2013年6月9日日曜日

Jリーグの20年と「韓国人選手」たち。なぜ日本に?



「イルボン」

それは韓国語で「日本」のこと。



Jリーグ初の韓国人選手は「盧廷潤(ノ・ジョンユン)」。1993年に日本に来た彼は、当時の日韓関係を示唆する、こんな印象的な言葉を残している。

「失敗したら、二度と韓国に戻れない。そんな覚悟で日本の土を踏んだ。なにしろ韓国では『裏切り者』と罵られていたから…」

日韓関係が今よりも険悪だった1990年代。韓国では、日本のサッカーを「格下」と見下していた。



「カネのために日本に媚びを売るのか?」

韓国の両親に日本から仕送りを続ける盧廷潤(ノ・ジョンユン)を、そう罵る者もいたという。だが、彼の年俸は大物外国人たちよりは格段に安かった。

「新婚の妻と、広島市内のスーパーのタイムセールに通って、生活費を切り詰めていた(Number誌)」







この盧廷潤(ノ・ジョンユン)を皮切りに、以後、Jリーグには多くの韓国人選手たちが流れ込むようになる。

柏レイソルでキャプテンを務めた「洪明甫(ホン・ミョンボ)」は第2世代。韓国代表の主軸でもあった彼は、高額年俸に加え専任通訳、住居、高級車も用意されるなど好待遇であった。

「洪明甫(ホン・ミョンボ)」はのちに韓国代表史上最多の135キャップを誇り、ワールドカップには4大会連続出場を果たすことになる韓国きっての名選手だ(引退後、ロンドン五輪の韓国代表の監督に就任、韓国に史上初の銅メダルをもたらす)。



キャプテン「洪明甫(ホン・ミョンボ)」は、日本人選手たちに「徹底した勝負根性」と「自己犠牲の精神」を訴え続けた。

「大事な試合前になると、チームメイトを行きつけの焼肉屋に集めて、自腹を切って決起集会を開くこともあった(Number誌)」

のちに本人は「日本の『割り勘文化』になじめなかった」と言っている。と同時に「日本人選手は『勝敗に対して淡白すぎる』し、『個人主義』で人任せなところもある」と言っていた。







2009年以降、Jリーグには「アジア枠」が導入される。これで、「外国人選手枠」3人以外にも、アジアの選手ならばもう一人選手登録が可能となった。その対象には当然、韓国人選手も含まれる。

「それ以降、代表経験はおろかプロ経験もない韓国人選手が、大挙来日するようになった(Number誌)」

今季はJ1で24名、J2で37名、合計61名の韓国人選手たちが日本でプレーしている。「その数はいまや、ブラジル人を上回る」。



若く実績のない、いまの韓国人プレーヤーは、いったい日本に何を求めているのだろうか?

「日本に来る理由? Jリーグは観客も多いし、練習環境も整備されている。なにより選手がクラブやファン、メディアから尊重されているイメージがある。それが魅力的だったんだ」

そう語るのは、サガン鳥栖でプレーする「金民友(キム・ミヌ)」。彼はかつて、韓国のKリーグにも入れてもらえない選手だった。



来日当初(2010)の金民友(キム・ミヌ)は、韓国とは真逆の「左側通行」に戸惑ったという。日本語も分からなければ、知り合いも一人もいない。

唯一の救いは、サガン鳥栖の監督が同じ「韓国人」だったことだ。その尹晶煥(ユン・ジョンファン)監督は、こう言った。

「『傭兵』であるオマエは、日本人の倍は走らなければならない」



日本では「外国人選手 = 傭兵」。プロ経験の有無も年齢も問わない。

その傭兵たちに求められるは「結果のみ」。それを尹晶煥(ユン・ジョンファン)監督は明確に理解していた。彼自身、現役時代はJリーグ(セレッソ大阪)の「傭兵」だったのだ。



その尹晶煥(ユン・ジョンファン)監督の言葉を肝に命じた金民友(キム・ミヌ)。

「傭兵である以上、結果には責任を持たなければならない」と一念奮起。2011年には尹晶煥(ユン・ジョンファン)監督とともに、サガン鳥栖を初の「J1昇格」へと導く。昨季は昇格1年目にして「5位」と大躍進。



来日4年目となっている金民友(キム・ミヌ)、すっかり日本には馴染んだものの、日韓選手の意識には依然差があることを口にする。

「日本の選手たちは負けても淡々としているけど、僕にはできません。言葉を発することも、強がりで苦笑いをつくることさえ憚られます」

この言葉は、かつての「洪明甫(ホン・ミョンボ)」と同じ香りがする。それは韓国人が初めてJリーグに来てから十数年の歳月が過ぎても、今なお共通する「日本評」である。

金民友(キム・ミヌ)は続ける。「僕は韓国でそう習いました」。







日韓の差は歴然としてある。それでも、韓国が日本を見る目は十数年よりもずっと優しくなっている。

「呉宰碩(オジェソク)」がJリーグ行きを迷っていた時、韓国の知人たちは「日本は面白い」「韓国より稼げる」など、よりプラスの面を強調してきたという。

だが、呉宰碩(オジェソク)はロンドン五輪・銅メダルメンバーであり、韓国Kリーグでも主要選手。「ヨーロッパならまだしも、なぜ日本なのか?」とも言われたという。「しかも、なぜJ2(ガンバ大阪)に?」



結局、呉宰碩(オジェソク)はヨーロッパ行きよりも、「ガンバ大阪」入りを選んだ。その決断を後押ししたのが、池田誠剛コーチの言葉だったと彼は言う。

「言葉が通じず、韓国とは何もかにも違うから必ず苦労する。苦労したくなければ行くべきではない。だが、今の自分を変えて成長したければ行くべきだ」と、ロンドン五輪をともにした池田コーチは言ったという。

呉宰碩(オジェソク)は「池田さんのような指導者を生み出した日本は凄い」と思ったという。「日本が羨ましいと思ったのは、生まれて初めてでした(本人談)」。



日本に来たある日、呉宰碩(オジェソク)はスーパーで「財布」を落とした。

「でも翌日には出てきて驚きました。しかも、クレジットカードや現金もそのままですよ! 韓国では絶対にあり得ないことです」

日本に来る前、呉宰碩(オジェソク)には「日本人は韓国人には冷たい」という先入観があったという。だが、この財布の一件で、その先入観はキレイに吹き飛んでしまったという。



呉宰碩(オジェソク)の戸惑いはむしろ、日本の「自由な環境」の方だった。

「韓国では学生の頃から、寮での団体生活で朝から晩までスケジュールが管理され、練習でも私生活でも監督やコーチの指導があった(Number誌)」

だが、日本では自由な時間が多くて、誰も干渉すらしてこない。

「厳しく管理されて育つ韓国人選手からすると、自由すぎます。練習が終わると、とくにやることもなくて時間を持て余します」と、呉宰碩(オジェソク)は言う。



さらに、「高校からそのままJリーグに行った若い韓国人選手が、結果を残せずに帰国して、弱くなってKリーグに戻ってくる原因も分かるような気がします」と呉宰碩(オジェソク)は言う。

韓国とは違い、あまりに自由すぎるJリーグの「良すぎる環境」。その甘くゆるい環境が、がんじがらめで育った韓国人を逆にダメにしてしまう、と呉宰碩(オジェソク)は言うのであった。

確かに、Jリーグでさしたる結果も残せず、韓国に戻っても伸び悩む選手は多い。それゆえ時に「Jリーグは韓国の新芽を摘み取っている」とも言われるのである。



たとえそうであったとしても、結局は「選手自身の自覚」が問われるのがスポーツの世界。

「サッカーでも私生活でも『自己管理』できないと、韓国人であれ日本人であれ、Jリーグでは成功できません」

そう強く語るのは「曺永哲(チョ・ヨンチョル)」。日本生活7年目の彼は、横浜FC、アルビレックス新潟をへて、現在はアルディージャ大宮(現在首位)で活躍中。







いまは日本生活の酸いも甘いも噛み分けている曺永哲(チョ・ヨンチョル)であるが、来日当初は、やはり右も左もわからなかったという。

「箸から箸へ料理を渡すことがマナー違反とは知らずに、恥をかいたこともあった。チームメイトから冗談半分で頭を叩かれケンカになったこともあった。韓国では、悪ふざけであれ頭を叩かれるのは侮辱行為だからだ(Number誌)」



韓国を知り、日本を知る「Jリーグの韓国人選手」たち。

顔は似ているが「心」は異なる日本人と韓国人。

そのミスマッチが、政治に歴史に領土問題。「似て異なる」ゆえの宿命か、ときにいがみ合ってきた日韓両国。



「韓国と日本の両方を知る者として、韓日関係に『もどかしさ』を感じることもあります」と、新世代の曺永哲(チョ・ヨンチョル)は言う。

「韓国は『過去のこと』をまず考え、日本は『先のこと』ばかりを考えたがるのです」

若い彼らは、日本のチームメイトとも政治や歴史、領土問題までをザックバランに話すことがあるという。それは先人たちの踏み込むことはできなかったナイーブな領域だ。



日韓両国はいま、あらゆる分野で交流が活発になっている。

もう、お互いが先入観だけで誤解し合っている時代とは様相を異にし始めている。

「日本が今よりも韓国のことを考え、韓国も日本を理解すれば、両国の関係はもっと近く、仲良くなれるはずなんです」と、曺永哲(チョ・ヨンチョル)は心底そう思っていると言う。



創立から20年がたったJリーグ。

その歴史のなかで培ってきた日韓選手の交流。お互いが良きライバルとして、激闘を積み重ねてきた。

そして、本気でぶつかり合いながら、お互いの理解を深めてきた。



「イルボン(日本)」に挑み続けてきた韓国人フットボーラーたち。

最前線でぶつかり合う彼らは、いまや一番の日本の理解者だ。












(了)






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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 6/13号 [雑誌]
「若きコリアンはなぜ”イルボン”を選んだのか?」

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