2015年4月21日火曜日

さまよえる青春、憧れのアメリカ [澤穂希]



澤穂希(さわ・ほまれ)

のちに世界で大活躍することになる彼女であるが、大学生のころは未だ迷いの中にあった。





帝京大学に在学中、澤はサッカー全日本女子選手権で優勝。読売ベレーザの契約選手として日本一に輝いていた(1997)。

しかし翌シーズン、澤は「プロ契約の打ち切り」を通知される。女子サッカーのリーグ自体がバブル崩壊のあおりを受けて、経営難に陥ってしまったのだった。

澤穂希「チームに残りたいなら『バイトを探してください』と言われました。周りの選手たちがしていたのは、レジ打ちや広報の仕事です。でもそれは『私向きじゃないな』と」






時おなじくして、男子サッカーは世界に認められつつあった。日本代表はフランスW杯に初出場、中田英寿はセリエA(イタリア)で2ゴールを挙げる活躍をみせていた。

一方、ドン底にあった女子サッカー。大学2年生だった澤には重大な決断が迫られていた。

澤穂希「大学を中退するのは、高い入学費を払ってくれた両親に申し訳なくて。夢とのはざまで日々、葛藤していました」



日本でサッカーの道を閉ざされそうになっていた澤穂希20歳。大学を中退して、単身アメリカに渡ろうかと悩んでいた。アメリカに渡ろうと考えたのは、読売ベレーザのチームメイト、ナタリー・ニートンが「アメリカに女子リーグができる」と話していたからだった。

最後に背中を押したのは父の言葉だった。

「穂希の信じた道を歩みなさい」

澤は決心した。

「チャレンジするなら、今しかない」



決めてしまえば行動は早かった。

澤穂希「貯金もほとんどなく、働けるビザもない。残高証明書をアメリカ大使館に届けにいったり、何もかも自分で手探りしながらやってみました。支えになっていたのは『アメリカ・サッカーへの憧れ』です」

当時も今も、アメリカの女子サッカーは世界最強の一角である。その強さを、中学から日本代表で戦っていた澤は、身をもって知っていた。

澤穂希「ワールドカップや五輪でアメリカの選手と戦うと『なんで、この人たちはこんなに上手いんだろう』という疑問があったんです。自分の何が通用して何が通用しないのか、厳しい環境のなかで揉まれながらやりたい。自分なりに選んだ選択でした」

渡米の直前、澤は日本代表として世界選手権(現W杯)を戦っていた。結果は惨敗。ロシアに 0-5、ノルウェーに 0-4 と苦渋をなめさせられた。そして、この大会を制して世界一に輝いていたのは他ならなアメリカだった。






勇躍渡米した澤穂希。

降り立ったのは、米コロラド州デンバー近郊の町ボルダー。

ロッキー山脈から吹く高原の風が爽やかだった。



「あこがれのアメリカでサッカーができる」

その嬉しさの反面、自分の力がどこまで通用するのかは未知数。あっとう間に潰されてしまうことも考えられた。

ニートン宅にホームステイした澤だったが、英語での会話に難渋し、一人ぼっちでボールを蹴る日々がつづいていた。

澤穂希「最初はすごいホームシックになって。今のようにインターネットもなかったですから」

日本の実家に帰りたくて、しばしば母親に手紙も書いた。

しかし、もう戻る場所はない。



”どんな名選手も最初の一歩はあやふやで、自信のかけらもないものだ。日本代表通算82ゴールの澤にして、「さまよえる青春」だったのである”
(Number誌)



チーム(デンバー・ダイヤモンズ)の練習では、アメリカ人のスピードとパワーに圧倒された。体当たりを食らって、よく転ばされた。

揉まれながらも気づいたことがある。

「技術は私の方が優れている。ボールが来たときの瞬間的な判断の早さも私の方が上」



暗中模索のなか、幸運が舞い込んできた。

全米12都市を転戦する「ビクトリー・ツアー」の一員として、日本人の澤が選ばれたのだ。アメリカ代表と世界選抜のメンバーに混じって。

澤穂希「本当に恵まれていました。お金もなかったのですが、ツアーでは試合ごとに結構な額の報酬もでましたから」

フィールドを駆ける澤の姿が、全米のテレビに放映された。世界の名だたる選手らと同じ舞台に、ついに立ったのだ。



幸運はつづく。

いよいよアメリカではじまった女子サッカーのプロリーグ(WUSA)。アトランタ・ビートが海外選手ドラフトで澤穂希を指名した(2000年)。

澤穂希「驚きました。日本人がアメリカでプロ選手としてプレーする最初の道が拓かれたという思いもありましたが、なにより『自分磨きの場』ができたことが嬉しかったです」



開幕3試合目、初ゴールをあげた澤はチームの初勝利に貢献した。

Quick Sawa (クイック・サワ)

これが彼女についたニックネームだった。



「Hey, are you OK?」

サッカーの技術とともに英会話も上達した澤。それまでシャイで人見知りだった彼女は、すっかりオープン・ハートになっていた。豪快に笑う陽気な女性になっていた。

アメリカでは「maybe(たぶん)」は通用しない。つねに「sure(確かな)」態度や意見を求められる。そうした風土に、澤はすっかり馴染んでいた。



しかし、禍福はあざなえる縄のごとし。

突如リーグが経営破綻。活動が休止してしまった。

またしても路頭に迷った澤。傷心のまま帰国するしかなかった(2003)。






2004年、女子サッカー日本代表はアテネ五輪への切符を賭けて、北朝鮮戦を目前にしていた。負けたらオリンピックへの道は絶たれる。北朝鮮には7連敗中であった。

背水の陣に追い込まれていた北朝鮮戦。日本代表のエース澤穂希は不幸にも、半月板の損傷で戦線を離脱していた。

「ピッチに立っているだけでいいから」

代表選手たちは澤に懇願した。しかし、立っているだけでも激痛がはしる。

澤穂希「あの試合のことは、最初のワンシーン以外、思い出せません。記憶が消し飛んでいて」

チームメイトの涙ながらの訴えに、痛み止めを打ってピッチに立った澤。開始直後、相手エースに激しいショルダーチャージをしかけてボールを奪った。それが澤の唯一おぼえているワンシーンだった。



結果は 3-0 で完勝。

歴史的勝利。「闘魂の女」の面目躍如。

それからだった。

サッカー女子、日本代表に「なでしこ」の愛称がついたのは。






2011年、女子サッカーワールドカップ

その決勝戦は「日本 vs アメリカ」



延長後半の終了間際、澤穂希は同点弾を放った。

宮間あやのコーナーキックに合わせた一撃。

世界を震撼させた右足のマジカルなシュート。このゴールで澤は「バロンドール(FIFA最優秀選手賞)」をつかんだ(アジア人初)。





その後のPK戦を制した日本女子代表。

世界一の栄冠を手にした。

澤穂希「なるようになっていたというか、シナリオがほんとにできていたみたいな感じです。挫折など様々なことがあってこそ道ができて、頂点に上り詰められたんだと思います






澤穂希「世界一になりたいなら、いつ頑張るの? 今しかないんだよ。常日頃から全力でがんばるしかないんだよ。やることはすべて自分の責任

現在、INAC神戸レオネッサに籍をおく澤。若い選手たちに、そう声をかける。

「若い選手たちは遠慮してるんですね。才能のある子が多いだけに、その姿勢はもったいない。積極的に自らアクションを起こす子が一人でも増えたら、と思います」










(了)






ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
澤穂希「運命を変えた、あの選択」



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