2012年9月28日金曜日
日本ラグビーを輝かせた男、シナリ・ラトゥ。
その「Tシャツ姿」の彼が初めて日本に降り立ったのは、雪の舞う真冬。
それも仕方がない。彼は南半球の「トンガ」からやって来た。日本が真冬ならばトンガは真夏、季節が真逆なのだ。
彼の名は「シナリ・ラトゥ」。
数多いる渡来ラガーマンの中でも、「この男ほど強烈なインパクトを放った者はいない」。日本ラグビーが輝いた時、いつも必ず、この男はそこにいた。
突進とタックル、そして、仲間たちとのビールを決して忘れぬラトゥは、1987〜1995年の日本代表時代、間違いなくジャパンの中核であった。生まれはトンガながら、彼の魂はジャパンを具現化していたのだ。
ラトゥが18歳の時、彼はすでにトンガのラグビー代表チームに選ばれていた。と同時に、陸上競技においても「三段跳びと砲丸投げ、そして400mリレー」に優勝していた。
「帰国後、そろばんの先生になる約束で」、ラトゥは日本にやって来た。10人兄弟の長男である彼の大きな双肩には、一家を養う重責もかかっていた。
留学2年目にして、大東文化大学ラグビー・チームの主軸となったラトゥは、いきなりその頭角を現す。
「チームのみんなは全国に出られただけで満足感があったんです。100点取られないようになんて話していましたから。でも、僕には関係なかった」
ラトゥのいる大東文化大は、準決勝で明治、決勝で早稲田を打ち破って初優勝。ほんの一年前はコタツで見ていた決勝戦。無印だった大東文化大は、まさかその場に立ち、そして勝ったのだ。頼もしすぎるポリネシアンのお陰で…。
ジャパンへ呼ばれたラトゥは、宿澤監督にこう命じられる。
「104kgの体重を、90kgまで落とせ」
「無理です」
「落とせ」
1989年のスコットランド戦、ラトゥは強烈なタックルでマット・ダンカンをコーナーの外へ弾き出す。「トライを防いだ一撃。忘れがたき名シーンだ」。吹っ飛ばされたダンカンは救急車行き。
激戦の結果は、28ー24で日本の逆転勝ち。これが日本ラグビー界の金字塔となった「スコットランド撃破」である。
その時のラトゥのウエイトは91kgだった。
次の年(1990)のW杯の予選、相手は母国トンガだ。
「試合中にずいぶん狙われました。首を折りにくるような感じで。反則してでも狙って来ました」
試合は日本の勝利。ところが試合後、トンガの宿舎へ向かえとの命令。どうやら負傷者のための通訳が必要らしい。「行ったら殺されるんじゃないかとイヤでした」。
行ったら実際にからまれた。でもトンガの監督が止めてくれた。「私たちは弱いから負けただけだ」と言って。
速攻と極度に前へ出る防御、そして、ひとりラトゥがパワー勝負をかける。それが日本流だった。「あのチーム、縦に出るサインはすべて僕でした。それがよかったんです」とラトゥ。
「良いチームだった。まとまりがあって、すぐにみんなで酒を飲んで…」
W杯で日本が初勝利をあげられたのは、このラトゥがいたからに他ならない。
9人の弟たちの学費、そして家も建ててやったラトゥ。
大学の寮生活時代は、「おかずがなくて、マヨネーズをかけて食べた」というほど、「ハングリー」な時代を過ごした。
ラトゥは道なき道を切り拓き、辛抱し、そして、相手をなぎ倒して勝利をつかみ取った。
しかし、今の世代は「欲しいモノが何でもある」。トンガからの留学生にも歯がゆさを覚えずにいられない。
ラトゥの去った今のジャパンは、半分くらいは外国人。ラトゥの愛した「日本のラグビー」は過去の話となった。
「トンガ生まれの日本人」
彼は間違いなく、「日本の魂」を持ち続けた闘士であった。
そして、故郷トンガに置いてきた妻子に心動かされていた時期もある、心優しき闘士でもあった…。
出典:Sports Graphic Number 2012年 9/27号
「元祖黒船の衝撃 シナリ・ラトゥ」
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