「ときどき、選手のお母さんが私よりも若いこともあります(笑)」
現役を続けているだけでも驚異的な42歳、テニスの「クルム伊達公子(だて・きみこ)」は、そんなジョークを飛ばす。
一度引退したは、伊達が26歳の時、世界ランク4位、全英でベスト4に入るという絶頂期の引退であった。
そしてそれから11年のブランクを経て、伊達は2008年に現役復帰。「ツアー最年長選手としてコートに立つだけで話題になった(Number誌)」。
しかし、さすがの伊達も昨年あたりからはズルズルと世界ランクを下げ、146位にまで落ちてしまった(2012年11月)。
「伊達のチャレンジも、そろそろ限界ではないか…、引き際はいつなのか…」
そんなヒソヒソ話がささやかれることも…。
それでも伊達は、コートに立ち続けた。
「低迷の原因はケガだ」と彼女は確信していた。だから、ベストの体調で勝負してみるまでは、諦めきれない強い想いがあったのだ。
「ケガをした時点で、このままでは終われないと思いました」と伊達。
伊達は体幹の強さには定評も自信があったが、引退している時に負った左アキレス腱の断裂ばかりは長く尾を引いた。
「痛めるのはいつも脚。どんなに鍛えても筋肉がつかないという左ふくらはぎ。そこをかばって痛めてしまうことの多い右ふくらはぎ、さらにあるときは足首、あるときは太股。とにかく、連鎖するケガを克服したい…(Number誌)」
昨年、左ふくらはぎを痛めたのをキッカケに、伊達はコートよりもジムにいる時間の方を長くとっていた。
「もともと私は、重いウェイトを持つ筋力トレーニングには、あまり賛成じゃなかったんです」
そう言う伊達は、ピラティスなどをトレーニングメニューに取り入れ、ファンクショナル・トレーニングという方法で、身体を機能的・効果的に使うということに重点を置いていた。
「今行っているジムは、マシンすら置いてないんです」と伊達。
そうした知的なトレーニングにより、徐々に体調の上がってきた伊達。「身体の調子が良いから、勝ちは必ずついてくる」と信じられるようになっていた。
そして迎えた全豪オープン。
世界中が驚きを隠せなかった。
真夏の豪州で、最年長選手が単複ともに3回戦に進出したのだから…!
惜しくも破れたシングルス3回戦、相手はセルビアのホープ、ヨバノフスキー(世界ランク56位)。
「キミコは凄いわ! 私が生まれた時、もう今の私の年だったのよね(笑)」
ヨバノフスキーは21歳、伊達は42歳である。
「それで今もあのスピード、あの体力だもの。私よりも速い! あんな42歳に私もなりたいわ」
試合後、ヨバノフスキーは屈託のない言葉で、ツアー最年長の友人、クロム伊達公子に敬意を示した。
一方の伊達、「ヨバノフスキーが持っているもので、何か一つもらえるとしたら?」との質問に、こう即答した。
「若さですね」
それは、どんなにトレーニングをしても、どんなに技術を磨いても、今からでは決して得ることができないものである。
なぜ、伊達のテニスはベテラン記者やオールド・ファンを惹きつけるのか?
それは、あの年でまだ頑張っているから、という理由だけではないだろう。
「圧倒的なパワーと気迫に満ちた女子テニスの勝負の中でいつからか失われた『知的で繊細な駆け引き』を、伊達のテニスに見ることができるからだ(Number誌)」
「テニスをやめたら、やりたくないこと?」
そんな質問をされた伊達は、こう答えた。
「強いて挙げるなら、バナナはもう食べたくないですね(笑)」
枯れることのないキミコ・スマイル。
すでに引退してしまっているかつてのライバルたちは、伊達と顔を合わせるたびに、激励や祝福の言葉をくれるという。
「ついでにみんな口をそろえて言うんですよ。『ユー・アー・クレイジー!』って(笑)」
クレイジーな42歳。
その驚異的な復活劇は、自分自身の肉体との「知的で繊細な駆け引き」の結果であった。
若さだけじゃない、力だけじゃない「プラスαの何か」、それを伊達は周到に準備していたのだ…!
関連記事:
「狙う能力」。錦織圭(テニス)
渋き野獣「フェレール(テニス)」。生まれた時代が悪かった…
「晩成型」の選手を育てつつある日本テニス界
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 2/21号 [雑誌]
「クレイジーな42歳の周到な復活劇 クルム伊達公子」
0 件のコメント:
コメントを投稿