プロ8年目、今季の「有村智恵(ありむら・ちえ)」はアメリカ・ツアーに参戦していた。日本で13勝、賞金獲得額3位という、たいそうな鳴り物入りで。
ところがシーズン序盤、「予選落ち」の続いた有村。いきなりドン底に沈んでいた。
4月上旬、映えあるメジャー第一戦となるはずだったクラフトナビスコ選手権。
Number誌「過去2回はともに10位以内に入っていた相性の良い大会にも関わらず、ショットミスが相次ぐなど『有村らしさ』は影を潜めた。まさかの予選落ちである」
敗戦のショックは大きかったが、試合後は大勢集まった報道陣を前に気丈に対応した。しかし、その輪が解けると、それまで張り詰めていた気丈の糸までがほどけてしまったかのように、大粒の涙が頬を伝った。
拭っても拭っても止まらぬ涙。カリフォルニアの抜けるような青空を背に、有村はずっと肩を震わせていた。
その後、有村は一時帰国し、心機一転、地元熊本で行われたバンテリン・レディースオープンに出場。
Number誌「得意なコースに意気込んでいたが、米ツアーを含めると『3試合連続での予選落ち』という異例の結果となった」
不甲斐ない自分…、先を失った不安…、またしても涙は止まらない。
「アメリカに戻りたくない…、怖い…」
久しぶりに郷里の家族や友人と会って里心がついてしまったか、有村はアメリカへの意欲を忘れ、ただ暗闇の中をさまよっているような心細さだけを感じていた。
そんな有村の不安はプレーにも現れており、父・明雄さんも「どうしてそんなに怖々プレーをしているんだ?」と、らしくない娘に戸惑いを隠せない。
一昨年に痛めた「左手首」という爆弾もあった。それをかばうあまり、有村のプレーからは「思い切りの良さ」が失われていた。それが持ち味であったにも関わらず。
「手首をかばって、自分の思うようなスイングができなくて…」
春先から手首の調子が思わしくなく、テーピングをして試合に臨んでいたこともあり、有村は本能的に手首をかばうようなスイングをしてしまっていた。それは「ショット・メーカー」の異名をとるほどの有村にとっては致命的だった。
「ゴルフってこんなに難しかったっけというくらい、すべてが本当に怖かったんです…」と、有村は当時の心境を語る。
「自分のゴルフが見えなくなっていました。身体の大きなアメリカ人選手に(飛距離で)置いていかれるなら納得できるんですけど、自分よりも身体の小さいアジア人選手にも置いていかれて…」
米ツアー第9戦「キングスミル選手権」
あいくにの悪天候、5月とは思えぬほどの寒気と強風。冷たい雨が有村の体温を奪い、そしてスコアも初日3オーバーと大きく出遅れていた。
またもや脳裏にチラつく「予選落ち」。この時、有村は珍しくも姉の美佳さんにメールを送ったほど落ち込んでいた。
「これから先、ドンドン落ちちゃうんじゃないかな、っていう恐怖感がすごいありました…」
辛うじて持ちこたえた有村は、2日目に1アンダーで回って何とか「4試合ぶりの予選通過」を果たす。
ようやく、ほっと息をつけた有村。「兆しが見えた」とようやく小さな笑顔が戻った。スコアには大きく結びつかなかったものの、「勇気をもって振れた」ことが暗闇からの大きな一歩となった。
不調の影には「言葉の壁」もあった。
「ここでは追風に感じるけど、ピンは右から吹いているよね」
そうキャディに聞きたくとも、限られた時間の中、「端的な英語」で表現する術を有村は知らなかった。クラブの選択もラインの読みも基本的には自分で決める有村だが、キャディに的確なアドバイスを必要とする時がもちろんあった。
「(聞けなかったことは)大きなディスアドバンテージだったと思います」と有村は振り返る。
その一方、「言葉の通じる」先輩たちは的確なアドバイスを有村に与えてくれた。
東北高校の先輩である宮里藍は、「日本は空気を読む慣習があるけど、アメリカではそれがないから、きちんと言葉で伝えないと」と有村を諭し、「こっちに来た以上、その努力をしないといけないよ」と発奮を促す。
そうして背中を押された有村は「悩んでいる暇があったら、英語を勉強しよう」と、予選落ちの無念を新たな力に変えはじめた。
また、体力の問題もあった。
Number誌「米ツアーの多くが4日間大会で、最終日にラウンドを終え、シャワーを浴びたらすぐに空港に直行。翌日には次戦のコースを回り始める。前の試合の反省をする暇さえない」
米ツアーではルーキーの有村。プロアマにもまだ名前が入っていないため、試合前日にコースを回るためには、プロアマがスタートする前、つまり陽が昇る前にはコースに出ていなければならなかった。
「陽が長いから、いつまでもプレーできるし、日本にいるよりも体力がいるなぁと思いました」と言う有村は、休養が必要だと知りつつも、ついついオーバーワークになってしまいがちだった。予選落ちが続き、「練習しないと」という焦りも彼女にそうさせてしまっていた。
「自分の『身体の声』に耳を澄まさないと」
米ツアー5年目になる先輩・宮里藍は、じつにシンプルな答えを有村に与えた。
「藍センパイと話をして、『日本の当たり前を捨てよう』と思ったんです」と有村は話す。
見えなくなっていたゴルフが見えてきて、スイングに有村らしい思い切りが見られはじめると、そのスコアはぐんぐんと伸びてきた。
Number誌「ここまで13試合を戦って、3試合で10位以内に入った。優勝が見える位置で戦い、一時首位に立った試合もある」
一緒に回っていた選手が「どうやって打ったか教えて」とつい口にしてしまうほどの「スーパーショット」も有村のクラブから飛び出すようにもなっている。
予選落ちが続いた時には「なぜアメリカに来たんだろう…?」と思い悩み、幾度となく「もう帰りたい…」と願った有村。
春先のドン底で歯を食いしばり続けた彼女は、今ではもうすっかり吹っ切れている。
「アメリカ挑戦は自分が決めたことで、誰から頼まれたわけじゃないですよね。だから、『イヤなら帰ればいいや』って考えるようになったんです」
そう言ってクスクス笑う。夏らしい涼やかなワンピースとちょっと踵のある靴に身を包み、フワリとした柔らかな雰囲気を醸し出しながら。
上手く話せなかった言葉も、今やネイティブの速い英語にたじろがない。
一人暮らしで三食自炊を心がける彼女は、どこのスーパーが安いかもすっかり心得ている。運転の荒いアメリカ人ドライバーももう怖くはないし、近所ならばカーナビもいらなくなった。
すべてを恐る恐るやっていた日々が、今では懐かしくさえ感じられる。
「アメリカでのプレーは楽しくてしょうがないんです」と、今の有村は言葉を弾ませる。
眼下に見える、いつも練習しているグリーン。休暇中の人々がプレーを楽しみ、子供たちはコース横のプールで水遊びに歓声を上げながら、父親のホールアウト待っている。
かつては鈍く沈んで見えたグリーンも、今の有村の目には鮮やかに輝いて見える。
たとえ試合の結果が悪くとも、コーチやスタッフが「次があるさ」と温かく励ましてくれる言葉も、今は素直に聞ける。
「できないことがたくさんあるから、練習したくてたまらない気持ちになるし、すごくキツイと感じることがあっても、それが間違いなく自分のプラスになるだろうなというワクワク感になるんです。乗り越えたら、スゴイものが見えるんだろうなって」
スカートの裾を夏の風に翻す彼女は、ごく普通の25歳。
彼女にとってのアメリカは、まだ季節も一巡していないのであった。
(了)
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 8/22号 [雑誌]
「ゴルフが怖くなった時期もあった 有村智恵」
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