サッカーでは、なかなかゴールキーパーが決まらないことがある。誰もやりたがらないからだ。小学生ならなおさら、そうだろう。
だから堀江翔太(ほりえ・しょうた)は手をあげた。
堀江は言う。
「FW(フォワード)をやりたかったのに、GK(ゴールキーパー)をやる人がいなくて。それで仕方なく手をあげたんですよ。誰もやらないのは申し訳ないと思って」
のちにラグビー日本代表、不動の背番号2となる堀江翔太。
そのはじまりはサッカーだった。Jリーグのヴェルディにあこがれ、幼稚園からはじめた。そして小学生のサッカークラブでゴールキーパーに志願したのだった。誰もやりたがらないGKに。
「そしたら、シュートをどんどん止めちゃって(笑)」
ラグビーと出会ったのは小学5年生。
地元、吹田(すいた)のラグビースクールに誘われた。
堀江は言う。
「身体が大きかったのでチヤホヤされました。次の週には、ルールも知らないまま試合。ボールをもてば抜けるので、おもしろくて」
身長175cm、77kg。
大きな小学生だった堀江翔太は、
「堀江にボールをわたせばトライ」
であった。
中学ではバスケ部にはいった(南千里中学校)。
ラグビーのスクールは日曜だけだったので、平日はバスケットボールにいそしんだ。ポジションはセンター。体力と技術のみならず「献身」においても群をぬいていた。
チームメイトだった土屋健一は言う。
「堀江は大黒柱。1年から主力でした。ちかくの強豪中学の先生が試合中、『ホリエがきたー』と叫んでいたのを覚えています」
とあるバスケの試合で、堀江はじつに献身的に、こぼれ球をひろってはシュートを決めていた。その挺身ぶりを、応援にきていたチームメイト土屋健一の父は思わずほめた。
すると堀江は一言。
「ぼくの仕事ですから」
その言葉に、寿司屋の大将、土屋健一の父(毅)はぐっときた。
大将は言う。
「あれからざっと15年。15歳かそこらだった子供(堀江翔太)の言葉を、わたしが使わせてもらっています。お客さんがたてこんで、てきぱきと寿司をにぎり、さすが、とほめられると、『ぼくの仕事ですから』。この言葉を口にするたび、(堀江の)『使用料10円』なんて頭をよぎる(笑)」
土屋健一は言う。
「(堀江は)自分をまげない。シューズもみんなが最新のアシックスなのに、古い型のナイキ。彼がギターをひくのを知ってますか? 流行のJポップやヒップホップには目もくれず、一貫して山崎まさよし。まったく流されない」
高校は、府立の島本高校をえらんだ。
堀江は言う。
「兄が私立の大学にすすんだこともあり、公立でラグビーの一番つよい島本にきめました」
ラグビーの強さでは私学が上回っていた。学力的にも、もっと上を目指せた。進路指導でも「それでいいのか」と諭された。
しかし堀江の決意は揺るがなかった。
「まったく他は考えていません」
バスケにも誘われた。だが断った。
「ゴメン、俺はラグビーやから」
高校3年、堀江翔太をようする島本高校は、花園予選で決勝に進出。
しかし、東海大学付属仰星にやぶれた。
当時の島本高校の監督、天野寛之はいう。
「負け惜しみではないんですけど、あそこで仰星に負けてから、堀江の生活はすべて良いほうへ進んだのかな、と。悔しさがあって、ここまできた。高校日本代表になれなかったこと、花園に出られなかったことが、あいつのコンプレックスになったんです。そして、それが支えになった」
堀江は言う。
「コンプレックスはありましたよ。練習がきつくなると、『いつか、あいつらより上にいくねん!』と思いながら走ってました」
それでも堀江の「コンプレックス」はささくれだたなかった。どこか飄々としていた。
帝京大学へは、入学金免除ではいった。
大学をでると、トップリーグの誘いを断って、ニュージランドに渡った。ナンバー8からフッカーに転向したのは、かの地でだった。骨格からして、そのほうがチャンスが広がると考えたのだ。
こうして「ほかに類のない2番」が誕生した。
2008年、三洋電機(現バナソニック)に加入。
2011年、日本代表としてW杯に出場。
2013年、スーパーラグビーのレベルズに入団。
順調におもわれる堀江のキャリア。
堀江は言う。
「レールを敷いてもらい、自分はチョイスをしただけ。会う人がみんなよかった」
そして2015年のW杯。
五郎丸は言う。
「もしぼくが『W杯のベスト15』を選ぶなら、堀江選手をえらびます」
リーチマイケルは言う。
「フィールドプレーもすごく良いし、それより今回の日本代表の一番の勝因である『スクラムとラインアウト』、その両方とも(堀江選手が)中心としてやってたから。ものすごくプレッシャーがかかる場面で成功率も高かったし。マイボールスクラムは100%で、ラインアウトも88%を超えると良いといわれるなかで、93%もとった。フィールド外のリーダーシップも抜群だし」
堀江翔太はスクラム最前列のフッカーを務め、なお最後尾からフィールドを俯瞰するように考え、読み、動く。かわして、蹴って、抜いてみせ、いざ必要ならば吹き飛ばす。
ジャパン不動の背番号2は、南アフリカ戦金星の最大級の功労者であり、日本ラグビー界が、すこしも迷わず、世界に提出できる才能である。
(Number誌)
そしてスーパーラグビー参戦。
いまや世界120カ国で放映されるSR(スーパーラグビー)は、各国代表選手が選抜される場としての役割をもつ。
トップクラスの各国代表選手はもちろんのこと、代表入りを目指す若手もしのぎを削る。また、かつて代表で活躍した、いぶし銀のベテラン選手も加わってバラエティーに富んだチームがそろっている。
昨年のW杯イングランド大会では、ベスト4までを史上はじめて南半球の国が独占した。この事実とSR(スーパーラグビー)の存在は無関係ではないだろう。
そして今年(2016)、南アフリカ相手に”世紀の番狂わせ”を起こした日本の「サンウルブズ(Sunwolves)」がSR(スーパーラグビー)に参戦する。はたしてこんな日が来ると想像していたラグビーファンはいただろうか。
日本のプロチームが海外のリーグに打って出る。野球だってサッカーだって、そんな計画はなかった。
(Number誌)
じつは日本のSR(スーパーラグビー)参戦には、一悶着あった。
それは当時、日本代表のHC(ヘッドコーチ)であったエディー・ジョーンズが深く絡んでいた。
エディーは選手たちに、意気揚々とSR(スーパーラグビー)参戦を高らかに宣言した。
「SR(スーパーラグビー)で戦い、本当に強いジャパンをつくるんだ」
沈黙が部屋を支配した。
無言はさまざまな意味をもつ。ある選手は「世界への道がひらける」と思った。しかしある者は、その言葉をまるで歓迎する気になれなかった。
(Number誌)
廣瀬俊明は「選手の待遇」が不明瞭であることに不安をおぼえた。
「SR(スーパーラグビー)で選手生命を棒にふるようなケガをした場合、補償されるのか? どのような条件で参加するのか交渉しなければならない」
廣瀬はIRPA(国際ラグビー選手会)に助けをもとめた。
「他国のプロ選手たちの待遇はどうなっているのか? 補償や年金は?」
ところが、こうした廣瀬たち(堀江翔太、小野晃征)の動きが、エディーの耳にはいった。
エディーは激怒した。
「オレに隠れて、こそこそ何やってるんだ!」
SR(スーパーラグビー)参戦は、2019年日本W杯開催にむけてのマスタープランの一部だと認識するエディーは「裏切られた」と感じた。
「SR(スーパーラグビー)でプレーできるのに、どうしてお金のことなんか気にしてるんだ。プロのラグビー選手として、こんな栄誉はないのに、条件だの何だの四の五の言うなんて信じられない。しかもオレに黙って海外と交渉するとは。
断じて許せない」
廣瀬には怒りのメールをおくった。
廣瀬はベッドのなかで、まだ眠い目をこすりながらメールをチェックした。差出人のひとりに「Eddie Jones」の名前があった。メールは午前4時に送信されていた。液晶画面にローマ字が浮かびあがる。
「あなたのおかげで、チームはめちゃくちゃです」
廣瀬は凍りついた。
(Number誌)
エディーの怒りはおさまるところを知らなかった。
そしてついに、SR(スーパーラグビー)のディレクター職を蹴った。それでも怒りはやまず、W杯がおわれば、日本代表のヘッドコーチの任をも退くことに決めた。
エディーの口から日本を離れることを聞いたとき、廣瀬には想像もしていなかった感情が押し寄せてきた。感謝の念が芽生えたのだ。
主将をまかされ、主将をはずされた。そして、チームを空中分解させている下手人とまで名指しされた。しかし、ここまでやって来れたのもまた、エディーのおかげなのだ。
日本代表がW杯にむけて最終準備をしていたこの時期、SR(スーパーラグビー)の選手登録期限が8月31日にせまっていた。廣瀬たちは少しずつ条件をととのえ、契約までの道筋をつけた。あとは個々の選手がどう判断するかである。
しかし期限の数日前には、関係者から
「メンバーをそろえるのはもう無理。撤退しましょう」
という声がきこえてきた。しかし最終的にはトップリーグの各チームの理解と協力をえて、どうにか陣容をととのえることができた。
チームの名は「サンウルブズ(Sunwolves)」に決まった。
(Number誌)
ラグビー愛好者は、サンウルブズの選手リストに
「堀江翔太=パナソニック」
の字のならびを見つけて安堵した。
「よくぞ身を投じてくれました」
と。
歴史的参戦のチームを束ねるのは
やはりこの男だ。
「サンウルブズ」初代キャプテンは
世界が認めた”トータル・フッカー”
ショウタ・ホリエ(堀江翔太)
(Number誌)
堀江は言う。
「代表の合宿中に、『選手があつまらなかったら日本のチームはなくなるよ』という話があって。そうなると、次に入れるのはいつか? もう一生ないんではないか、と。僕らはいいとしても、ユース年代の選手の目標がなくなってしまう。それにフミ(田中史朗)さん、リーチ(マイケル)などスーパーラグビー経験者がどんどん海外にでていく。ここで僕までいなくなると…」
小学校のサッカーチームで、誰もやりたがらなかったゴールキーパーをやったこの男は、SR(スーパーラグビー)でもまた「無償の使命」を果たそうとしている。人間には、野心や功名とはまったく無縁の「なにか」が必ずある。
きっと堀江はこう言うはずだ。
「ぼくの仕事ですから」
(了)
ソース:Number(ナンバー)896号 SUPER RUGBY 2016 スーパーラグビー開幕 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
堀江翔太「僕の仕事ですから」
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廣瀬さんってそんな悪い事したか?
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