2015年2月4日水曜日
高橋大輔の歩んできた道のり [フィギュア]
「岡山からモノすごく上手い人が来てる!」
まだ小学生だった織田信成は驚いた。
週末になると岡山から大阪へと来ていたその少年は「高橋大輔」。織田よりも一つ年上だった。
当時のことを織田は振り返る。
「リンクを使って伸びやかに踊る大ちゃんの曲かけ練習を、みんなで端っこに集まって見ていたこともあります。大ちゃんの凄さは、スケートで曲を表現するというよりも、むしろ”曲と一緒に滑っている”ということ。選手はそれぞれジャンプを跳ぶときに自分のタイミングがありますが、大ちゃんは曲に合わせて、ここは早く助走に入るとか、別の場所ではゆっくり曲を待ちながら助走をするとか、タイミングを自由自在に操って、すんなりとジャンプを跳ぶことができるんです」
3回転や4回転という難しいジャンプになればなるほど、選手は”自分のタイミング”で跳びたくなるというが、高橋はあくまでも曲が先にあったという。
織田はつづける。
「大ちゃんはいつも曲をしっかり聞き、曲に合わせて跳んでいる。彼の中にはまず曲があり、そこからジャンプが生まれてくるんだと思います。だから、ジャンプが演技にマッチしてなめらかに滑ることができるんです。僕なんて、曲を聞かずにジャンプを跳んでいましたからね(笑)」
織田が高橋について思い出すとき、お互いが10代だったことが頭に浮かぶという。
「お互いにドキドキしながら少しずつ話をしたりしたこと、懐かしいです。大ちゃんは先輩ですが、いつも優して、ご飯を食べに行ったり仲良くしてもらいました」
■ 怪我
鋭い感性
豊かな表現力
世界一と言われたステップ
そうした持ち味を武器に、高橋大輔は世界の階段を駆け上がった。
そしていよいよ、オリンピックでのメダルが視野に入ってきた。
だが、その矢先(2008年10月)、練習でトリプルアクセルを跳んだ高橋は、無理な体勢で踏ん張ってしまい”右ヒザ”を怪我してしまった。
トレーナーだった渡部文緒は言う。
「その日、長光歌子コーチからの電話でケガを知り、大輔とも話をしました。その時点で大輔は、間近に迫っていた中国GPは欠場になっても、11月末のNHK杯には復帰できると考えていたようです」
ところが検査の結果はもっと残酷だった。
”前十字靭帯と半月板の損傷で手術が必要”
渡部は言う。「右足は大輔がジャンプを着氷する足でした。このケガは、手術をしなくても真っ直ぐ走る状態までは治すことはできますが、切り返したり踏ん張ったりするためには、手術をするしかない。氷上への復帰まではおそらく6ヶ月。以前のコンディションに戻るまでにはどのくらいの時間が必要か、その時は私にもわかりませんでした」
手術は12月の中旬に終えた。
そして始まったリハビリ。地味にコツコツ、決まった時間に決まったメニューを繰り返さなければならない。いつものメリハリのある練習とは違い、気の滅入る毎日だった。高橋の表情は、相当行き詰まっているように見えたという。
「そしてある日突然、大輔と連絡が取れなくなりました。リハビリの予約時間に現れず、家にも帰ってこない」と渡部。極度の心配がつのりながらも、とにかく待つことにした。
「長光コーチとも話し合い、『とにかく信じるしかない。帰ってきたら叱るのではなく、受け入れよう』と。子どもの時から大人に囲まれ、なかなか自分の意見が伝わらなかった大輔にとって、こうした葛藤も必要だと思っていたからです」
そして2週間後、高橋はふらりと戻ってきた。
渡部は言う。
「『もう逃亡するなよ』と冗談にできるまでは、しばらく時間がかかりました(笑)」
■ 復帰
ケガの後、はじめて氷に乗ったのは2009年の4月。
バンクーバー五輪まで、あと10ヶ月という時だった。
渡部は言う。
「ジャンプの許可がでたのが6月。ところがシングル・ジャンプすら転倒してしまいます。フィギュア独特の、加速してひねりながら跳ぶという動きに体がついていかないのです。跳べる身体ではあったのですが、怖がりの大輔は跳ぶことへの怖さから腰が引けてしまい、転ぶことの繰り返し」
渡部は「2回転くらいはスムーズに跳べるだろう」と予想していたが、それは完全に裏切られた。こんな状態で、3回転や4回転など跳べるようになるのだろうか? 不安は募る一方、オリンピックは近づくばかりであった。
そして迎えた復帰戦
2009年10月フィンランディア杯
渡部は言う。「転倒はあったものの、優勝することができました。”人前でまとまったものを滑れるようになったな”と私がホッとできたのは、この時です。五輪まであと4ヶ月。あとは大輔やスタッフみんなで『必ずできる』と信じ切って進むしかありませんでした」
■ バンクーバー
目標は「オリンピックの金」
ケガをしようが、それは変わらなかった。
しかし、結果は銅メダル。
それでも日本男子フィギュア初の快挙であった。
渡部は言う。
「フィギュアスケートで日本男子初となるメダルはもちろん嬉しかったですが、終わった瞬間、会場で感じたのは悔しさでした。あんなに練習してきた4回転も失敗してしまいましたから。でも、あの怪我の術後1年あまりで銅メダルをとるなんて、奇跡としか言えません」
バンクーバーでの悔しさは、同年3月のトリノ世界選手権へと向けられた。
”日本人男子初の世界王者”
そのタイトルを高橋大輔は手に入れたのだった。
■ 引退
現役生活は20年にまで及んでいた。
その間、出場したオリンピックは3回。
2014年10月
高橋大輔は引退を宣言した。
その会見の席上、高橋は言った。
「バンクーバーの表彰台の景色は、今でもすぐに思い出せます。旗が上がっていく…、国家は流れなかったけど、旗が上がっていくところは鮮明に覚えています。バンクーバーでは怪我があったからこそメダルが獲れたし、自分を見つめ直して体をつくろうと思えた。ケガは大きなチャンスになります。諦めずにその大変さを楽しめば、その経験は自分のものになって、自分の幅を広げることができますから」
現役最後の演技となったソチ五輪。
フリーの曲は「ビートルズ・メドレー」
高橋は言う。「終盤の”ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(The Long and Winding Road)”は、いつも暖かい気持ちで滑っていました。あのメドレーに出会えて、現役生活最後があの曲で良かったと思っています。(振付師の)ローリー・ニコルからは”感謝”というテーマをもらいましたが、僕自身、いつもそういう気持ちを持っていたので、ファンの方々に伝えることができてありがたかったです」
♩ The Long and Winding Road ♩
うねりながら、どこまでもつづいていく道のり
高橋大輔が必死に拓いた道のりに、いまや多くの若手たちが続いている。
最後に、織田信成はこうねぎらった。
「大ちゃんは誰よりも日本を背負って立つ意識も強かっただろうし、”自分が頑張らなければ”というプレッシャーもあったはず。ちょっとスケートから離れたいというのも聞いていたので、今はとにかくゆっくり休んでほしい。でも、休んだ後はスケートリンクに戻ってきてほしい。大ちゃんにしかできない、大ちゃんのスケートを楽しみに待っているファンも大勢いますから!」
(了)
ソース:Number(ナンバー)867号 Face of 2014 写真で振り返る2014年総集編 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
高橋大輔「The Long and Winding Road」
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2015年2月3日火曜日
ソチ18日間、ともに流した涙 [鈴木明子]
バンクーバー五輪では8位
あれから4年
28歳、2度目のオリンピック
女子フィギュアスケート
鈴木明子(すずき・あきこ)
引退を宣言してのぞんだソチ五輪。
団体戦では日本チームのキャプテンを任された。
鈴木は言う。
「バンクーバー五輪のときは、女子は後半の種目なので、自分の試合をしたらすぐ五輪が終わってしまいましたが、ソチでは五輪全体を見ることができるので楽しみでした」
■ 羽生結弦
2月6日、団体戦がはじまった。
応援席にいた鈴木明子は、いつになく楽しい気持ちでいた。
「私自身、思った以上に観戦を楽しみました。だって五輪をあんな近くで見るチャンスないですから。普段は、男子の演技はホテルのテレビで見る程度なので、普段の何倍もドキドキしましたよ」
日本のトップバッターは羽生結弦(はにゅう・ゆづる)。
オリンピック初出場となる19歳がスタート位置についた。
すると...
「ロシア! ロシア! ロシア!」
四方から野次が浴びせかけられた。
鈴木は言う。
「まるでサッカーのワールドカップのように母国だけを応援する。フィギュアスケートでこんなに”アウェイ感”を感じたことがなくて、『会場がこんな雰囲気になっちゃうの!』って驚きました。でも結弦は19歳なのに全然動じずに堂々として、『スゴイな、この子...』って、ただ感心しました」
フィギュアスケートでは通例、国にかかわらず全選手に温かい声援を送る。しかし、このロシアの地はまったく違う、異様な雰囲気だったという。
それでも動じぬ羽生結弦は、4回転ジャンプを成功させて首位に立った。
演技後、野次は気にならなかったのかと、鈴木は羽生を気づかった。ところが、羽生の答えは意外なものだった。
鈴木は言う。「『ロシアー』の声は、『ユヅル〜』に聞こえて気にならなかったって言うんです。それで二度びっくり。私自身は、バンクーバー五輪で自分の演技を思い出せないほど興奮していたのに。これだけ冷静に自分のペースに持っていけるような子が、最後に勝つんだろうな、と思いました」
羽生はむしろ、これから演技する鈴木を気づかった。
「6分間ウォーミングアップの時に声援が大きすぎて、『残りあと1分』のコールが聞こえにくいから注意したほうがいいよ」
■ 高橋&木原ペア
同じ日、ペアの高橋成美&木原龍一組が五輪デビューをかざった。
鈴木は言う。
「(木原)龍一は、彼が5歳でスケートを始めた時から知っています。ペアに転向して、慣れないアメリカでのトレーニングにも弱音も吐いていたけれど、よくぞ耐えたなと」
高橋成美は2シーズン前まではカナダ人とペアを組んで世界選手権3位にまで上り詰めた。しかし怪我でペアは解消。そして2013年、ペア未経験だった木原龍一が一大決心でペアに転向。タッグを組んだのだった。
鈴木は言う。
「演技に出ていく瞬間に龍一が私を見たので、『うん』と大きくうなずくと、龍一も『うん』ってうなずき返して、その頼もしさに泣いちゃいました。(高橋)成美ちゃんもペア未経験の龍一をよく引っ張って創り上げたなと。2人の演技には、胸が熱くなって目が潤みっぱなしでした」
■ 浅田真央
2月8日、女子のショートに浅田真央が登場した。
しかし浅田は、練習での好調ぶりとは裏腹に、トリプルアクセルを失敗、転倒。3位にとどまった。
鈴木は言う。
「(浅田)真央が『みんなゴメンね!』と謝ってきたので、私たちは『全然気にしないで! これで雰囲気がつかめたし、次、頑張ろう』って」
あくまで日本チームは明るかった。
鈴木は続ける。
「団体戦は皆の演技から感じ取るものが多くありました。緊張して、それでもリンクに出ていき、練習してきたことをやる、というひたむきな姿勢を見ていて、私も精一杯やろうと。町田(樹)君は初めての五輪なのに、彼らしく滑っていた。(羽生)結弦も含めて男子2人からはアスリートとしての強さを感じ取りました」
■ 小指
2月9日
団体戦の女子フリー
鈴木明子はあと一息、思い切りがない演技で4位となった。
鈴木は言う。
「どのジャンプも詰まった降り方になりましたが『みんながいてくれるんだ、絶対に転ばない』と、とにかく転倒だけはしませんでした。ベストな点ではありませんでしたが、みんなから『よく踏ん張ったね』と言われて、今やれることはできたなと納得しました」
じつはこの時、鈴木の両足小指には炎症があった。
ジャンプを跳ぶのすら精一杯だった。
■ アルメニア
団体戦は総合5位で幕をとじた。
次の個人戦、女子の試合は10日後ということで、鈴木は浅田とともにアルメニアへ短期合宿にむかった。
鈴木は言う。
「ソチにいると練習時間が全然とれませんし、選手村では気持ちが高まっている状態が続いてしまうので、一回は緊張感を抜くための合宿でした。宿泊したホテルのキッチンで和食をつくって、真央や佐藤信夫先生たちと一緒にご飯を食べました」
しかし、両足小指の炎症は悪化の一途。
団体戦での無理がたたり、腫れあがった小指は親指よりも太くなっていた。
それでも練習をつづけた。
鈴木は言う。
「五輪の直前に練習を休むのは怖くて...、無理に練習していました。最初は真央と一緒に練習していたけれど、私は練習中に泣いたり叫んだり...」
滑りはじめる途端、あまりの痛みに悲鳴があがった。それでも数十分滑っていると、足が麻痺して痛みを感じなくなってくる。その機を見計らって、ジャンプを繰り返した。なんとも無謀な練習がつづいていた。
鈴木は言う。
「長久保先生が『真央と時間をずらそう』と言ってくれて、別の時間に練習をしました。真央は自分の演技のために集中していましたから、泣いてばかりの私が一緒にいるのは申し訳なかったです...」
■ 男子個人戦
鈴木がアルメニアで苦しんでいる最中に、ソチでは男子シングルが行われていた。
アルメニアの女子チームは、全員が一つのテレビに見入った。
羽生結弦はショートで世界最高点となる101.45点をマーク。首位発進。
続くフリーでも、羽生はミスを最小限にとどめ、日本男子初となるオリンピック金メダルに輝いた。
鈴木は言う。
「個人戦のショートは、団体戦よりもさらにオーラがありましたね。フリーは皆がミスをする空気感の中で五輪の怖さも感じたはずだけれど、最後の最後まで諦めず、めげなかった。ミスと言ってもちゃんと4回転まわりきって転んでいるところが結弦の強さ。私に足りない部分を改めて学びました」
高橋大輔は、鈴木同様、怪我をかかえてのオリンピックだった。右膝の悪化は見て明らかだった。
鈴木は言う。
「あの時の彼は、怪我もさまざまな過去も、自分のすべてを受け入れているように見えました。ジャンプのミスを忘れさせるくらい、あんなに晴れやかな優しい表情で滑っているのを見て、『あぁ、私もあんな風に滑りたい。私も自分を受け入れなきゃだめだ』と思いました」
ショートを4位で折り返した高橋は、フリーで万感の思いを込めた演技を披露した。
鈴木は続ける。
「大輔君は決して私のために演技しているわけじゃないけど、『今の自分がやれる限りの演技をやらなくてはならない』というメッセージを、大輔君の演技から感じ取ったんです」
■ 女子個人戦
女子シングルは波乱にみちた展開となった。
ショートプログラム、浅田真央はまさかのミスで16位。鈴木明子も連続ジャンプにミスがあって8位発進。
その 夜、高橋大輔から鈴木明子に一通のメールがとどいた。
”自分のスケートをして欲しい。返信不要”
鈴木は言う。
「彼が最後まで自分を貫いて演技したのを思い出しました。最後の五輪なのに怪我をしている自分を、私も受け入れなくてはいけない、って」
2月20日、女子フリー。
鈴木明子の演技も、残すところ最後の一曲となった。
心はすっかり定まっていた。
失敗にはとらわれなかった。
最高の笑顔でジャンプを成功させた。
結果は8位。
バンクーバー五輪と同じ順位であったが、その演技には4年分の重みが詰まっていた。
鈴木は言う。
「あの演技ができたのは、みんなのお陰だったと思います。大輔君が演技を通して大切なことを思い出させてくれたり、結弦が強さを見せてくれたり。そのすべてが胸にあったから、”自分の滑り”ができたんです」
浅田真央も踏ん張った。
トリプルアクセルを成功させると、全ジャンプを決める渾身の演技。ほぼノーミス。最後の瞬間、彼女の両目から涙がこぼれた。
村上佳菜子も「3回転+3回転」をショート、フリーともに決めて総合12位。
それぞれの演技が終わると、3人は自然と控え室に集まっていた。
鈴木は言う。
「もう、顔を合わせた瞬間に、3人で大号泣。ただ抱き合いました。真央に『あの状況からよくぞここまで。本当に素晴らしかったよ』って言ったら、真央が『明子ちゃんも、あんなに足がひどかったのに凄かった』って。アルメニアで私が気を遣っていたのを感じていたんですね。心の中でお互いのことを思っていたんです」
その場での記念撮影は、3人とも「顔がぐちゃぐちゃ(笑)」だった。
選手村に戻ると、高橋大輔が温かく迎えてくれた。
鈴木は言う。
「またその瞬間に大号泣です。大輔君があんなに顔をくしゃくしゃにして泣いているのは久々。彼とは長いこと一緒にスケートしてきていろいろな苦労をお互い知っているので、溜めていた気持ちが決壊してしまいました」
ともに戦い、ともに涙する。
チームジャパンの絆は、記録を超えていた。
アスリート自身は肌で知っている。
スポーツは結果がすべてでないことを。
■ リビングルーム
演技が終われば、彼女らは女の子。
選手村のリビングは和気藹々。
鈴木は言う。
「『なんで皆こんなに一緒にいるの?』っていうくらい。午前3時ころまで、日本から持っていった和食やお菓子を食べながら、おしゃべりしてました(笑)」
いろいろな話をした。
村上佳菜子はオリンピック前、「ソチで引退」と言っていた。しかし鈴木はアドバイスした。「佳菜子の辞めるときは今じゃないよ」と。村上も同意した。「私もこのまま辞めるのは悔しい」と。
そして、世界選手権への出場を迷っていた鈴木に、村上は言った。「真央と佳菜子が頑張る。明子ちゃんは点数とか気にしないで好きに滑っていいから、出て」と。
高橋大輔も言った。「頑張らなくていいじゃん。みんなはただ、明子ちゃんが(日本で)滑っているところを見たいんだよ。それに僕も頑張らない」
鈴木はこう振り返る。
「私は『良い演技ができない』という自分の気持ちだけで欠場しようとしていたのに、大輔くんは自分よりも応援してくれる人のことを考えていた。大輔君に諭されて恥ずかしいな、と思いました。だから、とにかく世界選手権で”自分の演技”をしようと思いました」
■ その後
2月24日
世界選手権の舞台に、鈴木明子は立っていた。
結果は総合6位。
有終の美をかざった。
そして3月
鈴木明子は正式に引退を宣言した。
プロ、そして解説者に転向した鈴木は、ソチ五輪を振り返る。
「(ソチでの18日間は)お互いの行動や演技、言葉から”気づかされる日々”でした。みんながいろいろな経験をしてきた苦労人だからこそでしょうね。本当は個人競技なんだから、お互いの演技を見なくてもいいし会わなくていい。でも不思議と一体感があって、何かを感じ合い、補い合う。それは全員が前向きなアスリートだからだと思います。全員が最高の結果ではなかったけれど、良いときは皆で喜び、悪いときは励まし合う。でも、深くは突っ込まない。良い距離感。19歳の結弦から28歳の私まで年齢も違い、町田くんのように急成長の人も、大輔くんのように長年日本を背負ってきた人も、いろんな人生が混じり合って、なぜかまとまるんですよ。こんな素晴らしい時代に、このかけがえのない仲間とスケートできて、私、『バンクーバーのあと引退しないで良かった』と、あの場に行ってようやく思えました」
最後に、鈴木はこう語った。
「フィギュアスケートって、私のように大して才能がなくても必死に頑張っていれば、順位とか点数とかを超えたものを感じ取れる競技。だから怪我とか葛藤とか、いろいろなものを乗り越えた先に見えるものを、結弦や佳菜子、さらに若い世代のみんなに見てほしいと思います。人生とか心を演技に映し出すことができる、そんな魅力的なスポーツなんです」
次の平昌(ピョンチャン)五輪は、後輩に託した。
「フィギュアスケートって、素敵な競技だなって。今はそれだけを感じています」
(了)
ソース:Number(ナンバー)867号 Face of 2014 写真で振り返る2014年総集編 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
鈴木明子「かけがえのない仲間と過ごした18日間」
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〜話:藤木高嶺〜
戦前の甲子園
さて、甲子園球場では、あらゆるスポーツ以外にもさまざまな行事が開催され、いつも大変な人出でにぎわったようだが、案外知らない人も多いようなので、ここで書いてみたいと思う。
甲子園球場が完成したのは大正13年(1924)で、当時は甲子園大運動場と呼ばれ、第十回の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)が開催された。野球場としては広く、観客を多数収容できるのと大阪と神戸の中間にあって交通が至便であったため、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールに使われたのは当然のことだが、昭和7年(1932)には、一塁側アルプススタンドの下に体育館が完成して、柔道、フェンシング、バスケットボール、バレーボール、雨天時の野球の練習などに使われた。また、三塁側アルプススタンドの下には、25mの温水プールが完成し、日本水泳連盟公認のプールとして、水泳競技も行われた。もちろん一般の人にも開放され、年中泳げるので人気があったようだ。
私は球場のすぐ近くに住んでいたために、甲子園球場の催事には、小中学校時代から父や母に連れられて、ほとんどすべてを見物し楽しんだ。なかでも最も驚いたのは、スキーのジャンプ大会であった。グラウンドに組み立てられた木製のジャンプ台に、北陸方面から運んできた雪を積み上げ、鮮やかなジャンプを間近で見られたのだから、驚きと感激で胸いっぱいだった。昭和13年(1937)の冬だったと思うが、テレビもなかった時代だったから、数万人の大観衆は興奮して大歓声を上げたはずだ。
西宮市の小中学生たちの大運動会が催されたり、体操大会も行われた。歌謡ショーや歌舞伎劇まで行われて、目を見張ったのを覚えている。特に楽しかったのは花火大会、ホタル狩り、大映画大会であった。花火大会では外野スタンドに設けられた見事な仕掛け花火を、内野席から見て歓声を挙げたものだ。映画会は、レールに乗ってグラウンドの中央に運ばれた大スクリーンに、スコアボードの中央に用意された映写機から映すもので、観客は外野席から観ていた。ニュース映画と漫画が多かったと思うが、私が忘れられない印象を持ったのは、中学時代に見た「失われた地平線」という英国映画だった。というのは、ヒマラヤ山中に不時着した英国の外交官らが、山中の不思議な不老不死の国に連れられていくストーリーだったが、そのヒマラヤの雄大で美しい山容と大氷河が、あまりにも強烈だったからだと思う。
度肝を抜かれて驚いたのは、戦時中に催された戦車大博覧会であった。戦時中とはいえ、日本の陸軍のご自慢の戦車がずらりと並び、圧倒されたものだ。
甲子園球場は、いまでは野球に使用されることがほとんどだが、時にはコンサートや大観衆を集める催事に使われることもある。しかし、何といっても本来は野球場で、昭和11年(1935)に誕生した阪神タイガース(当時は大阪タイガース)のホームグラウンドでもあり、夏は朝日新聞主催の全国高等学校野球選手権大会が催され、春には毎日新聞主催の選抜高等学校野球大会が開催される野球の聖地といえるだろう。最近は野球ファンに圧倒的に女性が増えたことも、甲子園球場は喜んでいるにちがいない。
...
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藤木高嶺「山に生きる父と子の170年」
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2015年2月2日月曜日
「どうするか」ではなく「どうしないか」 [権藤博]
元・横浜ベイスターズの監督、権藤博(ごんどう・ひろし)は当時四番だったローズに、こう言われたことを今も覚えているという。
「このチームは誰が監督をやっても優勝できる。ただし、監督が何もやらなかったから優勝できたんだ」
1998年、権藤博は横浜監督として日本一になった。
権藤は語る。
「当時のチームは、私が何かいう必要がなかった。キャンプでの練習時間は短かったのですが、練習開始前には主力選手たちがランニングを終えている。全体練習後も、それぞれが自主トレに向う。私はその姿をホテルの窓から見ていました。もし、誰も自主的に練習をしないようなら、『同じ練習をやっとったんじゃ、ジャイアンツには勝てやせんぞ!』と言うつもりだったんですけどね(笑)」
権藤は続ける。
「野球をやるのは選手です。そこを履き違えてはいけない。監督というのはどうしても、自分が思った通りの野球をしようとして、結果的に選手の邪魔をしてしまう。監督が仕向けなくても、プロの選手たちはやるんです。だからこそ監督は、『どうするか』ではなく『どうしないか』を考えないといけない。とくに戦力が整っているチームの監督ならば、なおさらです」
その権藤が「何もしない監督」として挙げるのは、ソフトバンクの前監督、秋山幸二。
「彼は現役時代センターでしたが、監督になっても”センター目線”を変えなかった。最後方からジーッと全体を見渡しながら、どんなに拮抗した試合展開でも、落ち着いた表情を保っている。その姿勢を貫くことで日本一のチームをつくり上げましたし、あれだけ監督がどっしりしているから、選手も働けるんです」
ソース:Number(ナンバー)867号 Face of 2014 写真で振り返る2014年総集編 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィックナンバー))
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負け犬から謙虚な人へ [ブライアン・オーサー]
「負け犬」
現役時代のブライアン・オーサーは、そう呼ばれ続けた。
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頑なにトリプルアクセルにこだわったブライアン・オーサーは、ボイタノとの「ブライアン対決」で熱戦を繰り広げたが、僅差で敗れた。
―― オーサーは当時の映像を20年間見ることができなかったという(Number誌)。
そして時代は流れた。
選手生活を終えたブライアン・オーサーは、コーチへと転身した。新しいスケートファンは、ブライアン・オーサーを羽生結弦の、キム・ヨナのコーチとして知っているはずだ。コーチとして「オリンピック2連覇」を果たした人物として。
―― ソチ五輪で羽生結弦が優勝したことで、やっとブライアン・オーサーは解放された。そして、彼がたどり着いた境地こそが「謙虚の姿勢」。彼は誰よりも強い、教える人になったのだ(Number誌)。
”ちょっと謙虚すぎやしないかい? ブライアン・オーサーよ。(現役時代)氷上のあなたは、いつも陽気。そして、自己顕示のオーラを全身から放ちながら、観客との一体感を誰よりも愉しんで滑る男だったよな(幅允孝)”
本書は、羽生結弦との子弟対談で幕を開ける。
ソース:Number(ナンバー)869号 錦織圭のすべて。全豪OP直前総力特集 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
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