2017年5月13日土曜日
相手がいてもいなくても…[小平奈緒]
「狭い枠のなかで頑張っている…」
ソチ五輪の頃、小平奈緒(スピードスケート)は、そう感じていた。
「最初のバンクーバー五輪までは楽しんでやれていましたが、それはまだ経験も浅くて、あまり世界を見ていなかったので。結局、あの頃(ソチ五輪)は、自分の理想とする目的がはっきりしていなかったんだろうと思います」
なにを、どうしたらいいのか?
オランダへ、武者修行の旅にでた。
小平は言う。
「ソチの頃は、自分を他人と比較している部分もあったと思います。でも、オランダへ行ってみたら、向こうは子供のころから個人を認められて育ってきているなと感じて。親は誰かと比べてできるできないではなく、時間がかかっても本人がどれだけ成長できたかを褒めるので、
『なんか日本とは違うな。これが文化かな?』
と思ったんです。そういう目でチームの選手を見ると、自分で身につけたことに対しての自信がすごく強い。私もそういうところで自信をもつようにすればいいんだと思ったんです」
オランダでの修行中、小平奈緒はスピードスケート女子500mでW杯総合優勝をはたす(2014-15シーズン)。
小平は言う。
「じつはオランダへ行った1年目は記録が伸びなかったんです。でも、たまたまワールドカップで勝って、総合優勝したら急に注目されて。そのことに疑問をもちつづけていました。そういうなかで
『勝ち負けは関係ないな』
と思うようになりました。競技なので順位はつくし、順位もたしかに重要ですが、それは結果としてついてくるだけのもの。
『(順位は)目指す目的ではないな』
と。スポーッツって、まず自分をふくめて全員がベストのパフォーマンスを出すことを目指していて、順位はそのうえで決まるものです。だから、結果が2位でも3位でも、自分がベストを尽くしていれば他の人を敬う気持ちも持てるし、勝っても他の人を蹴落としたいという気持ちのガッツポーズにはならないと思うんです」
オランダで独り、自転車をこいでいると、ふと、この言葉が頭にうかんだ。
”与えられるモノは有限。求めるモノは無限”
小平は言う。
「オランダに行って。知らなかった世界を見てきたことで、当たり前に思っていたこれまでの世界が、輝いて見えたんです」
そして帰国を決意する。
「帰国も自分で決めたからこそ、です。与えられるだけだと、狭いカゴの中にいるようで義務感も感じます。でも自分で求めたことには自分に責任があるし、自分が何をやっても正解だと自信をもてると思うから」
オランダの2年間で、小平に迷いはなくなった。
かつて古武術を教わったときに聞いた、この言葉がすんなりと理解できた。
”相手がいてもいなくても一緒。ただ自分の動きをするだけ”
同走の相手を意識しすぎず、といって自分ひとりだけに集中しすぎない精神状態。相手の雰囲気を感じながらも、自分の動きをする。これがタイムを競うスポーツの楽しみ方なんだ、と。
小平は言う。
「いまは技術的にも、氷と対話できている部分が多いです」
今季(2016-17シーズン)の小平は、ほとんど無敵だった。
世界距離別選手権500mで優勝。ワールドカップも8戦全勝、2度目の種目別総合優勝。500mの日本記録を36秒75に塗り替えた。
だが、順位や結果に、小平は以前ほどこだわらない。
「順位は相手との兼ね合いであり、自分ではコントロールできないもの。自分でどうしようもないことを考えるのにエネルギーを使うより、自分でどうにかできる部分を全力で考えます」
最後に、金メダルの期待が高まる平昌オリンピックに、小平はこう語った。
「オリンピックの舞台で、わたしが本当にやりたいのは、世界の選手と自分の持っている力を出し合って、氷の上で自分を表現し合うこと。それは戦いではなく”仕合い”。それがスポーツの本当の醍醐味だと思います」
(了)
出典:小平奈緒「ただ、ベストな自分を追い求めて」
Number(ナンバー)925号 スポーツ 嫌われる勇気
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エディーの「嫌われる勇気」[ラグビー]
エディー・ジョーンズ、57歳。
「選手から好かれる必要などない」と断言する、この男。その実績たるや周知のとおり、ラグビー日本代表を率いた2015年W杯、常勝の巨人軍団、南アフリカ撃破という大金星をもたらした。
ワールドカップ後に日本を去ったエディーは、ラグビーの母国イングランドに渡る。そしてイングランド代表のHC(ヘッドコーチ)に就任。イングランド代表を、オールブラックスに並ぶ18連勝へとみちびき、シックス・ネーションズ(欧州6ヵ国のリーグ戦)を連覇。
エディーは言う。
「選手から好かれる必要などないのです。嫌われても全くかまいません。ただし、選手から『リスペクト(敬意)』をもたれていないとすれば、それは指導者失格です」
Number誌は問う、孤独ではないか?と。
エディーは答える。
「指導者とは、孤独なのです。絶対にね。逆に聞きたいですね、選手たちから孤立して、何の問題があるのか、と。むしろ、孤立しないといけないのです。たとえば選考漏れした選手と、その決断を下した私が、同じ気持ちになれるはずがない。たとえばイングランド代表のキャンプに30人招集し、ハードワークにあたらせる。そこから7人を落とし、23人のメンバーを選ばないといけない。感情的に距離を置いておかないと、そんなことできないでしょう。感情を切り離すことによって、自分の仕事に集中できる。まさに、嫌われる勇気が必要なのです」
エディーはつづける。
「わたしに嫌われる勇気があるとすれば、それは『自分を貫く勇気』です。自分を信じて、自分自身であり続ける。多くの日本人は、他者から好かれたいと思うあまり、いつも他人の顔色をうかがって生きています。その結果、自分であることを貫けない。選手はもちろん、コーチ陣にもそれを感じます。ここイングランドでも、同じ文化を感じます。国土が狭く、人口密度の高い島国では、他者との精神的な距離が近すぎる。敵をつくったときの代償が大きいからです。だから日本やイングランドでは、他者の顔色をうかがって、本音を隠した生き方を選ぶ人が多いのではないでしょうか。アメリカやオーストラリアでは見られない傾向です(注:エディーの生国はオーストラリア)」
エディーは言う。
「私はいつもアウトサイダーでした。オーストラリアでは半分日本人だとして差別され、日本では集団の『和』を乱す外国人として扱われ、イングランドに来た現在も、初の外国人監督として同じような目で見られています。もともとイングランドの人間は、オーストラリアが好きではありませんあらね。私はどこへ行ってもアウトサイダーなのです」
2012年、エディーが日本代表HC(ヘッドコーチ)に就任したとき、多くのラグビー関係者は「日本は世界では勝てない」と言っていた。
エディーは言う。
「『なぜなら日本人は身体が小さすぎる』とね。そんなことはわかっている。問題は『与えられたものをどう使うか』なのです。身体の小ささは、スピードにつながります。持久力にもつながります。足りないものに注目しても、出てくるのは言い訳だけです。われわれに与えられた武器は何なのかを考えなければなりません。『何が与えられているか』ではなく、『与えられたものをどう使うか』ということです」
エディーはつづける。
「多くの指導者は、選手の『現在』を見て、指導方針を考えます。そうすると足りないところばかりに目が向いてしまう。そうではなく、選手の『未来』を見るのです。数年後、その選手が大活躍している姿をイメージし、そこから逆算すれば、何を伸ばしていけばいいかわかります。才能とは、フィジカルや技術ばかりではありません。精神的な才能にも注目すべきです。たとえ技術的に未熟であっても、ハードワークに耐えられるだけの勇気をもっているなら、それは大きな才能です。タフな課題に挑む決断をくだした人間だけが、世界の舞台で活躍できるのです」
エディーは、さらに言う。
「たとえば日本代表時代、フルバックの五郎丸歩選手には、ほかの選手とは違った枠(フレームワーク)を与えていました。かれは人間的にもプレーヤー的にも少し特殊なタイプだったので、月曜日には全体練習から離れ、キックを中心とした自由度の高いメニューを与えました。ワールドカップが終わり、クリスマス休暇で日本に戻ると、テレビでたくさんの代表選手を見かけました。五郎丸選手は国民的スターになっていました。あのとき、もう少し厳しく言ってあげる指導者が必要だったのではないかと思っています」
サッカーにも話がおよぶ。
「たとえばサッカー日本代表の香川選手は、とてもクリエイティブなプレーヤーです。しかし彼の能力を最大限に引き出せたのは、ドルトムント時代のユンゲル・クロップ監督だけでした。おそらくクロップは、香川選手に最適な枠(フレームワーク)を用意したのでしょう。常に信頼を寄せ、失敗を恐れさせず、大きなフレームワークを与えた。感情のハードワークを後押しした。個人的見解として言わせてもらうなら、日本代表での香川選手はとても窮屈にみえます」
最後に、エディーはこう語った。
「成功は、その場かぎりで終わるものです。たとえば2015年のW杯最終戦(対アメリカ)は日曜日の夜でした。わたしは翌朝には、つぎの目標に向かっていました。なぜか? わたしは日本のラグビー界に残せるものはすべて残し、全力を出し切った。その実感だけが、わたしを次の目標へと向かわせます。もしも全力を出し切れていなかったら、その場にとどまってしまうでしょう。つねに全力を出し切ることは、次なる目標に立ち向かうためにも大切なのです」
出典:エディー・ジョーンズ「すべては勇気の問題だ」
Number(ナンバー)925号 スポーツ 嫌われる勇気
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2017年5月12日金曜日
論語と野球[栗山英樹]
話:栗山英樹(北海道日本ハムファイターズ監督)
ぼくにとって、むかしの書物の存在は大きかったと思います。『論語』だったり『菜根譚』だったり、
『韓非子』、『言志四録』、『十八史略』もそう……
そういう本を読みはじめたのは、40歳になった頃かな。
いろんな方に会うようになって、社会で活躍する人の共通点みたいなものをイメージしはじめたんです。いつも声がでかいとか、たくさん食べるとか、よく笑うとか、いろんなところに共通項がある。
この人たちはいつも、なにを根っこに考えているんだろうと思って訊いてみると、ほとんどの人が中国古典に行き着いているということがわかりました。
なぜ、みんなが『論語と算盤』って言うんだろうって。
人のために尽くす道徳心と、お金を稼いで利潤を求めることって、一見、対極にありそうじゃないですか。でも、この本の冒頭には、日本というのは「サムライの魂と中国の歴史でつちかったものを組み合わせるといい」と書かれているんです。
この本の著者でもある渋沢栄一って人は、幕末の時代、江戸にでて、その後、世の中のために会社をつくった。幕臣から実業家に転身したわけで、つまり考え方を変えたってことですよね。それってすごい。しかも、あの時代は金儲けに走った人はみんなが財閥をつくったのに、一番デカい財閥をつくれたはずの人がそれをしなかった。私利私欲に走ることなく、公益を図ることを生涯にわたって貫いたんですから、そりゃ、すごいでしょう。
今まで何人もの選手に『論語と算盤』を渡しました。今年も開幕投手の有原航平に、この本をわたしました。
そういえば、(田中)賢介に「オススメの本はないか」と訊かれたことがありました。もちろん『論語と算盤』を渡して、あとは『木のいのち木のこころ』を…。
これは人を育てるのにすごく役に立つ本なんです。
あとは『羆撃ち』と『ドジャース、ブルックリンに還る』だったかな。
読みやすい本、楽しい感じの本、ちょっと小難しくて勉強になる本を選びました。賢介は野球を勉強するためのチャンスやヒントが野球以外のところにあることを知っているんでしょう。
ぼく自身、今年のキャンプではずっと『禅と日本野球』という川上哲治さんの本を読んでいましたし、去年も『巨人V9 50年目の真実』を読みました。
もちろん『論語』は何度も読み返しますし、ぼくの発想はほとんどそこから来ています。なぜかって答えは単純ですよ。たった100年ちょっとの人の歴史より、何千年の歴史のほうにたくさんの答えがあるに決まってるからです。
そうじゃじゃなかったら、2000年も前の『論語』をみんなが読むはずがないんです。それは、この本の中に正しい答えがあることをみんなが知ってるからだと思います。結局、監督の仕事は人のために尽くす、人のためになる…、そこに尽きるんです。
本を一冊、読み切ったとき、自分に何が起こるのかということを、選手たちには感じてほしい。
その体験を大切にしてほしいと思っています。
…
出典:栗山英樹『若手を育てる読書術』
Number(ナンバー)925号 スポーツ 嫌われる勇気
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2017年5月10日水曜日
浅田真央の21年間[フィギュア]
浅田真央(あさだ・まお)。
スケートをはじめたのは5歳のとき。
「わたしもトリプルアクセルを跳びたい!」
伊藤みどりに憧れた少女は、その一心で氷上をぴょんぴょんと跳ねまわっていた。
2005年3月、14歳で世界ジュニア優勝。
日本スケート連盟は浅田真央を「将来のオリンピック金メダル候補」として、一足早くシニアへと移行させた。
◇15歳の世界女王
2005年12月16日
GP(グランプリ)ファイナル
SP(ショートプログラム)
冬の代々木第一体育館は、一万をこえる大観衆の熱気でむせかえっていた。
居並ぶ世界のトップ6。
本命視されていたのは絶対の世界女王、ロシアのスルツカヤ。この日まで、7大会連続優勝、圧倒的な強さを誇っていた。
日本からは中野友加里、安藤美姫。そして一ヶ月前にシニアデビューしたばかりの浅田真央(あさだ・まお)がいた。まだ中学生、可憐な15歳であった。
〜Number誌より〜
16日、いざショートプログラムが始まると、予想は覆された。オレンジの鮮やかな衣装をまとった浅田が演じるのは「カルメン」。冒頭のトリプルルッツを決めると、つづくトリプルフリップ、トリプルループも難なく決め、最後は腰の横で右手をひらひらと振って締めくくる。
得点が出ると、キス&クライで「すごーい!」と浅田の口がうごく。64.38点の自己最高得点。スルツカヤを抑えトップに立つ。
「まさか」の出来事に、観客席は惜しみない拍手を贈った。
翌17日、GP(グランプリ)ファイナル最終日、フリーの演技。
歴史的な瞬間への期待と興奮が、代々木第一体育館に渦巻いていた。その喧騒のまっただ中にいたのは浅田真央、15歳。ちょうちん袖の衣装に身をつつんだ、身長わずか158cm。
最終滑走者のアナウンスが場内にひびく。
「6番、浅田真央さん。ニッポン」
15歳の少女は、弾むようにリングへ飛び出した。まるで発表会で踊るかのような気軽さで。
しばしの静寂。
そして曲がながれる。
「くるみ割り人形」
振付師、ローリー・ニコルは言う。
「彼女の純粋さをうまく表現させてあげたかった。クララという無垢な少女のキャラクターを与えようと思ったのです」
冒頭、浅田はトリプルアクセルを軽やかに跳ぶ。
控え室のモニターを見守っていたロシアのソコロワは、「ハラショー(すばらしい)…」と思わずつぶやいていた。
〜Number誌〜
アクセル成功への大拍手に応えるように、浅田は波にのる。
後半、3回転 - 2回転のコンビネーションジャンプに成功すると、ガッツポーツまで飛びだす。氷上で演じることそれ自体への喜びがあふれるような滑りだった。
最後のポーズを決めると、観客がいっせいに立ち上がる。四方に手を振っておじぎをする浅田に、次々に花束が投げ込まれる。浅田は観客席に向かうと、笑顔で花束、ぬいぐるみを受け取り、両手いっぱいに抱えた。
…
技術点が出る。笑顔。
演技構成点にも笑顔。
総合得点が出る。「189.62」。
観た瞬間、「えーっ!」と驚きの表情を浮かべた浅田を、コーチの山田満知子が抱きすくめた。ふたたびスタンディングオベーションとなった観客席に右手で懸命に手を振ると、おじぎをした浅田は、左手にドラえもんのぬいぐるみを抱えて去っていった。
15歳の世界女王が誕生した瞬間だった。
なによりも天真爛漫としか言いようのない、はつらつとした演技と笑顔で、会場であれテレビを通してであれ、観る者の心に強烈なインパクトを与えた。
振付師のニコルは、当時を振り返る。
「なんてかわいいんでしょう! 当時の真央はまだ小さくて、本当にあどけなかった。無垢に滑っている才能の塊でした」
伊藤みどりは言う。
「あの日の演技を、今でも私はよく覚えています。とうとうトリプルアクセルを受け継ぐ後輩が現れてくれた。そう思うと嬉しくて、カナダのキッチナーのリンクで『よし、やった!』と跳びあがって喜びました」
中野友加里(3位)は、こう言う。
「あれ(トリプルアクセル)は素晴らしかったですね。いとも簡単にやってのけるので、自分が一生懸命跳んでいるのが嫌になったくらいです。衝撃的でした。誰もトライしようとしない難易度の高い構成を、15歳でやってのけたのですからね」
敗れた女王、スルツカヤ(2位)だけは不機嫌さを隠さなかった。
「わたしは負けていません。ただ、彼女の若さ、ひたむきさを、うらやましく思う自分もいたかもしれません」
ジャーナリスト、タチアナ・フレイドは記者仲間とこんな会話をかわしていた。
「きっとマオは、今後世界のトップを争っていくんだろうね」
◇オリンピックの年齢制限
ISU(国際スケート連盟)の規定にしたがえば、オリンピック前年の6月30日まで「15歳」に達していなければ、オリンピックへの出場資格があたえられない。
1990年9月15日生まれの浅田真央は残念ながら、トリノ五輪の前年であった2005年6月30日、まだ「14歳」、87日ほど足りなかった。浅田本人は当然、オリンピックへの出場資格がないのはわかっていた。
あどけない笑顔で、浅田はマイクに向かって言った。
「オリンピックは4年後のバンクーバーでがんばります。今は、ファイナル優勝のご褒美にレゴブロックを買ってもらうので楽しみです」
張り詰めていた記者たちは、ドッと笑った。
しかし、GP(グランプリ)ファイナル優勝の強烈なインパクトは、世間に待望論を沸き上がらせていた。
「オリンピック規程を変えて、浅田真央をトリノ五輪へ!」
朝日新聞は社説で、「真央さんを外した争いでは、トリノの優勝者は真の世界一とはいえなくなる」と主張した。
当時首相であった小泉純一郎氏までがコメントを発した。
「浅田選手はきれいで素晴らしい。なぜオリンピックに出られないのか不思議なんだよ。(トリノ五輪に)出てもらいたいと思う。やっぱり優秀な人にどんどん出てもらった方がオリンピックも盛り上がるよ」
もはや「浅田真央」の名は、社会現象と化していた。
過熱する世論に、樋口美穂子コーチは表情を曇らせた。
「ここからが試練だろうな…」
15歳にして一躍「世界女王」という肩書きを得た浅田に、メディアは容赦なくプレッシャーをかけてくる。
「あの日(GP優勝)以来、それまでのように一般の人と同じリンクで練習することができなくなりました」
無心で挑んだGPファイナルとは、もう同じではいられない。純粋にジャンプを跳ぶ楽しさに身をゆだねていた日々は終わっていた。
中野友加里は言う。
「フィギュアスケートがメジャーになっていったのも、トリプルアクセルというものが凄いジャンプなんだと多くの人に認識してもらえるようになったのも、あのときの真央ちゃんの影響が大きいと感じます。まさに時代が変わったのです」
宇都宮直子は言う。
「トリノ五輪の前後、浅田真央は守られていませんでした。浅田の母は『誰も助けてくれないから、自分たちでやるしかない』と口癖のように言っていました。
◇孤高のアスリートへ
ジュニア時代、浅田は「緊張ってしたことがありません」と話していた。
しかしシニア移行後、即、世界女王となった浅田は「ノーミスしなきゃ」と社会の重圧を感じるようになっていた。身長は一気に160cmを越えていた。
無邪気な少女から「孤高のアスリート」へ。浅田の心は着実に大人へと近づいていた。トリプルアクセルの前に、あえて難易度の高いステップをいれるなど、「アグレッシブ」に戦いつづけた。
16歳で迎えた全日本選手権2006。
フィニッシュと同時に涙があふれた。
「うれし涙がでたのは初めてです。ハードに練習してきて、今年はじめてトリプルアクセルを跳べたので。演技が終わったら、モワーって出てきました」
大会一週間前に右手小指を骨折しながらも、総合得点は自己記録を更新した。
試練はつづく。
2008年の世界選手権は、足首捻挫など満身創痍でのぞんだ。
そのフリーの冒頭、氷の溝にエッジがはまるという、まさかの不運。トリプルアクセルを跳ぶ前に転倒してしまった。それでも、残るジャンプをすべて成功させた浅田真央。逆転優勝を果たした。
「もう、追い込まれることには慣れました」
17歳にして、浅田の心は鋼のように鍛えられいた。
◇バンクーバー五輪
ラフマニノフの『鐘』。
不安や怒りがテーマの、重厚感あふれる楽曲だ。浅田はバンクーバー五輪に、この曲を選んだ。衣装は赤と黒。強いアイラインと派手な口紅。まったく新しいイメージに挑戦しようとしていた。
このシーズン、結果の振るわない浅田に、「曲を変更すべきだ」と周囲は批判した。しかし浅田はそれらを一蹴。
「わたしが滑りこなせないから、そう言われてしまう。完璧な演技をみせたい」
と、ひたすら練習に没頭した。「いちばんの武器」、トリプルアクセルに何度も跳ね返されながらも、ジャンプ一本ごとにエッジの跡を確認。根気のいる練習を毎日欠かさず続けた。
ようやく成果があらわれたのは、オリンピック切符をかけた全日本選手権。激しいストレートラインのステップは「神ステップ」と絶賛され、楽曲『鐘』への評価を一変させた。
いよいよ狙うは、バンクーバー五輪の金メダル。日本にいながら、バンクーバーの時間で生活していた。見たいテレビ番組は録画して、起きている時間に見ていた。
「オリンピックで金メダルを獲りたい」
それが浅田真央の夢だった。
宇都宮直子は言う、「彼女の人生は、その実現のためにありました。そう言い切っても過言ではありません。夢は手のとどくところにありました。誰もがそう信じていました」
2010年2月23日
バンクーバー五輪
SP(ショートプログラム)
滑走順は、浅田真央22番、キム・ヨナ(韓国)23番、鈴木明子24番、安藤美姫30番。
確実に精度を高めてきたトリプルアクセルを、浅田は完璧にきめた。つづくコンビネーションジャンプ。世界で彼女にしか跳べない構成だ。
得点は「73.78」。今季のシーズンベスト。
浅田は言う。
「緊張はアップをしているときからほぐれてきました。試合中は、オリンピックで滑っているんだという喜びを感じていました。トリプルアクセルは、跳べると信じて跳びました。山場だと思っていたショートを無事に滑り切れて、うれしかったです」
だが、この日トップに立ったのは浅田ではなかった。
「78.50」のキム・ヨナだった。
2月25日
フリー
最終組がリンクに登場すると、会場の空気は明らかに変化した。そう、オリンピックチャンピオンは、この組から誕生するのだ。
滑走順は、首位キム・ヨナが先で、浅田はその次だった。
キム・ヨナは涼やかな笑顔で、これ以上ないといった演技を見せた。まったくミスをしなかった。総得点は「228.56」、驚くほどの加点を得た。
その得点が、出番を待つ浅田には聞こえなかった。あまりの大歓声にかき消されてしまっていたのだ。「すごくいい演技だったんだろうな」と思っただけだった。
静寂ののち、ラフマニノフの『鐘』が流れはじめた。
浅田は2本のトリプルアクセルを成功させた。しかし演技後半、いくつかのミスが重なった。
「後半は、滑りながら緊張を感じてました。トウループのときは、もうけっこう足にきていました。いつもだったら跳べたのに、エッジを取られたような感じになってしまって…」
「205.50」
掲示された得点は、キム・ヨナの下だった。
〜Number誌〜
その場では泣かなかった。
でも、すぐに込み上げてくるものがあった。浅田は、泣いた。悲しくて、悲しくて、泣いた。
表彰式では泣くのをこらえた。首にかけたメダルの重さを感じながら、上ってゆく「日の丸」を見ていた。
バンクーバー五輪2010
金メダル キム・ヨナ(韓国) 228.56点
銀メダル 浅田真央(日本) 205.50点
銅メダル ロシェット(カナダ) 202.64点
タチアナ・タラソワは、バンクーバーをこう振り返る。
「もう過ぎ去ったことなのですが、ひとつ私が言いたいのは、私が計画していなかった練習がフリーの前に行われてしまったのは残念なことでした。私はこの練習に反対しました。むしろ真央には休息が必要でした。そして実際に、その練習をおこなって彼女は力が失われてしまいました。エネルギーを消耗し、フリーでは完璧に滑ることができなくなってしまいました。
真央がもし、フリーでミスなく演技を終わらせることができたら…、優勝する可能性が十分にありました。わたしは今でもバンクーバー五輪のフリーで真央は1位になることができたと確信しています。なぜなら、私はコーチとしてずっと真央のそばにいて、真央がどれくらい一生懸命に練習して、どのように彼女のスケートのレベルが上達してきたかを把握していましたから。
わたしはオリンピック後に行われた世界選手権には同行しませんでした。もう私は信用されておらず、私は必要とされていないと感じました。真央は何も悪くありません。彼女は私の言うことをいつも聞いてくれていたから」
◇新コーチ
バンクーバーを終えた2010年9月、浅田真央の母、匡子は佐藤信夫のもとを訪ねていた。
「どうか、真央とソチを目指してください」
そう言って、低く低く頭を下げた。母の真摯さに心うごかされた佐藤は、浅田のコーチに就任した。
佐藤信夫は、50年以上のスケート経験をもつ名伯楽。
「すべて崩してから構築していくには3年はかかる。それでもいいのか?」
浅田真央の「ゼロからやり直したい」という希望に、佐藤コーチは厳しさで応えた。
スピード感。
佐藤コーチは浅田にそれを求めた。ジャンプを変えたければ、まずはスケーティングから変えなければならない。
ダメ出しが続いた。15年来の癖は、そうそう抜けるものではない。
2011年の世界選手権は、自己最低の6位に沈んだ。
スケーティングでの迷いが、ジャンプをも狂わせた。「真央はどうなってしまったんだ?」と、あちこちで囁かれた。
それでも「まだ我慢のとき」と耐え、1年目は暗中模索のトンネルの中で終わった。
「フィギュアスケートは、ジャンプだけではない」
滑りの美しさやスピードを磨くことで勝てる、と佐藤コーチは繰り返した。
しかし浅田は「トリプルアクセル」への執着を捨てきれない。2011年の世界選手権も、佐藤コーチに「回避」を提言されていたトリプルアクセルを強行したゆえの不振だった。
2011年のNHK杯、男子の演技を見ていた浅田は、ハタと気づいた。
ショートの演技で高橋大輔は4回転を「回避」しながらも首位に立った。一方、世界初の4回転ルッツを成功させたアメリカの選手は3位だった。
じつはこの大会、浅田は前日のショートで、トリプルアクセルが1回転半に終わるという痛恨のミスを犯しており、3位にとどまっていた。4回転を「回避」した高橋大輔の演技をみた浅田は、自身のフリーで初めてトリプルアクセルを「回避」、みごと首位、総合で2位に浮上できた。
「やっと(佐藤)信夫先生の言う、身体感覚がわかってきました。ジャンプなしでも、お客さんが引き込まれる滑りをする戦い方もあったんです」と、浅田は声をはずませた。
トリプルアクセルを「回避」し、演技全体で得点をかせぐ、という佐藤コーチの考え方に納得すると、成績はともなうようになっていった。
開眼した矢先、最愛の母、匡子さんが還らぬ人となった。
浅田真央の心は、空っぽになってしまった。
ローリー・ニコルは言う。
「母を亡くした真央は落ちこんでいて、まだ競技活動をつづけるのかどうかの決意がついていませんでした。そして亡くなったお母様に捧げる作品を滑るために、なにか美しくてメランコリックな音楽を選びたい、と考えていたようです。
私が『メリー・ポピンズ』とガーシュウィンの『アイ・ガット・リズム』の音楽を聞かせてあげると、真央の表情が少しずつ明るくなっていくのがわかりました。それはまるで、長い冬のあとに昇ってきた、春の太陽のようでした。
そして私たちが『アイ・ガット・リズム』のステップを振り付けている作業の最中に、真央はようやく再び笑ったのです。心からの自然な笑い声で、そんな彼女を見たのは、本当に久しぶりのことでした。私も一緒に笑いながら、同時に嬉しさのあまりに泣きたくなる思いを必死でこらえました」
◇ソチ五輪
浅田真央と佐藤信夫コーチは、ソチ五輪へ向けたトリプルアクセルの計画を話し合っていた。
「先生、トリプルアクセルは(フリーでは)、1本のほうがいいですか?」
佐藤コーチは内心、得たりと思ったが、冷静にこう答えた。
「そうだね、アクセルが2回つづくと、同じ方向に滑るので、プログラムがつまらなくなる。それに連続ジャンプを入れたほうが得点は高い。この4年間でやってきたジャンプを入れるのも、一つの挑戦だ」
”挑戦”という言葉が、浅田の心をくすぐった。
「一回にします」
と浅田は決めた。
佐藤コーチは思った。
「真央は大人になった。もうトリプルアクセルを跳びたいと駄々をこねる子供じゃない」
ソチに入ってからの練習は好調だった。
ところが2月8日の団体戦、女子ショート。浅田真央は平常心を失った。世界選手権とは明らかに雰囲気がちがう。野次のようなコールも多く、佐藤コーチの声はまったく聞こえなかった。
浅田真央は、冒頭のトリプルアクセルで転んでしまった。
急遽、立て直しのため、浅田は隣国アルメニアのリンクへと飛んだ。
しかし、浅田の調子は上がらない。むしろ悪化していった。
小塚嗣彦は言う。「アルメニアのリンクは状態がよくなかったみたいですね。服をすべて着込んでいないといけないくらい寒かったり、曲をかけるにも不十分だったり。何より、天井のサビとかいろいろなものが氷の上に落ちていたらしい。そんなリンクで選手たちは練習していたんです。簡単に言うと、やすりの上で滑っていたような状態。真央のエッジはつるつるに丸くなってしまっていた。帰国してから聞いた話ですが、佐藤さんが『びっくりした』というほど、エッジは酷いことになっていたみたいです」
小塚嗣彦は長年、浅田真央のエッジを研いできた。母・匡子さんに「エッジを研いでやってくれませんか?」と頼まれてのことだった。
小塚氏は言う。「エッジは1回研ぐと、5日間とか1週間は慣れないため、ジャンプを跳ぼうにもフィーリングが合わなかったりする。真央は努力家だから、それにイライラしてしまうんですが、どこに頼んでもうまくいかなかったそうなんです。高校時代、お母さんの勧めによって、私が研ぐことになりました。初めて研いだあと、中京大のリンクを一周して戻ってきた第一声が『あれ? ぜんぜん違う、普通に滑れる!』。そこから今に至るまで研ぎつづけてきました」
しかしソチ五輪、残念ながら浅田真央のそばに「磨(と)ぎ職人」小塚氏はいなかった。
2014年2月19日
ソチ五輪
SP(ショートプログラム)
〜Number誌〜
氷に降りた浅田は、身体がまったく動かない自分に気づいた。
「滑り出してから『いつもと違うけど行かなきゃ』と思って、最初のアクセルから、気持ちも身体も付いてきませんでした」
トリプルアクセルは転倒、フリップは回転不足になり、明らかにスピードがない。最も得意のループが2回転になると、呆然として連続ジャンプに出来なかった。全ジャンプでミスを重ね、演技を終えると、虚ろな目で氷を見つめた。
55.51点で16位発進。
優勝候補を襲った悲劇に、アイスバーグ・スケーティングパレスは騒然となった。
午前0時すぎ、浅田は記者の前にあらわれた。
「明日どう乗り切るか、まだ自分でも分からないです…」
選手村に戻ったのは深夜1時すぎ、この夜、浅田はずっと友人たちからのメールを読んでいたという。
翌朝、浅田は公式練習に寝坊して現れた。
「真央!」
と佐藤コーチは叫んだ。
「ボーッとしている場合じゃない! フリーはショートの約2倍の点数。試合はまだ3分の2残っている。気合い入れなきゃだめだ!」
浅田がジャンプを失敗するたびに、
「気合だ!」
と佐藤はドンドンと握りこぶしで胸を叩いた。
選手村に戻った浅田は、日本から持参したレトルトのお赤飯を食べた。
不思議と、迷いも焦りも消えていた。
「残されたのは自分の演技だけ。昨日はオリンピックの怖さが勝ってしまったけど、今日は感謝の思いを込めて、最高の演技をしよう」
本番前の6分間練習。
昨日とは別人のような浅田がそこにいた。
次々とジャンプを成功させた。
2014年2月20日
ソチ五輪
フリー
ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』
重厚な旋律にあわせ、浅田はトリプルアクセルを成功。
3回転+3回転ループ
3回転ルッツ
ダブルアクセル+3回転トウループ
3回転サルコウ
次々と大技が決まっていく。
浅田が跳ぶごとに、会場の拍手は大きくなっていく。
佐藤も思わず、同時に跳びあがっていた。
最後のループを降りた浅田に、大歓声が湧きあがった。
スタンディングオベーションのなか、142.71点という自己最高得点が表示された。トリプルアクセルをはじめ6種類の3回転を成功させたのは、女子フィギュア史上初の快挙である。
〜Number誌〜
満場の歓声のなか、浅田真央は、天井を見上げる演技終了のポーズのまま、顔をくしゃくしゃにしていた。笑おうとして2度こらえた涙が、目からあふれた。
「最後の最後まで、思いを込めて演技しようと考えていました。終わった瞬間は『やった』。心配してくれた皆さんに笑顔を見せようと思ったのに、つい泣いちゃいました」
前日のショートでは、3つの全ジャンプでミスして16位。そこから一夜、フリーはトリプルアクセルを含む8本の3回転を着氷し、自身が初めて挑んだ最高難度のプログラムを見事に滑り抜いた。
自己ベストの142.71点で10人をごぼう抜きにしての総合6位。フィギュアとしては前代未聞の巻き返しだった。
「昨日と今日とでは、天と地の差です」
浅田は落ち着いてメディアに向かった。
「自分が目指していたのは、昨日のような演技ではなく、今日のような演技。でも、これも自分なんだな、というのを受け止めています」
鈴木明子は言う。
「フリーが終わったとき、言葉もなく真央と(村上)佳菜子の3人で抱き合いました。みんな、号泣しました」
小塚嗣彦は言う。
「ショートプログラムはプレッシャーがあったから? 違いますよ。フリーが奇跡だとも、神がかり的だったとも思わない。あのフリーこそ、真央の本来の力です。だからメールに、こう書きました。『あなたのいつものフリーだったね』と」
ソチ五輪の一ヶ月後、さいたまスーパーアリーナで世界選手権が開催された。
この大会、浅田真央は4年ぶり、3度目の世界女王となる。ショートプログラムは歴代最高得点。総合得点でも自己ベストを更新する凄まじい滑りであった。
このとき、浅田真央23歳。
以後、1年間の休養へとはいった。
◇引退へ
1年間の休養ののち、2015年5月に競技復帰を宣言した。
伊藤みどりは言う。
「やっぱり真央もアスリートタイプなんだな、と思いました。私もやはり、試合でしか得られない達成感や緊張感が恋しくて、一度は現役復帰しましたから。
でも、やはり身体は限界に来ていたのでしょう。20歳を超えると、トップ選手はみんな怪我との戦いです。とくにトリプルアクセルだけはどうしても決めたいでしょう? そうなると、若いときの倍以上の練習量が必要になる。でも練習量を増やすと腰や膝を痛めてしまう。真央が、左膝や腰の痛みをこらえてギリギリまで練習していたのは、言われなくてもわかります」
復帰後、次々とトリプルアクセルを成功させた浅田は、完全復活を印象づけた。
「『やり切った』と思えるまでやることが、私のスケート人生だと思って、ここに戻ってきました」
平昌オリンピックへの期待が高まった。
「オリンピックという最高の舞台に、もう一度行きたい。それが私の最終目標であり、夢です。だから、正夢になればもっといいですね」
しかし、左膝には相当な負荷がたまっていた。
代名詞たるトリプルアクセルは、その踏切で左膝を大きくすり減らす。疲労による痛みは、練習量を減らすしか癒せない。しかし、練習量を減らすと技の精度が落ちてしまう。
成績は次第に、ずるずると落ちていった。
〜Number誌〜
2016年12月の全日本選手権。
ショートではトリプルアクセルが1回転半になり、フリーでは転倒した。挑戦できたことに、浅田は納得していた。キス&クライで得点を待つ。12位の順位が表示された。
「ああ、もう、いいんじゃないかな」
悩んだ末の2017年4月10日、恩師の山田満知子と佐藤信夫に決意を報告すると、その夜、自身のブログで引退を発表した。
浅田真央の登場以前、フィギュアの採点方式は6点満点だった。選手の格や過去の業績というものが少なからず採点に影響を与えており、名のある選手は「下駄を履かせてもらえる」ということもあった。
だが、現在の加点式の採点方法は、ずっと実力主義の傾向が強い。若手でも無名でも、技を決めた選手が勝つ。15歳だった浅田真央がいきなり世界一になれた背景には、この新採点方式があった。
だが、この採点方式では、たとえトップ選手であろうと、ミスをすれば容赦なく減点されてしまう。この強烈な下克上のなか、浅田真央を10年以上も世界のトップとして戦いつづけてきたのである。
2017年4月12日
引退記者会見
白いブラウスに白いジャケット。
約50分間の質疑応答。
Q、一番印象にのこる演技は?
A、「やっぱりソチのフリーかな」
Q、生まれ変わったら?
A、「スケートの道はないかと思います」
この答えに、鈴木明子はほっとした。彼女は言う、「そう思えるところまで、悔いがないところまでやれた、オリンピックの金メダルはなかったとしても、それ以上のものが手に入ったんだろうな。と感じました」
会見の最後、涙がこぼれそうになった。
浅田は後ろを向いて涙をふくと、ふたたび笑顔で振りむいた。
伊藤みどりは言う。
「真央の引退会見はテレビで観ました。『笑顔でよかったなあ』とホッとしましたよ。とても清々しい表情でしたね。最後の涙を隠す姿をみて、『なんて良い子なんだ』と思いました。応援してくれた皆さんに心配をかけたくない、そんな真央の奥ゆかしい立ち振る舞いが、本当に可愛らしくて…」
「トリプルアクセルが跳びたい!」
その一心で無邪気に跳びつづけた少女は、何度も世界の頂点に立った。
どんな強い風が吹こうとも、凛として咲きつづけた。
伊藤みどりは言う。
「真央は本当に魅力的なスケーターでした。とにかく華がある。30m × 60mの氷の上にあらわれると、真っ白な草原にお花が咲いたような感じでした。
引退は悲しくないことです。だってスケートの幸せはまだ続くのですから。
真央ちゃん、引退おめでとう」
浅田真央の21年間の選手人生は、
ここに幕をとじた。
(了)
出典:Number5/5特別増刊号「永久保存版 浅田真央 ON THE ICE 1995‐2017」
Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー)
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