2012年9月10日月曜日

金メダリストの「曲がった背骨」。ウサイン・ボルト


まさに稲妻のように疾走する「ウサイン・ボルト」。

今回のロンドン・オリンピックでは、100m、200m、そして400mリレーで3つの「金メダル」を獲得。なんと、出場した種目すべてが金メダルだった。

前回の北京オリンピックも同様に、出場した3種目(100m・200m・400mリレー)すべてで金メダル。しかも、その3つの種目すべてが「世界新記録」という凄まじさであった。

ジャマイカ生まれの25歳は、まさに世界最速、そして「無敵」に見える…。

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◎秘密の十字架


無敵かと思えるボルトにとっての最大の強敵は、自らの肉体の中に巣くっていた。そして、それは「知られてはいけない秘密」のようでもあり、ボルトのコーチは、ボルトの全身をMRIで撮影することを頑なに拒んでいた。

しかし、MRIで撮影せずとも、ボルトの秘密は明らかであった。トレーニング中に背中を写した一枚の写真にさえ、その正体は写っているほど、その秘密は公然であった。

その背中を注意深く見ると、背骨がS字状に湾曲している。これは「脊柱側弯症(せきちゅう・そくわんしょう)」という病気である(人口の0.1%に発症し、一般的には7:1の割合で女性に多い)。



ボルトのコーチ、ミルズは重い口を開く。

「ボルトは生まれつき、脊柱側弯症という障害を持っているんだよ。背骨が生まれつき曲がっているのさ…」



◎曲がった背骨


今では100mの覇者であるボルト。しかし、この曲がった背骨のせいで、長らく100mは走らせてもらえなかった。

ミルズ・コーチは語り出す。「アイツが走っている姿を初めて見たのは、アイツが14歳の時。それはそれは酷いフォームだったよ。曲がった背骨のせいで、重心が支えられずに骨盤が激しく揺れていたんだ。かわいそうだけど、100mは無理だと直感した」



さらに悪いことには、曲がった背骨のせいで、ボルトの身体は著しく「左右不均衡」になってしまっていた。その不均衡の身体では、スタートが極端に不利になる。

なぜなら、スタート時には瞬間的に巨大な圧力が背中にかかるため、曲がった背骨と左右不均衡な筋肉が、一連の動きを著しく鈍らせてしまうからだ。

すなわち、スタートが大きくものをいう100mという短い距離では、ボルトの曲がった背骨の欠陥が露骨に現れてしまうのだ。



コーチ「アイツは何度も100mを走りたがっていたけどな…。オレも悩んだよ…、アイツの障害さえなければ、ってな」

ミルズ・コーチの頑なな反対によって、ボルトは100mを走らせてもらえず、その代わりに200mのスペシャリストとして落ち着くこととなった。



◎相次ぐ傷害


ミルズ・コーチの頑強な反対は、ある意味正しかった。というのも、神様がボルトに与えた「曲がった背骨」が、ボルトに傷害を与え続けたからだ。比較的、背骨に負荷の少ない200mでさえも。

15歳の時、ボルトは史上最年少で世界ジュニア選手権の200mを制する。しかしその後、度重なる腰痛を訴える。17歳で200mのジュニア世界新記録を出したあとも、故障により2連覇のかかった翌年の大会に欠場せざるをえなかった。



ボルト「現役中は手術できないから、この病気と付き合いながら走っていくしかないんだ…。無理をするとすぐに故障してしまう…」

ボルトの曲がった背骨は、その基底に位置する「骨盤」を激しく揺らす。そして、その骨盤の下へと伸びる太ももの裏側の筋肉「ハムストリングス」に過大な負荷をかける。

そのため、このハムストリングスの肉離れは、ボルトに背負わされた十字架となっていた。

2004年、ボルトは18歳でアテネ・オリンピックに参戦するものの、結果は200m一次予選敗退という屈辱的なものであった。当時のボルトのハムストリングスはすでにボロボロで、周囲からは「限界説」もささやかれ始めていた。



◎障害の克服へ


アテネ五輪を終え、「引退か?」とまで言われたボルト。当時の人々は、まさかその同じボルトが、のちの北京・ロンドンで6つもの金メダルを取ることになるなどとは当然知らない。しかも、当時は畑違いだった100mも含めて…。

アテネ五輪での敗北後のミルズ・コーチの英断は驚くべきものだった。彼がボルトに求めたのは、引退でもなく、より負荷の少ない中距離への転向でもなかった。なんと、より激しい100mへの挑戦だったのだ。



世界最速の男となるように宿命づけられていたかのようなボルト。

限界のカベを打ち破るために彼が訪れたのは、意外にもサッカー場。そこでは世界最高峰のサッカー・クラブ、バイエルン・ミュンヘンが練習しいた。

ボルトとミルズ・コーチが訪ねたのは、そのバイエルン・ミュンヘンのチーム・ドクター。サッカー選手も短距離走選手と同様にダッシュを繰り返すため、ハムストリングスの肉離れは日常茶飯事であった。それゆえ、サッカーのチーム・ドクターは、その克服法にも通じていたのである。



そのチーム・ドクターがボルトに課したのは、徹底したウェイト・トレーニング。しかも、筋肉の「連動性」を高めるトレーニングが中心だった。たとえば、おしりと背筋・腹筋、背筋と太ももなどというように、各筋肉群を連動させることで、特定の筋肉に負荷が集中することを避けるのだ。

短距離走は太ももの裏側の筋肉であるハムストリングスばかりに負荷が集中しがちだが、ほかの筋肉との連動性を高めることにより、その負荷を分散し、怪我を防ぐことができるというのである。



◎生まれ変わった肉体


アテネ・オリンピックの屈辱から4年後、ボルトの肉体は鋼のように強靱に鍛え上げられていた。曲がった背骨を覆い固めるように発達した背中の筋肉群は、まるで鎧(よろい)のようであった。

北京オリンピックの前哨戦となったリーボック・グランプリ(NY)の100mで、ボルトは世界新記録(当時)の「9秒72」で優勝。それは100mに参戦してから、わずか5戦目のことであった。



北京オリンピックを前に、生まれ変わった姿を世に示したボルト、21歳。続くオリンピックでも、当然のように100mで金メダル。

ゴール前の数歩で両手を広げたボルトは、まるで流して(手を抜いて)ゴールしたかのように見えた。それでも自身の世界記録を破る「9秒69」。2位に史上最大となる0.2秒差をつけてのブッチギリであった。

電光掲示板が示す「世界新(WR)」の文字の脇には、誇らしく天を指さす「ライトニング(稲妻)・ボルト」の姿が輝いていた。

ボルトはこの北京オリンピックで、200m、400mリレーでも金メダル。そして、そのすべてが世界新記録であった(史上初)。



その翌年(2009)、ボルトは世界選手権の100mで、人類初となる9秒50台をブチ破る。現在の世界新記録でもあるボルトの「9秒58」は、人類が達するまでは「あと30年かかる」とまで言われていた歴史的な大記録である。

世界最速の男・ボルトは、一気に30年もの時を縮めてしまったのであった。



◎異常に大きな歩幅


かつて、最大の弱点とされたボルトの「曲がった背骨」は、いまや最大の武器となっている。

通常、走っている時に骨盤が激しく揺れることは好ましいことではないのだが、それが「強靱な筋肉」により支えられているのであれば、それは全く別の話となる。

ボルトの大きく揺れる骨盤は、足を繰り出すたびに前に大きく傾く。それはたとえるなら、より高い位置からハンマーを振り下ろすような破壊力を生む。その支える筋肉が弱ければ、怪我や傷害につながるものの、その筋肉が十分に強靱であれば、それは「爆発的な推進力」となるのである。



ボルトの曲がった背骨による左右不均衡な身体は、とりわけ左側の骨盤がよく動く。つまり、左足の蹴り出す力が異常に強い。その結果、左足の歩幅が極端に大きくなる。その左足の歩幅は2m80cm近くと、右足のそれよりも20cmは大きい。

ボルトの身長は196cmと極めて長身であり、ただでさえ長いボルトの歩幅は、100m競技において史上最大級である(身長比およそ140%)。そして、この長い歩幅はボルトの速さの最大の秘密でもある。

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◎有利に転じた不利


それならば、長身の選手ほど短距離に有利なのか?

実はまったく逆である。オリンピックの100m決勝でスタートラインに並んだ選手たちを見れば一目瞭然。ボルトだけが頭一つほど大きく、他の選手でボルトほど巨大な選手はいない。

なぜなら、長身であるほどスタート時の静止状態からの加速が鈍くなるために、190cm以上の選手は一般的に不利とされるからだ。加えて、ボルトは体重も96kgと重く、ますますスタートは不利である。

※アメリカが英才教育をほどこす100mの陸上選手は、一様に175cm前後。



ところが、曲がった背骨をかばうために鍛えた抜群の筋肉は、ボルトの巨体を一気に加速させることを可能にし、長い足による大きな歩幅をより大きいものとしたのである。

アテネ・オリンピック後、「限界か」とも言われたボルトの肉体は、不屈の精神によって、人類史上最大の奇跡を起こすまでに見事に変貌していたのである。

もし、ボルトがアメリカ人であったのならば、そのデカすぎる長身と曲がった背骨のために、決して世に出ることはなかったであろう。それほどの不利をボルトは、自らの意志と努力で圧倒的なアドバンテージへと変えてしまったのである。



◎苦手なスタート


その巨躯を強みに変えたとはいえ、ボルトの弱点は昔から「スタート」だった。そして、それが最悪の形で出てしまったのが、韓国・大邱(テグ)で行われた世界選手権(2011)。

「ボルトがフライングをしたーーーーーっ! あぁ~~、ボルトのフライングーーーっ!」

世界記録のさらなる更新を期待されていたレースで、ボルトはまさかのフライングによる「失格」。



コーチ「ボルトはガッカリしていた…」

世界選手権での2連覇は、夢と消えた…。そして、2008年の北京オリンピックから続く、五輪・世界選手権での連続金メダル記録も途絶えた…。



◎悪いクセ


ボルトのスタートでの不利は、その巨体ばかりではなく、やはり曲がった背中にも原因があった。背中が曲がっているために、スタートからの第一歩目がどうしても曲がってしまうのだ。

具体的には、ヒザが内側に入り、膝下からつま先が大きく外側を迂回してしまう。つまり、どうしても一歩目がまっすぐ出てこない。その結果、スタートから一歩目が着地するまで、他の選手よりも余計に時間がかかってしまうのだ。



「また、悪いクセが出ている…」と、自らのトレーニング映像を見て嘆息するボルト。

曲がった背骨による骨盤の揺れは、筋肉の強化により強みに変えたボルトであったが、スタートからの一歩目が曲がってしまうという「悪いクセ」は、そう簡単には直らない。長年のトレーニングですっかり身体に染み込んでしまっているからだ。

この悪いクセを正すため、ボルトは必死になって、まっすぐに足を出すスタートを繰り返していた。それは新しいクセを身体に覚え込ませるためであった。



しかし悲しいかな、その過剰なるスタートへの苦手意識が、韓国での世界選手権において、フライングという痛恨のミスをボルトに犯させてしまった。

「あの時は、なぜかとてもナーバスになっていた…」とボルトは当時を振り返る。



◎犠牲にされたトップスピード


世界選手権での失敗を受けて、ますますボルトはスタートの改善に躍起となった。

しかし、スタートの練習ばかりを繰り返すことは、両刃の剣でもあった。なぜなら、スタートほど太ももの裏の筋肉・ハムストリングスに負荷を与えるものはない。スタート時、ハムストリングスは最も伸びた状態から一気に縮む。つまり、ハムストリングスが最大に負荷を受けるのが、このスタートなのである。

そして、ボルトの最速のスピードを支えるのもまた、このハムストリングスである。他の選手の追随を許さないボルトの長い歩幅は、このハムストリングスの生み出す産物なのである。



それゆえに、それは大いなる矛盾であった。

スタートを改善すれば、記録は伸びる。しかし、スタートの練習を繰り返すほどに、ボルト持ち前のトップスピードを生み出すハムストリングスは痛めつけられていく。

すなわち、スタート時の弱点克服に囚われるほどに、最大の強み(トップスピード)を失っていくという皮肉な構図がここにあったのだ。



◎愚かな罠


スタートに囚われすぎたボルトは、ロンドン・オリンピック前、もっとも深い闇へと落ち込んでいく。ジャマイカで行われたオリンピック代表選考会で、なんと、後輩のヨハン・ブレイクに敗れ去ってしまったのだ。

100mでは、自慢のトップスピードが少しも出てこない。そして、スタートの弱さをトップスピードで補えるはずの200mでも、後半のいつもの加速が見られないまま、ボルトは敗れた(もともと、ボルトは後半追い上げ型)。

レース直後に倒れ込むボルト。そして、緊急マッサージ。もはやボルトのハムストリングスは肉離れ寸前の状態にまで痛めつけられていたのだ。こんな状態での加速などは望むべくもなかった…。



辛うじてオリンピック代表には選ばれたものの、レースそのものに敗れた落胆は絶望的なものであった。

ミルズ・コーチは、その時の様子をこう語る。「ボルトはスタートに囚われすぎていた。スタートがレースの全てではないのに…。アイツには素晴らしいトップスピードがあるんだ。でも、弱点にばかり目を向けてしまっていた。そして、自分の本当の良さを見過ごすという愚かな罠に、ボルトは自分からハマり込んでしまったんだ…」

ボルトもこう語る。「北京オリンピックの時は、スタートなど全く気にせず、無心で走ることができたのに…」



◎初心


このジャマイカ代表選考会を境にして、ボルトは姿を消した。オリンピックまでの全試合をすべてキャンセルしたのである。

表舞台から姿を消したボルトを囃し立てる心ないメディア。「怪我による敗北。無敵のボルト伝説は終わった」。



そんな世間の中傷を知ってか知らずか、ボルトは再びサッカー場にいた。かつて、曲がった背骨による限界を超える助力をしてくれた、あのバイエルン・ミュンヘンのチーム・ドクターを再び訪ねていたのだ。

ボルトの意志は明白であった。痛んだハムストリングスをオリンピックまで、完全に回復させる。この一事に尽きていた。

運命のオリンピックまで、残り一ヶ月。表舞台の裏に引きこもったままのボルトは、静かにその最強の肉体を再び最高の状態にまで高めつつあった。



◎決戦


ロンドン・オリンピック、男子100m決勝。

そのスタートラインに居並ぶ面々は、8人のうちの5人までもが9秒80を切るという、かつてないほど恐ろしくハイレベルな顔ぶれだった。

そこに立ったボルトの心境は、依然として穏やかならぬものがあった。「テグでのフライングが頭をよぎっていた。正直、緊張していたんだ」とボルト。ボルトにとっては、あの暗黒の代表選考会以来、一ヶ月ぶりのレースだった。

「僕の名前がアナウンスされた時、ようやく一切の不安はなくなった。心が決まったんだ。『スタートに囚われずに、後半のトップスピードで勝負する』と」



そして、決戦のピストルが鳴り響く。

ボルトのスタートは遅れた。その反応時間は0.165秒。8人中5番目という遅さであった。しかも、ボルトのヒザは内側に入っており、「悪いクセ」そのままの「いつものスタート」。

それでも、ボルトはスタートの遅れに動じてはいなかった。全選手がほぼ横一線の状態で半分の50mを通過。



「50m地点で、観衆の声が聞こえた。僕は『やれる』と思った。その後は、『ただ走る』だけだった」

無心のまま走り続けたボルトは、50mを過ぎたあたりから、一気に他の猛者たちを引き離しにかかる。この時のボルトのトップスピードは、時速45.39kmの人類最速記録。世界新を出した時よりも速かった。

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そして、猛者たちとの差を広げながらボルトはブッチギリでゴール。歓喜のままに得意のポーズ。その伸ばした指先は、高らかと天へと向けられていた。

もはや「限界か」と世間が見放したボルトの、堂々たる勝利がロンドンの地を沸きに沸かせた。

ボルトは200m、400mリレーと前回の北京オリンピック同様、三冠王を達成。これはオリンピック史上初の偉業、まさに新しい伝説がここに生まれたのであった。



◎信じ続けた自らの肉体


偉業を成し遂げたレース後の記者会見、ボルトはこう語っている。

「みんなが僕を見放した時、僕は自分を見放さなかった。みんながボルトはもう勝てないと言った時でも、僕は自分の肉体を信じ続けた」



生まれつきの曲がった背骨は、ボルトに100mを走る機会さえ与えないほどに酷いものだった。それでもボルトは、その持って生まれた身体を信じ続け、ついには人類の頂点にまで登りつめてしまった。それゆえに、ボルトの独特なフォームは誰にも真似できないものである。

一時はスタートの改善を試みたものの、結局は「そのままのボルト」で金メダルを獲得してしまった。弱点よりもその強みがそれを上回ってしまった好結果である。



結果だけを概観すれば、ボルトは常に無敵であったかのようにも勘違いしてしまう。それほどに彼の残した記録は圧巻である。

しかし、その裏には確かに「苦しむボルト」の姿もあった。彼は決して易々と勝ち抜いてきたわけではなく、ギリギリのところを勝ち上がってきたのである。普通であれば、早々に諦めてしまう道を歩み続けてきたのである。



◎限界を超えて…


幾度かの「限界説」を圧倒的な記録によって否定し続けてきた「ウサイン・ボルト」。

彼は自分の独特の走りをスロー映像で確認しながら、まるで他人事のように、こうつぶやいた。

「キレイだね。まるで天使みたいだ」



人とは異なる肉体を持って生まれたボルトは、それを悪と決めつけずに、天使の側面を育み続けてきたのではなかろうか。彼の行く手を阻もうとしてきた宿命のカベを、彼はつなに前向きに受け止めてきたようにも思う。

「僕にとって、この肉体は神に与えられた大切なもの。だから、僕は自分の肉体に感謝している」

そう言って、楽しそうに笑う人類最速の男。

われわれは、まだまだ彼の走りから目が離せない。たとえ、また巷で限界説がささやかれたとしても…。







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出典・参考:
NHKスペシャル ミラクルボディー
Number ウサイン・ボルト「世界最速が背負う秘密の十字架」

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