2014年6月3日火曜日

神の子、降臨 [マラドーナ]




1980年代のアルゼンチンは、どこか陰鬱とした靄(もや)のなかにあった。

何よりも人々の心を暗くさせたのは、フォークランド諸島の領有をめぐるイギリスとの戦争であった(1982・フォークランド紛争)。

「あの戦争で、アルゼンチンは多くの人を亡くした。誰の周りにも、家族を失った人が一人はいた…」



そうした暗雲からであった、”神”が降臨したのは。

ディエゴ・マラドーナ

母国アルゼンチンをサッカーW杯優勝へと導く男である。






栄光の歴史的となるのは、1986年のメキシコ大会。

だがその2ヶ月前まで、アルゼンチン国民の多くは代表選手らに失望させられてばかりであった。

——南米予選突破が決まったのは、ぎりぎりの最終節。おまけに予選終盤のペルー戦から親善試合ノルウェー戦まで、6試合やって白星ゼロ(Number誌)。



そこで、ビラルド監督は運命的な決断をくだす。

キャプテンマークを、マラドーナに渡したのであった。



だが、世論の風は冷たかった。

「なぜ、彼がキャプテンなのか?」

マラドーナに対して、アルゼンチンのメディアはきつく当たった。

「4年前にあんなことをしたのに、レギュラーなんてもってのほか」

招集すべきでないという声さえあった。



4年前(1982)、相手選手に苛ついたマラドーナは、蹴りをくらわせて一発レッドカード(退場)。ふたたび世界の大舞台にたつことさえ疑問視されていた。そうした世間の不満をうけ、政府が更迭に動いたことさえあった。

当時、大会がはじまるまで、マラドーナは神の子でもなんでもなかった。むしろ、どうしようもない”ならず者”だったのである。

「オレたちは孤独だな…」

マラドーナは、同僚にそう漏らした。






それでもマラドーナは、キャプテンマークに俄然はりきっていた。

「ディエゴ(マラドーナ)は責任ある立場にあることを喜んでいたよ」

メキシコ大会の全試合、マラドーナと共に出場したホセ・ルイス・ブラウンは言う。

「ホテルでは全員の部屋をまわって、ロッカールームではこちらの背中をピシャリと叩いて言うんだ。『オマエが良いプレーをしたら、俺も良いプレーをするから、しっかりやれよ』。みんなあれで奮い立ったな。あのチームでのディエゴは、本当に幸せそうだった。おかげで毎週アサード(BBQ)を楽しめたよ」



マラドーナは良いキャプテンだったと、みな口をそろえる。

「ビラルド(監督)が、ある選手を規律違反で罰しようとしていた。するとマラドーナが盾になって彼を守ったんだ。ビラルドはいかにも気に入らないといった風だったが、最終的にキャプテンの顔をたてたよ(フリオ・オラルティコエチェア)」

当時、マラドーナはすでに数年ヨーロッパで活躍しており、選手らの間ではメキシコ大会が”マラドーナの大会”になる予感は充分にあった。






そして幕を開けたメキシコ大会(1986)。

——大会がはじまると、アルゼンチンは韓国、イタリア、ブルガリアの順で対戦した。結果は3-1、1-1、2-0。ズバ抜けた強さを感じさせることはなかったが、グループステージを首位で勝ち抜けた(Number誌)。

続くウルグアイ戦も1-0で勝利。アルゼンチンは着々と駒をすすめた。



問題は、次の準々決勝だった。

相手はあのイングランド。サッカーの好敵手というだけではなく、苦杯をなめさせられたフォークランド紛争の当事国でもあった。

「自分にとって——おそらくアルゼンチンの全国民にとっても——あの大会で最も重要な一戦だった」と、オラルティコエチェアは振り返る。

「チームに漂っていた緊張感はすごかった。だから試合当日、いつもは10時半集合なのに、9時には全員が集まっていたよ。”この一戦”は特別なんだ”とみんなが感じていたんだ。”なんとしても勝たなければ”って」






運命のイングランド戦

ビラルド監督は”とっておきの策”を打った。

長らく封印していた「3—5—2」のフォーメーション。それまでの「4—4—2」からの変更で、「マラドーナにスペースを与えるため」に、フォワードを一人下げて中盤が一人増やされた。

——その中盤が効いて、試合はアルゼンチン優勢で進んだ。前半は0-0で終了。後半がはじまると、ついにマラドーナが目覚めた…!



後半51分

”La Mano de Dios(神の手)”がでた。

ハンドか否か?

GK(ゴールキーパー)と空中で競ったマラドーナ。彼の左手がボールをゴールへ押し込んだように”見えた”。

イングランドの選手は猛然抗議。強烈にハンドをアピール。しかし4分後、その異議申し立ては脚下。マラドーナのゴールはヘディングとして認められた。






勢いにのったマラドーナ。

ふたたびセンターライン付近でパスをうけると、騎虎のごとく突進開始。

——敵2人に囲まれながら反転して、彼らを置き去り、そして、足にボールを貼り付けたようなドリブルで一人かわし、ペナルティエリアの外でまた一人をかわす。最後はゴールキーパーを避けて、倒れながらシュート(Number誌)。

今なお語り継がれる”5人抜き”であった。






その神業には、敵も茫然。

「生まれて初めて、敵に拍手をおくりたいと思った」

大会得点王となるゲリー・リネカー(イングランド)は、のちにそう語っている。



「ボールを動かすときの足首の曲げ方や、ドリブルするときにダッシュ力には目をみはったよ。長距離はたいしたことないんだが、1対1の場面で、彼は唯一無二だった(オラルティコエチェア)」

味方のチームメイトらも、代表として共に戦う以外では、マラドーナに散々苦しめられた経験があった。

「14年間ディフェンダーをやって、どちらに抜くつもりなのか読めなかった相手はマラドーナしかいない(ホセ・ルイス・ブラウン)」

「ディエゴ(マラドーナ)の頭の中にはコンピュータが入っていた。仲間10人がいまどこに立っているのか全てわかっているんだ。味方としては、これほど頼もしいことはない」






捲土重来

アルゼンチンは、宿敵イングランドに一矢むくいた。

そして、全国民の悲願をかなえたマラドーナは国民的英雄になった。







続く準決勝ベルギー戦も、マラドーナの2得点で勝利。

ここでもまた、彼は4人抜きを演じてみせた。






そして、いよいよ決勝戦。雌雄を決する相手は西ドイツ。

ところがこの試合、神は沈黙した。それまで水を得た魚のようなだったマラドーナは、西ドイツの戦術によって完全に封じ込められていた。

それでも、マラドーナが敵を多く引きつけたおかげで、ほかのチームメイトは自由になった。ブラウン、バルダーノがゴールを決め、一時は2-0と西ドイツを突き放す。

「あとはしっかり守り、西ドイツの攻撃に耐えるだけだった(オラルティコエチェア)」



しかし西ドイツの猛攻は、それからだった。

大きく体格でまさるゲルマン民族は、ヘディング勝負で2点を奪い、試合終了10分前までに同点に追いつく。



——時間は81分。標高2,240mのメキシコシティで、延長戦突入は避けたい。

「そこに現れたのが、ディエゴ(マラドーナ)だ」

——ホルヘ・ブルチャガへのアシストは、比類なき選手ならではの技だった。

「敵3人に囲まれながら、ブルチャガの動きを見て、完璧なパスを出したんだ」

——ディフェンス・ラインの裏側でボールを受けたブルチャガは、40mを独走。ゴールを決めた(Number誌)。






メキシコで、ディエゴは神になった。

「マラドーナのプレイが、チームを導いてくれた」

——スポーツ誌「エル・グラフィコ」はこの時、当時人口およそ3,000万人のアルゼンチンにおいて、100万部以上を売り上げたという(Number誌)。













(了)






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2014年 6/5号 [雑誌]
アルゼンチン「メキシコでディエゴは神の子になった」



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