2016年4月20日水曜日

東大阪とトンプソン [ラグビー]



「だいじょうぶやでぇ〜」

もう、すっかりできあがったオッチャンが自販機の前でへたりこんでいる。

ここは東大阪。


ラグビーファンの集まる居酒屋で話しかけたヒゲ面の男性は、酒を飲むのも忘れて、身振り手振りをまじえて熱弁をふるっていた。

「膝も悪いのに全力疾走して、ガツガツ当たりにいく。ねんでトンプソンさんはボロボロになっても、日本のためにこれほどまでに身体をはってくれるんやろ。彼のプレー見てると、泣けてくるんや…」

(Number誌)


ラグビー日本代表、トンプソンルーク(Thompson Luke)は東大阪に暮らしている。もう9年になる。

トンプソンは言う。

「ぼくはクライストチャーチ(New Zealand)の牧場で育ったカントリーボーイだからね。都会は疲れちゃうから、あんまり好きじゃなくて。でも、ここ(東大阪)は生駒山にも近いし、自然がたくさんあるでしょう。地元の人たちはフレンドリーに声をかけてくれるし、仲良くなった人から野菜やお米をいただくこともあるよ。タコ焼き、お好み焼き…、食事はなんでもメッチャおいしい。そしてなにより、この街にはラグビーの文化が根づいてるんだ。東大阪はパーフェクト。実家みたいなとこやね、ホンマに」



Number No891 P50



トンプソンは学生時代、ニュージーランドのカンタベリー州代表チームでプレーしていた。

来日したのは2004年、23歳のとき。群馬県にホームがあった三洋電機ワイルドナイツに入団した。

トンプソンは言う。

「ニュージランドには、プロのラグビーチームは5つしかないけど、選手はとても多いから競争は激しい。プロのチームでプレーしたい気持ちはあったけど、僕は身体もそんなにデカくないし、特別な選手じゃないから…。でも三洋電機がチャンスをくれたんだ。こんなに素晴らしいチャンスを断る理由はないでしょう。日本の文化を知りたい、勉強したいという気持ちもあったし、チャレンジすることに決めたんだ」



196cmという身長は、日本ではかなりデカイ。しかし、本場ニュージーランドでは特別な大きさではなかった。まずは日本でキャリアを積んで、いずれはニュージーランドに戻り、あこがれのオールブラックスでプレーすることを夢見ていた。

だが三洋電機とて、そうそう甘くはなかった。控えにまわされたトンプソンは、わずか2年で契約を打ち切られた。異国の地で宙ぶらりんになってしまったトンプソン。声をかけてくれたのは近鉄ライナーズだった。

トンプソンは言う。

「三洋電機をクビになった僕に、プロとしてラグビーをつづけるチャンスをくれた近鉄には、とても感謝しています。僕は特別な選手じゃないから、たくさん努力するしかないでしょう。チームのために、少しでも貢献できるように頑張ってきたよ」



恩を返すため、トンプソンは身体をはりつづけた。セットピースをしっかりやって、クリーンアウトをしっかりやって、タックルをしっかりやって…。

そんな献身的なトンプソンに、日本代表からオファーがきた。2007年、フランスW杯大会メンバーに選ばれたのだった。

トンプソンは言う。

「桜のジャージを着るというのは、メッチャ特別なこと。家族、東大阪の人たち、近鉄のチームメイト…、応援してくれるすべての人たちのためにも、恥ずかしいプレーはできないでしょう」

はじめてのW杯、フランス大会の結果は「0勝3敗1分」。孤軍奮闘したトンプソン。そのの「捨身のコンタクト」は彼の代名詞となった。







2010年に日本国籍取得

ルーク・トンプソンから「トンプソンルーク」になった。

2011年、自身2度目のW杯をへて、2015年、イングランド大会でラグビー日本代表は爆発した。南アフリカを破る大金星。3勝1敗という過去最高の成績。



東大阪の酒場のオッチャンらは言う。

「トンプソンこそがMVPだ!」

骨のきしむタックル。

ひたすらなハードワーク。

「思い出しただけで、泣ける…」


エディージャパン、栄光の陰にトンプソンあり。

トンプソンが相手チームの猛進をことごとく潰し、突破口を開いたからこそ、エディージャパンの快進撃が生まれたともいえる。

MVPにも値する、堂々と胸をはるべき仕事を、トンプソンはしてのけた。

(Number誌)






帰国後、東大阪ではトンプソンのためにパーティーが開かれた。

トンプソンは言う。

「Shrineって日本語でなんて言うんだっけ? そうそう、神社ね。だんじりが飾ってある神社に50人ぐらいの人が集まってくれたんだよ。ほめてくれるのはありがたいけど、かえって恐縮しちゃったよ。ぼくは普通の選手だし、W杯でやったことといったら、少しでもチームに貢献できるように努力しただけなのにね」



トンプソンは自分の献身よりも、家族のことを気にかけていた。

「今年の5/26に息子がうまれたのに、僕は合宿で宮崎にいたから何もサポートできなくて、奥さんにはゴメンナサイの気持ちだった。上の女の子もまだ2歳半で手がかかるのに、ホンマに大変だったと思う」



定食屋「まんぷく亭」の話がでた。

「東大阪を離れているときも、奥さんとは毎日電話してたんだけど、『今日はまんぷく亭に行った』と聞くと、あそこの大きなオムライスを思い出して食べたくなったよ(笑)」

まんぷく亭のおばちゃんは言う。

「トンプソンくんはねぇ、あんなに凄い選手なのに、礼儀正しい、ええ子なんよ。わたしはラグビーのことは全然わからないけど、『どうか怪我しないで』と祈りながらテレビを見ていたわ」



トンプソンは言う。

「良くしてくれるお店のお母さんもそうだし、ぼくを応援してくれる人が、この街にはたくさんいるんだ。今回のW杯で、そのみんなが喜んでくれたのが、ホンマにうれしかった。奥さんと子供たちはイングランドまで応援しに来てくれたんだけど、南アフリカとの試合後、スタンドにいた家族に会って娘を抱っこしたんだ。娘を抱っこしたとき、これが僕にとっての『W杯ベストモーメント(最高の瞬間)』だったね」



こんなに気持ちのいい男を、東大阪の人々が放っておくはずがない。

サインをねだるラグビー少年には「スーパーマン」、おばちゃんたちにとっては「できのいい息子」のようなものなのだろう。

花園ラグビー場界隈の飲食店には、必ずといっていいほど彼のポスターやサインが飾ってある。

(Number誌)



インタビューを終えて、花園ラグビー場前の広場に出た。近鉄のチームメイトに

「写真に撮ってもらうんやったら、もうちょっとええ自転車にしときぃや。オレの貸したろか?」

と冷やかされた。トンプソンは笑いながら、サビの浮いたママチャリにまたがった。背中にしょったリュックのサイドポケットには、パチンコ屋が配っていたティッシュが無造作に突っ込んである。

ゴツい体格をのぞけば、そのたたずまいは「東大阪のおっちゃん」そのものだ。

(Number誌)



トンプソンは言う。

「将来のことはまだ考えてないけど、選手を引退したあとも、できることならこの街で暮らしたいと思ってるよ。東大阪、メッチャ好きやからね」










(了)






ソース:Number(ナンバー)891号 特集 日本ラグビー新世紀 桜の未来 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
トンプソンルーク「愛されて、東大阪」



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