高校時代は、野球部の補欠だった。
大野均(おおの・ひとし)
いくら努力しても、レギュラーには手がとどかなかった。
高校一年、背丈を見込まれて、野球部の投手候補に。
「2球投げたら、監督にもういいって」
野手に回っても、肩は強いのにバットにボールが当たらなかった(Number誌)
大野は言う。
「高校の野球部では、1年のときはベンチプレス45kgしか挙げられなかったのに、3年で100kgまで伸ばした。それでも試合に出られない。単純にセンスがなかったんでしょうね」
ラグビーと出会ったのは、大学に入ってから。
1997年の4月某日
福島県郡山市の日本大学工学部キャンパスの入学式翌日、背の高い新入生が学生食堂へ向かう道を歩いていると、いきなり両脇を「ガッ」と抱えられた。やけに体格がよくて力も強い。ラグビー部の勧誘である。
「ちょっと、こっちへ来てもらえるかな」
不気味に優しい声で勧誘された。こうして、地元の高校では野球部(清陵情報高校)の補欠、ひょろりと長い少年は楕円球と遭遇した(Number誌)。
ノートに、名前と自宅の電話番号を書かされた。
すると、毎日電話がかかってくる。
野球部に入るつもりでいた大野は
「僕、コンタクトレンズなので、ラグビーは無理だと思います」
と断った。するとすかさず、
「おおっ、俺もコンタクトだよ!」
断りきれなかった大野は、グラウンドに顔だけ出してみた。
大野は言う。
「グラウンドの雰囲気がすごくよかった。先輩が遅れてグラウンドにやってきて、実習がちょっと延びちゃって、と言いながら、ぱっとジャージィに着替えて、もうバチバチとタックルしてる。なんか、それがすごく『カッコいいなあ』と思ったんです。次の日に新入部員歓迎の飲み会が、大学のそばの中華料理屋であって、それでもまだ断るつもりで出席したんですけど、これが楽しかった」
こうして、仲間と「酒」の彩る人生がはじまった。
1、2年時は東北リーグ1部所属、最後の2年は2部暮らしだった。
ロック、フランカー、ウィング、ナンバー8と、ポジションを転々とした。
休日には「先輩のクルマに分乗して、心霊スポットめぐりや海でのバーベキュー」を楽しみ、アルバイトに精をだす(Number誌)。
居酒屋チェーン「天狗」で2年間、バイトした。あこがれは、女性スタッフの多いホール勤務。だが「制服のサイズがない」という理由で、厨房おくり。
「キミは身体が大きくて、お客さんが怖がるから」
どうしても、ホールには出してもらえなかった。
大学4年の春、
「お客さんが怖がる」ほどのサイズを買われて、国体予選の福島県選抜に選ばれた。これがキッカケとなり、東芝への門がひらかれた。
5月、東芝府中工場に呼ばれて、トライアルの練習参加。肩を亜脱臼しながらも隠し通し、夜、薫田真広コーチとの「脂まみれのカルビ焼肉面談」で
「3日以内に返事を」
と内定をもらう。2日後に返事をした。
地方の下部リーグ出身者がいきなり、「親に見せられぬ練習」を矜持とする鋼鉄の集団に放り入れられた(Number誌)。
みるみる実力がついた。
入社2年目に公式戦に出場。
4年目には日本代表の初キャップ。
「灰になっても、まだ燃える」
その座右の銘のとおり、大野均は無類のタフネスを示しつづけた。
日本代表キャップは、歴代最多の96(3度のW杯含む)。
そして酒。
世界的にも、ラグビーのチームは遠征先で土地の人々と酒を酌み交わす伝統と文化がある。
五郎丸は言う。
「ラグビーの試合が終わると、(アフターマッチファンクションで)両チームが集まって軽食をとったり、ビールを飲んだりするんですよ」
大野は言う。
「そこの地元の方と飲むのも、すごく好きなんです。いろいろな話を聞くのが。地方にこそ、ラグビーの大好きな熱いファンがいるんですね」
「地獄」といわれたW杯直前の宮崎合宿でさえ、大野は楽しんでいた。
「宮崎もよかった。次の日が休みだと街へ出て。自分にはその部分(酒の楽しみ)があったんで」
酒の思い出は尽きない。
大野は言う。
「2005年、フランスで日本代表が合宿しました。リモージュという田舎にあるスポーツ施設で。(酒豪の)伊藤剛臣さんと同室でした。どうしても飲みたい。『おい探しにいくぞ』と。ありました。タバコ屋の中のカウンターで店のおばあちゃんがビールを注いでくれる。雰囲気がすごく良くて、合宿中に(酒豪の)廣瀬佳司さん、剛臣さんと3人で毎日通いました」
2007年のW杯では、カナダと引き分けて帰国したとき、解散するのがどうしても寂しかった。東京に一泊しようとなって、熊谷皇紀、木曽一、山本正人、大西将太郎と六本木に繰り出した。
飲みに飲んで、翌朝4時。
いよいよ解散となると、ますます寂しくなった。大野均と木曽一は抱き合って、わんわん泣いた。六本木の交差点のド真ん中で。
2015年、ラグビーW杯イングランド大会
大金星をあげた南アフリカ戦のあとも飲んだ。
大野は言う。
「(チームの)ルールとしては、飲んでもよかった。ただ、スコットランド戦が4日後なので、ほとんど飲んでいる選手はいませんでした」
大金星もまじえ、3勝1敗という過去最高の成績で、2015W杯イングランド大会は終わった。
これで英国ともお別れだ。
最後にホテルの前で、みんなで記念写真をとった。
山下裕史は
「終わっちゃうんですね、本当に」
と漏らしてしまった。
「なんだか寂しい…」
と続けると、
「まったく女々しい奴だな、オマエは」
とからかわれた。
W杯という大舞台を戦い終え、誰もが幸せな気分に浸っていたが、一抹の寂しさもそこにはあった(Number誌)。
2015年10月12日
ラグビー日本代表をのせたバスは、一路、ロンドンのヒースロー空港へむけ発車した。
1号車は静かだった。メールをうったり、車窓をぼんやり眺めたり。
2号車は、まったく違った。窓の外など一切、見ていなかった。
「こんなもの、いらないね!」
エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)自ら、ネクタイを放り投げた。そのボスの姿に、田中史朗がのってきた。
「エディー、ドリンク! ドリンク! ドリンク! エディー!!」
エディーに、ビールを注ぎまくった。
「あんなことできるの、フミさん(田中史朗)しかいないよね…」
チームメイトらは、変に感心していた。
途中のパーキングエリアでは、堀井翔太がはじけた。
「もう、うまいモン食ってもええやろ」
ビールからハンバーガー、ポテトまで大量に買い込んだ。バスに戻ると
「ハンバーガーいる人?」
と言いながら、ポイポイ、ハンバーガーを投げて配った。W杯が終わるまではと、アルコールもハンバーガーも節制していた選手たちが、帰りのバスで一気にはじけた。
「好きなだけ食べて、飲んでしまえ!」
空港までのバスは、まさに解放の空間となっていた。
大野均は、もちろん「ビール号」こと2号車、堀江翔太の隣りにいた。
飲む、飲む、飲む。
いったい何本やっつけたのか?
大野は言う。
「本当は栓抜きのいるビンだったんですけど、ニュージーランド人がよくやるじゃないですか、そのへんの角でカーンと。」
座席のあらゆる突起はすべて、栓抜き代わりとなった。
「バスの中、相当、傷ついたと思います(笑)」
ところで酒豪の真壁伸弥は、不幸にも1号車に乗ってしまっていた。
「乗るバス間違えた…」
興にのった「ビール号」2号車では、合唱がはじまっていた。
♪ジャパニーズ・ソルジャー
毎日つかれた
Red and white jersey
Play for our country
Aye ya ya
Aye ya ya ya
Aye ya ya…♪
ボブ・マーリーの「バッファロー・ソルジャー」の替え歌だった。
8月の秩父宮で、ウルグアイに完封勝ちした後、ツイヘンドリックが歌詞をつけたものだった。
♪ハードワークしました
Play for each other
Pride in our journey
Play for our country
Aye ya ya
Aye ya ya ya
Aye ya ya
Aye ya ya ya…♪
酒と仲間と、ラグビーと。
大野は言う。
「ラグビーは仲間がいないとできないスポーツ。仲間の大切さを感じます」
大野はつづける。
「いつも厳しい練習を一緒にしてきて、『アイツのために体を張ろう』と思わせてくれる、そう思わせてくれる人間のたくさんいるチームが強い。今回の日本代表、『これだけ練習してきたのだから勝てなかったらウソだろう』とみんなが思って、事実、結果を残せたのは本当にうれしいですね」
大野均、現在37歳。
次のワールドカップは、さすがに難しい。
それでも「もしかしたら…」という期待を、大野は人に抱かせる。
エディー・ジョーンズは言う。
「キンちゃん(大野均)がもう一度W杯の舞台に立ったとしたら、私もさすがに驚くでしょうね(笑)。何歳までプレーするんでしょうね。私も楽しみにしますよ」
(了)
ソース:Number(ナンバー)894号 〝エディー後〟のジャパン。特集 日本ラグビー「再生」 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
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