2012年9月30日日曜日

「国産選手」が続々台頭。テニス


「四大大会(テニス)で、これほど多くの日本人選手を見られるとは…」

全米の本戦に4人もの日本人選手が出場することは、1932年以来80年ぶりの快挙だという。



ここに特筆すべきは、その4人のうち3人が「Made in Japan」、つまり国内で腕を磨きあげた「国産選手」だということだ。13歳で渡米した錦織圭以外の、添田豪、伊藤竜馬、守屋宏紀は、国内の育成システムから出た選手たち。

ひと頃は、「世界で戦うには早くから海外で腕を磨くことが必須」と言われていたもの。それが、なぜ?



それは、味の素ナショナルトレーニングセンターに強化体制が築かれたことが大きいという。

そこでの練習を取り仕切ったのは増田健太郎コーチ。「現役時代、スペインのアカデミーにも在籍した増田は、ボールを数多く打ち、『体力的な土台』をしっかり築く、スペインの鍛錬型の練習を採用した」。

スペインは今大会、12名もの選手を送ってきている強豪国だ。この数はアメリカに次いで、2番目に多い。そんな強豪国、スペイン流のトレーニングが、日本国内でも行える環境が整ってきているのである。



「日本から選手を排出しよう」という合言葉のもと、それを添田、伊藤、守屋らが第一陣となって、世界へ打って出たわけだ。

ちなみに、錦織、添田、伊藤の3選手は、世界ランキング100位圏内に名を列ねている。100位以内は世界が認める「一流の証」である。






出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「日本男子の成長を導いた"Made in Japan"の気概」

技術の「ヤングなでしこ」


「ヤングなでしこ」

まずは単純に、彼女たちは「技術レベル」が極めて高い。

「ひざ下の小さな振りで速いパスを繰り出す木下栞のインサイド・キック、大きなサイド・チェンジでもピタリと止める田中美南のトラップなどは、惚れ惚れするほどである。相手が触れない場所にコントロールする彼女のトラップ技術は世界でもトップクラス」

技術だけなら、「すでに姉貴分のなでしこジャパンよりも数段上だろう」。



もはや、彼女たちは「萌え」や「癒し」の対象なだけではない。

「可憐なルックスもさることながら、彼女たちが見せるサッカーは実に上質なものである」






出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「技術、メンタル、積極性。男子がU-20女子に学ぶこと」

2012年9月29日土曜日

大化けした大器、大隣憲司。プロ野球



今季「大化け」したというSoftbankホークスの「大隣憲司(おおとなり・けんじ)」。

去年は3勝しか挙げられなかった投手が、もう12勝も挙げている。



悩んでいたという去年、大隣は先輩の新垣にこんな質問をしていた。

「子供ができると、生活は変わりますか?」

先輩の新垣は、悩む大隣に昔の自分を見ていた。ひじ痛に悩んだ新垣は、自分の投球スタイルを捨てざるを得なかった苦悩があった。

「ああ、何でも出来るようになるよ」と新垣は答えた。そしてボソリ、「オレも昔はお前と一緒だったんだ…」。



それまでの大隣は「全力で三振を取りにいくピッチング」だった。しかし、それが通用したのは2年目まで。その後は勝ち星が二桁に届かない。

「大隣は気が乗らないとダメなタイプ」と言われ、「打たれだすと止まらない」状態に陥っていた。



ところが今季、大隣はスタイルを変えてきた。

「三振を狙いにいくよりも、低めに徹する」

それは「家族のための生活をかけたピッチング」でもあった。



高山コーチは「ようやく、わかってくれた…」と目を細める。

大化けした大器、大隣憲司。

いよいよ開花の時なのかもしれない。






出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「鷹の新エース・大隣憲司は家族のためにマウンドへ」

連敗地獄から脱した京大野球部。その秘密とは?


京都大学、硬式野球部。

頭脳明晰であっても、スポーツの才能を持ち合わせているとは限らない。

関西学生リーグにおいて、京大野球部は万年「最下位」。東の東大が東京六大学リーグで「最弱」であるように…。




ところが今年5月、2009年から続いていたというリーグ戦60連敗のワースト記録がストップしたという。

その立役者となったのは…、甲子園の名伯楽「比屋根吉信」監督。1976年から11年間、沖縄・興南高校の監督として甲子園に6度も出場した輝かしい経歴をもつ。

その名伯楽が、いかなる秘策を京大生たちに授けたのか?



「こういったペーパーを部員たちに配ってるんですわ」

監督が見せてくれたプリントに書かれていたことは…、「ベンチでは大声を出す」、「強いゴロをしっかり捕球する」…?。なんと、小学生のリトルリーグで教えられるような初歩の初歩ばかりではないか…!

「強豪校の選手たちは、こんなことは子供の頃から何度も叩き込まれていますが、ウチの部員にはそれがない。でも、逆にいえば『真っ白な状態』。変なクセがついていない分、素直に吸収すれば伸びるのも早いんです」と名伯楽。



中途半端なヒネクレ者ならば一蹴してしまいそうな基本中の基本。しかし、京大生たちは「礎石の大切さを知る賢者たち」。謙虚な姿勢で名伯楽の教えを請うた彼らは、見事に連敗地獄からの脱出を果たしたのである。「実るほど、頭(こうべ)を垂れる…」。

連敗記録を止めたのは、投手・田中英祐選手の力投。関学相手に5安打完封である。こうした逸材が名伯楽の指南を受けた結果、今季の京大野球部は「白星献上校」から「ダークホース」へと変身を遂げたのだ。



「この子らには、日本のリーダーになる資質がある、と私は思っています」と名伯楽。

「京大野球部出身の総理大臣、夢がありますよねぇ〜」

なんとも前向きな名伯楽であった…。






出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「京大野球部 連敗を止めた秀才軍団の㊙練習法とは?」

2012年9月28日金曜日

日本ラグビーを輝かせた男、シナリ・ラトゥ。


その「Tシャツ姿」の彼が初めて日本に降り立ったのは、雪の舞う真冬。

それも仕方がない。彼は南半球の「トンガ」からやって来た。日本が真冬ならばトンガは真夏、季節が真逆なのだ。



彼の名は「シナリ・ラトゥ」。

数多いる渡来ラガーマンの中でも、「この男ほど強烈なインパクトを放った者はいない」。日本ラグビーが輝いた時、いつも必ず、この男はそこにいた。

突進とタックル、そして、仲間たちとのビールを決して忘れぬラトゥは、1987〜1995年の日本代表時代、間違いなくジャパンの中核であった。生まれはトンガながら、彼の魂はジャパンを具現化していたのだ。




ラトゥが18歳の時、彼はすでにトンガのラグビー代表チームに選ばれていた。と同時に、陸上競技においても「三段跳びと砲丸投げ、そして400mリレー」に優勝していた。

「帰国後、そろばんの先生になる約束で」、ラトゥは日本にやって来た。10人兄弟の長男である彼の大きな双肩には、一家を養う重責もかかっていた。



留学2年目にして、大東文化大学ラグビー・チームの主軸となったラトゥは、いきなりその頭角を現す。

「チームのみんなは全国に出られただけで満足感があったんです。100点取られないようになんて話していましたから。でも、僕には関係なかった」

ラトゥのいる大東文化大は、準決勝で明治、決勝で早稲田を打ち破って初優勝。ほんの一年前はコタツで見ていた決勝戦。無印だった大東文化大は、まさかその場に立ち、そして勝ったのだ。頼もしすぎるポリネシアンのお陰で…。



ジャパンへ呼ばれたラトゥは、宿澤監督にこう命じられる。

「104kgの体重を、90kgまで落とせ」

「無理です」

「落とせ」



1989年のスコットランド戦、ラトゥは強烈なタックルでマット・ダンカンをコーナーの外へ弾き出す。「トライを防いだ一撃。忘れがたき名シーンだ」。吹っ飛ばされたダンカンは救急車行き。

激戦の結果は、28ー24で日本の逆転勝ち。これが日本ラグビー界の金字塔となった「スコットランド撃破」である。

その時のラトゥのウエイトは91kgだった。



次の年(1990)のW杯の予選、相手は母国トンガだ。

「試合中にずいぶん狙われました。首を折りにくるような感じで。反則してでも狙って来ました」

試合は日本の勝利。ところが試合後、トンガの宿舎へ向かえとの命令。どうやら負傷者のための通訳が必要らしい。「行ったら殺されるんじゃないかとイヤでした」。

行ったら実際にからまれた。でもトンガの監督が止めてくれた。「私たちは弱いから負けただけだ」と言って。



速攻と極度に前へ出る防御、そして、ひとりラトゥがパワー勝負をかける。それが日本流だった。「あのチーム、縦に出るサインはすべて僕でした。それがよかったんです」とラトゥ。

「良いチームだった。まとまりがあって、すぐにみんなで酒を飲んで…」

W杯で日本が初勝利をあげられたのは、このラトゥがいたからに他ならない。



9人の弟たちの学費、そして家も建ててやったラトゥ。

大学の寮生活時代は、「おかずがなくて、マヨネーズをかけて食べた」というほど、「ハングリー」な時代を過ごした。

ラトゥは道なき道を切り拓き、辛抱し、そして、相手をなぎ倒して勝利をつかみ取った。



しかし、今の世代は「欲しいモノが何でもある」。トンガからの留学生にも歯がゆさを覚えずにいられない。

ラトゥの去った今のジャパンは、半分くらいは外国人。ラトゥの愛した「日本のラグビー」は過去の話となった。



「トンガ生まれの日本人」

彼は間違いなく、「日本の魂」を持ち続けた闘士であった。

そして、故郷トンガに置いてきた妻子に心動かされていた時期もある、心優しき闘士でもあった…。






出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「元祖黒船の衝撃 シナリ・ラトゥ」

2012年9月27日木曜日

7年後のW杯の希望。竹中と松島(ラグビー)


ラグビー場にこだまする雄叫び。

フランスの精鋭軍を相手に「竹中祥」は爆走。火の玉と化した竹中は、80m独走の鮮烈トライを決めた。

「アイツが南アフリカで頑張っているから…」



竹中の言う「アイツ」とは、高校の同級生「松島幸太朗」。2人は、高校の桐蔭学園時代、花園で全国優勝を果たしている。竹中が95mを走り切る豪快なトライを決めれば、松島は相手に指一本も触れさせずに、100mを駆け抜ける。

「竹中がダンプなら松島はスポーツカー、竹中が野牛なら松島はチーター、外交的な竹中に対して寡黙な松島」

まったく対照的な2人でありながら、「トライを獲る」という一点だけは共通項だ。



その2人は、ともに優勝した高校卒業後、両者まったく別々の道へと歩を進める。

竹中は国内の筑波大学へ、松島は海外、南アフリカのアカデミーへ。対照的な2人は、その歩む道もまた対照的だった。



竹中の進んだ筑波大学は、ラグビー名門校ではない。

「強いチームに行くよりも、まだ勝っていないところに行って、仲間と一緒にチームを強くするのが好きなんです」と竹中。

「常に謙虚な姿勢をもて」と育てられた竹中は、周りの人々に対しても実に謙虚。「日本代表の中にも、僕が生まれるよりも前からラグビーをやっている人もいれば、僕がラグビーを始める前から代表に入ってる人たちもたくさんいますから…」

そんな謙虚な竹中の体躯は「才能の塊」。中学時代には陸上100m走で全国大会に出場し、立ち幅跳びでも3mを跳ぶ。日本代表の監督は「これだけポテンシャルのある選手は初めて」と舌を巻く。



一方の松島は、「自分が強くなれるところ」を選んだ。それが世界で最もフィジカルの激しいラグビーを行うという、強豪シャークスのアカデミー部門だ。日本の企業チームに入れば、給料をもらってラグビーができる。だが、松島の選んだのは、自分でお金を払ってラグビーを勉強する場だった。

「もちろん南アでラグビーやるのはキツイです。でも、若い時にキツイことをやらないと…」

松島の父親は南アフリカ人であり、彼自身もその強靭かつしなやかな体躯を受け継いでいる。しかし、南アの周りの猛者たちはもっと腕っ節が強く、不屈の闘志を持っている。さすがの松島も、最初は圧倒され、ケガを繰り返す負の連鎖に陥ってしまったという。

それでも今は、「自分のどこかが周りよりも劣っているとは全然思いません」とタフな成長を見せている。



2019年、今から7年後に日本ではラグビーW杯が開催される。

その日本代表を支えるであろう若手たちは、竹中や松島たちである。彼らの他にも「日本ラグビーの歴史でも特筆すべき才能」がひしめき合っているという。

竹中と松島は、今は己の信じる別々の道を歩いているものの、7年後のW杯においては、ほかの仲間たちと同様、同じ日の丸を背負い、同じグラウンドに立つことになる。

そして、「トライを獲る」という一つの共通項に向かって突き進むのだ…!






出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「2019年W杯への希望 『再び同じグラウンドで戦う日まで』」

2012年9月26日水曜日

「夢の力」を東京へ! オリンピック招致


東京でのオリンピック開催を阻むもの、それは「国民の関心」の低さ。

対抗馬となる「イスタンブール(トルコ)」での支持率は73%、「マドリード(スペイン)」では78%。それに対して東京は「賛成47%」に過ぎない。

IOC(国際オリンピック委員会)は、「支持率の高い国でなければ、オリンピックは成功できない」と考えているため、東京の支持率の低さは大きな懸念材料なのである。



ところが、実際には「日本人ほどオリンピックが大好きな国民はいない」とも言われている。なぜなら、オリンピック放送の視聴率は「日本が世界でダントツ」という調査結果があるからである。

東京開催に賛成でも反対でもない「どちらでもない」と答えた30%の人々は、いざオリンピックが始まると、じつは熱烈な支持者に転じる可能性が高いのだ。

今回オリンピックの行われたロンドンでさえ、地元住民の関心は51%にとどまっていたが、いざ大会が始まるとどうだろう、「オリンピックがロンドンに来てくれて、本当に良かった」と大喜びをしたのである。



2016年のオリンピック開催に手を挙げた東京は、リオデジャネイロ(ブラジル)に逆転負けを喫した。

それは、「支持率の低さや、三方を海に囲まれたメインスタジアムへのアクセスの問題、選手村の敷地の狭さ」などが評価を下げた結果だった。

しかし今回、再度の立候補にあたって、「すべて改善しました」とJOC会長の竹田市は自信を見せる。実際、IOC(国際オリンピック委員会)も「問題を改善した東京に、非常に関心を寄せている」そうだ。



オリンピックには「夢の力」がある。

「夢は叶う」と信じ続けた”なでしこジャパン”の澤穂希選手は、本当に夢を叶えた。卓球の福原愛選手は、20年もの努力の末、日本卓球界に初のメダルをもたらした。

そして、そのメダリストたちが一同に会した銀座でのパレードには、なんと50万人もの人々が押し寄せたのだ。「これは驚きました。50万人という大勢の人を見たのは、生まれて初めての経験でした」と竹田氏。



「今のニッポンに必要なのは『夢の力』だ」

一度でも「夢の力」を見た人々は、たちまちその虜になる。

「閉塞感に包まれた今だからこそ、日本にはオリンピックという『祭り』が必要なのではないでしょうか」

「なぜオリンピックを目指すのか?」という問いに、招致委員会の理事長でもある竹田氏は、そう答えた。



「税金がもったいない?」

1984年のロサンゼルス五輪以降、夏季、冬季を含めて、赤字になったオリンピックなど一つもない。東京オリンピックの経済効果は「約3兆円」という試算もある。15万人の雇用増も見込まれることから、むしろ税収が増えることも期待される。



「渋滞がイヤだ?」

「今度のオリンピックは、選手村を晴海に建設する予定で、そこを中心とした半径8km圏内が主な会場となります。つまり、オリンピックによる人の群れと都心部分の交通網がバッティングすることは少ないはずです(竹田氏)」



オリンピックが大好きな日本人。

あの「皮肉たっぷりのイギリス人」でさえ、オリンピックの「夢の力」には夢中にならずにいられなかった。愛国心が行き過ぎて、「大金を使って開くことがあったのか」という問いは、「非国民」とまで言われた。

ましてや、日本人をや。

きっと渋滞も大目に見る気になるのだろう。





出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「今こそ、東京にオリンピックを」

2012年9月25日火曜日

「一億円プレーヤー」となった木村沙織・バレーボール


「正直、『年俸』を提示されたときにはビックリしました。『0』を一つ数え間違っちゃった」

そう言うのは、バレーボールの「木村沙織」。それも仕方がない。その年俸はゼロがずらりと並ぶ「100,000,000(1億)円」。日本女子スポーツ界に、ついに「一億円プレーヤー」が誕生したのである。

バレーボール選手の年俸は、ごく一部の選手が1,000万円台に手が届くだけで、普通は200〜500万円くらいが相場だという。かつて、ある女子ゴルフ選手が「バレー選手になる気持ちが分からない」と問題発言をしたほど、バレー選手は「低年俸」だったのである。



そこに木村沙織の「年俸・一億円」の一報。

日本バレーボール界の常識はひっくり返った。

その驚きの額を提示したのは、世界最高峰のバレーリーグを擁する「トルコ」であった。トルコには世界各国から「大砲」クラスの選手たちが集まっており、世界の有名選手がキラ星のごとく在籍している。そのリーグ戦はまるで「毎試合が国際試合」だ。

そのトルコが一億円払ってまでも是非欲しいと言ってきた選手、それが日本のエース「木村沙織」であったのだ。



当の本人は、いつもどおり「ホンワカな笑み」。まるで「陽だまりのタンポポ」のよう。

その柔らかさからは、バリバリのアスリートの印象は薄い。先輩の竹下佳江も、「ほのぼの」という印象を語っている。その一方、全日本に招集されたばかりの木村を「才能って凄いなぁ」とつくづく感心して見ていたという。

当時、急遽ピンチヒッターとして招集された木村は、試合によってセッター、ブロッカー、レフト、ライトと「猫の目のように変わるポジション」を、どれもヒョイヒョイとこなしていたのだという。身長が高い選手はレシーブは苦手なはずなのに、「うそーっ、このボール上げちゃうの?」という好守で、先輩の竹下をたびたび驚かせていた。



「私、『努力』ってしたことがないんです」と、のほほんの木村。

しかし、それは彼女が努力を努力と思っていないからである。「出来ないことがあったら、出来るまで練習するのは『当たり前』。苦手なプレーは得意になるまでやる。これって当たり前のことだから、努力とは違うでしょ?」と木村。

先輩の竹下もこう続ける、「ほのぼのとしている割には、苦しいことにも耐えられる根性もあるんです」と。



ただ、「玉にキズ」は木村の「穏やか過ぎる性格」にあった。高い実力を持ちながらも、その自覚が薄く、自らがエースとなった時も、やはり穏やかなままであったのだ。

そんな木村に、監督の眞鍋政義氏は「喝」を入れる。「お前が崩れたら、全日本は負けるんだぞ!」と。

それでも木村は、当初、監督の言っている意味が理解できなかった。「バレーはチームスポーツなんだから、1人の選手の出来不出来が結果を左右するなんて思っていませんでした。『この監督は何を言ってるの?』って感じで…」



眞鍋政義氏が全日本の監督に就任したのは2009年。いまやすっかり「IDバレー」で有名となった。その眞鍋監督は得意のデータを示して、木村に各試合を分析してみせる。「だから、負けた」、「だから、勝った」との説明を何度も何度も繰り返した。

「眞鍋さんと何度も話しているうちに、『自分の立場』が少しずつ染みこんできました。チームの期待に応えなきゃって、腹がドンと据わりました」

腹の据わった木村は、2010年の世界選手権でその強さを見せつける。相手チームがエースの木村を潰そうと徹底的に狙ってきたが、「たとえミスをしても、平然としていた」。その結果は堂々の「銅メダル」。



オリンピックを2年後に控えた世界選手権での銅メダルは、日本チームを勢いづかせた。いよいよ、「遠くに霞んでいたブラジル、アメリカの2強の尻尾」が視野に入ってきたのである。

ところが、日本チームは焦りすぎた。攻撃のスピードを一気に上げていったその途端、木村のタイミングはすっかり狂ってしまった。

「もう頭の中がシッチャカメッチャカで、しまいには、助走が右足からか、左足からかも分かんなくなっちゃいました」と、木村は大粒の涙をこぼす。「人前では泣くな」と母から厳しくしつけられていたのに…。木村は苦しくて仕方がなかった。



ロンドン五輪の最終予選は、目標の1位通過どころか、「最後の一枚の切符をやっと手にいれる体たらく」。オリンピックの予選ラウンドは、3勝2敗で何とか通過。木村のギアは依然として低いままだった。

そして迎えた運命の「中国戦」。眞鍋監督がずっと「勝負どころ」だと言い続けていたこの一戦、ついに木村のスパイクは爆発する。

「アーーッ」と雄叫びをあげて打つ木村。そんな声は今まで聞いたこともなかった。中国の2枚ブロックもモノともせずに吹き飛ばす。「幅広いコースに強打を放ち、時にはライン際にポトリ」。

結局日本は、この死闘をフルセットで制することになる。木村の得点はじつに33を数えていた。






「ブロンズ・メダリスト、ジャパン!」

オリンピックで28年ぶりの銅メダルを日本にもたらしたエースは、掲揚される国旗を万感の思いで眺めていた。

「だって、日の丸の隣りに、ブラジルとアメリカの国旗が上がっているんですよ! やっとこの2大強豪国の隣りに来れたんだなぁって」



1984年のロサンゼルス五輪以来、日本はメダルから遠ざかっていた。「東洋の魔女」はアメリカやブラジルがどんどんと進化させる技術とスピードにすっかり置いてけぼりだったのだ。アジア勢では、唯一高さのある中国だけがその争いに加われていた。

そのスピードを追いかけるあまり、木村は一時スランプに陥るものの、チームメイトの「スピード戻そうか?」という提案には、決して首をタテに振らなかった。あくまでも、世界のスピードで勝負することに木村は固執したのだ。



悩み続ける木村の話をよく聞いてくれたのが竹下佳江だったという。

「なぜか、テンさん(竹下)には話せたんです」

ブラジルに敗れた後の3位決定戦。韓国を破りメダルを決めた、その歓喜の瞬間、木村をまっさきに抱きしめたのは、その竹下だった…。



木村の凄さは、点取り屋のエースにも関わらず、抜群に高い守備力も持ち合わせていることだ。オリンピックでベスト・スコアラーBest3のうちでも、木村ほどレシーブができた選手はいなかった。

世界に豪腕アタッカーは多しといえど、「守備」もできる選手となると極端に少ない。打つも良し、守るも良しの木村に世界が注目したのは、当然のことだった。

彼女はまさに「一億円プレイヤー」として相応しい選手だったのだ。



「ホントは海外があまり好きじゃなかったんですけど…」と語る木村は、他の海外チームから一億円以上のオファーがあったにも関わらず、「トルコ」を選んだ。それは、金額の多寡よりも「環境やリーグのレベル、活性度」を優先した結果だった。

トルコは全てプロリーグ。その資金は潤沢であり、世界の代表選手がトルコに結集している。そして、2020年のオリンピック招致に向けて、国民全体が女子バレーに期待を寄せているのである。



木村と同年齢には、サッカーの本田圭佑、長友佑都、大リーグのダルビッシュ有など、世界的な選手が数多い。そんな刺激も彼女の海外移籍を後押ししたという。

いまのバレー選手は、企業のOLと同賃金であることが多い中、木村の年俸は突出している。「バレーだけじゃなく、他の競技の選手も『スポーツで食べていける』ようになれば嬉しいなと思います」と語る木村。「バレーは低年俸」という悪しき常識に風穴を開け、スポーツ選手のプレー環境を良くしたいという想いも、その胸にはあった。

木漏れ日のような「穏やかな笑顔」の彼女は今、新天地のトルコで新しい花を咲かせようとしている…。







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出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
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2012年9月24日月曜日

新マネーボール? お荷物たちの逆襲。メジャーリーグ


「万年最下位」

アメリカ、メジャーリーグの「ナショナルズ」は、そんな弱小チームだった。「'08年、'09年は100敗を超え、30球団中最低の成績に甘んじていた」。

ところが今シーズン、そのナショナルズが「首位」を快走中だ。

何があったのか?



幸運は、最下位であったことから呼び込まれた。

メジャーのドラフトには、「勝率の悪いチーム」から指名していくというルールがあり、そのおかげで、ナショナルズは「何十年に一人」といわれる大物投手、スティーブン・ストラスバーグを獲得したのである。



「莫大な契約金が予想されたが、果敢に指名した」

そう語るのは、「デイビー・ジョンソン」監督。昨年6月、68歳という高齢を押して、その座についた大物監督である。

ジョンソン監督は、現役時代に日本(巨人)でもプレーしていた経験がある。監督としての戦績も目覚しく、1986年にはメッツを世界一に導いている。15年間の監督としての勝率は「.564」。これは存命中の監督としてはアール・ウィーバーに次ぐ第2位だ。



ジョンソン監督は現役時代、そのウィーバー監督の指揮下にあったこともあり、当時、「綿密に分析したデータ」を手渡したことがあるという。

「彼(ウィーバー監督)は、それをほとんど見ることもなく、ゴミ箱に投げ捨てたけどね」と、ジョンソン監督は笑う。



ジョンソン監督は、「メジャー屈指の智将」と言われるだけあって、コンピューターを駆使したデータ作りには定評がある。

「セイバー・メトリクス(野球を統計学的に分析すること)が脚光を浴び始めているけど、私は1970年代からやっているんだよ」



今年のメジャー・リーグ終盤戦を沸かしているのは、かつての「お荷物球団」、この「ナショナルズ」だ。今年、彼らの「逆襲」が始まったのである。

各チームの実力伯仲はますます加速。

「新マネーボール」の逆襲やいかに?





出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「終盤戦を盛り上げるお荷物集団、逆襲の秘密」

2012年9月23日日曜日

未来の大エース、田中陽子。ヤングなでしこ


彼女の左足から放たれたシュートは、美しい放物線を描きながら落ちていき、ゴール右隅に吸い込まれていった。

女子サッカー、U-20W杯、ヤングなでしこのエース「田中陽子(タナヨウ)」が、スイス戦で放った直接フリーキックである。

「これが4年前まで『コロコロ・シュート』と笑われていたのと、同じ選手のシュートなのか…?」



「4年前の私は、体もひょろひょろだったし、相手の強い当たりには負けてばかり。シュートを打ってもコロコロ。もう、へなちょこですよ(笑)」

一方、アメリカ選手のロングシュートは凄まじかった。それを目の当たりにした田中は、「このままじゃダメだ」と痛感。



U-20のチームでは「いじられ役」という彼女は、人一倍の「努力家」でもあった。小学校の頃には、リフティングを8,000回以上続けたという。そんなストイックな努力家は、必死に体幹を鍛え上げていく。

練習が終わっても、自分が納得するまでは決してフィールドから離れない。

フリーキックの名手として名高い、中村俊輔や宮間あやが練習に訪れた時など、田中は見学できるギリギリ近くの場所に陣取り、名手たちの蹴り方を熱心に研究していたという。



「いかに軽い動作で強いパワーを出せるか」。それが田中の目指す技術である。

体幹部でパワーをつくる一方で、ボールを蹴る脚部などの末端はリラックスさせておく。これは大リーグのイチローなども取り入れている「初動負荷理論」という、筋肉に「加速度」を生み出す方法だ。

「まだ筋肉もついていないけど、ボールが飛ぶようになりました」と田中。



そしてW杯スイス戦。前半30分、そして後半2分、田中は「左右両足」でフリーキックを決めるという「離れ技」をやってのけた。

韓国戦でゴールを決めた時などは、左手の薬指にキスをして、その手をスタンドに向けるというパフォーマンスで周囲を「ドキッ」とさせる。

「あぁ、あれ、ラウール(元スペイン代表)の真似です。YouTubeで見て、『これカッコいいじゃん』って思って(笑)」



この「キス・パフォーマンス」に、ファンからは「タナヨウに彼氏がいるのか?」との問い合わせが殺到。クラブの回答は「ないない。絶対ない!」

「それも失礼ですよね(笑)」



ちなみに、「こんなに注目されて、あっさり負けたらヤバくない」と言っていたU-20W杯、ヤングなでしこの成績は史上最高となる「3位入賞」。

田中陽子の得点は全部で「6」。負けたドイツ戦以外は、すべての試合でシュートを決めている。シルバーブーツ賞を受賞したのも彼女だ。



「性格は『ザ・ポジティブ』です(笑)。世界の舞台にももう慣れちゃいました」

そう言う彼女は、W杯で決めたシュートでさえ「蹴ったら入りました」と淡々。



そんな彼女の理想選手は、姉貴分「なでしこ」の大エース「大儀見優季」。大儀見は去年7月に結婚しているが、そんな姿も魅力だという。

彼氏の存在をクラブに公に全否定された田中。その理想のタイプは、俳優の溝端淳平(23)。「好きなところ? ふふふ、顔ですね」

「溝端淳平にプロポーズされたら? いや、えー!? それは、う〜ん…」

そこにいたのは、未来のストライカーではなく、ただ単なるフツーの19歳だった…。



「ヤングなでしこ 田中陽子」

決めるべき時に決めた「なでしこのエース」。大儀見優季


大儀見の「あの一発」がなければ、メダルには届かなかったかもしれない。

ロンドン五輪、女子サッカー。準々決勝ブラジル戦。前半27分。澤の素早いリスタートから抜けだしたのは、大儀見優季。なでしこのエースである。

しかしここまで、彼女にゴールはなかった。エースとしてのオリンピックでの初ゴール、それがなでしこジャパンのメダルへの道を切り拓いたのだった。



予選グループリーグを2位通過していた日本だが、なでしこたちの心には「モヤモヤ感」が立ち込めていた。そのモヤモヤは、南アフリカ戦であえて点を取らず、引き分けを狙ったことに発していた。頭ではその作戦は分かっていた、でも…。心の奥底には何とも言えない感情が残ってしまっていたのである。

大儀見の「あの一発」。その鮮烈なシュートが、チームを覆い続けていた「モヤ」をきれいにサッパリ振り払ってくれた。



「リスタートになって澤さんがパスを出す前に、無意識に走り出してたんですよ。その私の動きを見て、澤さんも瞬間的に反応して出してくれた。

ボールを持ってからは、時間がすごくユッタリ流れたという感じかな。

相手に追いつかれないようにと、2回ボールを突いて、『あっ、来ないんだ』と分かって、ボールを触りながら相手のゴールキーパーばっかり見てたんです」








どこまでも冷静だった大儀見は、ここで一瞬、目でフェイントを入れる。

「ちょっとだけモーションを入れてニアに打つフリをしたら、ゴールキーパーがすぐに釣られて動いた。と同時に(反対側の)ファーに打ったんです。

今までの自分になかった、自分の想像を超えたゴールでした」



この大儀見のゴールによって、防戦一方に追い込まれていたブラジル戦の雰囲気はガラっと変わった(それまで、ブラジルのポゼッションは70%を超えていた)。

結局なでしこは後半28分にも大野が決めて、2対0。日本は数少ないチャンスを確実にものにして勝利した。シュートはわずか4本しか打たせてもらえなかったのに、そのうちの2本を決めたのだ。

「ブラジルに勝って、変な雰囲気が一気に吹き飛んだ感じでしたね」



そして準決勝、フランス戦。

「じつは試合前、不思議な感覚があったんです。

胸の鼓動がすごく早くなっていくのを感じて…。格段、緊張していたわけじゃないけど、そんな自分を冷静に見る自分がいました」

大儀見の主人・浩介さん(メンタル・トレーニングコーチ)は、その状態を「ゾーン(極限の集中状態)に入っていた」と表現した。

ゾーンの中の大儀見は「ゴールは獲れる」と確信していた。そして、そのシーンが本当にやって来ると、やはり時間がゆっくりと流れる感覚の中で、しごく冷静に決めていた。



最後の戦いとなった決勝。

「2点目を奪われても、ガックリなんて来なかった」

0対2の劣勢に立たさてもなお、大儀見の心は負けてなんかいなかった。

「試合前からウチらが3点獲らなきゃ優勝できないって話してましたし、『ここからやんなきゃ』っていう思いがありましたからね」



実際、大儀見のプレーは少しも縮こまることなく、伸びやかなままプレーしていた。

「ナホ(川澄奈穂美)のクロスにヘディングで合わせてゴールバーに当てた場面とかも、すごく面白かった」

後半、アメリカに1点返したのも大儀見だ。

「ハーフタイムの時、トレーナーの人に『次、来るよ』と言っていたら、その通りになった。ゴールの瞬間、『はい、来た!』って思いましたもん(笑)」



オリンピックでの大儀見の得点は、すべて決勝リーグの激戦の中からあげた貴重なものばかり。

「自分の中では『やりきった感じ』が強いです。悔しい気持ちが強いというのはありませんでした」



どこまでも冷静で、どこまでも前向きだった大儀見。

決勝アメリカ戦で敗れてなお、「楽しかった」とはっきり口にできたのは彼女だけだった。



出典:Number (ナンバー) ロンドン五輪特別編集 2012年 8/24号 [雑誌]
「大儀見優季 『アメリカに2点取られても、がっかりなんてしなかった』」

2012年9月22日土曜日

なでしこの次期キャプテンか? 熊谷沙希


「怒涛だったなぁ、って思います。それに、メッチャ楽しかったなぁ、って」

ロンドン五輪・女子サッカーで銀メダルをとった”なでしこ”の一人「熊谷沙希」。若干21歳。移籍先のフランクフルトのカフェでアイスを口にしながら、初めてのオリンピックを振り返っていた。

「今は、ほっとしてるんですよね」



ドイツの名門、フランクフルトに移籍して一年。ドイツ語をまともに話せぬ彼女にとっては、苦労ばかりの一年だった。守備陣には不可欠の会話がろくにできないことで、チームメイトとの意思疎通が思うにまかせず、熊谷抜きで話し合いが行われたり、ここ一番で先発から外されるという屈辱も…。

ドイツ生活の先輩であるユウキ(大儀見)は、そんな時に頼りになってくれたという。



そして、始まったオリンピック。

グループリーグは着々と勝ち上がったものの、熊谷は「どこかしっくり来ない感覚」をずっと抱いていたという。

熊谷以上にチームの状態を心配していたのは、キャプテンの宮間あや。チームの誰よりも敏感な宮間は、誰も気づかないような微妙な空気の違和感を確かに感じ取っていた。



「大会中、あやさん(宮間)は『今回のチーム状態はW杯のときと違う』『チームとしてもう一回確認しなきゃいけないことがある』って、ずっと言ってました」

何が違うのか? W杯で王者となった”なでしこ”たちには、グループリーグで格下を相手に試合を続けることで、「過信」の芽が静かに少しずつ芽生えていた…。



しかし、その「おごり」は準々決勝のブラジル戦で、きれいさっぱり吹き飛んでしまう。ブラジルはあまりにも強かった。

「メンタルや戦い方もすべて、ブラジル戦からドンドン良くなったと思います」と熊谷。「徐々にチームが良くなっていったのは、去年のW杯での自信が『おごり』になりかけていたことに、あやさん(宮間)が気づかせてくれたから」



強豪相手に耐えて耐えて、という苦しい試合の中、熊谷と岩清水梓のCBコンビは、じつに粘り強い守備でゴールを守り抜いた。そして、この固い防御が勝因になったことは確かである。

それでも、熊谷はそれ以上に宮間の功績を強調した。チームメイト全体の「心のゆるみ」を宮間が締め直してくれたことが、本当の勝因だと彼女は言うのである。ゴール以上に守らなければならないものがあったのだ。



そして決勝、アメリカ戦。なでしこは敗れた。

熊谷は号泣。

その熊谷にロッカールームで「笑って」と声をかける先輩たち。その気遣いに、もっと泣けた。「若い自分より、先輩たちはずっと悔しいはずなのに…」。

表彰式後も涙をこぼしていたのは彼女だけだった。



この熊谷、じつは宮間の次のキャプテンとして推す声も…。彼女は世代別代表ではキャプテンなのだ。

あわてて否定する熊谷。「そんなこと自分では思ったこともないっす。私がなでしこのキャプテンをやるなんて…」



それはまだ早いにしろ、3年後のW杯は、確実に熊谷の眼中にある。

「優勝する、とまでは言わないですよ。でも、その舞台に向けて、日々戦っているってことは確かです。今は前しか見えていません」

「ほっ」とするのも、つかの間。熊谷の眼差しは、確かな未来を見つめていた。おいしいアイスの時間は、もう終わりだ。



出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「熊谷沙希 『3年後のW杯はもう見えています』」

「いいチーム」になった”なでしこ”。川澄奈穂美


「W杯の時も、最初から良いって感じではなく、準々決勝でドイツに勝って、勢いに乗ったんです。そういう意味で、今回のオリンピックのターニング・ポイントとなったのは、ブラジル戦でした」

女子サッカー、なでしこジャパンの川澄奈穂美は、弾んだ声で語りはじめた。

「いざ、試合が始まると、『ブラジルの巧さ』に驚愕しました。ボールが獲れないんです」



オリンピック準々決勝のブラジル戦、なでしこジャパンは本来の持ち味である攻撃的なサッカーをさっぱりさせてもらえなかった。

そこで、試合の真っ最中に「戦術をスイッチ」。従来のパスを回すポゼッション・サッカーを捨て、一発狙いの「カウンター・サッカー」に切り替えた。

その結果は2対0の大勝利。内容的にはブラジルに完敗したのかもしれないが、なでしこは「泥臭く」勝利をもぎ取ったのだ。



「なでしこって言うと、バルセロナ(スペイン)のようなパスサッカーって思われるんですけど、自分たちは全然そんなこと思っていないんですよ。それよりも、諦めない気持ちで泥臭く、ひたむきに戦う方が、自分たちに合っていると思うんです。

だから、ブラジル戦でパスサッカーができないというネガティブな考え方はなかったです。粘って、粘って、相手の嫌なことを最後までがんばってやる。それが、『なでしこサッカーの原点』なんですよ。」



そう前向きに語る川澄自身、今大会では守備に忙殺され、ゴールはカナダ戦の1ゴールに終わっている。

「もともと、大学までは中盤でパスをさばいている選手だったので、ゴールに対する執着心があまりないんですよ。シュートも苦手ですし…。ゴールよりもチームの一員として頑張りたいんです」

そう彼女が言う通り、彼女のプレーには欲や執着が少ない。そのプレーは常に献身的であり、だからこそ逆に個が際立っている。



ロンドン五輪の決勝戦、アメリカに敗れた後、川澄はこう言っていた。

「すごく、いいチームになったと思います」

彼女の思う「いいチーム」。それが今のなでしこだ。



このシンプルな言葉の中にこそ、なでしこの全てが詰まっているかのように響く。

必ずしも勝つから「いいチーム」でもなく、メダルを獲ったから「いいチーム」だったわけでもない。

「いいチーム」になったからこそ、あのメダルは「必然」となったのだ。





出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「川澄奈穂美 ”いいチーム”って何だろう?」

2012年9月21日金曜日

「もし、メダルが獲れなかったら」。なでしこ宮間の恐怖


「正直、怖くて怖くてしょうがなかったです。」

”なでしこ”の小さな主将「宮間あや」は、オリンピック準決勝のフランス戦のことを振り返る。「特にラスト15分。あんなに怖いと思ったのは初めてでした。」



宮間が語るその恐怖の15分の前まで、日本はフランスに2対0でリードしていた。ところが、後半途中から投入されたフランスのルソメルは、後半31分、右足を振り抜いて1点を返す。2対1に。

そしてその3分後(後半34分)、またもやペナルティ・エリアに鋭く切れ込んできたルソメル。たまらず、坂口はルソメルを倒してしまう。その結果、フランスにPKを与えてしまうことになった…。まず外れないPK。同点に追いつかれるのは必至と見られた。

ところが、まさか、フランスはPKを外した。臍(ほぞ)を噛むフランス。後半の残り10分、フランスは怒涛の如く、日本ゴールにシュートを浴びせかける。



フランス戦の前、日本は強豪ブラジルに勝利していた。その対戦中、宮間はこう思っていた。「これはきっと世界一強いチームと戦っているんだ」と。そして、そのブラジルに勝った。

その世界一を下したという自信からか、フランス戦を前にした”なでしこ”たちは、こんなことを皆で言い合っていた。「あれ(ブラジル)よりは強くないでしょ」と。ところが…、フランスは滅法強かった。「あれっ、これは予想以上に強いぞ!」



その予想以上の強さを存分に発揮してきたフランス。後半の猛攻たるや、筆舌に尽くしがたい。

しかしそれでも、日本は「負けられない」。この一戦こそが、悲願のメダルに届くか否かの分水嶺だったのだ。勝てば銀メダル以上が確定、だが、もし負けてしまえば、銅メダルのとれる保証はどこにもなかった。



日本のゴールキーパー福元美穂を、容赦なく襲い続けるフランスのシュート!、シュート!、シュート! なぜ入らなかったのか? と不思議になるほど、なでしこたちは体を張って防ぎ、福本は奇跡的な好セーブを連発していた。

「福ちゃん(福本)のゴールに絶対ボールを入れられたくない!」。そんな気持ちで”なでしこ”たちは一丸となって、ゴールを守り続けた。



「あと3分だよっ!」と大声を張り上げたのは、前キャプテン・澤穂希。

フランスの猛攻に屈しそうになる仲間たちを鼓舞するかのように、澤は必死になってボールに喰らいついていた。

しかし、長い…。ロスタイムは4分。いつまでもいつまでもフランスのシュートは続いていた…。



「ピーーーーーッ!」

ついに待望のホイッスルが鳴った。ついに凌いだ! ついに勝った! ついにメダルに届いた!

いつもは凛とした表情を崩さぬ澤も、この時ばかりは泣いた。決勝で負けても涙を見せなかった澤、この時だけは泣いた。彼女にとってのメダルとはそれほどに重いものであった。「何色でもいいから、とにかく…」



宮間も泣いた。

宮間のそれは喜びの涙でもあると同時に、「恐怖から逃れられた」という安堵の涙でもあった。そう、のちの彼女は語っている。

W杯優勝後の一番難しい時期に澤からキャプテン・マークを譲り受けた宮間、メダルをとって当然のような強烈なプレッシャーが、その小さな双肩に、これでもかとのしかかっていたのである。





メダルを持って日本に向かう飛行機の中、宮間にはまだ不安があった。

「私はインターネットとか新聞とか極力見ないんで、日本がどういった反応なのか、よく分からなかったんです。『なんだ、銀かよ』とか言われたら、どうしよう…」

そんな不安は成田空港できれいに吹き飛んだ。あふれんばかりに集まっていた熱いファンたちの祝福によって。「凄く嬉しかったです。一気にテンションがあがりました!」と宮間。

日本で待っていたチームメイトに真っ先にメダルを見せたいと思っていた宮間は、その銀メダルをみんなに渡す。すると皆、「重っ!(笑)」。その銀メダルは、あらゆる意味で重いメダルだったのだ。



フランスの怖さ、そして、メダルを獲れなかったときの怖さ。

50万人が押し寄せたという、東京・銀座の「メダリスト・パレード」の時も、宮間はその怖さを再び感じていた。

惜しみない声援を聞きながら、「もし逆に、メダルが獲れていなかったら…、こうはなっていなかったんだよな…」と、あらためて怖くなったと、彼女は語る。



「メダルは当然」

それは、ワールド・カップ王者としての”なでしこジャパン”には必然の圧力だった。

今、オリンピックでメダルを獲ったからといっても、そのプレッシャーを降ろせるわけではない。ますます重くもなってゆく。



それでも、その重みは苦痛なばかりではない。それが”なでしこ”でプレーし続ける醍醐味でもあるのだから。

「プレッシャーとか、責任感というのは、そこに立つ人じゃないと味わえません。そのプレッシャーに打ち勝ってきたみんなを、私は誇りに思っています」



小さな主将・宮間あや。その双肩にかかっていた想像絶するほどのプレッシャー。彼女はそれを見事にハネのけた。

彼女の周りには、「怖いと思ったら怖いって言うし、悔しくて泣くし、楽しくて泣く」、そんな仲間たちがいつもいたのである。



フランス戦の直前、宮間は「日本食、行くぞー!」と言って、チームを盛り上げたという。

そして試合後、本当に日本食のお店に行くことに。ところが不幸にも、大渋滞に巻き込まれてしまう。すると「マジ、めんどくさい」とみんなからブーブー不満の声が…。挙句の果てには、「いったい誰が言い出したんだよ」。

それを言い出したのは…、ほかでもない。キャプテン・宮間…。「メチャクチャなんです。ウチら(笑)」。



出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「宮間あや 『お互いを思う気持ち、それがウチらの強みです』」

待たぬ本田と待った香川。サッカー


「南アフリカW杯後に、本田圭佑を『マンチェスター・ユナイテッド』に売却する」

当時、本田が所属していたVVVフェロン(オランダ)のベルデン会長は、そんな「極秘計画」を進めていたのだという。そのため、本田を見るためにマンチェスター・ユナイテッドのスカウトは同チームにやって来ていたのだが、ベンデル会長はそれをひたすらに秘していた。



ところが本田、それを待たなかった。「待っていて、南アフリカW杯に出られる保証はない」と、会長室に乗り込むや、ベンデル会長と直談判。自ら英語で説得し、CSKAモスクワへの移籍を了承させてしまった(当時、会長が要求する高額の移籍金を支払えるのは、CSKAモスクワだけだった)。

「開かぬなら、壊してしまえ」とばかりに、突っ走った本田。「無謀とも思える行動」で、日本人にとって未知の場であったロシア・リーグに駆け込んだ。そして、日本代表の岡田監督も認めざるを得ないほどの活躍を、その極北の地で果たしたのであった。

そして、迎えた南アフリカW杯。1トップに近い形で日本代表を任されることとなった本田。2ゴールを決めて、W杯の歴史にその名を刻むこととなるのである。



それまでの本田にとって、日本A代表への道は夢の向こうにあった。なぜなら、本田は北京オリンピック3連敗の「最大の戦犯」と批判されていたからだ。さらに悪いことには、所属していたVVVフェロン(オランダ)は、2部リーグに降格してしまう。

まさに「ドン底」。しかし、この屈辱が本田に「狂気」を生んだ。

本田は「神がかったゴール」を連発し、シーズン途中からはキャプテンにも抜擢された。そして、最終的には16ゴール13アシストと、チームの2部優勝に大貢献し、リーグMVPにも輝いたのであった。





一方、香川真司は「待った」。

W杯前からヨーロッパの各チームに誘いを受けていた香川であるが、移籍はヨーロッパのシーズンが始まる「夏」まで待ったのである。

そのためか、香川は南アフリカW杯のメンバーに選ばれることはなかった。この大会、香川はサポート・メンバーという不本意な地位に甘んじるしかなかったのである。



その香川は今年、世界最高峰のクラブ、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍を決めた。

ドルトムント(ドイツ)に移籍した時は、契約金が4,000万円だった香川は、たった2年間の目覚しい活躍で、その価値を30倍以上に高め、マンチェスター・ユナイテッドとの契約金は14億5,000万円にまで跳ね上がっていた。





出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「北京五輪代表に見る『下克上の作法』」

2012年9月20日木曜日

「喜びと悔しさ半々」。五輪サッカー、関塚監督


「『目標達成までは喜ぶな』というのは、早稲田の堀江忠男先生からずっと教えられてきたことでした。だから、感情を抑えたんです。でも、心の中では『ヨッシャー』って言ってましたよ(笑)」

オリンピック・男子サッカー、初戦のスペイン戦で大津が先制ゴールを挙げると、「関塚監督」は珍しくも力強いガッツポーズをつくっていた。



期待度の低かったU-23代表、それでも関塚監督はこの「スペイン戦」に懸けていた。

「初戦だからこそ、スペインにもスキは出てくる」

たとえ、優勝候補の筆頭・スペインといえども、そこに「虚」が生まれると読んでいたのである。



大方の予想を裏切って、スペイン戦に勝利した日本。その後の快進撃は、誰も止められなかった。一気にベスト4まで登りつめたのである。それは実に44年ぶりの快挙であった。

しかし、ベスト4準決勝の相手、メキシコによりその快進撃に急ブレーキがかけられた。オリンピック前の親善試合ではメキシコに勝利していた日本。ところが、そのメキシコ、親善試合の時とは「ひと味もふた味も違っていた」。

メキシコの選手たちは「非常にタフ」だったことに加え、戦術のバリエーションがじつに多彩であった。「相手によっては、ボールを持たせるリアクションでも戦える」。時に応じてあらゆる想定で戦える。最終的には優勝することになるメキシコは、そんなチームだったと、関塚監督は振り返る。



一方の日本チーム。「バリエーションという点でどうだったか」と関塚監督。

ホンジュラス戦以外は、メンバーをほぼ固定。永井謙佑をワントップにしてカウンターを仕掛ける戦い方に終始していた。

スペインの名スカウト、ミケル・エチャリは日本のプレーを現地で見て、目を瞠(みは)っていた。「技術と組織力の質が高い」。しかし、「戦術的に物足りない…」。



「『個』が劣っていたとは思いません。『個』が発揮できるような『グループの機能性』があればいいだけのこと」と関塚監督が語るように、その「組織力」は高く評価されることとなった。

ミケル・エチャリも「特筆すべきは守備の安定性」と賞している。



しかし、話が3位決定戦の「韓国戦」となると、評価は一転「大会最低の試合」とミケルはずけずけと言う。

ミケルが最低の評価を下すのは、各選手たちによる「戦術判断のミス」である。「多くの選手が『焦り』に精神状態を蝕まれ、攻め急いでいた。日本人は劣勢を挽回するための攻撃の際に、我を忘れてしまう危うさがあるのか?」と、ミケルは苦言を呈する。

それでも、ミケルは日本チームを高く買っている。「日本は世界のフットボールを席巻するかもしれない」。それは、「戦術面の熟成次第で…」という但し書きつきで…。



3位決定戦で韓国に敗れた日本。さすがの関塚監督の目からも涙がこぼれていた。

敗者たちのロッカールーム。すすり泣く者、唇を噛みしめる者…。そんな選手たちの表情を一人一人見回していくうちに、「こみ上げてくる感情」を抑え切れなくなっていた。最後の最後で…。



ベスト4進出の「喜び」と、メダルを取り逃した「悔しさ」。

そのとちらもが胸にこびりついている関塚監督は、大会終了後の心境を「半々の気持ち」と表現した。

それでも、日本チームの評価を問われると、「120点をあげたい」と堂々と答えた。「すべてのメンバー、そしてスタッフ。みんな本当によくやってくれました」。



入り混じる気持ちのまま、自宅のドアを開けた監督の目の前には、家族が書いた「ベスト4おめでとう!」の横断幕の文字が…。

あぁ、心ある人たちは、ちゃんと「喜び」のほうを見ていてくれたのだ…。



出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「関塚隆 8月のロンドン、成長と教訓」


2012年9月19日水曜日

失速した男たち。日本サッカー・五輪代表。


失速……。

オリンピック・男子サッカー、日本代表チームのピークは、あまりにも早すぎた。まるで、「初戦でパワーを使い切ってしまった」かのように…。



それもやむを得ない。なぜなら、初戦の相手は優勝候補の筆頭・スペインである。

「そこまでならなければ勝てない相手だったと思います」と東慶悟は振り返る。

あの尽きることのない驚異的な運動量があったからこそ、強豪スペインを圧倒でき、優勝候補を奈落の底に突き落とすことができたのだ。もし、ここで道が閉ざされていたら、次の試合などなかったかもしれないのだから…。



スペインとの対戦中、東は目に見えない力に押されるような、不思議な感覚を味わっていた。「取れないところまでボールが取れるという感じでした」

試合中はアドレナリンが出過ぎてハイになっていた身体。しかし試合が終わると、「これまで経験したことのないほどの疲労」が東の全身を襲ってきた。



大金星の代償。それは疲労という重しだった。

「身体が動いている気がしない…」

重しを背負わされた日本選手の動きは、初の敗戦となったメキシコ戦、あまりにも鈍かった。



オリンピックの日程は全試合、「中2日」という強行スケジュールである。これはワールド・カップなどよりもずっと厳しい。それに加えて、「会場間の移動」というのも選手たちを苦しめた。男子チームがオリンピックで戦った6試合は、すべて違う会場であった。

「たとえば、試合翌日の午前中に、ホテルのプールでリカバリーを行うと、午後には次の会場に移動しなければならず、荷解きもそこそこに、一夜明ければもう試合前日。これでは、なかなか身体を休める暇もない」



メダルをかけた一戦となったメキシコとの準決勝。その前日は不幸にして「最長時間の大移動」を強いられていた。

「マンチェスターからロンドンまで、バスに揺られること5時間。その後、選手村から往復2時間をかけてスタジアムを下見。ほぼ半日をバスの中で過ごした末、選手村へ戻ったときには夜10時を回っていた」

「移動は…、かなりきつかったですね。精神的にもかなりこたえました」と東。「でも、移動がなかったらとか、”たられば”を言っても仕方がないです」



メキシコ戦当日、「疲労の蓄積した体は、今まで通りに動いてくれなかった」。

疲労とともに増えるミス。メキシコにボールを持たれる時間が長くなり、ますます「走らせられる」。そして、それがさらに動きを悪くする。

相手チームに「走り勝つ」ことで、準決勝にまで勝ち上がってきた日本チーム。「じゃあ、走れなくなったとき、どういうサッカーをすればいいのか?」



一方のメキシコ・チームは「至極落ち着いていた」。しかも「タフ」だった。同じ試合日程をこなしているとは思えないほどに。

「本当に強いチームというのは『常に強い』し、一試合ごとに動きが落ちていくどころか、逆に良くなっていく。メキシコはそういうチームでした」と東は語る。

それに比べて、日本チームは…、「試合を重ねるごとに、自分たちの強みが失われていきました…」。全6試合をフル出場した山口螢は、そう振り返っている。



理想的な先制ゴールをあげながらも、逆転負けを喫した準決勝・メキシコ戦。

「負けてしまうと、疲れもドッと出る」

次の試合は3位決定戦、宿敵・韓国。足の止まってしまっていた日本は、要所要所で「らしくないプレー」が出てしまい、「あっさり韓国に寄り切られた」。

メキシコ戦につぐ2連敗。メキシコと戦うまでは、「無失点」だった日本。しかし、最後の2連敗で計5失点。その失速は、最悪のかたちで現実化してしまっていた。



「本当に強くなっていくためには、初戦でパワーを使い切ってしまうんじゃダメなんです。やっぱり、勢いだけじゃ勝ち上がれない」

東の言う通り、「勢い」だけではメダルに手が届かなかった。それでも、選手たちは「メダル以上のもの」を手に入れているかもしれない。「疲労による失速」という痛い経験は、何試合も勝ち上がったからこそ実感できたものなのだ。

「予選敗退に終わっていたら、知ることのできなかった領域」であり、日本チームはそこまで強くなっていたのである。



「凡庸な試合の末に手にした銅メダルよりも、敗北を理由に浴びせられる罵倒の方が、若い日本の選手にとっては糧となる」という厳しい意見もある。

たとえば、女子サッカーの3位チームがどこの国か知っているだろうか? 「サッカーの銅メダルとは、その程度のものでしかない」。



「でも、やっぱり…、メダルは持って帰りたかったな…」

それは偽らざる本音であろう。



出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「回想ドキュメント 2つの敗戦の真実」

2012年9月18日火曜日

世界に知らしめた「ナガイ・アタック」。永井謙佑(サッカー)


「ナガイ・アタック」

それは「矢」のようなカウンター。相手ディフェンダーは、疾走する永井謙佑の「影」すら踏むことができない。

永井の驚異的なスピードには、目の肥えたイギリスのサッカーファンたちも、拍手喝采を送らずにはいられなかった。「日本にNAGAIあり」を世界に知らしめたのである。



オリンピックが始まってから生まれたというこのカウンター攻撃は、日本サッカー代表の「最新かつ最強の武器」となった。

「ナガイ・アタック」による初ゴールは、オリンピック第2戦のモロッコ戦。0対0のまま、後半も残り少なくなっていた時間帯、清武弘嗣の浮いたパスを、猛烈なスピードで追った永井。ディフェンダーに競り勝つや、そのままゴール。その圧倒的な永井のスピードに、スタジアムは大きく響動(どよ)めいた。

「相手は謙ちゃん(永井)のスピードに完全にビビってた」と、清武は振り返る。この永井のゴールはそのまま決勝点に。



前線の永井に絶妙なパスを送るのは、清武弘嗣の仕事となった。永井と清武は、即席のコンビにもかかわらず、その呼吸はピタリ。まさに阿吽(あうん)である。

「キヨ(清武)は、パス出す前、顔を上げるんで分かりやすいんですよ」と永井。「キヨがボールを持った時に、信じて走ればパスが出てくる。そんな信頼感がありました」

スペインの名スカウト、ミケル・エチャリは、「永井と清武のコンビネーションは、『驚くべきレベル』にある」と激賞している。



ふたたび、「ナガイ・アタック」が炸裂するのは、準々決勝のエジプト戦。

清武は一瞬顔を上げると、そのまま縦に素早くパス。永井はすでに走っていた。清武が「顔を上げた瞬間」にすでに察していたのだ。

永井の爆発的なダッシュに度肝を抜かれたエジプト・チーム。相手センターバックとゴールキーパーまでがかわされ、日本に先制ゴールを許してしまう。前半14分という電光石火のスピードであった。

結局このエジプト戦は、永井の先制ゴールを皮切りに、合計3得点を上げた日本代表。44年ぶりのベスト4進出を決めた。



しかし、このエジプト戦でのナガイ・アタックは、大きな代償をともなった。得点と引き換えに、永井の「太もも」がやられてしまったのだ。

最大の武器を失った日本チームは、その後の2試合に連敗してしまい、最終的には4位に終わる。



日本に戻った永井。その快速の足からは「得点の香り」がしてこない。覚醒したはずの「スピード・スター」がなぜ? オリンピックを経験した者だけが患うという、一時的な病であろうか。

「じつは、エジプト戦で股にヒザが入った時の後遺症なのか、爆発的なスピードが感じられないんですよ」と永井。「なんか『ぐっ』てスピードが乗らない。ケガはもう治っているけど、『もう一回喰らったらヤバイかも…』っていう恐怖心もありますね」



オリンピックのようなプレッシャーがないと自分は頑張れない、とも永井は言った。

「でも、それじゃダメっすよね。自己改革しますよ」

大真面目にそう断言した永井は、遠い空を見ていた…。

そして、すぐに照れ笑いをしていた。



出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「永井謙佑 スピードスターは目覚めるのか」

「泣き虫」大津の強心臓。サッカー・オリンピック


「勝ってしまった2連勝」

オリンピック直前、親善試合に2連勝したサッカーの日本チーム。しかし、前評判の低さからか、その記事はその2連勝があたかも偶然であるかのように書き上げられていた。



「イライラしたし、納得いかなかったし、悔しかった」

そう語るのは大津祐樹。「勝って”しまった”わけじゃない! やるべきこをやって、納得できる勝利をつかんだんだ」。



オリンピックの初戦となったスペイン戦、大津は自らの右足でそれを証明した。優勝候補相手のゴールに決勝弾を叩き込んだのだ!

試合終盤にベンチに下がった大津は、チームメイトの戦いぶりに、思わず涙をこぼしていた。そんな姿がみんなにからかわれ、「大津は泣き虫」ということになった。

しかし、その「泣き虫」は、いきなりの大舞台で、いきなりの「強心臓ぶり」を見せつけたのだ。所属クラブの出場時間が年間45分にも満たなかった男が…。オリンピックでは、6試合全てに出場し、合計3得点をあげている。



大津はつねに「走り続けていた」。

「たくさん走ったのは、実力が足りないからです。人が一歩走るとき、自分は2歩、3歩走ろうって。」

この思いは、日本チームの全員に共有された思いでもあったという。



オリンピック準決勝、メキシコ戦。その先制点を決めたのは、大津の右足だった。それはまさに「本物のビッグ・ゴール」。アフリカ人のような足腰のバネを生かしたシュートに、ウェンブリー・スタジアム8万の大観衆は度肝を抜かれた。「あの先制点は、大会のベストゴールだよ(名波浩・元日本代表)」。

しかし、MF扇原貴宏のゴール前での凡ミスから、相手のシュートを許して逆転負けしてしまう。試合後、扇原は号泣。その権田を擁護すべく、大津は自身のブログにこう記した。

「タカ(扇原貴宏)の責任じゃない。パスコースに顔を出さなかったみんなの責任であり、追加点を取れなかった自分の責任」

大津はひどく落ち込んでいたタカ(扇原貴宏)を見るに見かねていたのだった。



「オレね、仲間とか、友達とかっていうのが好きなんですよ。漫画でも友情モノが大好き」

泣き虫大津は、もはや泣き虫ではなかった。

「最初にスペイン戦に勝てたことは奇跡じゃなくて実力。そして、韓国に負けて4位に終わったことも、やっぱり実力」

ゆっくりと、しかしハッキリとそう語った大津の表情は、少しだけ精悍さを増していた。それは決して日焼けのせいだけではないのだろう…。



Source: smh.com.au via Theo on Pinterest


出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「大津祐樹 大舞台でいきなり結果を出す方法」


悔しさとヤンチャな若手たち。サッカー・吉田麻也


ロンドン・オリンピックの男子サッカー、3位決定の「韓国戦」のことを聞くと、キャプテン・吉田麻也の顔が悔しさでクシャクシャになった。

「だいぶ……ね。落ち着きましたけど。マジ最初は悔しくて…」



韓国に負けた夜に開かれたささやかな慰労会で、吉田はキャプテンとして、最後にこうメッセージを送った。

「本田(圭佑)さんとか(長友)佑都くんとかウッチー(内田篤人)がいるところに割って入って、ぜひまたA代表で一緒にやろう!」

この時ばかりは、皆「うぃー!」と熱い声を上げた。



しかし…、このロンドン五輪世代は、胸を打つスピーチをしたくらいで大人しくなるほど、マジメな連中ではなかった。

深夜、吉田が部屋で寝ようとすると、突然ドアが開いた。チームメイトが雪崩れ込んできて吉田を羽交い絞めにし、体中にサインペンで落書きをしてくるではないか!

吉田はあまりの疲労で動けず、甘んじて写メの撮影を受け入れるしかなかった。あられもない写真を山ほどに…。

「やられました(笑)。アイツら猫かぶってやがった!」




出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「吉田麻也 『人生で一番濃い夏が俺を変えた』」

2012年9月17日月曜日

泥臭く必死に戦う。それが「なでしこ」


「パスサッカーが『なでしこ』ではないんです。

みんなで泥臭く守って、みんなで必死になって攻撃する。これが、なでしこの本当のサッカーなんです」

これは、オリンピック・ブラジル戦の後の「宮間あや」の言葉である。



あの防戦一方となったブラジル戦、なでしこはパスサッカーによるポゼッションを諦め、カウンター戦術に切り替えた。

これは、パスサッカーかカウンターかという選択ではなく、メダルを獲るという揺るぎない決意の現れだったのだ。




出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「あと、ひとつ」を越えるために

半分近くが「赤字」のJリーグ


2011年度の「Jリーグ」の経営状況を見ると、全38クラブのうちの約半数、18クラブが「赤字」を計上している。

「日本代表の国際試合は満員になるのに、足元のJリーグはなぜ経営に苦しむのか?」

日本代表のメンバーは現在、その半数以上が「海外組」で占められているため、Jリーグには本田圭佑や香川真司はいないのだ。この点、オリンピック・メダリストが登場する「なでしこリーグ」とは根本的に構造が異なる。



資金的に余裕があるのは、ほぼ例外なくJSL以来の老舗クラブばかりである。営業収入でトップに立つのは「浦和」。それでもピーク時に比べれば、収入は20億円以上も減少しているという。

さらに悪いことには、2012年から3期連続で赤字を計上したクラブ、または2014年に債務超過に陥ったクラブは2015年からJリーグに参戦できなくなる。これは2013年度から導入される「ライセンス制度」によるものだ。

今後、現在は規制されている「株式上場」の道を開くのも一つの方法となるのかもしれない。イギリス・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドがNY株式市場に上場したように…。




出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「Number EYES 根深きJリーグ赤字問題、突破口は見つかるのか」

秋風吹くベテラン勢。プロ野球


「名球会、引退までの一里塚」

その言葉通り、今年2,000本安打を達成して名球会入りした「小久保裕紀(ソフトバンク)」は、引退を表明した。



今季開幕時、40歳代のプロ野球選手は17人いたというが、8月末の時点では、一軍登録されていたのは9人。「秋の声とともに、高齢の40代選手たちの首筋も涼しくなっている」。

それでも、「優勝争いの中でこそ、ベテランの存在が必要」と言われる通り、いぶし銀の活躍を見せるベテラン勢も数多い。「土壇場の勝負どころにこそ、老人力が必要だ」というのは、最年長47歳現役の山本だ。

「秋風の吹くベテランたち」と言えども、そう簡単に引退するわけにはいかなそうだ。



出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「Number EYES 引退表明か現役続行か。40代選手、初秋の現在地」

前人未到の「化けモノ」となるか? 競泳・山口観弘


「正直、化け物と思います」

8月中旬の高校総体200m平泳ぎで、山口観弘(高3)は2分7秒84を記録。これがロンドン・オリンピックであったら、銅メダルの記録である。さらに同月下旬の大会では、世界記録まであと0.29秒にまで迫った。

「速くなりたくて、小学生の頃から北島康介さんのフォームを研究してきました」と語る彼の好きな言葉は、「前人未到」。

彼ならば、いつか「世界中をアッと言わせる泳ぎ」を見せてくれるかもしれない。



出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「FACE 山口観弘(競泳)」

2012年9月12日水曜日

脚を失ってなお…、走り続けるアスリート。中西麻耶


「先生、脚、切って下さい」

両親の猛反対にも関わらず、彼女に迷いはなかった。

勤務中の現場での事故。重さ5トンの鉄骨に押し潰された右脚。膝から下を切断するのか? あるいは、時間をかけて神経の一つ一つをつないでリハビリするのか?

この極めて難しい選択に、中西麻耶は苛烈な断を下した。そしてその陰では、両親が涙を流していた…。


「和」こそが日本バレーの底力。栗原恵


その日の彼女の笑顔には一点の曇りもなかった。

「ハハハ。私、そんなに明るいですか? 怪我が治って身体が普通に動かせるようになったのが一番うれしいです」

隠し事ができないという彼女は、不安がすぐに顔に表れる。そんな時の笑顔は薄いベールで覆われていたり、瞳の奥に暗い陰を宿していたり…。

ところが、今の彼女はじつに晴れ晴れとしていた。


オリンピックから消えたソフトボール。上野由岐子


「ロンドンって雨が多いなぁ。こんなに雨が降ったら、野外競技の選手は大変だなぁ」

その彼女は、まるで一般の観客のようにテレビでオリンピックをちょいちょい見ては、そんな呑気なことを思っていた。

本来であれば、ロンドン五輪のメダリストとなっていても、何らおかしくなかった彼女が…。そう言えば、あの日の決勝戦も、雨のために20分ほど競技が中断したっけ…。


誤審とフェアプレー。ロンドン五輪に想う


残り、わずか一秒。

フェンシングの太田選手は、ドイツのエース・ヨピッヒ選手を一瞬で一突き。日本チームは、このたった一秒の一突きで、メダルへの道を辛うじて確保し、最終的には「銀メダル」という栄冠に輝く。

結果的には、劇的な逆転勝利となった日本vsドイツ戦。しかし、その勝利の判定はじつに際どいものであり、まさに薄氷の上を渡りきったようなものであった。


2012年9月10日月曜日

金メダルへの想い。なでしこジャパン


思い返せば、去年の女子サッカー、ワールドカップ。なでしこジャパンは、まさかまさかの勝ちを重ねながら、決勝では世界最強のアメリカまでをも打ち負かしてしまった。

「なでしこジャパン、世界一!!!」

この一報に、どれほど日本列島が沸いたことか。この勝利には世界も惜しみない賛辞を送った。FIFA(国際サッカー協会)は、「日本は世界の国が目指すぺきサッカーのスタンダードをつくった」と、”なでしこジャパン”の華麗なる「パス・サッカー」を激賞した。



あれから一年、今回のロンドン・オリンピックでは、「追われる立場」となった”なでしこジャパン”。王者としての宿命からか、世界各国の強豪チームから徹底的に研究され、その戦いは予想以上に厳しいものとなっていった…。

「各国からマークされ、大きなプレッシャーを背負う。それがワールドカップで優勝した日本の宿命なのです(アメリカ・ワンバック選手)」


失った自分、そして取り戻した自分。金メダリスト・内村航平


体操の「ウチムラ」と言えば、ロンドン・オリンピックで金メダルを確実視されていた男である。

前回の北京オリンピック、個人総合で日本に24年ぶりのメダルをもたらした「内村航平」。10代でのメダル獲得は史上初であった(当時19歳)。続く世界選手権も、3年連続で制覇。これは体操界、史上初の快挙である。

そして、その万全の状態で臨んだロンドン五輪。しかし、オリンピックという大舞台は、他の世界の大舞台とは一種異なる、独特の雰囲気に支配されていた…。


金メダリストの「曲がった背骨」。ウサイン・ボルト


まさに稲妻のように疾走する「ウサイン・ボルト」。

今回のロンドン・オリンピックでは、100m、200m、そして400mリレーで3つの「金メダル」を獲得。なんと、出場した種目すべてが金メダルだった。

前回の北京オリンピックも同様に、出場した3種目(100m・200m・400mリレー)すべてで金メダル。しかも、その3つの種目すべてが「世界新記録」という凄まじさであった。

ジャマイカ生まれの25歳は、まさに世界最速、そして「無敵」に見える…。

Source: google.com via Keith on Pinterest



人類の限界を破り続けるアフリカの男たち。マラソン


42.195kmを走るマラソン競技にとって、2時間4分は長らく大きな壁とされてきた。

この巨大な壁を最初に打ち砕いたのは、今から4年前、エチオピアのゲブレシラシエという選手であった(当時35歳)。

その圧倒的な強さで2時間4分台の壁を叩き割った彼は、歴代記録の上位100位の中で最も多い8回の記録を残こすほどに伝説的な人物である。エチオピアの首都に建つ彼の壮麗な自宅は「宮殿」と呼ばれ、彼自身は「皇帝」の名を頂いている。

Source: google.es via Pablo on Pinterest



鳥人的な空中感覚。内村航平に見える景色。


内村航平、23歳。

彼の成し遂げた世界選手権での3連覇は、体操競技において前人未踏の大記録であった(2011)。しかも、その3連覇を決めた東京大会においては、2位に3点以上もの大差をつける圧勝である。

2位以下の選手は、内村選手の抜きん出た妙技を褒め称えるより他にない。「ロンドン五輪もウチムラで決まりだ…」。


遅く滑るからこそ見えてくる世界。テレマーク・スキー


「『速く滑ること』は良いことだけど、『遅く滑ること』ができないとスキーの醍醐味の多くを味わえないんだよ」

アルペンスキーの本場「オーストリア」でスキーを仕込まれた「ドニー」は、スキーの先生にこう教えられてきたのだという。



ある技術を習得すると、決まってこう言われる。

「ドニー、とてもいいよ。じゃあ、もっと遅くやってみようか」

「いつもスピードを優先させてやると、スキーで学ぶべきことを見逃してしまう」というのが、そのオーストリア教師の持論でもあったようだ。


2012年9月8日土曜日

「勝つべくして勝つ」。存在そのものが横綱の格


ここは、とある相撲部屋。

若い力士たちが汗まみれで「ぶつかり稽古」に励んでいる。そんな中、ある一人の男が現れるや、部屋の空気は一変する。横綱「白鵬」の登場である。

横綱が身にまとうオーラは尋常ではない。一挙手一投足に風格があり、無言のうちに他を圧するものがある。白鵬は横綱の中でも「大横綱」と称されるほどに別格である。「平成の大横綱」とされるのは、白鵬の他には貴乃花、朝青龍だけである。




そんな大横綱・白鵬も、入門当初は痩せ気味でスラっとしていたのだという。体格が冴えなかったために、どこの部屋でも受け入れを拒んだほどであった(15歳当時は体重62kg、現在・152kg)。しかも、初土俵となった2001年3月場所(序の口)では、「負け越し」という後の横綱としては異例とされる最悪の成績であった。


剣道の「礼」。「敵はもはや敵ではない」


ここは、とある「剣道」の大会会場。この一戦には、全国大会への切符がかかっていた。

「メーーーンッ」という凄まじい雄叫びが会場を揺るがし、鮮やかな一本が決まった。3人の審判の判定も文句なしの一本であり、この一本は全国大会への出場を確定するものでもあった。




ところが…、ここから事態は急変する。

突然、主審がその文句なしの一本を「取り消した」のだ。会場はどよめき、勝者であったはずの選手も戸惑いを隠せない。


2012年9月6日木曜日

生死のはざまに立つ「古武道」。その生きるとは?


「生きるか死ぬか?」

武道の原点ともいえるこの問いに、何百年と留まったままなのが「古武道」だ。戦国時代の「殺伐とした無骨さ」を残す流派も数多い。



「殺すか殺されるか?」

こう書くほうが、その本質をよく表しているかもしれない。現代に伝わる「武道」が精神性の昇華を導くものであるのに対して、古武道は依然として「生死のはざま」に留まったままなのである。

「生死のはざま」においては、「ルール」が存在しない。「死んだら負け」。それだけである。その火急の場にあっては、適当な武器すら持ち合わせていないこともある。そのため、路傍の石ころが最大の武器となることもあるだろう。



「無心」となれば矢は自ずと的を射る。「弓道」


漆黒の暗闇…。

そこに一本の「矢」が放たれる。

「ターンッ!」と心地良い響きとともに、その矢は正確に的を射抜いた。自分の指先すらも見えない暗闇の中、その一本の矢は数十メートルも先にある小さな的に命中したのである。達人による驚愕の業(わざ)がここに成された。



「敵のいない武道」とも言われるのが「弓道」である。

眼前に敵を持たず、遠方の的は「自分自身」であり、放つ矢もまた「自分自身」であると考えられている。「的を狙うのではない」というのが弓道の教えだという。的を狙うことは「卑しいこと」であるとして、厳しく戒められている。




深淵なる「身体能力」の可能性。古武術の達人に聞く。


「重いものを軽く持つ」とは、どういうことか?

これは禅問答ではない。文字通りの意味とのことである。



「現代の人は重いものを重く感じて持つ。しかし、昔の人は出来るだけ軽く持とうとした。」

こう語るのは、古武術の達人・甲野善紀氏である。




なでしこジャパンの歴史的快挙。古き良き日本。


サッカー日本女子、「なでしこジャパン」世界一!

夜明けとともにもたらされたこの一報は、日本全土を感動に震わせた。



過去、日本はアメリカと25回対戦し、0勝22敗3引き分け。

アメリカが日本から合計77点も取ったのに対し、日本の得点は、たったの13点。アメリカの得点力は、日本の6倍もあった。

それもそのはず、アメリカの世界ランキングは、堂々の世界一である。