2015年3月11日水曜日
オトナとコドモ、二刀流 [大谷翔平]
プロ1年目、19歳の大谷翔平はピッチャーとして3勝、バッターとして3本のホームランを打った。それでも(投打)二刀流への批判は絶えなかった。
ところが2年目、11勝を挙げて10本のホームランを放つや、世間の風向きは一気に変わった。
20歳の大谷は言う。
「やってることは去年と変わらないし、特別なことをやってるわけでもないんですけどね」
そして、こう続ける。
「ただ、常に”きっかけ”を求めて練習しているというのはあります。”閃(ひらめ)き”というか、こういうふうに投げてみよう、こうやって打ってみようというのが、突然、出てきますからね。やってみて何も感じなかったらそれでいいし、継続した先にもっといい閃きが出てくることもあります。常にそういう閃きを追い求めてるんです。自分が変わるときは一瞬で上達しますし、そういうきっかけを大事に考えて練習してますね」
閃きは突然だった。
「部屋でスマホをいじりながら、ダルさん(ダルビッシュ有)の動画を見ていたんです。そうしたら、ふと(セットポジション)をやってみようかなと思いました」
それまでの大谷のピッチングフォームは、ランナーがいない場面では振りかぶるのが当たり前だった。それをセットポジションに変えてみようと閃いたのである。
「最初は、振りかぶる良さもありますし、僕もずっとワインドアップで投げてきたので、変える怖さもありましたけど、まずは試してみようと思って、ダルさんのイメージから入ったんです。そこから、だんだん自分に当てはまる部分を選びながら削っていきました。それがすごくいい感じだったので、すぐにゲームでやってみたんです。あれで手応えをつかんだ部分が去年はすごく大きかったし、そのおかげで前進しましたから、思い切って変えてみて良かったと思ってます」
去年、20歳の誕生日(7月5日)に、大谷は一試合で2本のホームランを打った(マリーンズ戦)。
「最初のホームランは変化球をイメージしていて、ストレートに反応できた感じでした」
1本目は初回、藤岡貴裕の投げたストレートをレフトスタンドに叩き込んだ。
「2本目は、まっすぐを狙って、まっすぐを打ちました。まっすぐのカウントで、まっすぐが来て、まっすぐを狙って、思いっきりいったら入った …。ただそれだけなんですけど(笑)、これがバッターとしては一番気持ちがいいんですよ」
2本目は最終回、金森敬之の内角へのストレートをライトスタンド上段へ突き刺した。一試合2本のホームランは自身初。自らの誕生日を自らで祝う結果となった。
プロになって大谷の身体は大きく変わった。
高校に入学した15歳のときには188cm、66kgで「ユニフォームが風になびいて、みんなに笑われた(母・加代子さん談)」ほどだったが、今では94〜95kg。30kgも増量している。身体つきはすっかり大人になった。だが大谷は
「うーん…、どうなんですかね。自分でオトナになったとは思わないですね」
大谷にとってオトナとは?
「それは、”自分に制限をかけることができる”ということかな。高校時代、『”楽しい”より”正しい”で行動しなさい』と言われてきたんです。すごくきつい練習メニューがあるとして、それは自分はやりたくない、でも自分が成長するためにはやらなきゃいけない。そこで、そのメニューに自分から取り組めるかどうかが大事な要素なんですよね。何が正しいのかを考えて行動できる人がオトナだと思いますし、今の自分はまだまだですけど、制限をかけて行動するのは大事なのかなと思ってます」
そういうオトナ心を意識する大谷だが、一方でこうも言う。
「オトナに必要な”ある程度の制限をかける”という考え方は逆に、できることとできないことの判断を現実的にしてしまう部分もあると思います。今も(投打の)二つをやらせてもらってますけど、自分にできることとできないことを予測したり、自分がどこまで成長するかをイメージしたりすることは、今はできない。だから二つやろうと思ってるわけで。それを安易に、自分はここまでしかできないのかなと、憶測だけで制限をかけてしまうのは無駄なことだと思います。自分がどこまでできるかということに関しては、制限はいらない。コドモはそういう制限はかけないのかなと思います」
野球をはじめた小学3年生のころから、大谷は「プロ野球選手になる」と言い続けてきたという。そして、それを疑ったことは一度もなかった。
「そうやって、周りのオトナたちの前で、声を張って言えるコドモが、実際、プロ野球選手になってるんだと思います」
一方、”正しい”と感ずるオトナ心も忘れない。
「去年のクリスマスに練習したのも、楽しいことより”正しい”ことを考えて行動した結果。だからその日、『あっ、これっていいかもしれないな』という閃きがあったんです。もしクリスマスだからって練習を休んでいたら、その閃きには出会えなかった」
いったい、何を閃いたのか?
「いや、まぁ、それはね(笑)。ピッチングのほうの閃きですけど」
その閃きが何だったのか、大谷は結果で明かしてくれるのだろう。
オトナ心を枠にしながら、コドモ心を遊ばせる。
この規格外の男は、大人らしさも子供らしさも併せもつ、この意味でもまさに「二刀流」である。
(了)
ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
大谷翔平「オトナの僕と、コドモの僕と」
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160kmの夏 [大谷翔平]
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2015年3月10日火曜日
清原の流した涙 [野球]
あと1アウトで日本一が決まる。
そのとき、一塁を守っていた清原が突然、泣き出した。
1987年11月1日
若き清原和博、20歳のあの日
いったい何が起こったのか?
■異変
1987年の日本シリーズ
日本一を争ったのは巨人と西武だった。
西武が3勝2 敗と王手をかけて迎えた第6戦
その最終回までに西武は3-1とリード。
巨人最後の攻撃、先頭4番の原辰徳はライトフライに倒れた。
「ワンアウトをとったあたりから、清原の様子が何か変だった」
ファースト清原の異変を最初に感づいたのは、一塁塁審の寺本勇だった。
清原の唇は小さく歪んでいた。
巨人の5番、吉村禎章はショートゴロ。
これでツーアウト。
すると一塁の清原、走者がいないにもかかわらず、ベースから離れようとしない。
「ハリーアップ(急げ)!」
一塁塁審の寺本は、守備位置につけと再三、清原をうながした。
それでも清原は動こうとしない。
塁審・寺本の怒声を聞こえてさえいないようだった。ただただブルブルと肩を震わせていた。
「何かあったのかなって思った。そうしたら、もう、清原の顔がクシャクシャになっていた」
二塁手の辻は、清原の肩に手をかけながら声をかけた。
「なに泣いてんだ? 試合中だぞ。ボール見えるか?」
「 ……みえます」
清原のそのか細い声は、声になっていなかった。
前代未聞の事態だった。
グラウンド内の選手が試合中に号泣してしまうなど。
そのために試合が一時中断してしまうなど。
「清原が…、泣いています!」
場内アナウンサーは困惑を隠せないまま、実況をつづけた。
「何があったんでしょうか…!」
■憧れ
思えば清原は、幼い頃から巨人のパジャマを着て寝ていたほどの巨人ファンだった。
高校時代、大阪PL学園の4番として甲子園を2度まで制した清原は、当然のように巨人への入団を切望していた。当時巨人の監督だった王貞治も、ドラフトでの清原1位指名をにおわせる発言を繰り返していた。
ところが…
巨人が1位指名したのは、KKコンビの桑田真澄のほうだった。
清原の交渉権は6球団が競合した末、西武が獲得。あまりに予想外な展開に、清原はずっと虚ろだった。会見の席にあらわれた清原の目には、涙があふれんばかりに湛えられていた。
清原の母親は、落胆する息子にこう言った。
「勝手に惚れて、振られただけやないの」
打倒、巨人
打倒、王貞治
西武への入団を決意した清原は、その2つの大目標をかかげた。
清原は語る。
「日本シリーズでジャイアンツを倒すこと、王さんの(ホームラン世界記録)868本を超えようと。それで、『やっぱり清原を指名しとけばよかった』と思わせるような選手になろうと思った」
■悲願
打倒、ジャイアンツ
その目標は、あまりにも早く達成されようとしていた。
あとアウト一つと迫っていた。
「打者を見ていると、自然と(一塁側ジャイアンツベンチの)王さんも視界に入って。そしてツーアウトになったとき、王さんが天を仰いだ。そのときに勝ちを確信したちゅうか、こみ上げてしまったんです」
あのときの号泣を、現在47歳の清原はそう述懐する。
「高校時代から、よう泣いとったからな。強く見せとるけど、ほんまは弱い子なんですよ。あいつらしいわ」
高校で清原の一年先輩の清水孝悦は、そう振り返る。
一塁で清原が号泣して一時中断したした試合だったが、再開後、勝負はあっさりついた。
巨人の6番、篠塚がセンターに平凡なフライを打ち上げて終わったのだった。
こうして打倒ジャイアンツの悲願は、あっさり達成された。
プロ入り2年目、清原20歳にして成し遂げられてしまったのだ。
■死球
次なる大目標は、王貞治のホームラン世界記録、868本だった。
この気の遠くなるような金字塔へ向け、清原はバットを振り続けた。
プロ1年目で清原は、ホームランを31本打って新人王を獲得していた。
ところが2年目、苛烈に攻められるインコースに苦しんだ。
「ストライクを取りに行く球じゃない。『ぶつけてもええ』という球やから。そら、徹底してましたよ」
徐々に清原は調子を崩していった。2年目に定着した4番の座も、3番、そして6番にまで降格していった。
清原は語る。
「『清原はインコースが弱点だ』と評論している奴らを黙らせてやろうと、強引に打ちにいって、自分のフォームを見失った感がある」
「ぶつけてもええ」と徹底してインコースに投げ込まれる球に、必然、デッドボールを多く食らった。
1年目は11個、2年目は10個。そして3年目は15個にまで急増して死球王となった。それから4年連続して、死球王は清原が獲得することとなった。
「どうせ打てないんだったら、ぶつかったれ、みたいなね。肉を切らせて骨を断つじゃないけど、僕は命をかけてやってましたから」
死球は清原にとって宿命となった。
引退するまで続いた死球禍。
通算死球数196個は日本記録である。
■不真面目
清原が入団して以来、西武は日本シリーズを3連覇した。
清原が西武でプレーした11年間、8度パリーグを制し、6度の日本一に輝いている。
「23年間プロでやりましたけど、この頃のライオンズがやっぱり、最強のチームだと思います」と清原は振り返る。
だが、この「強すぎる西武」が清原個人には災いした。
「ぶっちぎりで優勝することが多かったので、後半はほぼ消化ゲームみたいな感じだった。消化ゲームになると集中力が切れてしまうんですよ」
ここぞと勝負がかかった場面では滅法強かった清原も、何でもないときにはいとも簡単に凡退してしまうのだった。
「まあ、それが僕の性格なんでしょうね。最初の10年間、あんなに遊び過ぎずに、もっと一生懸命野球をやっていれば……と思いますね」
不真面目だった若い頃、清原は幾度となく門限破りを繰り返した。その罰金は破るほど倍額になり、ついには200万円にまで跳ね上がってしまっていた。
金森栄治はこう振り返る。
「清原はそれだけあらゆる意味で大物だったということですよ。僕は怖くて門限なんか破れなかった。厳しかったですもん。僕が破ったら、絶対二軍です」
西岡良洋はこう語る。
「僕らの頃は、『真面目じゃダメだ』って言われたんですよ。『めいっぱい野球をやって、めいっぱい遊べ』と。周りがそうだったから。でも、遊びは一流になってからやれとは言われましたけど」
清原もこう白状する。
「5点差で負けていたら、『早く終わって遊びにいきたい』という気持ちの方が強かったですからね」
■錯覚
早熟の不運。
あまりに早く大目標の一つ(打倒巨人)を達成してしまったゆえか、もう一つの大目標、ホームラン世界一はどこか疎かになっていた。
清原本人もそれは認める。
「優勝すればいいんだっていうのがあって、数字との追いかけっこはだんだんしなくなっていった」
それでも清原は打った。
通算100本ホームランはプロ4年目で達成。7年目で200本を超えた。そのときの年齢は王貞治よりも若かった。
遊びも一生懸命だったが、練習もするときには徹底してした。深夜2〜3時ころまで寮の中庭でバットを振り続けた。
だが、もっとも近いと言われた本塁打のタイトルを、清原はついぞ獲ることができなかった。
「何度も優勝し、その4番として評価され、錯覚してしまった部分があった。巨人に入ってからの練習量を、20代のときにこなしていれば…、とんでもない数字が残せたと思うんですよ」
■大言
2008年、現役最後の引退試合
清原に花束を送ったのは、他ならぬ王貞治だった。
「生まれ変わったら、一緒のチームでホームラン争いをしよう」
清原にそう声をかけたという。
清原は振り返る。
「あぁ、いい野球人生だったなって。でも、もったいない野球人生だったな、とも思います」
現役時代、清原の通算ホームラン数は500を超えている。王貞治の868には及ばぬとはいえ、史上500本を超えた日本人はまだ8人しかいない。
それでも「もったいなかった」と清原は言った。そしてこうも続けた。
「もっと一生懸命やっていれば、王さんの868本は抜けなかったとしても、それに近い数字は残せたと思いますね」
大言壮語か
いや清原が言えば、そうは聞こえない。
(了)
ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
清原和博「あの日、涙を流した僕へ」
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ブラジルで走り続けた日々 [三浦知良]
「カズ」こと三浦知良がブラジルに渡ったのは15歳のときだった(1982)。
ブラジルの名門、サントスFCとプロ契約を交わしたのは1986年、19歳のとき。だが、まったくいいところが見せられず、地元の新聞からは酷評されるばかりだった。
”日本に帰ったほうがいい”
出場機会は2試合にとどまり、10点満点中2点という最低評価がくだされた。
■不安
先の見えない不安のなかに迎えた20歳。サントスFCからマツバラへと移籍した。
当時のことをカズはこう語る。
「(クラブに用意されたホテルは)3畳一間の小屋みたいなところ。街(カンバラ市)の人口は1万人で娯楽が何もない。歓楽街もなくて、散歩して街道に出るとすぐに街外れになっちゃうぐらいの小さな街。だから生活自体は退屈で耐えられなかった。一日がすごく長くてね。りさ子からの手紙が唯一の楽しみだった。でも、楽しみにしているときに限って郵便局がストになって、3ヵ月届かなかったりしてね。あとは、部屋のテレビで『ひょうきん族』や『たけしの元気が出るテレビ』の録画を見るくらいだった」
休みになるとカズは、ブラジル随一の大都市サンパウロへと飛んだ。バスだと片道6時間かかるところ、飛行機なら1時間でいけた。
「風が吹くと着陸をやり直したり恐かったけど、1時間で帰れるならと乗った。『いっぱいだからダメ』と断られても、練習に間に合わないからどうしても飛行機で戻らなくちゃならない。だから自分のセイコーの腕時計をカウンターで渡して、強引に乗せてもらったこともあった。席がいっぱいだから、後ろ向きで乗り込んだりしてね」
カズが「命がけだった」と言うように、6人乗りの小型プロペラ機はひどく揺れた。
田舎町のカンバラ市からアウェーへの移動となると、じつに過酷だった。
「往復で40時間以上バスに揺られて、日帰りで試合なんてこともあった。帰りはバスの通路にクッションを敷いて寝たりしたこともある。だから、10時間で行けるところなんて近いと思った」
悪路の中、バンクなど日常茶飯事。片道だけで2回もパンクすることもあった。
■試合第一
1987年9月、カズはCRBに移籍した。
「どんな小さなクラブでも、大きなクラブと変わらず当たりは激しい。みんな本気なんです。1試合で何回も激しく削られる。小さくても地元の新聞には良いプレーは評価され、悪ければ酷評もされる。どんなに安くても勝ちボーナスはあったので、みんなが必死だった。グラウンドはめちゃくちゃだし、豆電球しかないようなところで練習試合をやったり、野原みたいなところで招待試合をしたりもしていた」
CRBのあるマセイオは海辺の大都市。40℃を超える日がつづくことも珍しくなかった(年平均気温は25℃と高温)。肌は自ずと真っ黒になっていた。
「日本人はサッカーが下手だというイメージがあるから、『あれ、案外こいつ上手いじゃないか』、『おもしろいプレーするな』ということで、マツバラでもCRBでも人気がすぐ出たんですね。またぎのフェイントとかやるとみんな喜んでくれて。そういう意味では、自分自身は成功したなと感じていた。でも一方で、『ここじゃダメだ』、『ここじゃダメだ』とずっと思っていました」
当時のカズが目指していたのは、サンパウロ州選手権(カンピオナート・パウリスタ)への出場。ブラジルで最もレベルが高いとされていた大会だ。テレビ放映もあり、ブラジル全土からの注目度がきわめて高かった。
「上に這い上がっていくには、やっぱり『サンパウロ州選手権までいかなきゃダメだろう』と思っていたんです」
そう思い極めていたカズは、CRBから持ちかけられた翌年の契約を断った。月約40万円というチーム最高額を提示されてなお。そして月3〜5万円という低給のキンゼ・デ・ジャウーを選んだ。このチームはサンパウロ州選手権1部への出場が決まっていたからだ。
「ブラジル人にとってはお金は重要だけど、僕はブラジル人とは違うから、そのあとで、いつか稼げばいいと考えていた。いまは力をつけるときだ、試合にたくさん出て、活躍したいとひたすら思っていた。お金のことなんて、まったく考えなかった」
あくまでも「試合に出ることが第一義」。そのためにはどんな苦労も苦労とは感じられなかった。
「常に不安はありましたよ。それを解消するために、ひたすらトレーニングをして、走ったんです。クラブが休みの日も自分で走った。だから今も、休みでも走るという習性がついているんです。練習が休みでも、とにかく走れる場所をみつけては走る。公園でも、山でも。ジャウーの時代もそうだけど、『夜、ひとりで走っているヤツがいたら、それはカズだ』って言われていたぐらいだから」
漠とした未来への不安を打ち消さんと、カズはひたすら走った。
「自分はどうやって上に上がっていけばいいんだ? 挫折じゃないけど、絶望的にもなった。それでも練習を続けているうちに、急にどこかで伸びたんだろうね。知らないうちにステップアップはしていたんです。いま振り返れば、『力をつけた一年』だったんだと思うんです」
キンゼ・デ・ジャウーに入ったカズは1988年、サンパウロ州選手のコリンチャンス戦で決勝ゴールを決める。全国放送されたことで、日本人カズの名は一気にブラジル中に響き渡った。
それから2年後、1990年にカズは日本へ凱旋帰国した。
「日本代表でワールドカップに出るというのが目標だったから、それには日本リーグに行くしかない、という考えを持っていた。当時は、外国でプレーしている選手を日本代表に呼ぶというスタイルがなかったからね。だからワールドカップを考えたら、いずれは日本に戻らなければならないと当時から思っていました」
その後の日本での活躍は、言うまでもない。
■礎
2015年、カズのプロ生活は30年目に突入した。
ブラジルにいた20歳のころの写真を見ながら、カズはつぶやく。
「47歳の今も、20歳のときと情熱はまったく変わっていない。あの頃のひとつひとつの経験は本当に重かった。それが今の自分をつくった礎になっていることは間違いない」
そんな20歳の頃の自分に「どんな言葉をかけたい?」と問われ、カズはこう答えた。
「あんまり調子に乗るな、と言いたいね(笑)」
(了)
ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
三浦知良「20歳の自分が、47歳の僕の礎になっている」
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2015年3月9日月曜日
一朗がイチローになるまで [野球]
僧・空海は、18歳で教育機関からドロップアウトした。
その後13年間、31歳で遣唐使船に乗り込むまでの間ずっと、何者でもなかった。「謎の空白時代」が若き空海のなかにあった。
立花隆は言う。
「一介の修行僧だった空海が、唐においてやがて最高の知識人として遇されるようになったのは、この空白時代の修行の成果が彼の地で花開いたからだ、と私は考える」
■一朗
イチローが20歳になったばかりの頃、彼はまだ「イチロー」ではなかった。まだ「鈴木一朗」だった。
20歳の誕生日、一朗はハワイにいた。
当時ルームメイトだった林孝哉は言う。
「おめでとうを言った記憶もないですね。昼はマックです。僕は”何とかセット”を頼んで、ハンバーガーとポテト、コーラって感じですけど、イチローは変わってますから、いつでもチーズバーガー3個(笑)。だから誕生日もそうだったのかなぁ」
高3の夏、愛知県大会で打率6割4分3厘、ホームラン3本と結果を出した鈴木一朗は、ドラフト4位指名でオリックスに入団した。
その1年目、一朗はファームで打ちまくった。開幕から3ヵ月で打率3割6分7厘というハイアベレージを記録。一軍に呼ばれた。だが一軍昇格を告げられた一朗は、意外なことを言った。
「一軍はまだ早すぎます。僕は二軍でいい」
しかし、そんな願いが聞き入れられるわけがない。一朗はしぶしぶ新幹線に乗り込んだという。
林は言う。
「『お前、すごいなあ』って話したことがあるんです。そうしたらイチローが『4割狙ってたんだけど』って…。そりゃビックリしましたよ。次元が違いましたよね。あの言葉はすごく衝撃的だった」
一朗18歳の年、打率3割6分6厘を記録して首位打者を獲得した。ジュニア・オールスターでは代打ホームランをライトスタンドへ叩き込んで、賞金100万円を手にした。
翌19歳の年、一朗は「遠回り」を強いられた。
当時の首脳陣との軋轢があり、二軍行きを命ぜられた。この時期、一朗は先輩に教えられた「プロならでは」の金の使い方や遊び方に反発を覚えていた。先輩たちがいい酒だと誇らしげに飲むヘネシーXOも、さっぱり美味しくなかった。
若き一朗の価値観にそぐわぬものが「憧れの世界」には多々あった。固まった先入観を改めない「かつての」名選手たち。そうした人たちが幅を利かせるプロ野球社会の現実に、19歳の一朗は失望していた。
それでも一朗は自分を見失うまいと懸命だった。
林は、ハワイでの一朗をよく覚えていた。
「部屋で一緒にテレビを見ていると、いきなりベッドの上で腹筋をはじめるんです。でも20回でやめちゃう。だから冗談で『20回しかせぇへんのやったら、すんなや』って言ったんです。そしたら真剣な顔で、『違う。20回という数が大事なんだ』って返されたことがありました。『一気に100回じゃなくて、20回を何度も繰り返すことに意味があるんだ』と。…あの真剣なイチローの顔。ものすごく印象に残ってますね」
ハワイでのウインターリーグの開幕直前、こんなやりとりがあった。
「イチローと夜間練習をしていたんです。そうしたらイチローが鏡を見ながらバットを振って、『これ、かっこよくない?』と訊いてきた。それが振り子打法でした。あの夜が振り子のスタートだったんです。『ええんちゃう?』と言ったらイチロー、『じゃあ試してみるわ』って。その直後の開幕戦で、いきなり5打数5安打だったかな。もともと打てたのに思い切ってフォームを変えるんですから、たいしたもんですよ」
ハワイのウインターリーグで一朗は打率3割1分1厘を記録。日本人で唯一、ベストナインに選ばれた(同リーグは日米韓3ヵ国から派遣された選手らで争われた)。
■聞く耳
一朗は仰天した。
分厚いドルの札束がドサッと落とされた。
白いエナメルの靴に、金のサングラス。
オリックスの新監督、仰木彬であった。
突然ハワイにやってきた仰木監督は、一朗の打撃をケージに貼りついて見ていた。ハワイから帰った仰木監督は、一軍バッティングコーチ(当時)の新井宏昌にこう言った。
「若くてイキのいいのがいる。お前の知らん選手でいいのがおるんや」
さらに、こう言った。
「10年は安泰やで」
新井は実際に一朗のバッティングを見て驚いた。
「タイミングの取り方、しなやかさ…。あの振り子は衝撃でした。前の足を大きく動かして自分からピッチャーに仕掛けて、軸を動かしながら攻め込んでいく。あんな風に打つ選手を見たことがありませんでした。ですが、あれだけ大きく動いたしまうとタイミングを外されやすいので、一軍のコーチ陣の中には『あの打ち方じゃダメだ』という人もいました。でも20歳の彼は、自分の主張を曲げなかった」
主張は曲げないが「聞く耳」を一朗はもっていた。
「たとえばティーを打つとき、『ピッチャーの動きに合わせてバッターがタイミングを取るのが野球やろ』と言われれば、一朗は先に動き出さないように意識した。『ステップし終わったときに右に流れないように』と、きちんと振り切る練習を勧めたら、これにも彼は毎日取り組んだ。ベースの部分では自分の主張を通す一方、これは必要な練習だと思えば徹底的にやるんです。そこを見分ける目を、20歳の鈴木一朗はもっていましたね」
■イチロー
「あいつはスーパースターになりますよ」
新井は仰木監督にそう言った。
ところが当時のパ・リーグには「鈴木」姓が多かった。近鉄には鈴木貴久が、西武には鈴木健が、日本ハムにも鈴木慶裕が…。
新井は言う。
「新聞の打撃10傑を見ても、鈴木、鈴木、鈴木って並ぶ。これじゃウチの鈴木が打っても『どこの鈴木やねん』となるでしょう(笑)。だったら鈴木じゃなくて『一朗』でいこうかと仰木さんに言ってみたんです。佐藤和弘の『パンチ』と併せて、カタカナの『イチロー』でいこう、と」
当時の仰木監督は「パリーグの広報部長」と呼ばれており、注目を浴びる仕掛けは大好きだった。
新井は続ける。
「『お、そうか?』なんて言って、すぐに乗ってきました(笑)」
鈴木一朗から「イチロー」へ。
彼が公(おおやけ)にイチローとなったのは、20歳のときだった(1994)。
そして伝説は始まった。
驚異的なペースでヒットを量産したイチローは、打率を4割にまで乗せた。オールスターに初出場し、56試合連続出塁の記録をやぶって69まで伸ばした。そしてイチローは前人未到の200安打を達成。その後、210安打まで記録をのばした。
今から10年前、イチローはこう言っていた。
「鈴木一朗とイチローは別人です。鈴木一朗はイチローに作品を作らせている感覚です。今までの10年は、イチローが鈴木一朗よりもだいぶ先を走っていましたから、そこに追いつけなかった。でも、ようやく追い抜いた。もはや、彼は僕の一部です(笑)」
まず10年間は、イチローが鈴木一朗の先を走った。
そして次の10年、鈴木一朗がイチローを抜き返した。
鈴木一朗はイチローとずっと競い合ってきた。
41歳になった今も、ずっと。
(了)
ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
「二十歳のイチロー、誕生秘話」
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4,000の安打と8,000の凡打。イチロー [野球]
大震災後の神戸の想い「イチローなら絶対にやってくれる…!」
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