2012年12月15日土曜日
バレーボールと母親と…。「大友愛」
「もう二度とコートに立つことはない…」
女子バレー日本代表の「大友愛(おおとも・あい)」は、結婚・出産のため、2006年に「引退」をしていた。
その育児中の大友に対して、熱心に「復帰」を勧める男がいた。全日本の監督、眞鍋政義氏である。
「僕の考えはシンプル。チームが勝つためには『大友の力』が必要だった」
ミドルブロッカーの大友は、そのスピードと攻撃力で将来を嘱望されていた。そんな中での引退は、じつに惜しいものであったのである。
大友に惚れ込んでいた眞鍋監督はベビーシッターを雇うなどして、「母親が安心して働ける環境づくり」に勤しんだ。
「僕はイタリアでもプレイしていたので、出産しても活躍している海外の選手たちを大勢見てきました。だから、『日本では無理』とか『前例がない』という考えは、僕にはありませんでした」と眞鍋監督。
そんな眞鍋監督は、まんまと大友の招聘に成功する。眞鍋監督の積極的な行動に大友は「覚悟を決めた」のだった。
「眞鍋さんと話しているうちに吹っ切れました。またバレーをやる以上、今度は死ぬ気でも頑張ろうと思いました」と大友。
しかし、その大友を最大の試練が襲う。
2011年9月のアジア選手権、大友は右ヒザ前十字靱帯および内側側副靱帯を断裂。ロンドン・オリンピックに間に合うかどうかの大怪我を負ってしまう。
ひどく落ち込む大友。
それでも眞鍋監督は前向きだった。「待ってるからな」、そう大友に声をかけた。
「この一言にどれだけ救われたか…」、感に堪えぬ大友。「眞鍋さんは私の運命を変えた人なんです」。
右脚を引きずる大友をW杯に帯同させた眞鍋監督は、試合のスコアをつけさせるという仕事を任せた。
それは「試合勘が狂わぬように」という配慮からだった。
懸命にリハビリに励んだ大友は、眞鍋監督の期待通りにオリンピック・メンバー12名にその名を連ねることになる。
オリンピック準々決勝の中国戦。最大の激戦となったこの試合、ひとかたならぬ活躍を見せた大友は、歴史的勝利の栄光に浴することとなった。
その死闘のあと、大友はコートサイドに5歳の愛娘の姿を見つけた。3ヶ月ぶりに見るわが子であった。
「抱きしめたい」、そんな母性本能が沸き上がってきた大友。
しかし、その感情にあえて蓋をした。そして、娘を無視。
「娘を抱いちゃうと、感情が切れてしまいそうだったんです…」と大友。
まだ戦いは残っていた。これからまだ、オリンピックのメダルを賭けた戦いが待っていたのだ。
その後の結果は万人の知るところである。
28年ぶりの快挙。女子バレー日本代表は悲願の銅メダルを手にすることとなる。
そうしてようやく、大友は感情を切らすことに…。
出産してなおメダルに手が届いた母親・大友愛。そして、母の不在を健気に耐えた愛娘…。
ブレなかった大友の一本道。
日の丸を世界に示してのち、ようやく母親に戻ることが許された…。
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「眞鍋さんは私の運命を変えた人なんです 大友愛」
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