2012年12月3日月曜日

依存から自立へ。「高橋大輔(フィギュアスケート)」


「ヤバい、ヤバい、どうしよう…」

のちに氷上の王者となる「高橋大輔(たかはし・だいすけ)」。

しかし、彼が注目を浴びるようになった「19歳」の頃、高橋はまだ「誰かの支えがないと何も出来ない、自信のない少年」に過ぎなかった。



「昔の大輔は私に依存してばかりいて、とにかく自信がなかった」

当時のロシア人コーチ「ニコライ・モロゾフ」は、昔の高橋をそう振り返る。

当の高橋もそれは認めるところだ。「当時は彼(ニコライ)に依存してました。完全に待っている状態です」。



ロシアのニコライ・モロゾフと言えば、豪腕で鳴る「金メダルメーカー」。ソルトレーク五輪(2002)に教え子のアレクセイ・ヤグディン、トリノ五輪(2008)では荒川静香を金メダルに導いた男だ。

「世界的に有名な人だから、彼(ニコライ)に『大丈夫』って言われると大丈夫な気がしちゃう」

自分に自信の持ち切れていなかった19歳の高橋は、自分の自信の根っこをコーチであるニコライにすべて預けっぱなしであった。しかし、それは当時の彼にとって決して悪いことではなく、その結果、2007年の世界選手権で銀メダル、2008年の四大陸世界選手権で世界歴代最高記録(当時)を叩き出すことになる。



コーチとしてのニコライの本領は「本番で力を発揮させる精神コントロールの巧みさ」にあった。

「選手のことをよく観察し、叱ると良いのか、褒めると良いのか、性格を熟知して見極める(ニコライ)」

たとえば、自信のなかった高橋には本番前、わざと「音楽のCDを忘れてきた」という演技をして、高橋を大いに焦らせた。そして本番直前、「CDが見つかった」と言って高橋を一気に安心させて、本番に力を発揮させたというエピソードがある。

また、安藤美姫の場合には「泣かせる」というのが「彼の手」だった。「美姫は大会前に調子を落として泣くと、その反動で本番の調子を上げる。だからわざと叱ったりプレッシャーをかけたり、色々な手段で泣かせた(ニコライ)」





そんな策略家ニコライ・モロゾフに、若き高橋大輔は翻弄されつつも、確実に「自分の中に潜む才能」を引き出され、見事に世界のトップスケーターにまで成長することになる。

しかし、決裂の日はやって来た。高橋に相談もせずに、ニコライが織田信成を門下生に加えたことがその引き金となった。ケンカ別れ。高橋ニコライの師弟コンビは、こうして「悪い雰囲気」のままに終わりを迎えることとなる。



ケンカ別れしてもなお、高橋からニコライの影を追い払うことは容易ではなかった。それほどまで深く、「ニコライへの依存心」は彼の心の中に根づいてしまっていた。新しくコーチとなった長光歌子とは衝突してばかりだった。

「ほかの外国人コーチは絶対につけない」と意地になっていたという高橋。それがモチベーションとなり、ニコライ任せから抜け出そうともがくこと自体が練習の原動力にもなっていったのだという。

その結果は、バンクーバー五輪(2008)での銅メダル、世界選手権での金メダルという世界に輝けるものとなった。もう彼は「自信のない少年」などではなかった。ニコライに頼ることもなく、自分の中に育み育てた自信によって、堂々たる日本のエース、世界の王者となったのだった。

「試合は、最後は『一人』ですから(高橋大輔)」





今年(2012)の世界選手権でも銀メダルを獲得した高橋は、もはや誰にも頼ることのない「境地」に達していた。それはパフォーマンスが究極の状態となる「ゾーン(ZONE)」と呼ばれる心境でもあった。

「まるで『無心の世界』で、意識はあるんですが、自分では何もしていないのに身体が勝手に自動で滑っていく、みたいな状態でした(高橋)」

4回転を跳びながら、彼の目にはお客さんがワーッと盛り上がる様子や、ジャッジが笑っている顔までが冷静に見えていた。そして、そのエネルギーから自分の力を得ているような感覚があったという。



完全に精神が自立した高橋。その姿を見たニコライは、高橋が「プロ意識」をつかんだことを悟った。そしてニコライは電話に手を伸ばす。その電話を高橋は受け取った。「フィギュアスケート界では、コーチの方から選手に声をかけること自体が異例」のことであった。

ニコライはこう語る。「大輔と悪い雰囲気で別れたからといって、再びオファーすることにためらいは全くなかった。彼は成長を遂げ、今の大輔はすでに自分で自信をコントロールできる。その点で『真のプロ』になった」

ニコライはロシア人コーチの中では「群を抜いて押しの強い性格」。ジャッジの点数に不満があれば、けたたましい文句でジャッジをまくし立てる。ニコライが主張を曲げることは決してない。



「ニコライって『強い』じゃないですか。僕はこれまで押しが弱かったから…」

高橋はニコライの強さも、自分の弱さも正確に認識している。

「基本はオレ、ビビ(びびり)ですから。シャイだし不安になりやすい」

高橋はそう言うのだが、弱さを知り、自分の才能も知った彼には「もうニコライに左右されない自信」があった。



「ニコライから離れたおかげで色々と経験できて、自立できたなって思うんです。だから今回はニコライが僕をコントロールしているという感じではないんです」

19歳の頃はニコライ任せだった練習も、新たにコンビを組んでからは、その主導権を握るのは高橋だ。たとえニコライが「やめとけ」といったことでも、今の高橋は堂々と「やる」と言い張れる。

そんな自立した高橋に、あのニコライですらタジタジになることもある。「今では練習方法や考え方を積極的に質問してくる。私も努力しないと太刀打ち出来ないくらいだ(ニコライ)」。



再結成した高橋ニコライの師弟コンビが臨んだ注目のGPシリーズ初戦、中国杯。

高橋はSP(ショート)、フリーを通じて3本の4回転ジャンプをすべてミス。総合得点では町田樹に逆転を許して2位に甘んじることとなる。

それでも高橋は落ち込んではいなかった。「前なら『ヤバい、ヤバい』って焦るだけで、自分の自信の無さにやられてボロボロになっていました。でも今回は、結果はボロボロだったけど、自分の中でのコントロールはできています。地味だけど、そういうのを学ぶのが大事だと思います」



一皮も二皮もむけた高橋大輔はもう、強いコーチに左右されることもなく、試合の結果に一喜一憂することもない。

「本番会場に入ったら、最後は『自分』。その結論に至るところまで来られました(高橋)」



19歳の時に「日本のエース」と呼ばれるようになってから早8年。26歳になった高橋の見据えるものは2年後のソチ・オリンピック。

ニコライは言う。「大輔も美姫も荒川も皆、私の元に来た時には世界王者レベルの技術をもっていた」と。ただ必要だったのは「それを本番で発揮できる精神力」。

幸か不幸か、高橋は頼りきっていたニコライとケンカ別れすることで、その胆力が十分に培われることとなった。そして今、不思議な因縁は2人をふたたび結びつけて、次のオリンピックに向かわせようとしている。



「有能な選手は数多くいるが、僕の才能と合わさった時に最も力を発揮するのは大輔だ」

安藤美姫のオファーは断ったニコライ。「大輔以外の日本人のことは考えられない」というほど、今のニコライは高橋大輔にすべてを賭けようとしている。

高橋大輔、ニコライ・モロゾフ、両者ともに機は熟しているようだ…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/6号
「自分との戦いは続く 高橋大輔」
「大輔、そして美姫について ニコライ・モロゾフ」

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