「僕が入った頃のオリックスは、すごい個性派集団だったので、みんながバラバラでした。『優勝しよう』なんて声、聞いたことがないですもん」
すでにオリックスを引退していたパンチ佐藤。彼はそんな話をしていたことがあった。
そのパンチ佐藤と入れ違うかのように現れた「新たな個性派」。
それは「イチロー」であった(1992年、愛工大名電高からドラフト4位でオリックス入団)。
そして、その新たな個性は入団3年目にして、早くもシーズン200本安打を達成(史上初)。「イチロー・フィーバー」を日本列島に巻き起こしていた(1994)。
しかし、イチローという個性がいても、オリックスにはまだまだ「優勝」という雰囲気が薄かった。
というのも、仰木監督が就任したばかりのオリックスは、イチローを擁してなお、当時「黄金時代」を謳歌していた西武ライオンズに敵う気がしなかったのである。
「当時のオリックスは、阪急時代から数えて10年間も優勝から遠ざかっていた(Number誌)」
際立つ個性派はいるが、バラバラだっというオリックス。
ところが幸か不幸か、その後にチームを一丸とする大惨事が、本拠地「神戸」を襲う。
1995年1月17日、午前5時46分。阪神淡路大震災であった…。
「鉄の扉が、風かなにかで突然閉まったような音がした。それと同時に、遊園地の乗り物みたいに身体がすっと落下した」
イチローと同期入団の「田口壮(たぐち・そう)」は、その日のことを鮮明に記憶している。
「数秒後、建物が折れてしまうのではないかと思えるほど左右に揺れ始めた」
寮住まいだったイチローらは、一階ロビーに集まると、いろんなところに連絡をはじめた。
「当時は小さな携帯がやっと出回り始めた頃でしたが、イチローさんは持っていたんじゃないかな」
しばらくして夜が明けると、寮からも見えてきた。遠くの方で立ち昇る黒い煙が…。
「あの震災で、チーム全員が同じ方向を向いたように見えました」
前年にオリックスを引退していたパンチ佐藤は、そう振り返る。
「阪神淡路大震災で、絶望の底に沈んだ神戸にあって、イチローとオリックスは唯一の希望だった(Number誌)」
「こんな時だからこそ、オリックスに頑張ってほしい…!」
世間の声はそう叫んでいた。しかし、ただ想いだけで勝てるほど、この世界は甘くはない。
満身に期待を背負ったオリックスの行く手には、王者・西武が頑として居座っていた。
それでも、イチローは気を吐いた。
打率3部門(本塁打・打率・打点)で、彼は首位に立っていた(1995年5月)。
そして、そのイチローの勢いに乗るかのように、オリックスも一時的にとはいえ、リーグ首位に立った。
「アメリカでも優勝するチームは決まっていて、最後は『全員が同じ方向を向いているチーム』が勝つ。ファンも巻き込んで、一体感のあるチームはやっぱり強いんです」
のちにアメリカで3度ワールドシリーズを経験し、2度のワールドチャンピオンに輝くことになる田口壮(当時オリックス)は、そう語る。
オリックスの仰木監督は、当時のチームをこう評している。
「(ベンチにいる)25人だけで戦っているのではなく、何万、何千人のファンとともに相手を圧倒していた」
道路は寸断され、電車も動かなかった震災後の神戸。
それでもグリーンスタジアム神戸では、連日満員の観客がオリックスに熱い視線を送っていた。
「球場に入りきらなかった客たちは、レフト後方の木によじ登って試合を眺めていたものだ(Number誌)」
その大観衆の目の9割9分は、オリックスの背番号「51」を追っている。
イチローだ。彼はそのすべてが美しかった。
「ポジションにつくところ。一塁を駆け抜けるところ。フライを捕るところ。イチローはそのすべてが絵になった(Number誌)」
長年イチローを撮り続けているカメラマン・松井真行は、その美しい姿にほれぼれとする。
「バックホームのとき、ゆったりと大きく投げるので、投げ終わった後の姿勢がとても綺麗なんです」
これまで見たこともないような美しいフォロースルー。ボールを投げた右腕は、地面に向かってまっすぐに振り下ろされ、グラブをはめた左手は鳥が翼を広げるかのように後ろに大きく伸びる。そして、彼の両足は宙に浮いていた。
先頭打者のイチローがチャンスをつくって先行し、数少ない点差を継投で守り切る。
「6回まででリードしていれば、もう勝てる感じだった」と投手・平井正史は当時を語る。
「リードされても、ファンの大声援があるから『流れ』が相手にいかない。そのうち逆転してしまう。あの時のオリックスは、『流れが来っぱなし』でした」
苦手にしていた王者・西武からは、なんと15連勝。
「普通ではあり得ないことが起こっていました。『願いの力』って凄いんですよ(平井正史)」
「優勝…?」
それまで「優勝しよう」などという声の聞かれなかったオリックスは、明らかにそれに向かって突き進んでいた。
7月22日には早くもマジック43が点灯。9月13日には、ついにマジックを1とした。その翌日からは地元・神戸での4連戦。
もはや「地元優勝はほぼ確実」と目されていた。
ところが…。
「ガッチガッチでしたよ」と、田口壮は当時を回想する。「なんとしても神戸で優勝を決めなきゃいけないという重圧がのしかかってきて…。3連敗の後なんて、みんな顔面蒼白でしたから」。
震災で傷ついた神戸の人たちに優勝を見せてやりたい、その想いは強すぎるあまりに空回りしていた。その結果、連敗は3で止まらず、なんとまさかの4連敗。
悲願の地元優勝は、夢と消えた。
失意のオリックス…。
しかしその2日後、オリックスは西武球場で8−2で西武を下し、あっさりと優勝を決めてしまう。
「あのときは、簡単に勝てましたね」と田口壮は笑う。
その日のビールかけで、いちばんはしゃいでいたのはイチローだった。
「弾けちゃって、弾けちゃって。シーズン中は見たことのない表情でした」とカメラマンの松村真行はその熱狂ぶりを振り返る。
この年(1995)、「打のヒーロー」はイチローだった。
「本塁打のタイトルこそ3本差で及ばなかったが、打率・打点の二冠王に輝き、トップバッターとしては『規格外の数字』を残した(Number誌)」
田口壮は、イチローの心の内をこう慮(おもんぱか)る。
「みんな、彼に願いを託していた部分が大きかったんじゃないかな。『イチローなら絶対にやってくれる』って」
イチローは、そういう想いを誰よりも重く感じる人間であった。
「口にはしなくても、僕らとは別の想いを背負っていたと思いますよ」と田口。
イチローの台頭、そして神戸の大震災。
「今にして思えば。、あの時代、あの瞬間に、イチローが世に出たのは運命だったのではあるまいか(Number誌)」
グリーンスタジアム神戸に足を運んだ人たちは、「少なくとも、ほんのひとときだけでも、すべてを忘れ、野球を楽しんでいた」。
あの時の神戸の人々にとって、「それ以上に掛け替えのないもの」などあっただろうか…。
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/4号 [雑誌]
「震災と神戸とイチローと」
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