「鮮烈」
それがライダー「阿部典史(あべ・のりふみ)」、通称ノリック。
「生涯で残した戦績を振り返ると、突出して速いライダーではなかった。だが、彼のレースを思い出すとき、その印象は『鮮烈』としか言いようがない(Number誌)」
ヘルメットから後ろ髪をなびかせたライダー、ノリック。
その世界デビュー戦は、まさに「鮮烈」だった。
それは今から20年ほど前(1994)の鈴鹿グランプリ(500cc)。
弱冠18歳の気迫は、予選7番手からのロケットスタートに現れていた。
1周目を終えて、なんと4番手に急浮上。4週目には一気に2番手に。
強引にでも攻め続けるノリックの走りに、鈴鹿サーキットは騒然となる。
「あいつ、本物だよ…」
ダイヤの原石とは言われてはいたが、まさかここまでとは…。
「ノリックは積極的に後輪を滑らせてコーナーを攻めて行く。ほとんど曲芸の世界ですよ(ジャーナリスト・遠藤智)」
ノリックのバイクは型落ちだった(ホンダNSR500)。直線スピードで劣るそのバイクを、ノリックは果敢なコーナリングでカバーしていく。
だが、その履いているタイヤも万全ではない。ミシュラン全盛時代にダンロップを履いていたのだから。
それでも、歴戦の猛者たちから一歩も引かないノリック。
一歩も引かないどころか、一歩前へ出た。
10週目、ノリックはついにトップに立つ。
「突然の終わり」
タイヤの限界。
ギリギリまでブレーキングを遅らせた第1コーナーで、ノリックの身体はゴム鞠のように跳ね、転がり、飛ばされ、そしてコース脇の砂地に叩きつけられた。
時速300km以上でメインスタンドを通過して、鈴鹿の大観衆を「オオッ!!」と響(どよ)めかせたノリックは、その直後のコーナーで派手に転倒したのだった。
「あのレースでノリックは、勝つか目立つかしかなかったわけです(青木敦・ライディングスポーツ編集長)」
このノリックの派手な転倒シーンに、鈴鹿の大観衆は魅せられた。それは「事件」と呼べるほどに凄まじいレースだったのだ。
幸い、ノリックは無事だった。
レース後、勝ちを逃したノリックは子どものように「泣きじゃくった」。
「普段はヘルメットをかぶって見えないから、そういう激しい感情を目の当たりにすると感動しますよ」と、青木敦(前出)は当時を振り返る。
「このレースでノリックが魅せたのは、才能の片鱗だけではなかった。欲しいものを子どものように欲しがる無邪気さ…(Number誌)」
ノリックの熱さは世界に伝わった。
「すごいライダーがいる」
当時、日本人よりも外国人たちのほうに、ノリックの名がよく知られていた。「鮮烈」な日本グランプリ(鈴鹿)の転倒シーンによって。
日本グランプリ後、ノリックは海を渡る。
「ノリックはスポンサーの威光に頼らず、大枚の契約金で迎えられた嚆矢と言えるだろう(Number誌)」
ノリックはヤマハワークスから引き抜かれたのであった。
「ライバルのホンダ系チームからヤマハが引き抜くのも異例だが、シーズン途中で無名の新人がワークス入りするなど、当時のレース界の常識ではあり得ないことだった(Number誌)」。
「とにかく、よく転んだね」と、当時の技術責任者の桜田修司は振り返る。
一発目のイギリスで、ノリックはいきなり骨折。
「一緒に救急車に乗りましたよ」と桜田は笑う。「ノリックはまさに感性で走るタイプ。だから細かなセッティングには無頓着。とくかく誰よりも速く走りたい。『減速するのは負けだ』みたいな(笑)」。
それがノリックの長所でもあり、短所でもあった。
鳴り物入りで世界に躍り出たノリックであったが、転倒を繰り返していたために、'95年シーズンは鳴かず飛ばず。
「あの鈴鹿の走りはマグレだったのか?」
そんな懐疑的な目が、ノリックに向けられるのも無理はない…。
「崖っぷち」
'96年、ふたたび鈴鹿で迎えた日本グランプリ。ノリックは追い詰められていた。
予選を終えて11番。「周囲の期待は決して高くはなかった」。
ところがドッコイ、ノリックは決勝で「見違えるような走り」を見せる。
「あの走りだ…!」
得意のロケットスタートで、1周目から一気に4番手に駆け上がったノリック。
「オレは速い! もっと速く走れる!!」
そう言わんばかりの、ノリックのアクセル。
「予選タイムより1秒も速くラップを刻んでいくノリックのヤマハYZR500に、もはや追いつけるライバルはいなかった(Number誌)」
残り3周。
単独トップに立っていたノリック。
後続との差は5秒以上。しかしそれでも、「決してアクセルをゆるめない」。
路面にブラックマークを残しながら、これでもかと攻め続けるノリック。
リアタイヤは悲鳴を上げている。それでもまだ、スピードを上げる。
マシンは時おり、不穏な挙動を示す…。
観客の誰もが祈らざるを得なかった。
「ノリック、転ぶな…!」
日本人ライダーとして、史上初めて母国での500cc制覇へ。
「大歓声が後押しするなか、ヘルメットから長髪をなびかせたライダーが、メインストレートを駆け抜けていった(Number誌)」
ロードレース世界選手権の最高峰500ccで、ついにノリックはテッペンに立った。
歓喜、歓喜、感動、感動…!
歓喜と感動のウィニングラン。
「ノリックはヘルメットの内側で、どんな表情をしていたのだろう?」
のちにノリックは「日の丸の旗を持ったら、手を振れなかった」と笑っていたが…。
鈴鹿サーキットに初めて流れる「君が代」。
表彰台の真ん中で泣きじゃくるノリック。
そんな裸のノリックを見て、思わずもらい泣きしてしまうファンも数知れず…。
'94年の大転倒でノリックはファンの心を掴んだ。そして、'96年の勝利はそれを掴んで離せないものにした。
「戦績だけならノリック以上の結果を残した日本人ライダーはいる。だが、存在感で誰もがノリックに及ばないのは、この鈴鹿での2戦のインパクトがあまりにも大きいからだ(Number誌)」
優勝後の記者会見では、泣き顔から一転、ノリックは「満面の笑み」を見せていた。
「よく泣いて、よく笑う。ノリックは誰にも愛されるライダーだった(Number誌)」
その後も、ノリックは走り続けた。
'99年、リオデジャネイロでノリックは再び表彰台の真ん中に立った。
そして、'00年の日本グランプリでも優勝を果たした。
不慮の事故。
ノリックの死は突然だった。
'07年、交通事故で急逝。享年32…。
そんな鮮烈さまでは、誰も求めていなかった…。
あの日の鈴鹿での熱狂、それが失われて随分と久しい。それでもあの大歓声は、すぐそこにでも聞こえてきそうだ…。
ノリックの素直な涙、そして満面の笑みとともに…。
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/4号 [雑誌]
「ノリック、転ぶな! 阿部典史」
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