2013年10月11日金曜日
日本とは違う”何か”を求めて 佐野優子 [バレーボール]
「日本とは違う”何か”がある」
佐野優子がそう直感したのは、初めてバレーボール全日本に選ばれた2002年。海外のチームと対戦したときだった(当時23歳)。
「日本は長時間しんどい思いをして練習しているのに、海外のチームに全然勝てなかったんです」
日本とは違う”何か”を見てみたく、翌2003年、佐野は海外移籍を決意した。
”しかし、今よりも閉鎖的だった当時のバレー界でそれを実現させるのは容易ではなかった。親にも高校の恩師にも反対された。海外移籍に否定的な空気のなか、相談できる相手が周りにおらず、佐野には移籍先を見つける手だてがわからなかった(Number誌)”
困り果てた末、その年の海外移籍を断念することになる。しかし、それは痛恨の選択ミスであった、と佐野は振り返る。
「今までいろんな決断をしてきた中で、自分の一番の選択ミスはあそこかなと思う。海外に行かず日本に残っていたこと…」
東レを退社したあと、佐野は一人だった。海外どころか日本にも居場所がなくなっていた。さらに悪いことに、アテネ五輪代表12名からの「落選」を言い渡された。
「今思えば、リーグ期間中に試合に出ないで全日本に挑戦するなんて、無茶な話ですよね。まぁ、自分の力が足りなかったからだって自分に言い聞かせて、最終的には納得できたけど…。ちょっと時間がかかりましたね」
それでも、捨てる神あれば拾う神あり。
そんな時だった、フランス・リーグのRCカンヌからオファーが伝えられたのは。
佐野は初めて一人で国際線に乗った。
「ド緊張で、全然寝られへんかった」と佐野。「パリでの乗り換えは大丈夫かな? ニースの空港にはどんな人が迎えに来てくれるんだろう? って不安で。人見知りだから、気軽に『ハーイ』なんて挨拶はできないし、辞書で必死に自己紹介の仕方を調べてました(笑)」
不安募る空港で出迎えてくれたのは、”いかにもムッシュ”といった初老の優しげなマネージャーであった。そして、地中海の洒落たカフェで契約書にサインを済ますと、佐野は「プロのバレーボール選手」となった。
「とりあえず日本から離れたいという気持ちが一番だった」と佐野は言う。
東レにいた頃は、”社員として衣食住がきちんと用意され、バレーのこと以外ほとんど何も考えなくていいという、ある意味恵まれた日本のバレー環境”に疑問を抱くようになっていた。
一転、RCカンヌで求められたのは「結果」のみ。
”40代のベテランも若手も関係なく、皆がそこに生活を賭けている。そのシンプルさが佐野の肌に合った。相手に殴りかからんばかりの闘志をみなぎらせるチームメイトの姿に驚き、神経を擦り減しながらも、佐野は居心地のよさを感じていた(Number誌)”
2005年に帰国した佐野。
RCカンヌとは2年目の契約をしたものの、ふたたび渡仏するまで時間があった。その空白期間、なんと佐野はチョコレート菓子”たけのこの里”の製造ラインに入っていた。
「お金ないんですか?」
「チョコレート好きなんですか?」
一緒に練習することになった明治製菓の男子チームからは質問攻めにあった。
佐野は言う。「とりあえずいろんな経験をしたかった。それまでバイトもしたことがなかったから。ああいう仕事、性格的に合ってました。またやりたいな(笑)」
2006年、佐野は久光製薬の監督だった眞鍋政義(当時)に口説かれ、日本に戻った。そのシーズン、カンヌで磨かれたレシーブ力を披露した佐野は、翌年(2007)全日本に復帰。
眞鍋監督は、佐野に絶対的な信頼を置いていた。「彼女のサーブレシーブとディフェンスは、間違いなく世界で1番か2番。しかも、ずっと高いレベルで安定していますから」
アテネの代表から落選したことは、長らく佐野のトラウマとなっていた。そして、その呪縛が解けるのはロンドン五輪(2012)。
「トラウマというか、プライドといえばプライドなのかもしれないけど、ロンドン五輪で結果が出た時点で、それはなくなりました」と佐野は言う。
最高の武器であるレシーブで、コートに落ちそうなボールをしつこく拾いまくった佐野。不動のリベロは「日本の守護神」と呼ばれ、銅メダル獲得に大いなる貢献をしたのであった。
あの感動から一年たった夏。
佐野は完全にスイッチを”オフ”にしていた。
「今は全日本のことを考えなくてもいいから、どうやったら楽しめるかを優先して、好き放題に過ごせます」
”家族と海辺でキャンプを楽しみ、時には一日中テレビを観ながらゴロ寝して、「あーたのし。日本のテレビ面白いわぁ」とつぶやく(Number誌)”
フランスのほかにもアゼルバイジャン、トルコなど、日本を含め5カ国でプレーした経歴をもつ佐野優子。日本を飛び出して10年、34歳になった現在も、スイスのボレロチューリヒに所属している。
佐野は言う。「オリンピック直後は、『もうおなかいっぱい。続けるなんて考えられへん』とおもってた。でも、またおなかが空いちゃって、もう一回バレーボールつまもうかなって感じになっちゃった。結局、バレーやってるのが落ち着くのかもしれない。怖いことに(笑)」
初めての国際線はド緊張だったという佐野も、今では”機内でいくらでも寝られる”と笑う。
「日本が一番好きだけど、海外でお互いのことが何もわからない状態から、バレーを通じてわかり合えるのが楽しい。海外で日本の良さに気づいて、あー早く日本に帰りたいなと思う。それで日本に帰ったら、日本を倍楽しめる。その繰り返しです」
もう、すっかり肩の力が抜けている。
「ほかにやりたいことが見つかったら、全然、バレーは辞められる」と佐野は言う。
しかしまだ、バレーを上回るものは見つかっていないという。
「結婚したとしても、べつに辞めなくていいしね」と、意味深に彼女はほくそ笑む。
(了)
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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 10/17号 [雑誌]
「佐野優子 レシーブ無宿」
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