元プロ・ゴルファー
「岡本綾子(おかもと・あやこ)」
日本人として唯一、最高峰の米国ゴルフツアーで「賞金女王」に輝いたレジェンド。
Number誌「古くは樋口久子から、宮里藍や宮里美香、上田桃子、有村智恵など、多くの選手がアメリカに活躍の場を求めている。だが、年間チャンピオン(賞金女王)に輝いたのは岡本綾子、彼女一人しかまだいない」
■型破り
岡本は、そもそもゴルファーとしてのスタート時点から型破りだった。
高校ではソフトボール部に所属。ゴルフに転向したのは21歳と遅かったが、ゴルフを始めてほんの1年ほどの23歳で早々、プロテストに合格してしまった。初優勝は、そのデビュー1年目の年である(1975)。専任コーチすらいなかった。
岡本は語る。「一打一打を考えながら練習していたからだと思います。一球一球を打つたびに、神経を研ぎ澄ませながら取り組んでいました。だから、一日300球以上打ったことがない。その代わり、その300球のどれにも意志が籠っていました」
ソフトボールで鍛えた身体は、ゴルフにも活きた。
「ソフトボール時代の投手の経験も生きました。投手は指先の感覚が鋭いので、ゴルフのコントロールにはそれほど苦労しませんでした」
順風満帆。
だがプロ3年目、岡本綾子はメディアに散々叩かれた。
「馬鹿ですよねぇ。ソフトボールでは勝ったらガッツポーズが当たり前だったから、思わず癖が出てしまったんです」
国内メジャーのワールドレディス、女王・樋口久子と首位で並んでいた最終ホール、樋口がパーパットを外した瞬間、岡本は思わずガッツポーズをしたのだった。
「すると、プロ仲間やメディアに『人のミスを喜んで!』と散々叩かれてしまいました」
それからだった。岡本が喜怒哀楽をすっかり表に出さなくなってしまったのは。
もともとマイペース。
朱に交わることをよしとしない。
デビュー戦で勝利を飾った時も、記者から「目標とする選手は?」という問いに、岡本は「いません」と素っ気なく答えていた。
「いません」「ありません」とぶっきら棒な岡本の受け答えに、ある男性記者はついに切れた。「目標を聞かれたら、普通は”樋口久子”って言うんだよ! 覚えとけ!」
「生意気」というレッテルが貼られた岡本。
反面、先輩たちからは「ふにゃ」とアダ名された。自分の考えを容易には表さないその態度が「ふにゃふにゃ」していると取られていたのである。
岡本は言う。「当時は、先輩後輩の規律が厳しく、先輩の言うことはすべて正しいと受け入れなければなりませんでした。でも、私には私の考えがあった。それを曲げるのが嫌で、イエス・ノーをはっきりしなかったために付けられたニックネームだったんです」
■アメリカ
周囲に何と言われようと、岡本の飛距離とショットの正確さは「当代随一」。
Number誌「とくに飛距離は、当時の女子プロの平均飛距離210〜220mを大幅に上回る240〜250m。パワーの時代を切り拓いた」
1979年から、岡本綾子はアメリカの女子ツアーにスポット参戦(28歳)。1983年からは、日本女子では初めて、米国LPGAツアーに本格参戦を決めた(32歳)。
すると、日本のゴルフ界は蜂の巣を突っついたように大騒ぎ。その頃には岡本は、日本のゴルフ界を一身に背負う大スターになっていたため、その不在となれば、女子ゴルフの興行収入が大幅に減ると懸念されたのだった。協会をはじめ、関係者がこぞって猛反対するのであった。
「二度と日本でゴルフが出来なくしてやるとまで言われ、かなり神経を擦り減らしました」と岡本は、追い詰められていた当時を思い起こす。
「でも正直に言うなら、もう日本でやることがなくなってしまっていたんです。ドン詰まりの状況を変えるには『アメリカに行くしかない』というくらい切羽詰まっていたんです」
岡本は、鎖を断ち切った。
そして、新天地アメリカの懐へと飛び込んだ。
ジェスチャー混じりの、片言の英語で。
「アメリカを本拠地にしていたのは私くらいだったので、遠征に行く先々でツアー仲間が『私の家に来れば』と誘ってくれました」と岡本は言う。
そんな「たらい回し」が、もともと大陸的な性格であった岡本には心地良くもあった。
「いろんな家を渡り歩くのは苦痛じゃなかったですね。むしろ、さまざまな家族に出会えて楽しかったな…」
Number誌「この発想は、海外に活躍の場を求める日本人選手との大きな違いである。近年の選手は、通訳とかトレーナーなど帯同スタッフとともに移動し、日本といる時と同じような環境を求めようとする傾向が強い」
岡本は言う。「選手らと友達になれば、おしゃべりの中から貴重な情報もないります。コースの特徴、クラブの特性などから、あの記者は変わっているとか。彼女たちがくれた情報にどれだけ助けられたことか…」
現地の環境に慣れるというのも、岡本に言わせると「ゴルフ技術の一つ」であった。
■頂点
米国ツアー本格参戦のその年(1983)、早くも岡本は優勝した。
翌1984年には3勝を飾り、賞金女王争いにも顔を突っ込み始めた。
「ショットに関しては、あらゆることがクリアに見えました。どう打てばどこにボールが落ち、どう転がってカップのどの辺りで止まるかはもちろん、ボールとクラブ・フェースの間に芝が何本絡んだかまで感じ取れました」
まさに岡本綾子、絶頂期。
「私はどこまで行っちゃうの? とさえ思えました」
自らのもつ無限の可能性を体現していたちょうどその時、岡本を襲ったのは持病の腰痛だった。
Number誌「激痛でベットからも起き上がれず、手足が痺れた。痛み止めを飲むものの、副作用が強く試合中も睡魔に襲われる。試合途中で動けなくなった1985年夏ついに、腰にメスを入れた」
「自分にピタリ、ピタリとはまるあの感覚を思い出したい」
相変わらず重い腰を引きずりながらも、手術の半年後、岡本は復帰を果たす。
Number誌「一打一打に願いを込めてクラブを振り続けたところ、それまでの豪快なゴルフから、丁寧で繊細なスタイルに変わっていた。結果的にはそれが功を奏し、1987年(36歳)にアメリカ国籍以外の選手では初めて、岡本が米ツアーの賞金女王に輝いたのである」
本人は、その抜群の名誉を誇る風はない。
むしろ、「頂点というのは一瞬なんです」と達観していた。
自分の極みを覗いてしまったからか、「賞金女王としての栄誉は、いわば付録にしか過ぎなかった(Number誌)」。
■チーム岡本
子どもの頃に夢見ていた「農業」。
それをやりつつツアーに参加するという「半農半ゴルフ」の生活を考えていた岡本は、実家にほど近い広島のゴルフ場を購入。半分を畑にしてしまった。
Number誌「畑をゴルフ場に造成する例はゴマンとあるが、ゴルフ場を畑に変えたのは岡本くらいである」
両親の介護もはじまり、自身も腰痛ら入院生活を強いられるようになると、岡本は日本女子ツアー44勝、海外女子ツアー18勝の実績に区切りをつけた。
母が亡くなると、岡本は喪失感に包まれていた。
そんな2007年の暮れ、ミズノから服部真夕の「指導」を依頼される。服部はその年にプロテストをトップ合格した新進気鋭であった(当時19歳)。
「私は根っからのお人好しなんです」と言う岡本は、現役時代から後輩に聞かれれば何でもアドバイスしていた。その岡本のちょっとした助言で蘇った選手も多かった。
「困ったら、綾子さんに聞け」と女子ゴルフ界では言われていたほどに。
正式に岡本の門下生となったのは服部真夕が最初であったが、「なら私も」と、表純子と青山加織が翌年に、そのまた次の年(2009)には森田理香子が「チーム岡本」に参加してきた(2011年には若林舞衣子も)。
「『チーム岡本』というのは、私が言ったのではなく、選手たちが勝手に言い出したものです」と岡本は言う。「でも、彼女たちはメンバーをチームとして捉えた。それが大事なんです」
個人競技であるゴルフは、基本的に「自分以外はライバル」である。そこには「仲間であるがライバル」という矛盾を内包している。
チーム岡本の最年長、まとめ役の表純子(39)はこう言う。「食事はほとんど毎日一緒。家族といる時間より、このメンバーと過ごす時間の方が多いので、お互いのことは熟知しています。でも、食事のときはゴルフの話はしません。ライバルなんだけど仲間、という微妙なバランスがうまく機能している気がします」
岡本は「ゴルフはどんなにテクニックを磨いても勝てる競技じゃありません。最後は人間性がものを言う。それも『ゴルフ技術の一つ』」と言う。「ゴルフは個人競技ですが、仲間意識を持つというのは人間性を高める上でとても大切なことです」
■名監督
意地の悪い見方は、「名選手、名監督にあらず」と言う。
だが、「名選手」岡本は同時に名監督でもあった。彼女の指導を受けた門下生らは、その途端にジャンプアップしてしまうのである。
Number誌「服部真夕は2008年11月、IDC大塚家具レディスでプロ2年目にして初優勝。若林舞衣子も入門直後に西陣レディスクラシックで4年ぶりの優勝を手にした。毎年シード権のボーダーラインにいた表純子にいたっては、なんと今季、ヨネックスレディスで8年ぶりに優勝を果たした」
岡本の指導は、型にはめることなく足りない部分を埋めていく。
岡本はゆったりとした口調で、こう言う。「赤い色の選手がいるとします。この選手に白を加えたらどうなるか? もし黒を足したら赤の発色は消されてしまうのではないか? あるいは緑を足して青にした方が、この選手は活きるかもしれない…」
そんな「ありとあらゆること」を想定しながら、岡本は選手らと向き合う。
「私は褒めるのが基本。叱ると、脳と身体が萎縮してしまい、人の話に耳を貸さなくなるんです」
岡本は、「アドバイスが届く環境」を念入りにこしらえてから、選手と話す。
「まず、彼女たちの個性や考え方を知らないことには、教えることはできませんから。だから、この選手が興味をもつものは何かをいつも探っています」
岡本は食事にも同席。携帯アプリの「LINE」も頻繁に使う。それが彼女らの用いるコミュニケーション・ツールであるからだ。
「岡本さんのアドバイス通りに練習すると、なぜかパフォーマンスが上がるんです」と、チーム岡本の若林舞衣子(25)は不思議がる。
「岡本さんの言葉は偉大です。たとえば誰かが岡本さんと同じことを言ったにしても、すんなり耳に入らないけど、岡本さんの言葉は『骨の髄にまで届く』んですから」
森田理香子も同じようなことを言う。「一つ一つの言葉が重くて、褒める言葉もそうだし、試合前の一言一言が心に染みる」
岡本の言葉はさり気なく、時に指導されていると選手は意識していないこともある。年齢差の壁も感じさせなければ、かつての偉大な実績すらおくびにも出さない。
それは、「その選手の目線」に岡本が巧みに合わせてくるからだ。
「たとえば、10のことを教えるにしても、選手によっては1、2、3の順番がいい人もいれば、1、4、2の順で教えた方がいい場合もある。効率を求め、5人一緒に1、2、3で教えちゃったら、みんなを潰しかねない」と岡本は言う。
■勝負師
時に岡本は、禅問答のような言葉も発する。
「『悩む』ということと、『考える』ということは違うよね」
その真意を図りかねる服部真夕。
「悩みを岡本さんに相談すると、『そんなことは誰にでもある。考えなさい』って。だから考えるんですけど、考えがまとまらなくて、また悩んじゃう…」
最近の選手の多くは、小さい頃から親やコーチから指導を仰いでいるために、自分の頭で考える癖ができていないという(もっとも、物心つく前から徹底してレッスンを受けるからこそ、20歳前後でプロにもなれるのだろうが)。
「たとえば、テクニック的に壁にブチ当たると、すぐに他人にすがるんです。失敗すると責任転嫁をしたがる」と岡本は言う。「だから、うちの選手にはまずそこから、気づかれないように鍛え直しているんです(笑)」
岡本は「勝負師としての魂」を見据えている。それは教えられて作られるものではない。自らが修羅場のなかで磨き上げていくものだ。
今年(2013)6月、サントリー・レディス
試合終盤になっても6人もの選手が首位タイに並び、互いに一歩も引かない「ひりひりするような魂の擦り合い」が展開されていた。
そのギリギリの競り合いを逆転で制したのは、森田理香子(23)。チーム岡本の最年少、末っ子であった。
その最終ホールのプレイを見ていた小林浩美(女子プロゴルフ協会会長)は
「あれこそ、勝負師のプレイです」
と、森田理香子のプレイに感情を高揚させた。
Number誌「小林会長に『勝負師』と讃えられた森田は、『岡本さんから”勝負はバックナイン”といつも言われていたので、10番からは気持ちを入れ替えて勝負にでました』と、儚げな表情を浮かべながら小声で言った」
今季絶好調の「勝負師」森田理香子。
Number誌「meijiカップを終えた8月11日現在、2位の堀奈津佳に3,000万円の大差をつけ独走している」
まさに森田は「最強遺伝子」を受け継いでいる。その理由を、森田はこう語る。
「(チーム岡本のメンバー)それぞれが勝負の場面で得た経験を、自分の経験として重ねることが出来るので、力が3倍4倍にもなります」
■半農
岡本綾子も62歳になった。
「何だかんだ言っても、選手の成長を目の当たりにするのは楽しい。人を育てるのは、こんなにワクワクさせられるものだとは知らなかった。私も彼女たちににエネルギーをもらっているのかな(笑)」
そう言って笑みを浮かべるその肌はツヤツヤし、のんりびした言葉にもハツラツさを感じさせる。
「私はもともとマイペースな人間だから、人様を教えるなんて考えてもいなかった。でも、縁あって選手を預かった以上は、私が現役時代に得たものを少しずつ伝授していこうかなとは考えています。でもこれ以上は増やせません。5人を指導していると、どうしても畑仕事をする時間がなくなってしまいます(笑)」
思うに任せぬ畑仕事に、岡本は名案を思いついた。
「予選に落ちた罰で、畑の草取りをやってもらっているんです」
ところが、メキメキ腕を上げる「勝負師」らはそう簡単には予選落ちをしない。
「誰も予選落ちしなくなったら、うちの畑はどうなっちゃうのかしら?」
岡本は嬉しそうに、そう悩むのであった。
(了)
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 9/5号 [雑誌] 「最強遺伝子を継ぐものたち 岡本綾子」
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