2012年10月31日水曜日

フランスに競り勝ったサッカー日本代表。その光と影


「Le JAPON par IPPON(日本の『一本勝ち』)」

こんな見出しがフランス紙(レキップ)に踊った。



それはサッカー日本代表がフランスを1対0で破ったことを報じたものだった。「まさに『一本のカウンター』で、レ・ブルー(フランス)を沈めたわけだ」。

その勝利は6度目の対戦にして初。最後に負けたのは、0-5という歴史的にして屈辱的な大敗であった(2001年3月)。



「一回のチャンスを一発で決めたんだから、日本はたいしたチームだよ」

試合後、フランスのFWカリム・ベンゼマはそう語った。彼の言う通り、試合内容はフランスが圧倒。ボール保持率はフランスがおよそ6割。放ったシュートの数は、フランスが日本のおよそ4倍である(23対6)。

盛んにシュートを打ったフランス(枠内15本)が日本ゴールを割ることができなかったのは、ひとえにGK川島永嗣がビッグ・セーブで耐え抜いたからでもあった。「あれだけチャンスをつくったのに、日本のゴールキーパーがスーパーセーブを連発するもんだから、一点も決められなかった(フランスMFブレイズ・マテュイディ)」。



勝つには勝ったが、内容では負けていた。日本代表の選手たちは、そう感じていた。

とりわけ酷評されたのは、前半のプレーである。

「日本はとてもナイーブで、若い子羊というか、まるでU-21代表チームのようだった」と、11年前に日本を5対0で破った時の左サイドバック、ビセンテ・リザラズは振り返った。「本当に酷かったし、言い訳のしようがない内容だった」。



日本代表のザッケローニ監督は、「シャイ過ぎた」とその前半戦を評している。

フランスの激しいプレッシャーに怯んだ日本。簡単にボールを下げしまい、慌ててミスが生じる。セットプレーではフランスの高さと強さに翻弄され、危険なシーンをつくられてしまう。

その戦い方は「強敵に向かうチャレンジャーの姿」からはほど遠く、「守備のための守備」を強いらるばかりであった(前半のシュート数はフランス12本に対して、日本はわずか1本)。



ところが後半戦、「ハーフタイムのロッカールームで何があったのか?」と思わせるほどに日本代表は豹変。「まるで飛行機の急上昇のように、あっという間に日本は地上から3000mの高みにまで到達した」。

「後半だけを見れば、日本は世界のどの国とも戦い得るし、いわゆるサッカー大国との差も限りなく縮まっている」と前半を酷評したビセンテ・リザラズも舌を巻くほど。「僕が現役の頃(10年前)、日本の選手は単純なフェイントにも引っかかっていたのに…」。



「その瞬間」は最後の最後に訪れた。

後半43分、右サイドを疾走してきた長友佑都がパスを受けると、そのまま中へ折り返す。そこに飛び込んできたのは香川真司。日本の「一本」が決まった瞬間だった。

日本代表の特徴のひとつ、「攻撃のための守備」が遺憾なく発揮された後半戦。ザックジャパンの武器であるサイドからの効果的な攻撃が、自陣深くからのカウンターを炸裂させたのである。



もし、後半戦のような戦い方が常にできるのであれば、「日本が2年後のワールドカップ(ブラジル)で、準々決勝に進むのは、そう難しくはないと僕は思っている」と、かつてのフランス代表ビセンテ・リザラズは締めくくった。

フランスに食らった歴史的な大敗から10年以上が経ち、「日本も世界からリスペクトされるチームになりつつある(ジョルジーニョ元ブラジル代表)」。

日本にプロサッカーができてから20年、「今日では多くの日本人がヨーロッパでプレーするようになった。メンバー表を見ても、半分以上がヨーロッパのクラブに所属し、ブンデスリーガでプレーする選手が7人もいる」。



次のワールドカップまで、あと2年。

希望の芽は確実に膨らんできている…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「歴史的勝利を呼んだ勇気とバランス」

2012年10月30日火曜日

「オレが突き抜けなアカン」。本田圭佑(サッカー)



「なんか嬉しくて。サッカーやってて久しぶりに楽しい気持ちになれた」

日本代表のエース・本田圭佑は、0対4で惨敗したブラジルとの一戦をそう振り返った。

「こんなに楽しい試合は久しぶりやなっていうのが、今日の感想かな。下馬評どおり案の定負けて…。でも、なんか嬉しくなる気持ちわからへんかな?」



本田圭佑の野望は「ワールドカップ優勝」。それが彼の軸であり、ブレたことは一度もない。

ブラジル戦の前、フランスとやった日本は1対0で勝利した。その時、本田は逆に「物足りなさ」を感じていた。勝つには勝ったが、日本はフランスのスピードとパワーに圧倒され、防戦一方となっていたのだ。

片や、ブラジル戦は惨敗したものの、本田には「希望」の感じられるものだった。「自分が今まで見てきた日本代表の試合で、あれだけの内容でブラジルとやりあえるって、今までなかったからね」。



今、ヨーロッパのサッカー界において最強と言われるのは、クラブなら「バルセロナ」、代表なら「スペイン」。「狭いエリアでもショートパスを精密機械のように正確につなぎ、点を奪う」。しかし、本田の目にはそれは魅力的に映らない。「リスクを負わない」ため、無機質でつまらないというのだ。

それよりも本田は、ブラジルのような有機的なうまさに惹かれる。「純粋にうまいと思ったよね。さすがW杯の優勝回数が一番多い国やなっていうのは感じる。うち(CSKA・ロシア)の右サイドバックもブラジル人やけど、ブラジルの選手っていうのは、サッカーがうまいよね」

「個の技術」がズバ抜ける。それが本田にとっての理想であり、日本サッカーが目指すべき未来像とも彼は考えている。



本田が堂々と口にする「ワールドカップ優勝」という言葉。しかし、日本代表のチームメイトで本田ほど明確にその目標を堅持している選手は他にいない。

「全員がそうならないとね」と本田は言うものの、それは「どっちでもいい」とも思っている。自分一人でも、とにかくW杯で優勝するんだと思い極めている。

「オレはみんなを信じてるよ。もしそれでも、みんなが成長できないのであれば、オレがみんなの分まで成長すればいいなと思っている。みんなの分まで『オレが突き抜けたろ』と思ってる。みんなが成長できなかった場合、オレがそれを補うぐらいの、頼られる存在になればいいなと思ってる」



なんとも凄まじいまでの覚悟である。

「それをやるには、個人技よ。完全な。戦術とか、パスワークとか、コンビネーションとか、そういうことの問題じゃないくらい、『突き抜けなアカン』と思ってる」



日本代表のチームメイトが「W杯優勝」を心に思っても、口にしないのは、プレッシャーがかかるからだろうと、本田は言う。

「でも、そのプレッシャーはオレが背負うよ。オレは言い続ける。オレは自分の言ったことに責任を持っている。言った以上は絶対にそれを成し遂げようと思ってるから」



「ブラジル戦の収穫はホントに大きかった」と本田は言う。

「オレらよりベターだったのは間違いないし、そこを今の時期に再確認できたのが何より良かった」

そして、本田は断言する。「次はブラジルに勝つよ」



思えば2年前のW杯(南アフリカ)、日本代表がグループリーグ突破も難しいと言われる中で、本田は「W杯優勝」と言い続けていた。

そして現在、日本には「もしかしたら優勝を目指してもいいのかもしれない」というムードが生まれつつある。

「本田は自らの行動によって、世界の頂点との距離を着実に縮めている」



次のW杯まであと2年。

壮絶なるまでの覚悟をもった金狼は、日本を世界に突き抜けさせようとしている…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 11/8号
「本田圭佑 『W杯優勝の夢はぶれてない』」

2012年10月29日月曜日

カネをかけずに常勝集団と化した「日本ハム(野球)」


なぜ、「日本ハム」はこれほど強くなったのか?

パ・リーグの優勝は最近7年間で4度目。7年連続で勝率が5割を超えている。「7年連続というのは、パ・リーグで最長の数字だ」。



7年前といえば、日本ハムが北海道移転後に初優勝を遂げた2006年。それ以前、日本ハムはじつに24年間も優勝から遠ざかっていた。勝率も22年間、2年連続で5割を超えたことはなかった。それがなぜ、この7年間で「常勝集団」へと変貌したのか?

しかも、今年はエースのダルビッシュ有が抜けたのではなかったか? そして、その補強はなし。開幕前の下馬評が低かったのも無理はない。しかしそれでも、日本ハムはパ・リーグ優勝を果たしたのだ。







特筆すべきは、「FA選手獲りには参戦せず、抜けた穴はドラフト選手で賄うというやり方だ」と、小川勝氏は述べる。

まず、日本ハムはこの黄金の7年間に、FA選手の争奪戦に加わったことはない。唯一FAで獲ったのは稲葉篤紀選手だけだが、この時は争奪戦なしで獲得している。

補強といえば「新人ドラフト、トレード、そして外国人選手だけ」。その当たり率が凄い。ドラフト1位指名が一軍の戦力にならないこともままあるなか、日本ハムの1位指名選手はみな強力な戦力になっている(ダルビッシュ有、八木智哉、陽岱鋼、吉川光夫、多田野数人、中田翔、中村勝、斎藤佑樹)。

「これだけ続けて1位指名選手が戦力になっている球団は、非常に珍しい(小川勝)」



FA選手獲りに走らない日本ハムは、人件費を膨張させることがなかった。日本人選手の年俸平均は3,558万円。ソフトバンク、西武よりも少ないパ・リーグで3番目の金額('07年は5番目、'09年は4番目)。

つまり、日本ハムはカネをかけずにチームを優勝するほどに強くしたのであった。



まさに「日本版、マネー・ボール球団」。

「常勝ハム」は決して高級ハムではなかったということだ。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「常勝ハムの作り方」

2012年10月28日日曜日

書籍:ファーガソンの薫陶



「ファーガソン監督ほど、謎めいた人間はいない」

ファーガソンとは、イングランドの名門チーム「マンチェスター・ユナイテッド」の監督。香川真司の肩に手を回した人物でもある。



彼がチームを率いるようになったのは26年前、その頃はベルリンの壁もソビエト連邦も健在であった。

そして26年後の今、ベルリンの壁もソビエト連邦も崩れ去ったというのに、70歳の名将はいまだにグラウンドに仁王立ちしている。



「怒鳴り散らし、クビをきり、床のスパイクを蹴り上げる。言葉の挑発と心理ゲームを仕掛けて、罵倒の熱風をこれでもかと浴びせる」

それでもファーガソン監督は「いい人」とされている。

「沸騰しながら冷却も進める」ことができる彼の腹中には、「矛と盾」が同時に収まっているようである。



「昨日の真理は、今日の錯誤かもしれない」

なぜ、この老将はいまだに第一線を張り続けているのであろうか?

本書にその解はあるのであろうか?





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「徹底と柔軟、情熱と計略。謎めいた巨匠の革新に触れる」

閉じかけているオリンピックへの道。カーリング女子


カーリング女子は、次の冬季オリンピック(ロシア・ソチ)に出れるのか?

カーリングが正式種目となったのは長野オリンピックから。それ以来、連続出場を続けているカーリング女子。それが今、途絶えるという危機感に苛まれている。



オリンピック出場の条件は、世界選手権(来年3月)に出場すること。その世界選手権に出場するには、パシフィックアジア選手権(今年11月)で2位以内に入らなければならない。

そして、その戦いが迫っているのである。



運命を分けるパシフィックアジア選手権では、中国と韓国という2強が待っている。

急成長してきたこの2強に日本は遅れを取っており、2年前は3位(チーム青森)、去年は4位(中部電力)に終わっている。つまり、2年連続して世界選手権への出場を阻まれているのだ。

何とかして今回、中国か韓国のどちらかを破らなければ、オリンピックへの道は開かれない。



カーリング女子はオリンピックに出場したことで、一定の注目を集め、それが企業による新チーム増加にもつながった。

しかし、チームが増えすぎたことによって戦力が分散。各チームの成熟が遅れ、トップチームのレベルまでが上がらないというマイナスの局面を生んでしまっている。競争が激しくなることは、長期的には望ましいとはいえ、あまりに激しい争いが逆に各チームを弱めてしまっているようだ。



目下の敵は、中国・韓国である。

注目の一戦は、どうなる…?





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「五輪出場の危機感が生んだカーリング界の新たな試み」

新旧横綱、光と陰。日馬富士と白鵬


「相撲界待望の第70代横綱は、またもや草原の国『モンゴル』から生まれた」

朝青龍の電撃引退から約2年半、その弟分である「日馬富士」がついに綱を手中にしたのである。

日馬富士の体重は133kg。幕内力士の平均体重が160kgを超えていることを考えれば「小兵横綱」の誕生だ。



長らく、白鳳ひとりが「一人横綱」としてその重責を背負ってきたわけだが、綱を張って早5年になる白鳳には「衰え」が見え始めている。5月場所では、横綱として自己ワースト成績の10勝5敗。下位力士に取りこぼす場面もチラホラ。

「つけいるスキが出てきました」と、ある力士は言う。「出足が鈍くなっている感じなんです」。

先の9月場所で、若手の栃煌山に金星を献上してしまった白鳳。座布団が土俵に舞った。



「負けたら、即引退」

後がないのが横綱という地位。

世代が動きつつあるのであろうか。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「日馬富士の横綱昇進で白鵬はふたたび輝くか」

2012年10月24日水曜日

2人の「ダルビッシュ2世」。藤浪と大谷(野球)


2人の「ダルビッシュ2世」

「なにわのダルビッシュ」が藤浪晋太郎(大阪桐蔭)、「みちのくのダルビッシュ」が大谷翔平(岩手・花巻東)。

高校生ながら、ともに190cmを越える長身投手。その容姿から、そう形容されている。



この東西ダルビッシュが激突したのが、センバツ開幕初日。

「ただでさえ熱くなっていたメディアは、組み合わせ抽選を経て、さらに熱を増した」

夢の対決は、なんと一回戦、しかも開幕日だったのであるから。



この東西ダルビッシュ対決は、2失点で完投した「なにわのダルビッシュ」、藤浪晋太郎に軍配が上がった。

藤波はこう振り返る。「マウンドに大谷くんが踏み出した足の跡が残っていて、その位置が僕とほとんど一緒でした。今までにはなかったことです」

大谷は「記念撮影で藤浪くんと並んだ時に、自分より高いなって。190cmになってからは、自分より大きい人はいないと思っていたのですが(笑)」



勝った藤浪は、そのままの勢いでチーム(大阪桐蔭)を初のセンバツ優勝に導く。

後半崩れがちな藤浪は「勝ち切れない投手」とレッテルを貼られていたものであるが、みちのくのダルビッシュとの対決で何かが変わったようだ。



負けた大谷は、160kmの豪速球を武器にアメリカ、メジャーリーグへの意欲を語った。

「野茂さんやダルビッシュさんがアメリカで結果を残して、日本人の目標のレベルが変わりました。自分も目標とされるように、世界レベルで活躍する選手になりたい」



一方の藤浪には、そこまでの野心はない。

「ただ、ダルビッシュさんが高校の時はメジャーに興味がないと言ってたみたいに、日本で野球を極めてしまうと、物足りなくなるのかなとは思います」



なにわのダルビッシュは、甲子園春夏連覇を果たし、高校球界の王道を駆け抜けた。

みちのくのダルビッシュは、最速160kmという途轍もない偉業を達成し、アメリカに目を向ける。

先人たちの切り拓いた道を今、若い力がますます押し広げようとしている。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「あの一戦と僕らのこれから 大谷翔平・藤浪晋太郎」

2012年10月22日月曜日

「腕」を使うサッカー。ストーク・シティの人間発射台


「あんなのラグビーだ」

いや、それはサッカーだ。ただ他のチームより少々「腕」を使うだけで…。

サッカーで腕を使えるのは、なにもキーパーばかりではない。全選手が腕を使える…、そう、それが「スローイン」である。



そのチームは、イングランド・プレミアリーグ「ストーク・シティ」。

「腕」に覚えのある背番号24番「ロリー・デラップ」は、「50点近くをスローインから演出している」。

オフサイドの適用されないスローインは、強豪チームの「ハイテク防御」を、これでもかと「原始的なパニック」に陥れるのだ。



英国のジャーナリズムは、このデラップを「人間発射台」と呼ぶ。

彼のスローインの飛距離は38m。もっと遠くへ投げる選手はいるが、上へ弧を描いてしまうため、守りやすくなってしまう。ところが、デラップのスローインは「低空飛行」で遠くへ伸びるロングスロー。チャンスを生み出すライナー性のスローインなのだ。

「助走は4歩、リリース時の角度は20度。バックスピンをかけることで、ボールはフラットな角度をしばらく保つ(ガーディアン紙)」





ストーク・シティというチームは、バルセロナやマンチェスターUなどの華やかなチームとは「対照的」に、鉱山の泥臭さを醸し出す。「鉱山に食い込む鉄杭、ワインでなくビール。それがストークだ」。

そのストークを率いるのは指導歴20年、鋼鉄の将「トニー・ピューリス」。フルマラソンも走り切れば、悪天候のキリマンジャロへの登頂も果たす。

「勝てばブリリアント。もし、負けても世界が終わるわけではない」

彼がそう言うのなら、そうである。彼の心の中は、いつも「百戦百勝」だ。



「持たざる者が、持てる者を倒す」。

それがストーク・シティの醍醐味。「それも独自の方法で、だ」。

人間発射台の放つ脅威のロングスローは、持てる者たちを弄ぶ。これが「貧富の差を最短で埋める攻撃法」なのである。



しかし、このところ、人間発射台・デロップの出場機会は限られている。

「肩を壊している」というのだ。サッカー選手だというのに…。

それでも心配ご無用。すでに後継の人間発射台が「文句なしのスローイン」を放ち始めている。24歳の新鋭、ライアン・ショットは「デラップ・マークⅡ」としてその威力を発揮し始めているのである。



「あれもこれも許される人など世にマレだ。

 みんな、そうやって生きている。

 ストーク・シティのように…」





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「ロングスロー万歳! ストーク・シティ」

2012年10月18日木曜日

愛される外国人、香川真司(サッカー)。



「シンジ・カガワ(香川真司)はドイツの『ブンデスリーガの中で最高の選手』だと僕は言い続けてきたきたけど、やっぱり、彼は一番だったよ!」

そう活き活きと語るのは、ヨルク・バイラー(ビルト紙)。ドルトムント番記者の中でも「カガワへのズバ抜けた愛」を抱き続けた男だ。



当の香川真司は、ドイツのドルトムントを去り、イギリスのマンチェスターUへと行ってしまったわけだが、香川がドイツからいなくなってからというもの、その抜けた穴の大きさを、改めて痛感させられたというのである。

「シンジがいなくなって寂しいよ…。僕はドルトムントの担当になって11年になるけど、チームの中で『あんなに愛された外国人』は見たことがない…。シンジはホント大きな存在だった。シンジられないくらいにね!」



そんなヨルクが香川真司を初めて目にした時、「あの動き、シンジられない…」と驚いたというが、ドルトムントの監督からは「まだ、大きな記事にしないでくれ」と内々に頼まれたという。その理由は「注目されすぎると大変だから」というものであった。

確かに現在、注目されすぎた香川は「大変なこと」になって、イギリス最高のチームへと行ってしまっている…。そのことをヨルクは自分なりに評価する。

「シンジは『サッカー少年』なんだよ。彼はずっとイングランドでプレーしたいと思っていた。そんな子供の夢を邪魔するわけにはいかないだろ?」



一方、移籍先である名門マンチェスター・ユナイテッドの元スター選手、「デイビッド・ベッカム」は香川真司を、こう評する。

「(チームは)すごくいい補強をしたという印象がある。香川はユナイテッドがずっと探していた『新しいタイプの10番』で、すごく大きな戦力アップになる。スコールズは『ルカ・モドリッチ』を連想させる選手だと言っていたよ。これは『ものスゴイ褒め言葉』なんだ!」





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「ドイツ人記者の偏愛的カガワ論」

2012年10月17日水曜日

「企業の論理」に淘汰されるスポーツ


「メリットがはっきりしないコストは削減せざるを得ない」

それが「企業の論理」。

「『エスビー食品』の陸上、そして『パナソニック』のバスケットボール、バドミントンと、歴史ある企業スポーツの名門が、相次いで今季限りの『休・廃部』を明らかにした」



パナソニックは今年3月期、7,721億円という「創業以来の大赤字」を計上。バスケットボールとバドミントン、2つの休部は「大ナタ」の一環であった。

一方のエスビー食品は、利益は減ったとはいえ、過去3年間の売上は安定している(1150億円前後)。それでも陸上部が削減の対象となってしまったのは、ここ数年、世界選手権、オリンピックなどに代表選手を送り込めなかったからなのかもしれない。



日本のバブルが弾けて以来、企業がバックアップするスポーツは「減少傾向」にあるという。

エスビー食品もパナソニックも、国内での知名度は十分に高いため、「スポーツで社名が露出するメリット」がなくなってしまったのかもしれない。

パナソニックのバドミントンは「女子選手10人で、年間運営費は1億円あまり」。大企業にとってはそれほどの負担ではない。しかし、もう一度繰り返せば、「メリットがはっきりしないコストは削減せざるを得ない」。これが「企業の論理」だ。



企業がスポーツから離れ行く中、陸上競技などでは「個人単位の支援」が増えているという。公務員ランナーの川内優輝選手のように、選手個人が「独自の支援環境」を獲得していくしかないのである。

また、バスケットボールのリンク栃木やレバンガ北海道などは、「親会社を持たないプロチーム」である。



もはや企業に頼り切ることはできない。新たな資金調達の道を見つけることが、これからのスポーツ選手たちに求められている。

それは、スポーツの道以上に険しい道のりかもしれない…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/25号
「相次ぐ名門の休・廃部。競技を続けるカギとは」

2012年10月15日月曜日

スポーツ選手を苦しめる資金難。その一助のために…



「先月は大会が週末ごとにあったため、収入は月に一万円程度でした」

そう明かしたのは、プロサーファーの高橋みなと選手。その生活は不安定なアルバイトにより賄われているのだという。

「資金不足」というスポーツ選手にとっての高き壁は、何も彼女に限ったことではない。オリンピック代表選手ですら、厳しい内情を抱えているのが現実だ。



「海外遠征では、テントを張って寝たり、川でエビを捕まえて食べていました」

こんなエピソードを披露したのは、ハンググライダーの鈴木由路選手。

それでも、海外まで行けるのはいい方だ。アームレスリングの山本祐揮選手は、全日本選手権で優勝していながら、資金不足のために世界選手権の出場を断念せざるを得なかった。

かの「なでしこジャパン」とて、誰も見向きもしない時期が長かった。彼女たちはその努力も相まって、めでたく陽の当たる場所へと躍り出たが、それは稀有な例だ。圧倒的大多数のアスリートたちが、陽の当たらない場所で苦しみながら、消えていっている…。



こうしたスポーツ選手の不遇な現状を何とかしようと立ち上がったのが、株式会社マルハンの社長・韓裕氏。昨年から始まった「マルハン・ワールドチャレンジャーズ」の立役者だ。このプロジェクトは世界を目指すアスリートの活動資金を支援することを目的としている。

今回、最高額の300万円を獲得したのは高校3年生、自転車の小橋勇利選手。高校総体では史上初となる高校1年生での優勝を果たしている。彼には卒業後のヨーロッパ行きの資金が必要だった。夢はツール・ド・フランスでの優勝だ。

「これ以上、家族に負担をかけられない」と思い極めていた小橋選手は、賞金獲得が決まると、感極まって涙が止まらなかった…。



「夢をあきらめずにやり続けることの尊さ」

マルハンの韓裕氏は、それを心から応援したいと思っている。

「夢に向けての第一歩」

そこでつまずかせるわけにはいかないのだ。





出典:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「資金難に苦しむアスリートを支援し、世界へと送り出す」

2012年10月14日日曜日

心優しき「鉄人」金本知憲(野球)。


140kmを超える速球が後頭部に直撃した。

飛び散るヘルメットの破片。

打席でもんどり打った鉄人・金本知憲(かねもと・ともあき)は、ひれ伏したまま動かない。そして、ベンチへと…。



そのわずか5分後、金本はグルグルと首を回してベンチ裏から姿を現すと、そのまま一塁へと走って行った。

静寂に包まれていた東京ドームは、鉄人の元気そうな姿に歓喜し、大歓声を上げた。



そしてさらに驚くべきは、仲間のヘルメットを借りて向かった次の打席、金本は弾丸ライナーのホームランを放つのだ。2008年5月7日の399号ホームラン。節目となった400号以上にインパクトのある衝激的な一撃だった。

140km以上の頭部へのデッドボールに耐えた「鋼の肉体(頭?)」。その恐怖心を跳ねのけ、次の打席でホームランを放った「精神力」。「代役を立てない男」の凄みは、「つねに結果を伴ってきたこと」であった。



さらに多くの人々を唸らせたのは、試合後の舞台裏である。

試合が終わると都内の病院に直行した金本、MRI検査が終わるとすぐに担当記者の携帯を鳴らした。

「言い忘れたことがある。木佐貫(投手)が投げた球は『故意でも、威嚇でもない』。オレは大丈夫。何ともないから。このコメントを必ず新聞に載せて欲しい。締め切りに間に合うかな?」



なんと、金本は自分の身体以上に、自分の身を危険にさらした投手の心配をしていたのだ。

投手の木佐貫(ジャイアンツ)は、デッドボールを放った後、危険球の警告を受けて呆然とマウンドに立ち尽くしていた。金本は、その木佐貫の繊細な性格を案じていたのである。



ここまで金本が投手の心に気を使うのには訳があった。

2005年、「ヘルメットが脱げて、直接頭に当たったのかと錯覚した」というほどのデッドボールを金本は頭に受けた。その時の投手は三瀬幸司。前年度のパ・リーグ新人王、ホークス待望の若き守護神であった。

周囲の期待厚かったこの三瀬、金本へ与えてしまったデッドボールを境に「坂道を転げ落ちるように一軍のマウンドから去っていった…」。イップスを発症した三瀬は、明るかったはずの選手生命が突然断ち切られてしまったのだった(イップスとは、精神的な原因により起こるとされる運動障害)。



「若い投手の将来を潰したくない…」

この一件以来、金本のこの想いは一層強まっていた。だからこそ、木佐貫にあそこまで気を使ったのだ。MRI検査で自身の健康を証明するや、それをいち早く新聞に載せて欲しいと記者に頼んだのであった。

金本がデッドボールを受けてなお、次の打席で放ったホームランは健全さの「究極のメッセージ」であった。そして、メディアを通した「粋な計らい」によって、金本は若き木佐貫の投手生命を救ったのだった。



そんな心優しき金本は、連続試合出場記録、世界一(1429試合)を誇る「鉄人」。

しかし、誰にでも「終わり」は来る。金本の終わりは、右肩の筋肉断裂(2010)から始まった。

「箸を持てない。湯のみをつかめない。ドアノブが回せない…」

それでも、金本は脂汗を滴らせながら、バットを握りしめていた…。



そして今年の9月12日、ついに鉄人は「引退」を表明。


胃潰瘍を抱えた腹に冷たい缶コーヒーをグビグビと流し込み、夜はビールをチェイサーに焼酎のロックを気が済むまで飲んでいたという金本。「私生活でも鉄人伝説を挙げればキリがない」。

その無比の鉄人に「金魚のフンみたいに付いていけ」と若手に言っていたという星野監督(阪神時代)。それほど「酷な指令」もあるまい…。




「球界に王二世や長嶋二世が存在しないように、この先、金本知憲を彷彿とさせるプロ野球選手は永久に出てこないだろう」と、14年間「アニキ」に密着していた担当記者は、愛情を込めてそう語る。

たとえ、どんな身の危険にさらされようとも「一瞬たりとも投手を睨みつけない信念」を持っていた鉄人は、今静かに後ろ姿を見せている…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「金本知憲 鉄人が輝いた衝撃の一戦」

2012年10月13日土曜日

孤高の前田智徳、代打に徹する(野球)。



「代打の切り札」

それが今の前田智徳(広島東洋カープ)である。前田が登場するのは、その一打で「試合の流れを変えられる場面」に限定されている。



「無駄なスイングは、ひと振りたりとも許さない」と前田は思い極めているかのように、代打を告げられた前田は、バッターボックスに入るまでの十数メートル、「いわゆる素振りは一度もしない」。

もちろん、彼が準備を怠っているわけではない。「あの人は、ベンチ裏でメチャメチャ降ってるから、いつも汗びっしょりですよ」と担当記者は語る。



そのストイックな様は、まるで銀幕スターの「高倉健」。

高倉健も、「本番は原則的に一回しか行わない」そうである。その一回に賭けることで、集中力を極限まで高める、とのことである。



かつての前田は「来た球を打てた」。緩いボールを待ちながらも、速い球を自然に打てたという前田。「そんなことができるのは、調子の良い時のイチローぐらい」とまで言われた天才、それが1995年までの前田智徳だった。

運命の1995年、彼は右アキレス腱を断裂。以後、しつような故障に付きまとわれ、「芸術的な打撃」はすっかり影を潜めてしまう。「あれだけの怪我をしたら、普通はもう引退してますよ」と言う人まで…。

本人も、「前田智徳はもう死にました」という、ある意味、名言を吐いたほどだった。



通常、「専任の代打屋」は非エリートの収まるところであり、前田智徳のような2,000本安打まで達成したエリート中のエリートの座る席ではないという。

それでも、プロ入り23年目、41歳の前田の代打稼業は今年で3年目。まるで「自分の居場所はここ以外にはない」と思い極めているかのようである。

「代打に徹している感じがするよね」と語るのは、ミスター赤ヘルこと山本浩二。



ヒットを打った時も「グラウンドでは白い歯を見せるべきではない」という美学を貫く前田。「打っても、ブスーっとしており」、「ホームランでも首を傾げる」。

担当記者に対しても「そってしといて下さい」と無口な前田は、サインを求める子供のファンにさえ、「サインは引退しました」と丁重に断る。ファンに手を振ることも滅多にない。



それでも、場内に「バッター・前田」の代打がコールされると、球場は割れんばかりの拍手と歓声に沸く。「今、もっともカープ・ファンに愛されているのは、前田なのだ」。

「生きながらにして、すでに『伝説』となった前田」

前田が前田を貫くこと、前田が前田を演じ切ること。この「変わらぬ生き様」がファンのハートをガッチリとつかんでしまっているのである。



「前田は自分がプロであることに、誰よりも強い矜持をもっている」

変わらなければならない部分と、変えてはならない部分があるとすれば、前田が前田であることは、きっと「変えてはならない部分」なのであろう。



彼をよく知る人は、「本当は寂しがり屋なんですよ」と前田を評する。

凡打したときに表情を消す前田には、ファンの期待が痛いほどに分かっているのだろう…。

その後ろ姿がどれほど静かであろうとも…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「前田智徳 千両役者が貫く覚悟」

2012年10月12日金曜日

40になって益々盛ん。稲葉篤紀(日本ハム)



「今年で終わるかもしれない…」

今年40歳になった稲葉篤紀は、そんな覚悟を決めていた。昨季の打率は2割6分2厘と自身「過去最低」。5年前(2007)に26本の本塁打を放ち日本ハムの日本一に貢献した時の稲葉とは、もう違っていたのだ。

「正直言って、自分には後がない…」



そんな想いの中で迎えたシーズン初打席。

西武の涌井のストレートを稲葉は強振。鋭いライナー性の当たりとなった打球は、二塁打となった。結局、この日は4打数3安打1四球。最高のスタートだった。

その後もヒットを量産した稲葉は、今季あと34本と迫っていた2000本安打を早々に達成(4月28日)。打率は一時、3割8分台にまで乗った。多くの選手が統一球の対応に苦しむ中、稲葉は逆に打率を上げてきたのである。



この見事な復活劇の裏には、「原点」に立ち返った稲葉の姿があった。

「バッティングマシンを使う練習のときに、1、2歩前に出て打ってみる。あるいは球速を上げてみる」。それは稲葉が少年の頃にやっていたという古典的なトレーニング方法であった。



また、身体のケアに関しても意識を変えた。

「今まではトレーナーの方にマッサージやストレッチをしてもらっていたんですが、そうすると、トレーナーがいない時は身体が回復しなくなってしまう」と言って、人に頼らず、何とか自力で復活できる身体を作り上げたのであった。

「ストレッチや半身浴に倍以上の時間をかけるようにしました」



身体のケアは人に頼らぬ一方で、技術に関しては大いに人に頼った。

「日本ハムに入った時は、もうプロに入って10年経っていましたから、コーチも何も言ってくれませんでした」と言う稲葉は、じつは「コーチから何も言われないと不安を感じる選手」なのだという。

「ベテランになればなるほど、何も言ってもらえなくなる」と言って、稲葉は若い選手にも助言を求めた。「どう?」と若い選手に聞くと、意外と的確なアドバイスがもらえたりもする。「後輩に聞くのもいいもんだな…」。

ついでに他のチームの選手にも聞きに行く。「ソフトバンクの松田選手がバットを握る右手と左とを少し空けていたのを発見したので、その理由を聞きに行ったんです」。松田が言うには、そうしたほうが「ヘッドが返りやすい」とのことだった。早速、稲葉も試してみると確かにヘッドがしっかり返ってくる。「僕の引き出しの一つに入れときました」と稲葉。



今年、同じ40代の金本知憲が引退を発表した。

「やっぱり、寂しいですね…」と遠くを見ながらも、「僕は来年も現役で頑張ります」と稲葉はキッパリと言い切った。

「バッティングは生き物、それも本当に難しい生き物。なついたと思ったら、すぐに離れていく」と語る稲葉は、その生き物をつかみきるまで、きっと現役でバットを振り続けるのだろう…。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「稲葉篤紀 40歳の"聞く力"」

2012年10月11日木曜日

「露骨」なアメリカに認められた青木宣親(野球)。



「言い方は悪いかもしれないけれど、ある意味で露骨。アメリカは。」

そう語るのは、アメリカの大リーグ(ブルワーズ)で活躍する「青木宣親(あおき・のりちか)」選手。当初は入団テストを強いられたほどに「低評価」だったが、次第にその実力が監督のメガネに適い、はやくもレギュラーとして定着している。



「あれは嬉しかったなぁ」と彼が顔をほころばせるのは、6月7日のカブス戦で放った2本のホームラン。一本目は4回に先制の一発、二本目は10回裏の劇的なサヨナラ本塁打。これが青木にとっての、明らかな「転機」となった。

「あの試合の後から、自分に対するチームの扱いが変わりました。結果を残せば、受け入れられる世界なんですよ。アメリカは。」

そう言う青木は、もうすっかりブルワーズの中心選手だ。青木の争うレギュラー外野手が4人と、異常に多かったにも関わらず。



半年以上アメリカでプレーしてきて、青木もメジャーの投手層の厚さには舌を巻かざるを得ない。無名投手がいきなり100マイル(160km)を投げてくる。

「メジャーはどれだけ人材が豊富なんだよ…」



さらに、打った打者に対する守備位置の「シフト変更」も早い。

日本であれば、1シーズンはある一定のシフトが敷かれるのに対して、アメリカは試合ごとにでも変えてくる。それだけ「直近のデータ」が重視されているのである。

青木も負けずに、打席に入ってシフトを確認すると、外野手の間を抜けるように打ってみせる。そんな今季の青木からは二塁打がよく飛び出す(全安打中25%)。



いまや、すっかりアメリカを受け入れてしまったかのような青木であるが、最初の数カ月はさすがに苦しんでいた。最初の月で青木が先発出場できたのは、たったの3試合しかなかった。

「主人の元気がないように見えたんです…」

そう振り返るのは、日本からスカイプで会話をしていた妻の佐知さん。心配になった彼女は即座に荷物をまとめると、子供たちを連れてアメリカに飛んできた。

青木の成績が上向き始めたのも、家族がアメリカへやってきてからだった。家に帰れば食事が待っていて、子どもたちの寝顔を見ることもできたのだから…。



「ノリ、明日は家族とゆっくり休むんだぞ」と監督も気遣いをみせる。

「サンキュー」とニッコリ笑う青木。

まさかの低評価を実力で覆してみせたバットマンは、成功への糸口を確かに見つけたようである。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「青木宣親 苦境で高めた攻撃性能」

2012年10月9日火曜日

前人未到の1億ドル。タイガー・ウッズ(ゴルフ)


ゴルフ史上初めて、獲得賞金の総額が1億ドル(約80億円)を突破したという「タイガー・ウッズ」。

続く2番手のフィル・ミケルソンが約53億円ということを考えると、ウッズがいかにズバ抜けているかが分かる。

2位のミケルソンがもう42歳なのに対して、ウッズはまだ「36歳」。ウッズはプロ転向(1996)からわずか17年目で1億ドルに到達したのである。そして、これからもまだまだ稼ぐ可能性が高い。



この1億ドル(約80億円)というラインは、「賞金を稼ぐかたちのスポーツ」では、今まで到達した選手はいなかった。

ゴルフに次いで賞金を稼げるのは「テニス」。テニスで獲得賞金歴代1位は、ロジャー・フェデラー。約60億円近くを稼ぎ上げている。

しかし、「テニスはゴルフほど長くトップレベルで活躍することはできない」。フェデラーはすでに31歳。ウッズ(36歳)よりも若いとはいえ、その競技生命はずっと短いのだ。おそらく、たとえフェデラーといえでも、1億ドルのラインに到達するのは困難だ。



一方、「年棒制」の野球やサッカーとなると、話はまったく別だ。ヤンキース(野球)のロドリゲスなどは、すでに3億ドル(約240億円)を超えてしまっている(ウッズの3倍)。

「賞金獲得スポーツ」が変動的な歩合制だとすれば、「年棒制スポーツ」は固定的。たとえ、パフォーマンスが振るわなくとも、契約された額はもらえるのである。場合によっては、代理人の手腕一つで年俸が跳ね上がることも珍しくない。



年棒制のスポーツに比べると、ウッズがいかに厳しい環境で大金を稼ぎ上げたのかが理解できる。

ご存知の通り、ウッズは不倫スキャンダルによってツアーの欠場を余儀なくされていた時期もあり、当然、その間は賞金が思うように稼げなかった。賞金ランキングで年間トップ5を維持していたウッズも、この時ばかりのランキングは、2010年68位、2011年128位と低迷している。



常識的にみて、ウッズはあと5〜6年は高パフォーマンスが可能だと言われている。

おそらく、これから記録するウッズの生涯獲得賞金は「当面、誰にも破ることのできない、前人未到の記録」となるだろう。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「前人未到の1億ドル」

2012年10月8日月曜日

[PR] マットレスパッド「エアウィーヴ」







水泳の北島康介、サッカーの永井謙佑、卓球の石川佳純…。

ロンドン・オリンピックでは日本人選手の約6割がマットレスパッド「エアウィーヴ」を現地で使用したという。



「ウィーヴ(weave)」とは英語で「編む」の意味。その名の通り、エアウィーヴは「空気を編み込んであり」、極細繊維が3次元に組み合わされた立体構造をしている。

「海に近い町にあった弊社は、もともと釣り糸や漁網など樹脂製品の製造メーカーでした。その後、釣り糸を組み合わせたような、かなり弾力のある素材を完成させて、事業転換したのです」とPR担当者。



人生の約「3分の1」は睡眠で占められているということもあり、完璧な環境を求めるアスリートのみならず、一般の人々の関心も極めて高い。

「どうしても生産が追いつかず、ご注文から3〜4ヶ月お待ちいただいている状況なんです…」と担当者も嬉しい悲鳴。

昨年の売上は前年の3倍、今年の売上はさらにその4倍にのぼる見込みだという。

敗者を許さない街・ニューヨークにて。松井秀喜(野球)。


ゴジラ・松井秀喜のニューヨーク・デビューは、実に「ド派手」なものだった。

ベートーベンの「運命」が大音響で鳴り響いた直後の「満塁アーチ」。

鳴り止まぬスタンディング・オベーション。一度はベンチに戻った松井だったが、チームメイトにうながされて再びグラウンドへ出ると、ヘルメットを振って歓声に応えた。

松井がニューヨークで放ったメジャー第一号は、本拠地開幕戦での「満塁ホームラン」というまことに華々しいものであった。このホームランによって、「Godzilla上陸」はニューヨーカーたちに強烈な印象を与えたのだった(2003)。



順調すぎるほど順調にメジャーリーガーのスタートを切った松井。

しかし、順風満帆と思っていた「4年目(2006)」、思わぬ「落とし穴」がそこにあった。



それは、まさに穴。グラウンドにあいた穴であった。ライナー性の打球をキャッチしようとした時、グラブがそのグラウンドの穴に引っかっかった。

「ありえない角度で曲がってしまった手首」

そのまま苦痛の形相で退場する松井。搬送される救急車の中で「どうだ?」との問いに、松井は「ダメかもしれない…」。

その松井の言葉を聞いた時、巨人時代から松井のケガを見てきたという広岡勲広報は、「これは重傷だ」と直感したという。なぜなら、今までの松井であれば「必ず、『うーん…、痛いけど何とかなると思う』」と答えるのが常だったのが、「あの時だけは違った」のである。



診察の結果は、左手首骨折。骨にはボルトが入れられた。

その3ヶ月後、松井は「驚異の回復ぶり」で再びグラウンドに立った。

そして、いきなり4打数4安打の大活躍。この劇的な復活劇に、スタジオはスタンディング・オベーションで沸いた。



手首もすっかり癒えた頃、松井は左ヒザの故障で「故障者リスト」入りしてしまっていた(2008)。

左ヒザの手術を受けるかどうか、松井は迷いに迷っていた。球団に手術を受けると伝えた2日後に一転、やはり手術は受けないと意見を翻したり…。

どうしても「何とかシーズンを」という思いが強く、結局、その手術はシーズンを終えてから受けることになった。



手術後の次のシーズン(2009)はリハビリで始まった。ヒザの状態は一進一退。数字も不完全燃焼だった。

そんな松井の打棒が爆発したのは、その夏。ホームランに次ぐホームラン。このシーズン、松井はメジャーでは自身2番目に多い28本の本塁打を記録した。打点も90とチーム3位であり、松井はヤンキースの地区優勝に大いに貢献したのである。



そして迎えたポストシーズン。

ニューヨークは松井に熱狂することとなった。

第2戦で、決勝ホームラン。第3戦で2試合連続ホームラン。そして、世界一に大手をかけてニューヨークに戻ってきた第6戦、先制2ラン、2点タイムリー、さらなる2点タイムリー…。この試合、松井は1試合6安打をマークした(シリーズ・タイ記録)。

試合中からスタンドは「MVP!」の大合唱が湧き上がり、試合が終わると、その通りに松井は日本人選手としては史上初の「ワールドシリーズMVP」に輝いた(3本塁打、8打点)。



「感無量です。本当に最高の気分です!」

頭上に掲げられるトロフィー。いつまでも鳴り止まない「MVP!」の大合唱…。

ニューヨークは「勝者」が大好きなのだ。



しかし翌年、ヤンキースは松井との再契約を結ばなかった。

そして松井はエンゼルスに移籍(2010)、その後はレイズへ(2011)。毎年転々とした末、今年の7月にはレイズから「戦力外通告」を受けてしまう…。

その後に自由契約となったものの、「今季、新たな契約を結べる可能性はゼロに近いと言わざるをえない」。38歳という年齢。低迷した今季の成績(打率1割4分7厘)…。「来季もメジャーでプレーできる可能性は、ほぼない」。



秋めいた冷たい風の吹き抜けるニューヨーク。

かつて、松井はこんなことを言っていた。「ニューヨークは決して『敗者』を許してくれないところだと思うんです。ここでは結果しか重んじられない…」。

結果を出した者しか評価されない過酷な街、ニューヨーク。メジャーリーグの厳しい戦いは、勝者を一瞬にして「敗者の奈落」へと突き落とす。それは、過去にどんなにニューヨークに愛された男であろうとも例外ではなかった。



選択を迫られる松井は、いまだ結論を出してはいない…。






ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「松井秀喜 ニューヨークに愛されて」

2012年10月7日日曜日

ヤンキースのジンクスを守った2人の日本人選手


「倒れ込んだとき、最初はジョークかと思った。彼はそういうことが好きだからね」

しかし、打球を追って倒れ込んだ43歳の守護神「マリアノ・リベラ」は苦痛に顔を歪めたまま、立ち上がることができなかった。右ヒザ前十字靭帯断裂。通算608セーブのメジャー記録をもち、「ミスター・オートマチック」の異名をもつ彼のシーズンは、早々に終わってしまった。

5月3日のこのアクシデントにより、今季のニューヨーク・ヤンキースの「勝ちパターン」の一つは失われてしまった。



このアクシデントに先立つ4月、ヤンキースは大物トレードした「マイケル・ピネダ」も右肩の手術で完全に失っていた。若手有望株、ヘスース・モンテーロを放出してまで手に入れたというのに…。

「200イニングの投球回を期待した投手が、1イニングどころか、1球も投げられなかった…」とジラルディ監督は嘆いていた。



そんなヤンキースに空いた穴を埋めたのが、同じく移籍組の「黒田博樹」。黒田は自己最多の14勝。チーム最多の200イニングを超える投球で、「ヤンキースの戦いに安定感をもたらした」。

「彼の投げる試合はいつも安心していられるよ。援護点に恵まれていたら、あと3つか4つは勝っていただろう」とジラルディ監督も大満足。



一方の打撃陣は、しごく好調。チームのホームラン数218本は30球団中トップ。球団記録の244本にも迫る勢いだ。

「ホームランを狙っているのではなく、しっかりボールを見極めて、甘いボールが来るのを待つ。ヤンキースにはそういうタイプの打者が多い。ホームランが出るのは必然だ」と打撃コーチは語る。

最多のホームランを放っているグランダーソンも同様に、「あくまで結果としてのホームランだ」と語る。



そこに入ってきた「イチロー」。

チームの負傷者とイチロー本人の希望によって成立したこの交渉は、「ローリスク・ハイリターンのおいしいトレード」だった。

「ヤンキースは、スモールボール(小技)をやるようなチームではない」とジラルディ監督は言うが、「イチローのような機動力のある選手がいるならば『やる』。必要な場面になったら」とも語る。

実際に、レイズに連勝した試合では、イチローが二盗を決めている。



主力選手が多数、DL(故障者リスト)に送り込まれながらも、名門ヤンキースの「幸運のジンクス」は生き続けているようだ。

今季の場合、そのジンクスを守るのに一役も二役も買ったのが、黒田博樹、イチローという日本人選手たちだったのは、言うまでもないだろう。

タフなレギュラーシーズンを戦ったヤンキースは今、28度目の世界一へと歩を進めている。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「ニューヨーク・ヤンキース 10月は俺たちの季節」

2012年10月6日土曜日

[PR] タコの吸盤をもったシューズ Cali-Mali(K-Swiss)




Vertical Tubes Cali-Mali(K-Swiss)

「タコの吸盤」をイメージしてつくられたソールを持つ「ベアフット・シューズ」。

「高いクッション性はもちろん、ヒールピッチ差をゼロにする構造で足裏前部での着地が可能に。アスファルトの上を走るのに最適化されたシューズ」

モデル名の「カリマリ(Cali-Mali)」は、輪切りのイカを揚げた料理(Calamari)から来ているとのこと。

「スランプ知らず」のデレク・ジーター。その極意とは? 野球



「ジーターのバッティングは『スランプ・プルーフ』、スランプ知らずということだ」

常勝帝国、ニューヨーク・ヤンキースを牽引する38歳の「デレク・ジーター」。昨年7月には大リーグ史上27人目となる3000本安打を達成し、現在3,287本(イチローは約2,600本)。

年間200本安打を7回も記録しているジーターにとって、あと5年もやれば、ピート・ローズの持つ大記録4,256本安打を超える可能性も持っている。ワーストの年でも年間安打は156本だ。



「まだまだ打つよ」と同僚は言う。

それでも本人は「記録はあくまでも結果に過ぎない」とクールだ。



「自分は試合前に対戦投手のビデオもあまり見ない。むしろ、なるべく情報を入れないようにしている」と語るジーター。

「今は、ちょっと情報過多になっていると思う。それによって、整理がつかないまま打席に入って失敗するケースをたくさん見てきている。『頭の中をできる限りシンプルにして、来たボールを打つ』、これこそが最も重要なことだ」

技術論を語らないというジーター、そのバッティングの極意を語ったのが、この言葉だった。





ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「デレク・ジーター 弛みなき至高の打撃術」

2012年10月5日金曜日

笑顔の増えたイチロー。大リーグ



「火を燃やせ。
 もっともっと、焚きつけろ。
 せっかく燃え盛った火を消すな」

ニューヨーク・ヤンキースが勝つと、外野手3人が集まって行われる「勝利の儀式」。そこに今年はイチローの姿も。

シアトル・マリナーズを離れる時のイチローは、「一番勝ってないチームから、一番勝っているチームに行くことになるので、テンションの上げ方をどうしようかなと思っています」と言っていた。



イチローがメジャーにやって来てから、古巣のマリナーズがプレーオフに進むことができたのは、たったの一度だけ。それとは対照的に、ヤンキースはプレーオフに「進めなかった」のが一度だけである。

NYヤンキースはリーグ優勝40回、うちワールドシリーズ制覇が27回というチームなのだ。



それゆえ、シアトル(マリナーズ)で当たり前だったことが、ここニューヨーク(ヤンキース)では当たり前でなくなった。

マリナーズ時代、彼の名前はずっと「ICHIRO」と表示されてきたが、ヤンキースにやって来てからは、「SUZUKI」で統一されている。

その打順も8番、9番の下位打線がほとんど。かつてはほとんど経験しなかったベンチスタートも。「ここか」と思いきや、声が掛からなかったり…。



メジャーに来てすぐの頃のイチローは、こんなことを言っていた。

「ヤンキースの選手がフィールドに散っていくところなんか、カッコいいじゃないですか。ああゆうカッコ良さは、他のチームにないですよね。高貴な感じがします。チーターやライオンには感じられない、虎の高貴さ」

そして、実際にそのチームの一員となったイチローは、こう感じている。

「クラブハウスのあれだけ落ち着いた、動じない空気にビックリしました。勝っても負けても、気持ちが大きく動かない。成熟している感じがしますね」



最強のチームに来たイチローは、どこか嬉しそうだ。

出番が減っても、打順が下位でも、どこでも「笑顔が絶えない」。

「しびれますよ、本当に。勝ちたい気持ちがまた強く生まれてくる。なかなか幸せですよね、野球人として…」



マリナーズでプレーしていた7年間、すごい量の選手たちと出会ってきたにも関わらず、イチローは「ほかの誰からも何の刺激も受けることがなかった」のだという。野球に対するアプローチであれ、仕事に対する考え方であれ…。

それでも、「ヤンキースだけは違うかもしれない…」という淡い期待があったイチロー。移籍を迷った一番の理由はそこにあったのだという。

「ヤンキースのファンは、特別な瞬間を与えてくれます。これが嬉しいんです。イチロー、イチローと名前を呼んでくれて…。もう、ホント、素晴らしいですね」



マリナーズで2割6分だった打率は、ヤンキースに移ってから3割2分と、確実な上昇曲線。ニューヨークでのイチローのテンションは、「明らかに高い」。

「今の状況が勝手にそうさせてくれているんです。この空気は想像通りだよね。想像通り。やっぱりかという感じですね。このチームは野球がちょっと違うんです。それは、このチームがずっと背負ってきた宿命がそうさせているんでしょう」



ニューヨークに立つイチローは39歳。

通算3,000本安打までは、あと400本強。この大記録にたどり着いた大リーガーは今までに27人しかおらず、現役で可能性があるのは、イチローとロドリゲスの2人くらいしかいない。

イチローが10年連続で年間200安打を放ってきたことを考えれば、あと3年もすれば、その大記録に手が届くのかもしれない。



マリナーズ時代のイチローはどこか孤高の存在で、強烈な美意識を放っていた。それゆえ、「数字にしがみついて晩節を汚すくらいなら、あっさり退いて美学を貫こう」という気配もあった。

ところが、心機一転、ヤンキーズにやって来たイチローの顔には「笑顔が増えた」。ひょっとすると、今の彼ならば、泥臭くも野球を続けてくれるのかもしれない。

きっとニューヨークのファンたちも、イチローにずっと野球を続けてほしいと思っていることだろう。





出典:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「イチロー NY、特別な場所で」

2012年10月4日木曜日

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世界の王の打撃哲学。王貞治(野球)



世界の「王貞治」は、その打撃哲学を語り出した。

「バッティングは何だと訊かれたら、これはもう『つかみどころのないもの』だと言うしかないよ。ウナギじゃないけど、つかんだかなと思うと、フッといなくなる」





◎120%の準備


それをつかむには、「とことんまで練習してみるしかない」と彼は続ける。

「ミスター(長嶋茂雄)は『オレほどバットを振った選手はいない』って言うけど、みんな自分が一番練習したと思ってる(笑)。良い結果を出してきた人は、やっぱり練習をやってたよ」

その練習では「自分の身体の『許容範囲』を広げること」に主点を置いていたという王貞治。

「練習の時にはライトポールよりも右に打ち込むぐらい、身体を捻らないと。練習でそれだけ捻っておかなかったら、本番で身体を捻れるはずがない」



「120」という数字がその口から出る。

「120の力感でスイングするという練習をしておくべきなんだよ。試合では120も使えるわけがないんだけど、身体は120のことができるように『準備』しておく。今の選手は現実主義だから、ムダなことはしないよね。だけど、ムダなことは必要だと思う」

今の選手がムダと考えることを、王貞治はそう考えなかった。

「僕の素振りは常に120%。汗がダクダク出るぐらいまで、身体の限界まで振る。骨が軋むまで振るんだ」



◎ホームランを打てる段階


そこまでやっておいて初めて、「特別なことをしなくてもホームランを打てる段階」まで自分を持っていけるのだという。

「つまり、ホームランというのは準備したことがキチンとできているだけの話。ホームランを打てる準備をしておくから、ホームランを打てるんであって…」



彼にはホームランを打つまでの自分なりのルーティンがあったという。家での段階、グラウンドに来てからの段階、試合前に鏡の前で集中力を高める段階、それから試合の段階…。

「自分のバッティングの中にちゃんと『打てばスタンドに入る』というだけのものがあるから、ホームランになる。スタンドに入ったからといって『フフフッ』って笑っているようじゃダメなんだ」

つまり、彼はホームランを事前につくっておいてから、それを試合で再現していただけだと言うのである。



◎いただき


王貞治がホームランを打つ時、「これはいただき」という感覚があったそうだ。そして、その感覚は「ピッチャーが投げて打つ前」にやって来たのだという。

「ピッチャーが投げたと思ったら、0.5秒もかからないうちにキャッチャーミットに入っちゃう世界だから、ハッキリくっきりボールを見ているわけじゃない。バッターは『感覚の世界』に生きているんだ」



その感覚というのが「いただき」という感覚であり、それを「いただいただけ」のものがホームランなのだと彼は言う。

「だから、ホームランを打ったからといって特別に喜ぶこともないんだよ(笑)」。



◎感覚のズレ


ところが、年を重ねてくると「『いただき』と思ったものが、思った通りにいただける時と、いただけない時がでてくる」。

彼が引退した時、「王貞治のバッティングができなくなった」と言ったが、それは「いただけるはずのものが、いただけなくなってきたから」なのだという。



今までは「速い」と思った球でも「いただき」と思えば打てた。ところが、調子が悪いと、他の選手が速いと思わない球を、自分だけが「速い」と感じてしまう。

「チームの若い連中に『おい、今日のアイツの球はキレてるか?』と訊いてみると、みんな『いや、普通ですよ』と言う。そういう時、自分の『感覚のズレ』を感じるんだ」

この「ズレ」が重なってきて、「もう限界かな」とか「もういいや」と、辞めることに向かってスタートしていったのだという。



◎間接


バッターボックスに立っていた頃は「すべてが直接だった」という王貞治。

「でもユニフォームを脱いじゃうと、それが『間接』になってしまう。バッターボックスの外から見ていると、球はそんなに速く感じないし、変化球もよく見える。バッターボックスに立たなくなると、バッティングって易しくなっちゃうんだ」





それでも彼は「直接」プレーしている選手の気持ちを慮(おもんぱか)ろうとする。

「松井君(松井秀喜・38歳)は、今もまだあの打席でバットを振って、ボールをひっぱたきたいと思っている。『打ちたい』という気持ちと『打てる』という自信がなかったら、新しいユニフォームを着るというところにはなかなか踏み切れない。でも、アウトコースに広いアメリカの球をホームランにしなきゃならないというのは難しいだろうね」

「イチロー君(鈴木一郎・39歳)は、以前よりもピッチャーのボールの速さを感じるようになってきたんじゃないかな。今シーズンの開幕戦、彼は打席から左足が出るんじゃないかと思うほど後ろに立って構えていたよね。彼が立ち位置を変えているのは、感覚の世界で感じるままに動いているということ。それを思いやるしかない」



不世出のバッター・王貞治は、日本が誇る2大強打者への期待は熱い。

「きっと2人の前には、まだまだ高い山が見えているんだろう。辞めるなんてことを考えていたら、新しいチームのユニフォームを着ようとは思わないからね。イチロー君と松井君は昔も今も、超一流の技術屋なんだよ」

われわれの期待も、また熱い…。





出典:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「王貞治 最強打者たちへ」

世界一となった野球少年「清宮幸太郎」。じつはラガーマン。



世界大会でホームランを放った中学生「清宮幸太郎」。

「投げては最速127km、打ってっは94m弾(大会史上最長)」

エース兼主砲の清宮幸太郎が率いる「東京北砂リトル」は、リトルリーグ世界選手権で世界を制し、その頂きに立った。



この「世界一の野球少年」、じつはラグビー界の大物「清宮克幸」の息子。

「あれ、野球? ラグビーじゃなくて?」

父親の影響で4歳からラグビーボールを操っていたという少年幸太郎は、「ラグビーでは小学校で敵なし」。現在中学生の彼は「高校生よりも上手い」という大物父親のお墨付き。



そんなラグビー少年の幸太郎が野球にも興味を持ったのは、甲子園の「熱い風」に触れたことがそのキッカケ。37年ぶりの決勝再試合、早実と駒大苫小牧の熱気を肌で感じた幸太郎は、「野球もやりたい!」となったのだった。

おそらく父親としては自分の畑のラグビーをやらせたかったのかもしれない。それでも「とりあえず2年間、中1まで野球もやってみろ」とアドバイス。

その「お試し」の2年間で、幸太郎は世界の頂点に立ってしまったのである。



父・克幸の友人は「清宮、ラグビーやらせんなよ。野球やらせたほうが絶対いい」と彼に言う。

父・克幸も「いろんなスポーツを経験させるのは、子育ての大前提」と語っていた。将来の運動能力が開花するのは、12歳ぐらい(小学生)までの経験にかかっているというのである。それゆえ、野球をやらせるのもやぶさかではなかったのだが、まさか世界一とは…。



中学生となった幸太郎はかつて、「夏は甲子園(野球)、冬は花園(ラグビー)」と夢を語っていたという。

中学1年生にして183cm、94kgという「圧倒的な体格」を持つ彼ならば、それができてしまうのかもしれない。





出典:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 10/11号
「父・清宮克幸が語る『世界一』野球少年の育て方」