2013年1月14日月曜日
「急がば回れ」を選んだ「大谷翔平(野球)」。
びわ湖?
その琵琶湖の写真が、日本ハム・ファイターズによる「大谷翔平(おおたに・しょうへい)」獲得への道標(みちしるべ)だった。
大谷翔平と言えば「日米で最高級の評価を受ける高校球児」。花巻東高校でピッチャーだった大谷は、岩手県大会で160kmという豪速球をキャッチャーミットに叩き込んでいる。
ドラフト会議の4日前、大谷はこう明言していた。
「アメリカでプレーさせていただくことに決めました」
それでもあえて、日本ハムはこの大谷をドラフト1位指名したのである。そして、この大器をまずは日本国内で育てようと、「びわ湖」の写真を彼に示したのであった。
その琵琶湖の写真は「急がば回れ」の由来である。
室町時代、東海道から京都に向かう時、その途上には琵琶湖があった。この琵琶湖を抜けるためには、水路と陸路の両方の道が用意されており、見た目には、水路の方が陸路よりも近く見える。
しかし、水路の舟は比叡山から吹き下ろされる強風にさらされるため、遭難する危険も高かった。だから、急ぐのならば遠回りでも瀬田の橋を迂回する陸路を使えと言うのである。そんな歌を詠んだ連歌師が室町時代にいて、その後に「急がば回れ」の格言になったのだという。
日本ハムが大谷翔平に示した「びわ湖」の意味するところは明白であった。
「夢を叶えるためには、アメリカに向かって舟で漕ぎ出るのが近道のように見えるかもしれない。だけど、遠回りに思える日本という陸路を行った方が、結果的には近道だよ」と、その琵琶湖の写真は言うのであった。
「説明を聞いて、これスゲェ…って思ったよね」と感心したのは、日本ハムの監督・栗山英樹氏。「あれを読んだら、オレだってファイターズ(日本ハム)を選ぶよ」。
当の大谷翔平には夢があった。
それは、卒業後に直接アメリカに渡ること。いまだかつて、高校生が直接アメリカの球団と契約した事例などない。だから大谷はそのパイオニアになろうという夢をもっていた。もしそれが叶えば、それは史上初のケースとなる。
この大谷の夢、そしてアメリカに行くんだという強い覚悟は「簡単には覆(くつがえ)らない」、誰もがそう思った…。
しかし、大谷には「迷い」もあった。何より、大谷の両親は日本のプロ野球を経てからの米メジャー挑戦を強く勧めていたのである。
また、意外にも大谷はアメリカに関する情報をあまり持っていなかった。米メジャーの球場を一度も目にしたことすらなかったのである。
「なぜ、日本を飛ばしてアメリカなのか?」。夢への想いばかりが先行している大谷は、この問いに対する明確な答えを持ち合わせていなかった。
「もしかしたら、日本の野球へのマイナス面を感じていいたのかもしれないね」
日本ハムの栗山監督は、言葉にならない大谷の気持ちを推察する。「日本はコーチや監督にいじられて、自分のやりたい野球ができなくなってしまう。アメリカならのびのびと自由にやらせてもらえるという、そんな感覚があったのかな」。
栗山監督が大谷翔平を日本ハムに是非招き入れたいと熱望したのは、「野球選手を育てようとしているんじゃなくて、人を育てようとするプライドと誇り」があったからだという。
栗山監督が大谷を初めて目にしたのは、彼が高校2年生の時。その第一印象は「唯一無二」。日本ハムのジェネラル・マネージャーである山田正雄氏は、大谷を「投手、打者いずれにしても『10年に一人の逸材』」と高く評価する。
それゆえに、大谷を大切に育て上げたい、栗山監督はそう熱望した。そこには今が良ければという発想は一切なかった。
栗山監督は長らく取材者として、アメリカのメジャーやマイナーのみならず、独立リーグまでをつぶさに見てきた経験がある。
そして実感しているのが、「日本の野球界が誇る最大の武器は、技術を学ぶノウハウだ」ということである。若い時にはしっかり技術を学ぶ必要がある。そして、「世界最高のシステムを持っているのは日本なのだ」と栗山監督は自信を持っていた。
熱く訴えかける栗山監督と面と向かった大谷は、心が動くのを感じていた。
「最初は早くアメリカへ行って、厳しい環境の中で自分を磨きたいという意気込みがありました」と大谷は語り始める。「でも自分なりにも考えてみると、必ずしもそういうふうになるわけじゃないなとも思いました」。
栗山監督は「日米の違い」を話し始める。
「日本は小さなマス、アメリカは大きなザル。日本のマスは小さいけれど、大事に汲み取ろうとする。アメリカのザルは大きいけれども、網目に残る水だけが大事にされる」
懇々と語る監督を前に、大谷の心はいよいよ日本ハムに傾いてゆく。
最後まで迷っていた大谷の心を押したのは、「二刀流」という提案だった。
「ピッチャーとバッター、どっちもやるというのはさすがに自分では考えてもみませんでした」と大谷が言う通り、日本ハムの示した「どっちも挑戦すればいい」という提案は予想外だった。そして、大谷の先入観を覆すものでもあった。
大谷自身はまだ、ピッチャーとバッターのどちらがいいのか「自分でも分からない」。ただ、「ピッチャーができない、バッターができないと考えるのは嫌だった」と大谷。
日本ハムはその両方に挑戦させてくれるというのである。これはアメリカでは絶対に不可能なことであろう。
「二刀流、やるよ」と栗山監督。「バッターとしては4番を打てるし、ピッチャーとしてエースになれる。ドラフト1位を2人獲るようなものだよね」。
「急がば回れ」
ついに大谷は「ファイターズにお世話になります」と口にした。
「やってみなきゃわかない」
未来の大谷は、ピッチャーとしても、バッターとしても、その素養は十分である。
「最初っから無理だと言っていたら、すべてが無理」
過去の大谷が160kmを目標にした時も、「できないと思っていたら終わり」だった。
はたして、大谷にとっての近道は海路なのか、陸路なのか?
大谷が最終的に目指すのは、琵琶湖よりもずっとずっと巨大な太平洋の彼方である…!
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2013年 1/24号 [雑誌]
「大谷翔平&日本ハム」
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