決意の断髪式
報道陣が見守るなか、頭を丸めるのは
ラグビー日本代表「田中史朗(たなか・ふみあき)」選手(28歳)。
彼は日本人初、世界最高峰のプロリーグ「スーパーラグビー」のプレーヤーとなった男である。
「野球で言えば、野茂英雄がメジャーリーグに行ったのと同じ位置づけ」と、高校時代の高崎監督は言う。
「世界最高峰リーグといわれる南半球のスーパーラグビーで初めての日本人選手、いわば『ラグビー版メジャーリーガー』の誕生だ(Number誌)」
スーパーラグビーとは、世界ランキング上位3カ国の「ニュージーランド・オーストラリア・南アフリカ」のクラブチームが、世界最強の座をかけて争うプロリーグ。各国5つのチーム、計15チームがエントリー。レギュラーシーズン16試合をへて、プレーオフ(8月)で優勝を決定する。
「チームメイトも対戦相手も、W杯優勝経験のある3カ国の代表選手や、それに準ずる選手ばかり。世界一タフなリーグだ」
身長166cm。スーパーラグビーおよそ450人の選手の中で、最も小柄な田中選手。
それでも、「あの風貌に騙されてはいけない」。田中選手をよく知る人は皆、そう口を揃える。
「もしかしたら入場券売り場で10歳下の年齢を申告しても通用しそうなベビーフェイス。その裏には、類まれな闘争心が隠されている」
日本代表の元監督、ジョン・カーワンに頂いた異名は「笑う暗殺者」。
ニコニコとした丸刈り、少年のような風貌の田中選手。その小さな身体の内には、素早い球さばきと鋭いタックルが秘められているのだった。
◎ダニーデン市の「ハイランダーズ」
朝8時、この日の気温は肌寒い10℃。南半球に位置するニュージランドは、日本とは季節が真逆であり、これからドンドン寒くなる。
「だいぶ寒いですね」
関西弁でそう言いながら、田中選手は車にエンジンをかける。グラウンドまで15分。
3分経過。まだ出発しない。
「古いクルマなんで、5分くらいエンジンを暖めてからでないと、止まってしまいます(笑)」
こだわりのない性格だという田中選手。クルマはとにかく走ればよいと、友人から安く譲り受けたのだそうだ。
田中選手が所属する「ハイランダーズ」というチームは、NZ南島ダニーデン市に本拠地を置く。
ダニーデン市の人口はおよそ12万人。この街では、男の子も女の子も5歳になるとラグビーを始めるという。それほどスポーツが盛んである。
そんな少年少女たちの憧れは、なんといってもハイランダーズの屈強な選手たち。選手37人を要するハイランダーズからは、ニュージランド代表(オールブラックス)に11人もの選手が選ばれている。まさにスーパースターぞろい。
今や日本のタナカ・フミアキも、そのスーパースターの一人である。
◎スクラムハーフ
「日本人のSH(スクラムハーフ)はテンポが速く、ボールさばきが良いので海外でも評価されるんです」と田中選手は言う。
彼の球出しは、ボールを取ってから投げるまで、一連の動作のスピードが群を抜いて速い。スーパーラグビーでも通用するといわれる恐るべき瞬発力である。
「SH(スクラムハーフ)というポジションだからこそ、日本人が使ってもらえる部分はあると思う」。高校時代の恩師、高崎監督もそう言う。
スクラムハーフ(SH)というポジションは、ラック(密集)でフォワードが確保したボールをバックスにつなぐ「攻撃の起点」となる。
ハイランダーズのラグビーは、スクラムハーフからの素早い球出しで右へ左へボールを動かし、相手の守りを崩すというスタイル。そのカギを握るのが、起点となるスクラムハーフである。
ハイランダーズのジェイミー・ジョセフ監督は、田中選手のスピードを実際にその目で見て、「チームの戦略に合う」と獲得を決めたのだった。
「彼の能力は、私たちの目指すラグビーにピッタリだった」とジョセフ監督は語る。
◎念願
「カッコ悪いですが、泣いてしまいました(笑)」
ハイランダーズ入り内定の一報を受けた時、田中選手は思わず嬉し涙を流していた。
それはITMカップのリーグ戦後のバスの中。ITMカップというのは、スーパーラグビーの下位リーグ(2部に相当)であり、そこで活躍が認められた選手しか、スーパーラグビーの檜舞台に立てないという狭き門。
10歳からラグビー一筋の田中選手にとって、真っ黒なユニフォームに身を包むニュージランド代表・オールブラックスは最高の憧れであり、世界最高峰のスーパーラグビーでプレーすることは、最高の夢の一つだったのだ。
ハイランダーズの選手紹介のWebページで田中選手は、「ラグビー人生で最高の瞬間」をこのハイランダーズの契約と回答している。
しかし現実は厳しい。
ハイランダーズには、ニュージランド代表(オールブラックス)の不動のSH(スクラムハーフ)、「アーロン・スミス」がいる。
24歳ながら世界最高のSH(スクラムハーフ)との呼び声が高いのが、このスミス選手であり、正確で素早いパス、冷静な判断力、相手を一瞬で置き去りにするスピード…、どれをとっても天下一級であった。
スミス選手の交代要員。それが田中選手の現実であった。
それでも、田中選手は入団を決意した。「控え」であるため、収入も減った。
それでも、彼はやらなければならなかった。「日本」を背負うがゆえに…。
◎臥薪嘗胆
2年前のW杯(ワールドカップ)、日本代表は世界と大きく水を開けられていることを痛感させられた(2011)。
「1勝もできず 2大会連続1次リーグ敗退」
ニュージランド代表・オールブラックスとの対戦は、83対7という大敗。面白いようにトライを奪われた(計13本)。
「不甲斐ない日本代表」と、世間の批判は容赦なかった。2019年には日本でラグビーW杯が開催されるというのに、自国開催までに世界との溝は埋まるのか、と不安の声が広がった。
田中選手も日本代表の一員として戦った。だから強く責任を感じる。ゆえに代表を辞退してまで、ニュージーランドでプレーすることを選んだのだった。
「2019年のW杯を成功させなければ、日本のラグビーは終わってしまう。誰かが世界に出て、インパクトのあることをしなければいけない。日本をアピールしないといけない」と、田中選手は固い決意を語る。
パナソニックのチームメイト、堀江翔太選手も想いは同じだった。
「日本人選手の能力を示すために、誰かがスーパーラグビーに行かなければならない」と強い責任感を口にした堀江選手。
田中選手がニュージランド行きを決めた同じ年、堀江選手はオーストラリアのレベルズへの移籍を決めた。一気に2人の「ラグビー版メジャーリーガー」が同時に誕生したのである。
「2人には、世界への扉を開き、閉塞感に包まれた『日本ラグビーの殻』を破ろうという強い思いがあった(Number誌)」
◎デビュー
2月22日(2013)、ハイランダーズは開幕戦を迎えた。
SH(スクラムハーフ)の先発は、当然のようにアーロン・スミス。田中選手はベンチ・スタート。
後半26分。疲れが見え始めたスミス選手に代わり、田中選手の出番がやって来た。
「KONNICHIWA(コンニチハ) to Fumiaki Tanaka(フミアキ・タナカ)!」
場内のアナウンスは、高らかにその登場を告げる。
開幕戦からいきなりデビューした田中選手。
最初のプレーは自陣40mのラインアウト。持ち味の素早いパス、テンポの良い球出しで攻撃のリズムをつくる。
およそ14分間。試合は敗れたものの、スミス選手の代役を見事果たした。
試合後のインタビュー
「What do you think of Super Rugby?(スーパーラグビーはどうでしたか?」
「Very tough and very speedy.(とても激しく、とてもスピーディ) so, fantastic sports(素晴らしいスポーツです)」
そう答えた田中選手。最後に両手を胸の前で合わせ、お辞儀を披露。
続く2戦目、3戦目も田中選手は途中出場。果敢に海外の巨体選手に立ち向かっていった。
「ニュージランドには、恐怖を感じないような選手が多い。試合中にどんなに激しく身体を打って内出血しても、テーピングをしてすぐピッチに戻り、思い切り相手にぶつかっていく」
ケタ違いのパワーとスピードの洗礼は容赦ない。田中選手は「まだまだ立っているだけしかできない」と話す。
◎怪我
「今日はチキンカレー。あとカボチャの煮物とサラダを作ろうと思ってます」
家で待つのは、妻の智美さん。ラグビー以外のことは無頓着な田中選手をサポートしようと、自らもニュージランドに移り住んだ。自身もかつてスポーツ選手、実業団のバドミントン選手だったという。
「いつもありがとうございます。いただきます」
田中選手は手を合わせて、カレーをいただく。
ゴリ、ゴリ
その音に、「肉系食べるとね、軟骨まで食べるから」と智美さんは笑う。
「ほんとキレイに食べるよね(笑)」
やはり、怪我が心配だという智美さん。
「吹き飛ばされたり、大きい人たちの下敷きになってるところを見る時は、怪我してないかなとか、大丈夫かなとか、すごい心配になります」
それでも、限られた選手生命。活躍できるときに悔いのないようにやってもらいたい、と願う。
スーパーラグビーに挑戦して2ヶ月。
田中選手は、トレーナーに左ヒジの違和感を訴えていた。そこは練習中に痛めたところであり、それが3戦目の試合で再発したのだった。
同時に、足首にも捻挫を抱えている。それでも練習を休むわけにはいかない。なんとしてもレギューラーの座を勝ち取らなければ…!
◎小さな身体
次の試合、田中選手は遠征メンバーから外された。怪我もあったが、それよりも田中選手の「体格」がその理由とされた。
「身体の小さい田中選手はかなり狙われると考え、より力強い守りができるSH(スクラムハーフ)を起用することにした」とジョセフ監督。
ラグビーは全員で攻め、全員で守るスポーツ。SH(スクラムハーフ)にも高い守備能力が求められる。しかし、小柄な田中選手では不安が残る、と監督は言うのだった。
この時、田中選手の脳裏には、高校時代のある苦い試合が想起されていた。
「(実況)田中が突っ込んでいったー! あーっと、パスを出そうとしましたが、通りません!」
それは高校2年生の秋、全国大会出場を賭けた京都府予選の決勝だった。
相手チームは、小柄な田中選手に徹底的に的を絞って狙ってきた。
「それがストレスになって、プレッシャーになって、自分自身をパニックにさせたのかなと思います」と田中選手は当時を振り返る。
止むことのない激しいラッシュに、平常心を失った田中選手。チームも敗れた…。
初めての悔し涙。
その涙の中に、彼は誓った。
「小さな身体を、絶対、言い訳にしない…!」
◎覚醒
毎日のように、深夜まで試合のビデオを見た。
そして気がついた。「カギは瞬発力」。
そして始まった。伏見稲荷の階段ダッシュ。赤い鳥居の延々と続く長い石段を、ひたすら駆け上がった。
それからの田中選手の変化を、伏見工業高校の高崎利明監督は、懐かしそうに思い出す。
「入って来たときは小学生みたいだったけどな(笑)」
入学当時の田中選手は、ますます小さかった。そして無名だった。
「身体も小さかったし、ホンマにラグビーできるんかな、と。僕の中では正直、パッと見て光るところなんて、まったくなかった(笑)」と高崎監督は笑う。
それでも、高校2年生からSH(スクラムハーフ)としてレギュラーに定着した田中選手。
しかし、あの決勝戦の悪夢。ライバル京都成章に12-17で敗れた。
「あの時、フミ(田中選手)の出来が悪かったんです。あいつは自分のせいで負けたと感じて、あの試合を境に変わりましたね。初めて本気で悔しいと思ったんでしょう」と監督は言う。
小さな身体に秘められていた才能が覚醒しはじめるのは、それからだった。
「こいつは力があるな…」
高崎監督も目を瞠るプレーが続く。田中選手のあまりの球さばきの速さに、他の選手たちが付いてこれなくなっていた。
◎それから
雪辱を誓った翌年の全国大会。
伏見工業高校はベスト4に進出。結果は全国3位。
この時の田中選手のパフォーマンスがセレクターの目に止まり、同年のU19日本代表に選出される。
翌年、京都産業大学に進んだ田中選手は、U19代表のキャプテンとして2年連続で世界選手権に出場。「スコットランド代表を破る金星も挙げている」。
京都産業大学時代、田中選手はニュージーランドに留学してる。しかし当時は「当りの激しさ」に驚き、「スーパーラグビーは日本人には届かない舞台なのか…」と感じてしまったという。
英語も話せなかったため、「練習や試合以外は、ホストファミリーの家に引き籠っていた」のだとか。
実業団では一年目からレギュラー。日本選手権三連覇(2007-2009)に大貢献。
日本代表では不動のスクラムハーフ。それが田中史朗であった。
そして2度目の大きな挫折は、先述した通り、W杯(2011)での惨敗。
「日本が1勝でもできていたら…」と、自分の不甲斐なさが身に染みた。
20年ぶりの勝利を目されたトンガ戦でも、日本代表は敗れた。それまで3年連続でトンガには勝っていたのに…。カナダにも残り10分まで8点差で勝っていたのに、最後に追いつかれて勝利を逃した。
◎負けん気
高校時代の挫折は、田中選手を覚醒させ、そしてW杯での挫折は、田中選手をニュージーランドへと羽ばたかせた。
小さな身体に宿る「負けん気」
それが、彼をして世界の桧舞台へと導いたかのようであった。
「やっぱり、限界をつくらずにやってきた結果が、このスーパーラグビーっていう舞台なんで」
そう言いながら、田中選手は一人、自分がこれまで出場したハイランダーズの試合をじっくりと見直していた。
日本だったら抜けるシーンでも、ここでは止められてしまっている。
「ほんとに手の長さ、強さで捕まえられて、止められるっていう部分もすごい出てきますね」と田中選手はしみじみ言う。
スーパーラグビーの選手たちは手足が長く、出足が速い。一瞬でもSH(スクラムハーフ)の球出しが遅れると、簡単に攻撃を止められてしまう。
ところが、ニュージーランド代表、不動のスクラムハーフ、アーロン・スミス選手の場合、パスをもらったバックスは余裕をもって攻撃を展開している。早くパスをもらえる分の余裕であった。
それに比べ、田中選手のそれは遅いように思われた。パスのスピードはもっともっと必要だった。
「やっぱり、負けるのは嫌なんで」
◎好プレー
4月5日(2011)、ハイランダーズ第6戦
後半16分から出場した田中選手は、魅せた。
「(実況)タナカが抜けた! パスでうまくつないだ! トライ!」
スーパーラグビーで初めてトライに絡む好プレー。
左側に指示を出し、そちらにパスを出すフリをした田中選手。相手選手の目線はまんまとそれに釣られた。その瞬間を見逃さなかった田中選手、いつもは出すパスを出さずに、自らがいきなり突っ込んだ。
「左側の選手が僕の方を見ていなかったので、すごいスペースが空いてたのが見えていました」と田中選手。
田中選手は相手に捕まりそうになった瞬間、寝転ぶように低くなりながら、地面スレスレにパスを出す。それが、敵方の長い手の下をスリ抜けた。
そして、そのパスをもらった選手がトライを決めたのだった。
このプレーは高く評価された。先発のスミス選手よりも、明らかにパフォーマンスが良かった。
それが、次の試合の「初先発」へとつながった。
「先発での起用に不安はありません」、ジョセフ監督はそう言い切った。
◎初先発
「フミアキー! アリガトウ! オハヨウ!」
田中選手が会場に姿を現すと、温かいファンの声援が飛ぶ。ありったけの日本語で。
「(実況)Fumiaki Tanaka, First Start(タナカ選手、先発です)。Should be big audience in Japan.(日本のファンもきっと大勢見ているでしょう)」
日本のラガーマンの誇り。
それを世界に示す絶好のチャンスであった。
相手はオーストラリアのブランビーズ。現在スーパーラグビー首位の強豪だ。
田中選手は素早い球出しは堅調。「(実況)Now he is being Smith(スミス選手のようだ)」。
なんと不安視された守備でも、田中選手は魅せた。
「It was a Japanese Superman!(日本のスーパーマンだ!)He came diving from the blind side!(死角から飛びかかった!)Beautiful timing!(最高のタイミングだ!)」
相手のSH(スクラムハーフ)がむき出しになった瞬間、一足飛びに田中選手は懇親のタックル。まるでカエルのように、相手に跳びついた!
そのジャンプ・タックルには、スーパーラグビーの大観衆も大興奮。タナカはニンジャかサムライか!?
だが、チームは敗れた。これで開幕から7連敗。
活躍を魅せた田中選手の顔には笑顔がない。あるのは、どこでつけたか大きなアザだけだ…。
◎切り拓かれた道
シーズンは後半戦を迎えている。
いつものように愛車を暖める田中選手。いよいよニュージーランドは秋から冬へむかう。
「絶対無理っていうことは、スポーツの世界ではないのかなと思いますね」
今まで無理を克服してきた田中選手は、そう語る。
「もし無理だと思ってやってるなら、やる意味がないですしね」
まだまだ世界に認められていない日本のラグビー。
それでも、田中選手は然るべき方向を向き続ける。
「いけると思っていれば、自ずとそっちの方向に向いていくと思います」と、その信念は固い。自国開催のW杯は6年後の2019年。
「道を切り拓いた人間としての責任が、アイツにはあると思っています」
恩師・高崎監督は、田中選手の活躍を褒めたりはしない。
「褒めるとまたすぐ調子に乗りよるからね(笑)」
そう言って笑う高崎監督の声は、情にあふれている。
ファースト・サムライ。小さな身体に大きなハート
伏見稲荷の石段は今、世界の檜舞台へとつながった。
日本が世界に届くまで、彼はきっと走るのをやめないだろう…!
(了)
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出典:NHKアスリートの魂
「世界最強に挑む ラグビー田中史朗」
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