2013年6月7日金曜日

「最弱」東大野球部と、桑田真澄。自信と闘う姿勢



「東大になんか負けねぇよ。楽勝だ」

六大学の誰もが、そう思っていた。

学業の話ではない。「野球」である。



目下、東大野球部は「連敗街道」まっしぐら。

ここ3年近く、勝ったという記憶がない。

六大学野球では15年連続「最下位」。そのワースト記録は現在もなお、更新を続けている。



日本最高の学府でありながら、「最弱の野球部」を抱える東京大学。

その窮地を救うべく、一人の男がグラウンドに現れた。

「桑田真澄(くわた・ますみ)」

言わずと知れた名投手。大阪「PL学園」時代は、甲子園で最年少優勝投手となり(優勝2回)、ドラフト1位で「巨人」に入団(1985)。プロ入り後は巨人軍のエースとして173もの勝ち星を挙げた。アメリカの大リーグにも行き、39歳という年齢でメジャー・デビューを飾っている。



なんと強力な男だ…。

その彼が、「最弱」東大野球部の「特別ピッチング・コーチ」に就任したのである。

はたして、東大野球部は変わることができるのか?

そして、悲願の「勝ち星」は…?










◎練習時間



東大野球部の熱心な練習を、腕を組んで眺める桑田コーチ。

さすがに気になることが山とある。

まずは「練習時間」の異様な長さ。



ある選手などは、朝の6時から太陽の落ちる夜7時過ぎまで、ひたすら練習をしていた。なんと一日12時間以上(!)も肉体を酷使していた。

「勝てないんだから、もっとやるしかない。練習量イコール上達です」

その選手は、そう考えていた。彼に限らず、真面目で勤勉な東大生たちは「練習すればするほど、上手くなる」と信じ切っていた。



だが哀しいかな、その朝から晩までの膨大な練習量は一向に「上達」には結びついていなかった。

「何かが違うんじゃないか?」

桑田コーチは、選手たちと話をした。

「僕も2歳からずっと野球をやってるけど、じゃあ『量と時間』で上手くなるか? うまくならないんだ」



桑田コーチの提案は、東大野球部の常識とは「真逆」だった。

「練習時間を減らせ」

まず桑田コーチは、東大生たちの「凝り固まった常識」を打ち崩さねばと心していた。






◎集中



桑田コーチ自身、その小柄な身体ゆえに、練習量だけに依存することが許されなかった。

高校時代は「小柄というハンデ」を克服しようと猛練習を重ねたという桑田コーチ。だが疲労が溜まりすぎて、ただでさえ劣る体格がますます他の選手達との差を広げてしまっていた。

そこで考えた。あえてボールを投げない日も必要なのではないか?



身体が疲れた状態のままでは、まず練習に「集中」できない。

集中力を欠いてしまうと、全力でプレーするということができなくなってしまう。せいぜい7分とか8分の力でしかプレーできない。

「そうすると、それを脳と身体が覚えてしまうんです。70〜80%の力で動いたのを。全力で筋肉を使うことを身体が忘れてしまう。そうすると、いつまでたっても良い動きができない、と僕は思う」

桑田コーチは、そう言うのであった。



東大野球部の選手たちが躍起になって練習したがるのは痛いほど分かる。

なにせ彼らには圧倒的に「経験」が不足している。ほかの六大学のメンバーには、ずらりと「甲子園経験者」が並んでいる。たとえば明治大学のメンバーには50人の甲子園経験者がいるし、法政は41人、早稲田・立教34人、慶応28人といった具合だ。

それに比べ、東大という高すぎる壁が甲子園経験者を阻むのか、その数は「ゼロ」。もちろんスポーツ推薦などはない。ようするに、東大はみな無名の選手ばかりなのである。



しかしそれでも、桑田コーチは彼らに「練習量を減らすこと」を求めた。それはひとえに「練習の質」を高めるためであった。

「だいたい、みんな見てると練習のやり過ぎ。やり過ぎると内容が薄くなっていく。短時間集中。超効率的な練習をしないと。東大なんだから(笑)」



疲れたままの身体では「間違った動き」も起きやすくなる。

そして、それを繰り返してしまえば「間違った動き」が身体に染み込んでしまう。

この点は、東大生といえども、もっと考えなければならなかった。






◎六大学野球



さて、いよいよ開幕した「六大学野球」春季リーグ

100年以上前(1903)の早慶戦(早稲田vs慶応)が、その発祥になったという六大学野球。その後、明治、立教、法政と増えていき、最後に東大が参加したことで現在の形が整った(1925)。

土日に明治神宮球場で開催されることもあってか、大学野球連盟の中では平均入場者数が最も多く、プロの世界にも数多くの人材を送り出してきた。「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹選手(当時・早稲田)が脚光を浴びたのもこのリーグだ。







東大の初戦の相手は、前回の優勝チーム「法政大学」。六大学中、最多44回の優勝回数を誇る強豪である(ちなみに東大の優勝はいまだない)。

東大の悲願は、50連敗が目前に迫った「連敗脱出」。

しかし、先発投手の白砂選手は力が入り過ぎたか、ストライクが入らない。5回途中で5失点。開幕戦は「大敗」だった…。



その後も、東大の連敗は続く。

それは桑田コーチも予想していたことだった。急激な進歩は望めない。

だが、50連敗となった第4戦・早稲田戦、一人のランナーも出せずに完全試合で敗北を喫したこの一戦に、桑田コーチは「カチン」ときた。



「失点を重ねても、一向に闘志を見せないピッチャーたち」

「凡退しても悔しがらない打撃陣」

その「気持ちのないプレー」は、さすがに見るに見かねた。



グラウンドに全員を集めた桑田コーチ。

その表情はいつになく厳しい。

「このままだと100連敗するぞ。勝負の世界は厳しいんだ」

「アウトになって悔しがる奴がいない。そんなチームに誰が負ける?」










◎アウトロー



その日、桑田コーチは自らが練習のマウンドに立った。

ひたすら投げ続ける桑田コーチ。

投げる球は「アウトロー(外角低め)」一筋。



引退から6年経ってなお、桑田コーチの身体にはこの「アウトロー」が染み込んでいる。

選手時代、桑田投手の決め球は「アウトロー」。外角低めのストレート。バッターから遠く、最も打ちにくいとされるこのコースへのコントロールを、彼は徹底的に磨いたのである。そして、球界を代表するピッチャーへと昇り詰めたのである。







練習量には頼れなかった小柄な桑田投手。

このアウトロー1本に集中することで、それを最大の武器にまで磨き上げ、抜群の成績を刻んできたのだった。



一方、東大野球部の投手陣は、まったく逆の練習をしていた。

「打者を抑えるためには『さまざまな球種』が必要だ」

そう考えて、カーブやスライダーなど小手先の変化球ばかりをたくさん覚えるピッチング練習を繰り返していたのだ。



「アウトロー(外角低め)のストレートだけを練習しろ」

桑田コーチは、そう伝えた。

練習量を減らした上で、さらに球種を絞る。これは今までの「東大の常識」とは全く異なるものだった。だが、桑田コーチが自身の野球人生で培った経験は、そんな常識などクソ食らえであった。






◎自信



「自信がない」と野球部のメンバーたちは、よく口にしていた。

ならば、「自信をもてる武器」をまず一つ持て。それが投手にとってはアウトロー(外角低め)だ、と桑田コーチは言う。

「オレは中学校から今でも、アウトローをひたすら投げたんだよ」と桑田コーチ。



大正中学時代、「大正に桑田あり」という伝説があり、ほかの中学生たちはファールにするのがやっとやっと。その力の差に愕然とするばかりだったという。

中学時代にバッテリーを組んでいた西山秀二氏(元巨人)は、「中学生の頃から、すんごいコントロールしとったよ。ミットを構えたところにしか、ほんまボールが来んかったよ」と、当時の桑田の怪物ぶりを振り返る。







そこまでアウトローを投げ込んでいた桑田投手。

「エースと呼ばれる人で、アウトロー投げられない人いるか?」と野球部員たちに問いかける。

「いないです」と部員たち。

「裏返したら、アウトロー投げられるからエースや」と桑田コーチ。



そうして、アウトロー1本に絞った練習が始まった。

「10球のうち8球決める」。それを目標とした。

2年生投手・白砂謙介(しらさご・けんすけ)選手は、10球中4球しか決められなかった。彼のストレートは130km台と遅かったため、そのスピードを補おうと、さまざまな変化球に挑戦してきた。だが、どのボールも結局、肝心のコントロールが定まらなかった。



六大学野球のリーグ戦でも、白砂投手は連打を浴びて完敗していた。

「気持ちの問題です」と白砂投手は、負けた試合の映像を見返しながら話す。

「マウンドに上がって、ここに投げようというところに投げられる自信がないんです…」



その白砂投手に、桑田コーチは言う。

「どうしたら自信をもてるようになるのか? それはあの練習のブルペンで、小さな成功体験を積み重ねるしかない」

だから、10球に集中してアウトローを決める「自信」を心に積んでほしかった。たとえ100球投げたからといって、それはピッチングしたように錯覚するだけで、自信につながるとは限らない。

「自分が信じられるような練習をしていないと、実際の試合のマウンドで自分なんて信じられないですよ。自分の一番の応援者は、自信を積んだ自分自身なんですから」と、桑田コーチは語る。






◎考える野球



自らの小柄なハンデを克服しようと「考える野球」を心がけてきた桑田コーチ。

「野球というスポーツは、体力と技術だけの勝負じゃない」と感じていた。「頭も必要だ」と。

その点、東大野球部は「頭を一番使える集団」でもあった。だが、桑田コーチに言わせれば、東大生たちの頭はカチコチに固かった。常識に凝り固まっており、それに盲従するばかりで、まるで自分で考えようとはしていないかのようだった。







プロの野球界にも脈々と受け継がれている伝統がある。しかし、必ずしも、その伝統もしくは常識が正しいとは限らない。

「でも、日本の野球っていうのは、指導者・監督・コーチが言ったこと以外をすると、殴られたり怒鳴られたりするわけですよ」と桑田コーチは言う。

そうすると、言われたこと以外やらないほうが得策である。自分ではなにも考えずに「やれ」と言われたことを「はい」とやったほうが賢い。いわゆる管理野球、日本の超管理野球。



それは日本の野球界の「弱点」だ、桑田コーチは考える。

「長年プレーしてきて思うのは、自分で考えて行動できる選手じゃないと、良い選手にはなれないですよ」

日本の野球は「指示待ち」だと思われがちだが、監督ができるのは「メンバーを決めてサインを出すだけだ」と桑田コーチは言う。

「グラウンドで考えて動く、プレーするのは選手ですから。マウンドに立ったら一人。誰も助けてくれないんです」



実戦のマウンドで力を発揮するために必要なのは「自信」。そして、それを養うのは、自信に結びつくような「練習」。

「量か質か?」というよりも、むしろ「自信を積み重ねる」というのが、マウンドで一人立つ投手の練習だ、と桑田コーチは言う。

そしてそれはアウトロー(外角低め)。その一点から自信を積み上げろ、と桑田コーチは東大投手陣に言うのであった。






◎気持ち



桑田コーチが、ひたすらアウトローだけを投げて見せたあの日。

彼は多くを語らなかった。



語らぬ桑田コーチ。

だが、その寸分の狂いもない驚異的なアウトローだけは雄弁であった。

それは、負け続けて自信を失っていた選手たちの心にしっかりと響いた。キャッチャーミットに響くズドンズドンという心地良い音とともに。



気持ちの変わった東大の投手たち。

アウトローに決まる確率も上がっていく。

「オッケー! いいボールだ。変わったね」と桑田コーチも満足気味。

そしてつぶやく、「やっぱり意識がある選手は伸びるな…」






◎闘う姿勢



そして迎えた六大学野球・第8戦「明治大学」

東大は開幕から勝ちがない。ここで負けると、早々に最下位が確定してしまう。去年は明治大学相手に10点以上の大差で完敗している。



試合は「0 - 0」のまま進み、4回からのマウンドは2年生・白砂投手に託された。

アウトローに集中した練習で「気持ち」の強まっていた白砂選手。そのアウトローを軸に、次々と明治の強打者を抑えていく。

「打たせてたまるか!」

そんな闘志が、マウンド上の白砂投手からは立ち昇っていた。



そして6回。ノーアウト3塁のピンチ。

勝負の一球。

それはもちろん「アウトロー(外角低め)」



だが不幸にも、キャッチャーがミットを構えた位置より「ボール2個分」高く浮いてしまった…!

明治の打者が、この甘い球を見逃すわけがない。軽々と外野へと運ばれ、犠牲フライ。それがこの試合の決勝点となった。






◎秋へ



「0 - 2」

負けた。

56連敗。



それでも、この負けは今までのそれとは明らかに異なっていた。

東大野球部の面々は、最後まで「闘う姿勢」を貫いたのだ。

確かに今春のリーグ戦では一つも勝てなかった。連敗を止めることができなかった。だが、何かが秋のリーグ戦に向けて変わっていた。



「自分を信じることができないと、勝負にならないということを感じました」

試合後、勝負に敗れた白砂投手は、そう語った。



そして、力強くこう断言した。

「死にもの狂いで『一勝』を取りにいきます」

「秋まで必死にやります!」













(了)






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出典:NHKクローズアップ現代
「最弱チームは変われるか? 桑田と東大野球部」

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