2015年4月20日月曜日

「たとえ0.1mmしか進めなくても、それが一番の近道ですから」 [貴乃花]



貴乃花(たかのはな)光司



貴乃花「じつは子供の頃から臆病で、怖がりで。入門してからは『プロの世界には凄い人がたくさんいるなぁ』と驚いてばかりでした。同時に、『この人たちと戦うのは怖い』と」

大相撲の現場には1988年、15歳で身を投じた。そこには「勝負に生きる猛者たち」がひしめいていた。まるで修羅の世界。

「何年経っても、自分の根底には『戦う相手に対する怖さ』がありましたね。いまだにお化けの話も苦手で(苦笑)」



貴乃花(当時:貴花 田)は19歳5ヶ月という最年少記録で幕内初優勝をきめた。当時の土俵を彩っていたのは、東西の横綱に北勝海、旭富士。大関は小結、霧島。関脇には琴錦と貴闘力。そして、同期入門で好敵手だった曙もいた。

貴乃花「全国津々浦々から、身体も大きく、才能の塊のような人材が相撲界に集結している時代でしたから。のちに優勝争いをした曙さん、武蔵丸さんは、それぞれ元バスケとアメフトの選手。その道に進めば何十億と稼げたでしょう。抜群の運動神経の持ち主で、あんなに大きくてバネがあって動ける力士は『脅威』の一言でした。彼らと対戦して怖くなかった日本人力士はいないとおもいますよ」






「臆病」と自らを形容する貴乃花。

その恐怖心を消し去ろうと、必死で日々の鍛錬に打ち込んだ。

貴乃花「相撲界を生き抜くためには、他の力士が寝ている間に身体を鍛えたりとか、とにかく『人の倍は稽古をしなければ』と思い、実践してきました。稽古に打ち込むことで、恐怖を勇気に変えていくんです」






1989年 最年少 幕下優勝(16歳9ヶ月)
1990年 最年少 入幕(17歳8ヶ月)
1992年 最年少 幕内優勝(19歳5ヶ月)

貴乃花(当時:貴花田)は次々と最年少記録を塗り替えていった。

圧巻は1991年の夏場所。時の大横綱「千代の富士」を寄り切って、「最年少金星(18歳9ヶ月)」を獲得した。その翌日、千代の富士は現役引退を表明。世代交代を強烈に印象づけた大一番だった。






バブルの残り香がただよう1990年代、世間は空前の大相撲ブームに沸いていた。その熱気を支える屋台骨となっていた「若貴兄弟」。

兄・若花田は明るく飄々。
弟・貴花田は寡黙で一本気。

いわゆる「若貴フィーバー」。この兄弟の活躍によって、連日の満員御礼。チケットは高騰しプレミア化した。

貴乃花「とにかく忙しくて、忙しくて。当時は本場所が終わったら巡業の繰り返しで、年間何百日かは全国で巡業をやっていたと思います」



若き日はすべて土俵に捧げた。青春を謳歌する暇(いとま)はなかった。

貴乃花「それでも、逆に幸せを感じていました。心から打ち込める職業に就けて、なおかつ目指しているものがあることは、この上ない喜びでしたから」

若者らしい趣味といえば、せいぜい空き時間にウォークマンを聴く程度(尾崎豊など)。

貴乃花「心の中では『音楽を聴いている場合じゃない。もっともっと鍛えなければ』と投げかけてくる自分がいました。体力をつけたくて、夜も走りに出かけましたし、寝る前は瞑想して、相撲の基本動作のイメージを頭に叩き込んでいました」



とにかく番付を上げなければと、貴乃花はますます相撲道に殉じていった。

その稽古に打ち込む様は鬼気迫り、周囲をハラハラさせるほどだった。

貴乃花「兄弟子たちから『やり過ぎだ』と言われましたし、厳しい師匠の父にさえ『張り詰めすぎていると、どこかでプッツリ糸が切れるぞ』と忠告されました。でも元来、興味が湧かないことは何もしたくない反面、『入り込んでしまえば、いくらでもやっていられる性格』なんです」

医学的には極限の精神状態にあった。

貴乃花「父が知り合いの大学病院の先生に頼んで、自分たち弟子の精神状態をチェックしてもらったことがありました。樹木を描かせる心理テストのような内容だったと記憶しています。その結果、当時いた40人の弟子のうち『2人ほどギリギリの精神状態でやっている人間がいる』と。そのひとりが私で、もっとも良くない結果がでているというのです。でも、当人としては『やれちゃってる』状態なので、何とも思っていませんでした」


1991年 最年少「小結」(18歳10ヶ月)
1991年 最年少「関脇」(19歳0ヶ月)
1993年 最年少「大関」(20歳5ヶ月)

とんとん拍子に昇進し、父の最高番付だった大関に追いついた。そして発表された「二代目・貴ノ花」の襲名。

貴乃花「入門した時から、私は『父の分け身だ』と思ってやってきました。大関で土俵生活を終えた父の代わりに自分がその上を目指していく。それが私の原動力でした。改名はすべて父の一存です。番付発表前に『変えたからな』と一言だけで。唐突ではありましたが、父の名を継いだ時は『ついにこの日がきたか』と」





大関昇進ならびに改名と同じ日、大きなニュースが報じられた。

女優・宮沢りえとの婚約解消である。

貴乃花「そうするしかありませんでした。自分の道を本来のレールに戻すには。大変な騒ぎになり、自分でもどうしていいのか分かりませんでした」

貴乃花は彼女をかばうように、自らが悪者になってすべてを飲み込んだ。






「不撓不屈」の精神で闘った大関時代。

しかし横綱への壁は分厚かった。この年からの約2年間というもの、綱取りを目指しては跳ね返されてばかりだった。あの父でさえ到達できなった角界の頂点。その頂きが「かくも険しきもの」と思い知らされた。

貴乃花「落ち込むことはなかったですが、この壁を乗り越えるために足りないものが何なのか、自分でも分からない。ひたすら日々の稽古を繰り返し、寝る前は座禅を組んで、勝負に勝ちたい、ではなく、『自分はこうなりたい』というイメージをして、自己暗示をかけていました」



優勝はするものの、2場所続けての優勝がどうしても達成できず、ここまでの「最年少記録」は、横綱昇進を前に途絶えた。

貴乃花「(最年少記録は)結果として付いてきてはくれましたけど、記録とは破られるためにあるのだし、後に破る存在が出てきて当然の世界。当時からそう思っていましたから、あまり興味はありませんでした。変に大人びていたからか、周囲には生意気にしか映らなかったでしょうね」



1994年、ついに横綱に推挙される日がやってくる。

秋場所と九州場所で全勝優勝。「大関で2場所連続全勝優勝」は双葉山以来の快挙。連勝記録も30に伸ばし、文句なしの横綱昇進を決めた。

貴乃花「人間とは不思議なもので、意識しているうちは結果がでないんですね。『無意識の境地になって初めて出る力』がある。限界と向き合う鍛錬の向こう側に、無意識で身体が動くようになる次元があるんです」

貴乃花22歳8ヶ月、満を持して綱を張った。

昇進伝達式でこう誓った。

「謹んでお受け致します。今後も『不撓不屈』の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く所存でございます」







以後、貴乃花は30歳で引退するまで、22回の幕内優勝を記録することになる。






引退から12年、師匠の父は10年前に他界した(享年55歳)。

父から引き継いだ部屋で、貴乃花は13人の力士を育てる師匠となっている。

貴乃花「個人差もありますから、私が若い頃にやってきたことを、そのまま実践させたりしませんが、『土俵に上がるのは自分ひとり』。年頃の子たちに自立心を育ませつつ、時には背筋を正させる師でありたいと思っています」

また、3人の子供をもつ父親でもある。

貴乃花「長男は19歳になります。男は一生働くのですから、息子には何でもいいから手に職をつけろと伝えています。下に小学生と中学生の娘もいますが、中途半端なことはせず、頼りになる兄になれ、と」






貴乃花「人間は常に迷いを与えられる生き物だと思います。不惑(40歳)を過ぎた今も、私は惑い続けているし、だから決して迷うなとは言いません。右か左か迷ったときは、単純に自分の考える王道、真ん中を選べばいいんです。たとえ0.1ミリしか前に進めなくても、それが一番の近道ですから」



貴乃花「大切なのは、今いる場所から前に進もうとすることです。歩けなくなったら、引き返すのではなく、その場に留まる。しばらく佇んで、周りを見て呼吸を整え、また歩き出せばいい。自分に揺るぎない気持ちがあれば、そう簡単に道を外れることはありませんから」










(了)



ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
貴乃花「父の四股名で、綱をとる」



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