2015年1月26日月曜日

”一万分の1”の少年、錦織圭。 [テニス]




「教えなくてもできちゃう。そういう子は、感覚的に”100人に一人”くらいいる」

当時、小学生を教えていたテニスコーチ、柏井正樹氏はそう言う。そして、その”100人に一人”が、まだ身長150cm足らずの錦織圭だった。



柏井氏は試しに、ドロップショットを錦織に打ち込んでみた。

「圭は『何それ?』って顔をしてましたね。でも負けず嫌いだから、必ず真似してくるんです(笑)」

昔から日本のテニス界では、ドロップショットを”姑息なプレー”としてタブー視する風潮があり、”禁じ手”という意識が小学生の頃から植え付けられる。しかし、柏井氏にとってそんな常識、知ったことではない。

柏井氏は言う。「テニスは何でもあり。正々堂々とやっていたのでは勝てません」

現在、世界ランク5位になった錦織圭。彼が要所で繰り出すマジシャンのようなドロップショット。それを伝授したのは柏井氏だった。



ボールコントロールのセンスと、ゲームセンス。この2つの要素を兼ね備えた選手もやはり,
”100人に一人”と柏井氏は言う。

「100分の1と100分の1だから、確率的には”一万分の一”になるんじゃないですかね」

柏井氏の目には、身長150㎝の錦織の体に”日本の未来”が詰まっているように見えていた。

「パワーで劣る日本人が、これからどうやったら世界と戦えるのか? その答えを見つけた気がしました。あんな衝撃はもう、最初で最後でしょうね」



しかし、「圭(錦織)の基礎体力はしょぼかった」と柏井氏は振り返る。

パワーのない日本人の間ですら、錦織はパワーで圧倒されることがしばしばだった。

一学年上だった富田玄樹は言う、「うまかったですけど、ま、そんなに強くはなかったです」。富田は小学生時代、非力だった錦織に負けることはほとんどなかったという。






■ おんぼら



2003年、錦織圭は富田玄樹、喜多文明らとともアメリカに渡る。アメリカのフロリダ州にあるプロスポーツ選手の養成所「IMGアカデミー」のテニス部門に合格したのだ。

中学2年生の夏だった。



アメリカ時代、最初の3年間、錦織は「目立たない存在」だった。

島根弁で言うところの”おんぼら”な子。”おんぼら”とは”穏やかな”という意味だ。錦織は子どもの頃から”おんぼら”であり、気の抜けたように「ふぁ~い」と返事をするのが常だった。

「ふてぶてしいけど、なんかふにゃっとしてるんですよ。僕の知っている圭は超テキトー(笑)」と、一緒にアメリカに行った富田は言う。

喜多の印象も同様だ。「かなりぽかーんとしていますからね。どうやって打つのと聞いても、『いやぁ~、打つだけだよ~』ってわけわからない(笑)」



良くも悪くも、錦織は「死ぬほどマイペース」だった。

喜多は言う、「毎朝、食堂で『おはよー』って言っても、あいつは返さないんですよ。あとで聞いたら『低血圧で朝はしゃべれないんだよ』って。いくらなんでも、あいさつくらいはできそうですけどね(笑)」

こんなエピソードもある。

「寝てるとき、富田の鼻の穴にピーナッツを詰めたり、トランプを入れたり。言いだしっぺはだいたい圭。生意気だけど、おもしろい奴でした」



アメリカ(IMGアカデミー)でのトレーニングは、文字通りテニス三昧、テニス漬け。朝7時から夕方6時過ぎまで、びっちりとメニューが組まれていた。喜多に言わせれば「監獄」。「死ぬほど追い込まれた」と皆が口をそろえるほどだった。

「帰りてぇ~」

富田と喜多は、それが口癖になっていた。

一方、マイペースの錦織ばかりは「しんどい」と愚痴はこぼしても、「帰りたい」とだけは決して言わなかったという。



「帰りてぇ」が口癖だった同期生2人、富田と喜多は早々にアメリカを去った。

後日、富田は「帰りたいと思わなかったのか?」と錦織に尋ねたことがある。錦織は「とくに帰る理由が見つからなかった」と答えた。

富田は笑う。「俺らは帰る理由しか見つからなかったんですけどね(笑)」






■ 遊びの延長



錦織がアメリカで頭角をあらわしはじめるのは2年目から。

奨学金で援助をしていた盛田正明氏は言う。「逐一、報告を受けていたのですが、一年目の3人はドングリの背比べ。しかし2年目からは圭だけがグングン伸びてきた」



ハードトレーニングによって体力のつきはじめた錦織は、毎大会、上位に進出するようになっていた。

「今も昔も、圭の課題はフィジカル(体力)だけ。やろうとしていることに体が追いつけば、自然と結果はついてくる」と、トレーニング担当だった中村豊氏は言う。



3年目、いよいよ錦織圭の才能が突出してくる。IMGアカデミーでエリートコースに昇格したのだ。

盛田氏は言う。「その日、私のノートに『初めて世界を狙える子が出てきた』って書きました」

そして、こんなエピソードを語る。

「圭は相手の選手が先に来てても、てれんてれん、てれんてれん歩いて会場に現れる。遅れたからって、あわてるなんてことは全くない。不敵なところがあるんですよ」

錦織は、相手がどんな強豪であってもマイペースのままだったという。



盛田氏は、こうも言う。

「私には彼に才能があるのかどうかわからなかった。ただ、休憩時間に一人でテニスボールでリフティングをしたり、いろんな恰好でラケットでボールを弾いていた。あ、この子のテニスは”遊びの延長”なんだなって思いましたね。










■ 中学の卒業文集



2004年のジュニア・デビス杯でのことを、錦織圭は中学の卒業文集に記している。以下、引用。



「2004年の思い出」 錦織圭

 今年の9月24日にテニスの国の対抗戦がスペインであった。これは「Junior Davis cup」といって16才以下の国のチャンピオンを決める大きな大会だった。この大会は世界の強豪の人たちが、みんな集まってくる。だから自分のためにもすごくいい経験になったと思う。

 まずこの大会に出れるのは16チームで、その前にアジア・オセアニア予選というのがある。それで日本は3位だったので、ぎりぎり世界へのキップをもらう事が出来た。その時はかなりうれしかった。自分でも願ってはいたけど、本選に出れるとは思ってなかった。

 世界大会ではいい結果ではなかった。日本は11位、満足いく結果ではない。けど結果がすべてじゃないと思う。自分の中で一番心に残った試合がある。それはスペインの一番手とやった時だった。結果はファイナルセット9-7で、約3時間やって最後に勝ったのは僕だった。その試合は5-6で負けていた。そこからばんかいして逆転する事ができた。本当に最高の気分だった。監督もチームメイトも喜んでくれたし、すごくうれしかった。これが今後の自信にもつながり、いい経験ができた。

 この大会で得た物は将来につなげていきたいし、来年も出れるので次こそ優勝を目指したい。






■ 水の都から



「あいつ、セットポイントとかでも絶対に守りに入らないでしょ。この場面で、そこに打てちゃうんだ、って」

喜多が驚いたように、アメリカ時代のコーチ、米沢徹氏も驚く。

「ネットに出ることをテーマに練習ゲームをしたとするじゃないですか。”勝っても負けても前に出ろ”と。そうすると普通の子は、1試合で10回も行ければいい方。でも圭の場合は100回くらい前に行けるんです」



あの松江からよくぞ。

水の都、島根県松江市出身の、ひときわ小柄だった選手。

錦織圭



「それにしても、あの怠け者が、あんな体になるとはね(笑)」

錦織圭を最初に見出した柏井正樹氏は言う。

―― 錦織は現在のコーチであるマイケル・チャンについてもらまで過去、10人以上のコーチから指導を受けてきた。その中で、おそらく最も影響を受けたのが、最初のコーチの柏井正樹だ(Number誌)。



柏井氏はしみじみと続ける。

「すんげー努力したんでしょうね。想像しただけでも、涙が出ちゃう...」













(了)






ソース:Number(ナンバー)869号 錦織圭のすべて。全豪OP直前総力特集 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
錦織圭「8人の証言で読み解く、”ケイ”の素顔」



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