競泳選手
金藤理絵
かねとう・りえ
2008年(19歳)、北京オリンピック、女子平泳ぎ200mで7位入賞。
2009年(20歳)、日本記録をマーク。
しかし、
2012年(23歳)、ロンドン五輪はまさかの落選。腰のヘルニアが、痛くひびいていた。
「あのときは地獄のようでした」
そう語るのは、金藤理絵のコーチ、加藤健志(かとう・つよし)の妻、愛さん。
「選考会の応援に行った帰りの電車の中で私もボロボロ泣きながら、主人にも金藤さんにも声をかけられなかったんです。試合が終わった後、会場で応援団に理絵ちゃんが申し訳なさそうに頭を下げているのを見て、本当に辛かった。主人も自分のせいだと落ち込んで、コーチをやめようかと言うほど、ずいぶん悩んでいました」
金藤不在のロンドン五輪では、後輩たちが華々しい活躍を見せていた。
”後輩たちが自分を追い越していく…”
金藤は心中、穏やかではいられなかった。
”いったいどうして、自分は泳いでいるんだろう…?”
松岡修造は言う。
「彼女(金藤理絵)は、インタビューをするのが苦しくなるくらい、ネガディブな発言をする人でした」
マイナスへ、マイナスへ。
金藤の心は、深く深くしずんでいった。
「いつも『やめたい』、『やめたい』と思っていました」
と金藤は当時を振り返る。
それでも、金藤は水泳をやめなかった。
というよりも、やめさせてもらえなかった。スパルタコーチ、加藤健志が頑として彼女の引退を受け入れなかったのだ。
金藤は言う。
「わたしが何回『やめたい』といっても、加藤コーチが絶対に辞めさせてくれませんでした。『なんでこの人は分かってくれないんだろう』と思っていましたが、1を言うと100にして返してくる人なので、かなわなかったです(笑)」
金藤はマイナスの心をひきずったまま、競泳界に残りつづけた。日本代表には毎年のように選ばれた。しかし、タイムと結果はまったくついてこなかった。
2015年の世界選手権、金藤は女子平泳ぎ200mで6位に終わった。レースに敗れたあと、金藤は涙がとまらなかった。
「情けないよ…。レースの前から、さじを投げていたというか…。今後、どうやって泳いでいけばいいか、わからない…」
応援していた人々も、金藤の泳ぎに失望した。まるで闘争心が感じられない、その泳ぎに。
「全力で泳いだのかっ!」
その苦言に、金藤はハッと目が覚めた。
金藤は言う。
「応援してくださっている方たちに、そんなことを言わせてしまった。本当に申し訳ない。もし私がここで引退したら、記憶にのこる最後のレースはこんな消極的な、やる気のないレースになってしまう」
金藤はつづける。
「レース前は、いつも駄目だったときのことを考えてしまって、すごい緊張や不安ばかりだったんです。調子が良くても『普通です』とこたえ、結果が出なかったときのために、はじめから保険をかけてしまっていたんです」
金藤理絵が大きく変わったのは、それからだ。
『やめたい』虫はどこへやら、一心不乱、なりふりかまわぬ猛練習がはじまった。一日、じつに2万メートルを泳ぎこんだ。普通の選手の2〜3倍もの過酷な練習量だった。腰のヘルニアなど、かまっていられなかった。
「もう逃げるわけにはいきませんでした」
結果はほどなく現れた。
”今年(2016)の2月、オーストラリアでおこなわれた3ヶ国対抗戦で、自身がもつ日本記録を7年ぶりに更新。4月の日本選手権では、2分19秒65とさらに記録をのばし、リオ五輪代表に選ばれた(『Number誌』)”
シーズンタイムは世界ランキング堂々1位。
「いい意味で、『昔の理絵』とは全然ちがう」と、周囲はおどろきを禁じえない。
「オリンピックの舞台では、ありのままの自分で、がんばりたいと思います」
なんという力強い宣言だろう。かつてのネガティブな発言は、すっかり霧散していた。
金藤は日本競泳陣で「もっとも金メダルに近い」といわれ、ブラジルへ飛んだ。
金藤にとって最大のライバルと目されていたのは、ロシアのユリア・エフィモア(Y. Efimova)。一時はドーピング問題で出場禁止処分を受けたが、レースの数日前、急遽参加が認められていた。
この、出ないと思っていたライバルが急転、出場することになっても、金藤は動ずることも臆することもなかった。積みに積んできた練習の山が、金藤の心をしっかりと支えていた。
金藤は言う。
「相手は命がけかもしれない。でも、自分も命がけで取り組んできたんです」
2016年8月11日
ブラジル、リオデジャネイロ五輪
競泳女子、平泳ぎ200m決勝
スタート前、解説者は言う。
「準決勝でも、”後半の強さ”はみられていましたから大丈夫です。だからこそ、前半は守りに入らないことです。とくに100〜150mのこの50mですね、あわてずに、ひとかきが小さくならないように、金藤選手らしい”大きな泳ぎ”で、つなげてほしいです」
失意のロンドン五輪落選後、金藤は加藤コーチとともに「改革」に取り組んできた。
加藤コーチは言う。
「前半から攻める。前半からいける泳ぎをつくる」
金藤の筋肉には、乳酸をためこまないという特異な体質がある。それはすなわち、激しい動きを誰よりも持続できるということを意味する。
金藤は言う。
「『後半どうなってもいいや』という気持ちで、『前半速く』だけを意識していこうと思っています」
得意の後半に頼らない。前半から殻をやぶっていく。それが金藤の新たな戦い方だった。
オリンピック決勝の舞台、隣レーンのマッキーヨン(Mackeown, オーストラリア)は、金藤にとっては幸い、前半先行型。つまり、前半、マッキーヨンについていければ、後半、金藤は逃げきれることになる。
黒のキャップに日の丸。
5レーン、金藤理絵。
電子音とともにスタートをきった。
解説者は言う。
「金藤選手らしい、大きい泳ぎができていますよ。大丈夫ですよ」
50mの折り返し、金藤は3位。
8選手ともほとんど差がない、横一線。
「まずまずですね」と解説者。
隣5レーン、前半先行型のマッキーヨンが、100mのターンで首位にたつ。
そのマキーヨンに、金藤は0.27秒遅れで食らいつく。
「非常にいいですよ」
と解説者が言い終わらぬうちに、ついに金藤、頭ひとつ抜け出し先頭にたつ。そして、勝負の後半100mへと突入していった。
後半に入るや、前半おさえぎみだったロシアのエフィモアが猛然、追い上げてきた。
「エフィモア、要注意!」
最後のターン(150m)
1位 金藤理絵
2位 エフィモア( + 0.32秒)
3位 ペダーセン( + 0.72秒)
黒のキャップの日の丸を、ロシアのエフィモア、そして世界記録保持者のペダーセン(デンマーク)が猛追する。
レース後の金藤は、その戦況をこう語る。
「150mのターンで両側を確認して、ちょっと出ているのがわかって、一瞬『これは行ける』と思ったところはありました。でも『ここで油断してはいけない』と思って、ラスト50mは無心で泳ぎました」
ラスト50m
「金藤が先頭!」
ラスト25m
「世界一の練習をしてきました!」
ラスト15m
「金藤が逃げる! エフィモアがあがってくる!」
ラスト10m
「金藤、まだリードしている!」
ラスト5m
「金メダルが見えた!」
「やったー!!」
「ついに! ついに掴んだ金藤! 金メダルぅ!」
この種目を日本人が制するのは、バルセロナの岩崎恭子以来、じつに24年ぶりの快挙であった。
同時刻、地球の裏側、広島県で大歓声がおこった。
金藤理絵の郷里、広島・庄原市のパブリックビューイングが喜びに泣いた!
姉・由紀さんも、白いハンカチで目頭をおさえる。
思えば、姉・由紀さんの結婚式で流されたビデオレターが、金藤理絵を引退の瀬戸際から引き戻したのであった。
”泣きたい時は、思いきり泣けばいい”
そのビデオメッセージは、姉から妹への贈り物だった。
”お母さんがあなたの記事を切り抜きしていたファイルは8冊目になりました。一番最初は2000年8月、13年前、11歳のときから。たくさんの切り抜きやトロフィー、記念品がならんでいます”
金藤理絵が水泳をはじめたのは3歳。姉に追いつきたい、その一心からだった。
”そんなあなたに、人生の金メダルを贈ります”
姉が妹におくった「手づくりの金メダル」。その裏には、こう記されていた。
理絵ちゃんへ。
上には上がいる。
それでもきっと上を向く。
ひまわりのように、
いつも見守っています。
コーチ加藤健志の妻、愛さんも日本で泣いていた。
「金メダルが決まった瞬間、私といちばん上の子はもう号泣でしたね」
金藤には、こんなメッセージを送った。
「10年間、主人を信じてついて来てくれて、ありがとう」
ロンドン五輪を逃し、一時は現役引退も考えた。
だが、踏みとどまった。
加藤コーチ、そして家族の力で。
そして、つかんだ世界大会はじめてのメダル。
それがオリンピックという大きな金メダルだった。
「強かった」
スタートからついていき、持ち味の後半の強みを活かした泳ぎは、その一言で表せるほど、堂々としていた。… でも、一年前までは、今のような姿を想像することはできなかった。
「『変わった』と言ってもらえると、うれしいですね」
金藤はにこっと笑う(『Number誌』)
(了)
出典:
Number9/9特別増刊号
五輪総力特集「熱狂のリオ」
金藤理絵「変われることを信じて」
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