「かなりぽかーんとしていますからね。どうやって打つのと聞いても、『いやぁ~、打つだけだよ~』ってわけわからない(笑)」



良くも悪くも、錦織は「死ぬほどマイペース」だった。

喜多は言う、「毎朝、食堂で『おはよー』って言っても、あいつは返さないんですよ。あとで聞いたら『低血圧で朝はしゃべれないんだよ』って。いくらなんでも、あいさつくらいはできそうですけどね(笑)」

こんなエピソードもある。

「寝てるとき、富田の鼻の穴にピーナッツを詰めたり、トランプを入れたり。言いだしっぺはだいたい圭。生意気だけど、おもしろい奴でした」



アメリカ(IMGアカデミー)でのトレーニングは、文字通りテニス三昧、テニス漬け。朝7時から夕方6時過ぎまで、びっちりとメニューが組まれていた。喜多に言わせれば「監獄」。「死ぬほど追い込まれた」と皆が口をそろえるほどだった。

「帰りてぇ~」

富田と喜多は、それが口癖になっていた。

一方、マイペースの錦織ばかりは「しんどい」と愚痴はこぼしても、「帰りたい」とだけは決して言わなかったという。



「帰りてぇ」が口癖だった同期生2人、富田と喜多は早々にアメリカを去った。

後日、富田は「帰りたいと思わなかったのか?」と錦織に尋ねたことがある。錦織は「とくに帰る理由が見つからなかった」と答えた。

富田は笑う。「俺らは帰る理由しか見つからなかったんですけどね(笑)」






■ 遊びの延長



錦織がアメリカで頭角をあらわしはじめるのは2年目から。

奨学金で援助をしていた盛田正明氏は言う。「逐一、報告を受けていたのですが、一年目の3人はドングリの背比べ。しかし2年目からは圭だけがグングン伸びてきた」



ハードトレーニングによって体力のつきはじめた錦織は、毎大会、上位に進出するようになっていた。

「今も昔も、圭の課題はフィジカル(体力)だけ。やろうとしていることに体が追いつけば、自然と結果はついてくる」と、トレーニング担当だった中村豊氏は言う。



3年目、いよいよ錦織圭の才能が突出してくる。IMGアカデミーでエリートコースに昇格したのだ。

盛田氏は言う。「その日、私のノートに『初めて世界を狙える子が出てきた』って書きました」

そして、こんなエピソードを語る。

「圭は相手の選手が先に来てても、てれんてれん、てれんてれん歩いて会場に現れる。遅れたからって、あわてるなんてことは全くない。不敵なところがあるんですよ」

錦織は、相手がどんな強豪であってもマイペースのままだったという。



盛田氏は、こうも言う。

「私には彼に才能があるのかどうかわからなかった。ただ、休憩時間に一人でテニスボールでリフティングをしたり、いろんな恰好でラケットでボールを弾いていた。あ、この子のテニスは”遊びの延長”なんだなって思いましたね。










■ 中学の卒業文集



2004年のジュニア・デビス杯でのことを、錦織圭は中学の卒業文集に記している。以下、引用。



「2004年の思い出」 錦織圭

 今年の9月24日にテニスの国の対抗戦がスペインであった。これは「Junior Davis cup」といって16才以下の国のチャンピオンを決める大きな大会だった。この大会は世界の強豪の人たちが、みんな集まってくる。だから自分のためにもすごくいい経験になったと思う。

 まずこの大会に出れるのは16チームで、その前にアジア・オセアニア予選というのがある。それで日本は3位だったので、ぎりぎり世界へのキップをもらう事が出来た。その時はかなりうれしかった。自分でも願ってはいたけど、本選に出れるとは思ってなかった。

 世界大会ではいい結果ではなかった。日本は11位、満足いく結果ではない。けど結果がすべてじゃないと思う。自分の中で一番心に残った試合がある。それはスペインの一番手とやった時だった。結果はファイナルセット9-7で、約3時間やって最後に勝ったのは僕だった。その試合は5-6で負けていた。そこからばんかいして逆転する事ができた。本当に最高の気分だった。監督もチームメイトも喜んでくれたし、すごくうれしかった。これが今後の自信にもつながり、いい経験ができた。

 この大会で得た物は将来につなげていきたいし、来年も出れるので次こそ優勝を目指したい。






■ 水の都から



「あいつ、セットポイントとかでも絶対に守りに入らないでしょ。この場面で、そこに打てちゃうんだ、って」

喜多が驚いたように、アメリカ時代のコーチ、米沢徹氏も驚く。

「ネットに出ることをテーマに練習ゲームをしたとするじゃないですか。”勝っても負けても前に出ろ”と。そうすると普通の子は、1試合で10回も行ければいい方。でも圭の場合は100回くらい前に行けるんです」



あの松江からよくぞ。

水の都、島根県松江市出身の、ひときわ小柄だった選手。

錦織圭



「それにしても、あの怠け者が、あんな体になるとはね(笑)」

錦織圭を最初に見出した柏井正樹氏は言う。

―― 錦織は現在のコーチであるマイケル・チャンについてもらまで過去、10人以上のコーチから指導を受けてきた。その中で、おそらく最も影響を受けたのが、最初のコーチの柏井正樹だ(Number誌)。



柏井氏はしみじみと続ける。

「すんげー努力したんでしょうね。想像しただけでも、涙が出ちゃう...」













(了)






ソース:Number(ナンバー)869号 錦織圭のすべて。全豪OP直前総力特集 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
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90平方インチのラケット [ロジャー・フェデラー] テニス


ロジャー・フェデラーのテニスラケットは小さかった。

―― ナダルやジョコビッチは100平方インチ。マリーは98平方インチ。それらに比べてフェデラーの90平方インチは極めて小さい。これまでフェデラーは頑なに”面の小さなラケット”にこだわっていた(Number誌)。

その小さな面は「フェデラーにしか使えない」と言われてきた。その90平方インチのラケットでフェデラーはこれまで、四大大会優勝17回という歴代最多記録を刻んできた。そのサイズには”王者の自負”がこもっていたのだ。



しかし、、、

――90平方インチのラケットはいつしか、フェデラーでも手に余すような”時代遅れの代物”になっていた。パワーで劣り、ミスヒットにも厳しかった(Number誌)。

昨季序盤、フェデラーのランキングは8位にまで転落した。12年ぶりの絶不調だった。背中の痛みに不振が重なり、ウィンブルドンでは2回戦敗退。同大会で準々決勝にも進めなかったのは、じつに11年ぶりだった。



そしてついに、フェデラーは決断をくだした。

7平方インチ、タバコ箱ほどの大きさを受け入れた。それまでの90平方インチのラケット面を、97平方インチにまで広げた。

フェデラーは言う。

「新しいラケットはパワーがあってミスへの許容量も広がった。サーブに威力を感じるし、バックハンドは楽に打てる。以前は毎日ラケットと格闘していた感じだったのが、いまはすごくシンプル。何の後悔もない」

―― 面が大きくなればスイートスポットも広がる。若干コントロール性能が落ちたとしても、繊細な感覚と高い技術をストレスなく発揮できるメリットは想像以上に大きかった(Number誌)。



新コーチに就任したステファン・エドバーグも大きな助けになった。

フェデラーは言う。「ステファンはもっと定期的にたくさんの試合をこなすべきだって言ったんだ。”若い頃なら長い休みをとるのもいいけど、年を取ったらそのほうが体には楽だ”って」



老いは恥ではない。

そう言ったのはジョージ・フォアマン(ボクシング元世界ヘビー級王者)。



テニス史上最高の王者、ロジャー・フェデラーも今や33歳。

”タバコ箱ほどの大きさ”を受け入れられるようになった彼は今季、ふたたび世界ランキング1位の座を狙えるまでの復活を果たしている。国別対抗のデビスカップでも、母国スイスを初優勝へと導いた。

フェデラーは言う。

「年間に4、5敗しかしなかった時代(2005、2006)が自分の全盛期だったかもしれない。でも今だって、ハードワークと経験、あらゆるものを総動員して、より良い選手であろうとしているんだよ」



―― 古くて新しいフェデラー。久々のNo.1返り咲きが近づいている(Number誌)。










(了)






ソース:Number(ナンバー)869号 錦織圭のすべて。全豪OP直前総力特集 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
ロジャー・フェデラー「老いを認め、取り戻した精度と自信」



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テニスの錦織圭は言う。

「各が違うのはトップの3人です」



その”トップの3人”とは

ノバク・ジョコビッチ
ロジャー・フェデラー
ラファエル・ナダル



―― 2005年の全仏以降、四大大会の優勝をBIG4が独占した(2009年全米が唯一の例外)。ジョコビッチ、フェデラー、ナダル、マリーの4人が黄金期を形成。5番手以下の選手が四大大会を制するのは難しいと思われてきた(Number誌)。



現在、テニス世界ランキングの1位の座にいるのは

ノバク・ジョコビッチ

長らく続いていた”ナダルとフェデラーの2強時代”。そこに割入ったジョコビッチ。そして今、ナダル、フェデラーの2強はジョコビッチの足元に抑え込まれている。



ジョコビッチは言う。

「2013年の全仏準決勝、フルセットの末にラファ(ナダル)に敗れた。もうちょっとで難攻不落のラファを倒せるところだったから、もの凄く大きな失望に襲われたのを覚えている。あの敗戦は、自分の精神力とパーソナリティを鍛え上げるうえで、最も大きなレッスンだった。だから4時間37分に及んだ試合を綿密に分析したと同時に、そこに至るまでの3週間も丹念に検証した」

ジョコビッチは続ける。

「敗北は、嫌がおうでも自分と向き合うことを強いる。内面の最も深い部分、奥底に隠れた恐れや疑念、フラストレーションなどと向き合わざるをえなくなる。それらが具体的に何なのかを、はっきりさせる必要があるからだ。一方、試合で勝ったときは、試合の内容が悪くとも気持ち良く感じ、やがてそれは過信に変わる」



精神面の深い分析を、ジョコビッチは専門家に任せない。自らそれを行うという。

ジョコビッチは言う。「心の奥底にまで入り込んで、敗北の原因をはっきりさせ、精神的に強くなる。自分がどうなりたいのか、外からどう見られたいかを知っておく必要があるのは自分自身だからだ」

たとえば2013年全仏での痛恨の敗戦のあと、ジョコビッチは心のリセットを実行した。

ジョコビッチは言う。「次のウィンブルドンに出かける前に、フィアンセとイタリア旅行をしてすべてを忘れた。その結果、全英では決勝に進むことができた。敗北を心理的に消化し、その残滓を取り除く方法を身に着けたわけだ。シーズン中は休む間もなく大会が続くから、即座にリセットしないとやっていけない。テニスで成功するためには、そうしたメンタル能力が必要なんだ」



心をリセットする方法については、2013年にスタッフに加えたボリス・ベッカーに学んだという。

ジョコビッチは言う。「ボリスには、ドイツ的な勝者のメンタリティと文化がある。ドイツ人のディシプリン(規律)と合理性、絶対不屈の精神はとても重要なんだ。精神的な落ち着きを得たものが、最後の勝利を得られる。プレッシャーをいかにうまく遠ざけるか、ボリスはそれを良く知っていて、どういうプロセスでその境地に至るかを、彼は示すことができるんだ。彼はトップレベルの選手がどんな問題に直面するかを正確に理解している。ボリスの力を借りることで、リセットの仕方を最適化することができたんだ。いったん弱い気持ちに囚われると、それがどのぐらい続くのかは誰にもわからないからね」

ジョコビッチは、こうも言う。

「スポーツではよく”ゾーンに入る”と言うだろう。普通では考えられない状態で、いったんそこに入ると集中力と自信、柔軟性と対応能力が完璧な状態で調和し、自分の100%の力を出し尽くすことができる。相手に惑わされず、相手を見ることすらなくなる。僕もときどき、このゾーンに入る。でも、いつも中に入れるわけじゃない。入口に至るだけの時もしばしばある」



心ばかりではない。ジョコビッチは身体の管理も当然おこたらない。グルテンフリーのダイエットなどで体質改善を図っている。

「おかげで選手としても日常生活でも気分がずっと良く感じられるようになった。アレルギーと喘息も、食事のおかげで完治した。精神的にも安定して、不安を感じることがなくなった。この生活を2010年から始め、今日までに5kg減量した。そして世界ランキング1位になり、グランドスラム(四大大会)を6回優勝できたんだ」



最後に、王者ジョコビッチは、こう語る。

「僕の人生は決して平凡ではない。母国(セルビア)の戦争のことを考えると、自分がどれほど恵まれたかもよくわかる。テニスをすることで、僕は心の平安を得ることができた。常にNo.1でありたいと思う。自分の名前をテニスの歴史に刻みたいとも思う。でも、それらは絶対的な目標ではない。幸福の源泉でもない。もし明日、テニスを止めるのであれば、僕は別のことで自分を満たせるだろう。だからもはや、それぞれの試合や大会に勝つことには、あまり固執していないんだ」

そして、こう笑った。

「ネットの向こう側を見ていては駄目なんだ(笑)」













(了)






ソース:Number(ナンバー)869号 錦織圭のすべて。全豪OP直前総力特集 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
ノバク・ジョコビッチ「好敵手の存在が僕を進歩させる」



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