その老翁は、もう100歳になろうかというほど高齢だった。
襲いかかるは、高段者4人。
彼らは手に手に、両刃の剣、湾刀、長棒、槍などの武器を握っている。
対する老翁は、そのシワシワの手に「ハエ叩きの棒」のようなものを持つばかり。それはとても人を倒すような道具ではない。
次々にかかってくる高段者。しかし老翁はあわてることもなく、敵の刃物をスッスッとかわしながら
「ポン! ポン!」
と彼らの頭を例の棒でたたいて回る。
その老翁の名は、上原清吉(うえはら・せいきち)。
沖縄に伝わる王家秘伝の琉球武術「本部御殿手」の継承者であった。
「上原先生は、戦争中フィリピンで軍属として徴用されて参戦し、戦争とはいえ人を殺してしまったことに苦しみ、戦後は武術から離れていたそうです。戦争について上原先生は『絶対に人を殺してはいけない。一生後悔がつきまとう』そう言いながら涙を流されていました」
そう語るのは、廣木道心氏。当時、武術を志す若者だった。
「私は『ケンカに勝つために強くなりたい』と思って武術や武道に取り組んできた若造だったので、人の命を奪い合う戦争を体験してきた上原先生の話を聞き、これまでの自身の格闘経験は単なるママゴトみたいなものだということに気付かされました」
そして廣木氏は、上原先生の指導をあおぐ。
「たとえば、ただ立っているように見える上原先生の身体を持ち上げようとすると、その身体は電信柱を抱えて引っこ抜こうとしているような感じで、身体の軸が地球の中心まで突き刺さっているような感覚を受けました」
それは、廣木氏が「自然と調和した力」に気づかされた瞬間であったという。
「まず真っ直ぐに立つこと、そしてそこから歩き出す一歩が重要であると教えられました」
上原先生は、部外者である廣木氏に対して、道場生たちと差をつけることはなかったという。
廣木氏は言う、「人との間の差を取るから『悟り(差取り)』とは、まさに先生のような達人を言うのだろうなぁ、と一人納得していました。そして、それは自然との間の差を取ることも意味していることに後になって気づきました」
その後、上原先生は101歳で他界する。
「上原先生から受けた指導はたった2回でしたが、先生から受けた技の感覚は身体の中に残っており、それが後にとても役に立つことになりした」と廣木氏。
余談ではあるが、合気道の開祖、植芝盛平の弟子、多田宏師範も同じようなことを言っている。
「多田先生は、60年前に道場で植芝先生に技をかけられた時の体感記憶を完全保存しているそうです。手を取られた瞬間、完全に同調して植芝先生が何を感じているのか全部わかった。その感覚は、60年後の現在でもありありと再生できるそうです。『身体に刷り込まれている。だから、いつもそこへ帰っていくことができる』とおっしゃていました(内田樹)」
廣木氏はその後、「護道」を創始する。
普通、武道や格闘技は相手を傷つけてしまう。たとえ自分の身を守るためといえども。
だが、その相手が自分の子供だったら?
廣木氏の提唱するのは「引き分けの武道」である。相手も傷つけず、自分も傷つかない。自他護身。
まずはイメージすることで「不覚筋動(無意識に動く筋肉の作用)」を働かせ、相手が力を出す前に反応して、その動きを封じ込める。
また呼吸をつかって自身の身体を緩めながら、相手が力をかける方向へと動きを合わせることにより、相手を「無力化」。そして力ませることで相手を「一体化」。この無力化と一体化を繰り返すことにより、相手の心身から敵愾心を抜いて争いをおさめるのだという。
廣木氏は言う。
「護道は、すべての日本武道における理想の境地『神武不殺』に通じる道であると考えています。それは『和をもって貴しとなす』という日本の精神であり、そんなお互いさまの心を通じ伝えることで、老若男女、誰もが共存できる社会へと向かうのが私の夢でもあります」
(了)
ソース:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
廣木道心「自他護身に生きる」
関連記事:
足のカカト、手のカカト [柳生新陰流]
沖縄空手の「消える動き」とは?
剣道の「礼」。「敵はもはや敵ではない」
0 件のコメント:
コメントを投稿