ラミちゃん(ラミレス)の「2,000本安打」。
「外国人選手としては初めてであり、プロ13年目での到達は史上最速の記録でもある(Number誌)」
雨の神宮球場。
粘りに粘ったフルカウントからの10球目。
「スイング一閃。風雨が一段と強まる中、低いライナーが傘で埋まったレフトスタンド最前列に突き刺さった(Number誌)」
大記録の一打は、スタンドにぎりぎり届くホームラン。
「ホームランは全然ねらっていなかった」というラミレス。
2,000本目の一本は、もっとも印象深い一打となった。。しかも、この一打が勝利の呼び水となり、DeNAはヤクルトに6-3と逆転勝ち。まさに「完璧な一日」であった。
「相手チームからも祝福されて、こんなに嬉しいことはない」とラミレスは喜んだ。
「2,000本安打」という偉業は、日本人でも41人しか達成できていない。ラミレスは外国人初の42人目であった。
ちなみに、外国人選手の通算安打記録の2位は、タフィー・ローズの1,792本(近鉄・巨人・オリックスと13年間プレー)。3位はレロン・リーの1,579本(ロッテに11年間在籍)。「正直なところ、自分の後に続く外国人選手は、もう二度と現れないのではないかという気もする」とラミレスは心配する。
ラミレスが日本に来たのは、2001年。ヤクルトとの1年契約だった。
それまではアメリカ(3A)でプレーしていたラミレス。日本に行く、と仲間に言ったら、「(日本は)引退間際の選手が行くところだ」と反対されたという。
それはラミレスも否定しなかった。当時の彼は「日本の野球は、それぐらいのレベルだろう」と思っていたし、1年間プレーして、買ったばかりのフロリダの家と、車2台分のローンを稼いだら「一年間で帰国するつもりだった」。
この点、ラミレスの来日は100%ビジネス。
「アメリカでプレーする選手にとって、野球はビジネス以外の何モノでもない。僕も最初はそうだった」とラミレスは言う。
ところが、2,3ヶ月も日本にいると、その気持ちが変わってくる。
「日本人は、みんな知的で礼儀正しくて親切だった。人に対しても物に対しても敬意を抱いている。自動販売機が壊されていることなんてないだろう?」
ラミレスは、すっかり日本に魅了されていた。と同時に、日本野球のレベルの高さを思い知った。
「少しでもメジャー経験のある選手はだいたい、『ちょっと教えてやろう』ぐらいの気持ちで日本に来るんだ。それで、打ったこともないのに『打率3割、30本塁打、100打点』なんて豪語する」
ラミレス自身、一年目、「打率3割、30本塁打、100打点」と豪語していた。だから後悔した。「あんなに大きいこと言わなければよかった…」と。
入団一年目のラミレスは、その豪語には及ばなかったものの、それに近い数字は残した(打率2割8分、29本塁打、88打点)。
しかし、慢心などできなかった。「2年目もうかうかしていられない…!」、その気持ちの方がずっと強かったという。
ところで、1年目のラミレス、野球とともに「志村けんのアイーン」も教わっていた。
「アイーン」が流行っていたその頃、ヤクルトのロッカールームでも、みんなが「アイーン」とやっていた。
「何が面白いんだ?」。はじめ、ラミレスはまったく理解できなかった。それでも、薦められるままに子供たちの前でやってあげたりすると、えらい喜ばれる。
もしアメリカだったら、そんなことをやったら「ナメている」と思われる。
だから、日本で公の場でやる時も、ラミレスはグッと慎重だった。そこで、広報担当者に相談したラミレス。過去にそういう外国人がいた、と言われ、「じゃあ、やってみるか」となった。
するとどうだ。ものすごく受けたではないか。
「たぶん外国人がやっているからだろうね。ふざけているというよりは、僕なりに必死で日本に溶け込もうと努力してくれたんだと思う」とラミレス。
以後、「ゲッツ」や「チッチキチー」など、芸人たちのお株を奪うパフォーマンスを持ちネタとするようになった。
こうして、愛すべき「ラミちゃん」は、日本のファンにも大いに受け入れられたのであった。
次第に、ジャパニーズを理解するようになったラミレス。こんなことにも気づいていた。
「日本の文化では、目上の人が言ったことには『ワカリマシタ』と従うことが大事。たとえ受け入れ難いことがあっても『ショウガナイ』と思うことも必要。僕はその2つはができた」とラミレス。
並みの外国人ならば、意味不明な日本文化に対して「ホワイ(なぜ)ホワイ(なぜ)ホワイ(なぜ)」を連発するのが常。間違っても、自分の気に入らないことに「ワカリマシタ」などとは言えない。
この点、ラミレスはじつに謙虚であり、度量が広かった。敬意を抱くようになっていた日本文化を自分の中に取り入れて、人間的にも成長したいと思っていたのだという。
その謙虚さは、打撃の好成績にも結びついた。
「僕は最初、アメリカにいた時と同じように、ピッチャーばかりに意識を集中させていた。アメリカでは、投手が投げたいところに投げるからね。でもある時、日本の投手はキャッチャーのサインにまったく首を振らないことに気づいたんだ」
ラミレスがそう言う通り、アメリカにおいて打者はピッチャーと対戦するのに対して、日本では打者がキャッチャーと対戦していた。多くの外国人選手が、この事実に気づかぬままに調子を落としていく。だが、ラミレスばかりは、その謙虚さで、いち早くその事実を見抜いていた。
「それに気づいてからは、キャッチャーの傾向を相当研究したよ。それでも数ヶ月はかかったけどね」とラミレス。
3年目にはヤクルトの4番に定着したラミレス。
打率は3割3分3厘、本塁打は40本。124打点。かつての豪語を大きく上回る好成績で、打点王、本塁打王、ベストナインのタイトルを獲得した。
かつてはビジネス一辺倒だったラミレスも、日本人選手の多くが「純粋に野球が好きでやっている」というということも、すっかり理解していた。
「小さな子どもに夢を聞けばわかる。日本の子どもに聞くと『甲子園に出て、プロ野球選手になりたい』と言う。でもベネズエラでの子供たちは大抵こう言うよ。『プロ野球選手になって、たくさんお金を稼ぎたい』ってね」
ラミレスの生国ベネズエラでは、お金が先に立つのも無理はない。まず生き抜くことが大変なのだから。
日本でプレーするようになって、ラミレスは「野球を始めたばかりの頃、まだ好きでバットを振っていた頃のこと」を思い出していた。
そして、ラミレスはフロリダの家を売ってしまった。
「もう、いらないだろう、と思って」
奥さんもすっかり日本を気に入ってしまっていた。
ヤクルトで7年間プレーしたラミレス。
その決別は、突然だった。そしてそれは、ラミレスにとって「もっとも悲しい出来事」となった。
「ひょっとしたら…」と思っていたら、電話がかかってきた。帰国する日、その飛行機が飛び立つ30分前。
「1年契約で、同じ給料でどうか?」
それはラミレスの望むものではなかった。「現状維持の2年契約」が彼の希望だった。別にもっとお金をくれと言っているわけではなかった。
その年、ヤクルトは最下位に終わっており、年俸の高い外国人選手を抱えきれなくなっていた。
移籍を余儀なくされたラミレス。彼が最終的に選んだ先は「もっとも行きたくなかった」という巨人だった。
「外から見ている時、巨人は一番入りたくなかった球団だった。たくさんルールがあって、コーチと選手の関係もギクシャクしているように映った。つねに優勝を義務づけられているチームなので、活躍できなければ選手が容赦なく切り捨てられる。アットホームなヤクルトとは違い、すごく窮屈そうに見えたんだ」とラミレス。
移籍後、その年の開幕戦は、いきなり古巣ヤクルト。
ラミレスが打席に立った時、いきなり大ブーイングが起きた。ヤクルト・ファンから。
「ブーイングはショックだったよ…」とラミレス。だが、意地を見せた。最初の打席でいきなりホームラン。
「この年は、最終的に打率.407、13本塁打と、チーム別では断トツの成績を収めた(Number誌)」
そして、DeNAのラミレスはこの度、2,000本安打を達成。
人気者の「ラミちゃん」は、名実ともにワンランク上の選手となった。
「どうだろう? ファンは僕のことを、もう日本人として見てるんじゃないかな(笑)」
「日本人よりも日本人らしい外国人」
「僕は、日本人のことを日本人よりもわかっているつもりだよ」とラミレスは言う。奥さんにも「あなたは日本の方が合っている」と言われているという。
「これから先、もし野球を離れることがあっても、ずっと日本で暮らしたいと思っている。僕はいろいろな食物にも挑戦して、納豆とアンコとレバー以外はだいたい食べられるからね(笑)」とラミレスは笑う。
「名前は田中ラミちゃん、とかね。上田ラミちゃんもいいな…。どっちがいいと思う? あはははははは」
(了)
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 5/9号 [雑誌]
「アイーンで真面目でゲッツで謙虚なラミちゃんの明るいプロ意識」
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