2013年4月11日木曜日

いつもギリギリ。里谷多英(モーグルスキー)



「泣かないと思っていたけれど、ああいうのって、やっぱり泣きますね。動物モノの映画を観たら泣く、みたいな感じ(笑)」

20年を超えて日本モーグルスキー界の第一人者であった「里谷多英(さとや・たえ)」。今年1月18日に引退を発表すると、2月23日の猪苗代W杯時に行われた引退セレモニーで、涙とともにファンに別れを告げた。

「自分が本当にダメだと思うところで、やめたんだと思う。じゃないと、また戻りたくなる気がするから…」



里谷多英が初めてオリンピックに出たのは高校2年生のとき(リレハンメル)。

「もう、お祭りみたいな気分で、楽しい思い出ばかりです。荻原健司さんや原田俊彦さん、雲の上の選手の方々が近くにいて、選手にタダで配られた『写ルンです』をどこに行くにも持ち歩いて、いろいろな人とツーショットを撮りました」

「雲の上の選手たち」がメダルを獲っていく姿を間近で見た里谷多英。「自分もメダルが欲しい」と刺激を受けた大会だった(自身は11位)。



続く長野オリンピック(1998)。

前年に父親を亡くしていた里谷は、この大会前に引退も考えたという。幼い頃からスキーを教えてくれたのは、彼女の父親だったのだ。

「『オリンピックに出るんだぞ』と父にいつも言われたのを覚えています。それくらいオリンピックにこだわりがある人だったから…。そのために、というのもアレなんですけど、ここでしか父の気持ちを晴らしてあげることはできない、という特別な想いをもって望んでいました」



一線で踏みとどまった里谷、彼女は「恐ろしく本番に強い選手」になっていた。

長野オリンピック前まで、里谷はW杯で一度も表彰台に上っていないし、世界選手権でもメダルを獲っていない。その里谷が、オリンピック本番でいきなり金をかっさらっていったのだ…!

「金メダルを獲ることになった決勝の滑りは、記憶が真っ白。今でも思い出せないままです」

そう振り返る里谷、無心のままか? スタートから他を圧する攻撃的な滑りで、里谷は金メダルに手が届いたのだった。そして、シャンパンをボトルごとラッパ飲みに飲んだのだ…!



そしてまた、ソルトレイクシティでも銅メダルを獲った里谷多英。

「今なお、モーグルスキー界で2つのメダルを持つのは彼女しかいない(Number誌)」

どうしてオリンピックだけ強いのか? みな首をかしげた。当の本人もそうだ。

「ほかの大会との違い? うーん、よく分からないですね」



成功か失敗か? 彼女の滑りはいつもギリギリだった。それを彼女自身は楽しんでいたし、面白がってもいた。

「力を100%出し切ってもメダルは無理かもしれないから、とりあえず出し切ろうという意識でした。それこそ『力以上のもの』を発揮するくらいじゃないと勝てないから、守りの滑りなんてできませんでした」

予選のときは、さすがにちょっとは考えるという。転んだらそれで終わりだからだ。

「でも、決勝はもうあとがないんだから、転んでもいいわけだし、ここで思いっ切り自分のいいところを出せる、みたいな気持ちになれるんです」



彼女は「不器用な選手」だったのかもしれない。それでも精神面は抜群に強かった。

「自分が勝てると思った試合では勝てるし、ダメだと思ったら必ずダメだったり…。イメージ通りになっちゃうんですね(笑)」



見ている方がハラハラするほど、里谷は思い切りが良かった。

「私はいつか大きな失敗をしそうな雰囲気を持っていましたよね(笑)」



彼女の言う「大きな失敗」は、雪の上ではなく、クラブの中で起こった。

トリノ五輪前に、里谷は泥酔して警察に連行されていったのだ。このトラブルにより、世界選手権の代表辞退を余儀なくされ、のちに離婚することにもなってしまった…。



「トラブルのあと、トラウマじゃないけれど、新聞とかネットは自分が出ていると聞くと、見ないようになりました」

そう言う里谷は、マスコミの人を恨んだり、話したくないと思うこともあったという。今は皮肉にも、彼女もそうしたマスコミの一員(フジテレビ)なのだが…。

「でも、あのまんま大人になるのも危なかったかな、って思います」

彼女がそう言うとおり、良く言えば天真爛漫、悪く言えば大きな子供だった。



トラブル以後、里谷は「真面目」になった。

プライベートコーチからナショナルチームに戻った里谷。「若い子がやる前に率先して練習したり、集合時間の10分前に行ったり、みんなの荷物を運んだり…」。

「そうやって真面目にやっていたら、スキーが楽しくなってきました」と里谷。

若い頃には「多英はオリンピックの2週間前からしか練習しない」と言われていたのとは対照的な真面目さである。しかし残念ながら、真面目な里谷はトリノ五輪、15位に終わってしまう…。



最後のオリンピックとなったのはバンクーバー(2010)。これで5回目。日本の女子選手としては最多タイの長寿記録である。

「年を取ると、競技を続けられること自体に感謝するようになりました」と里谷は言う(当時33歳)。



そして立ったスタート台。

予選の順位からはメダルは絶望的だった決勝。それゆえか? 彼女が暴走まがいの猛烈なアタックをかけたのは…!

思いっ切りブッ飛ばした里谷は、派手に転倒。

そこで彼女のオリンピックは幕を閉じた…(19位)。



「支えてくれている人は100人では足りません」

最後となったバンクーバーで、里谷はそう言っていた。

小学6年生で全日本で優勝した里谷多英。その競技生活は25年の長きに渡り、その間、5回のオリンピックに出場して、2つのメダルをモギ取った。



表裏もなければ、打算も一切ない。

いつも100%オーバー。

その不器用なシンプルさが、彼女の持ち味だった。



スキーを脱いだ里谷は、この春からフジテレビの社員として働いている。

「私は常識のない社会人なんだろうなって思います(笑)。スポーツ界は自分だけがよければいいという狭い世界でしたから」

そう言う里谷は、パソコンも満足に使えないと白状する。

「自分のパソコンにはワードもエクセルも入っていないくらいです。だから今、エクセル講座に通っています(笑)」



そんなオフィスの里谷に、遠征中の選手からLINEが飛び込む。

「今日、試合ですよ。天気いいですよー」

大会に戻る気は、もうない。

それでも最近は、「またスキーをしたいなぁ」と思うこともあるという…。






(了)



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ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 4/18号 [雑誌]
「成功か失敗か、いつもギリギリの滑りだった 里谷多英」

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