「日本の登山隊は、チームというより『会社』に近い。しっかり役割分担がされている。どちらかというと『野球』に近いんです。一方、ヨーロッパの登山隊は一人ひとりがもっと自由。だからサッカーに近い」
そう語るのは、日本人で初めて世界8,000m峰全14座の完全登頂を果たした登山家の「竹内洋岳(たけうち・ひろたか)」さん。
大昔、国家の登山は「戦争の延長」だった。世界各国は、自国の威信をかけて頂きを目指したのだ。ゆえに、どの国も「組織登山」が当たり前だった。
ところが時代の下るにつれ、登山は「スポーツ化」していった。すなわち、それは個人のものとなっていったのである。
そんな世界の潮流にあってなお、日本の登山隊ばかりは「組織登山」を今だに重んじている、と竹内さんは言う。
「ヒマラヤには、日本の国名を冠した『ジャパニーズ・クロワール』というルートはあっても、『メスナー・ルート』のように個人名が冠せられたルートはほとんどないんです」
2006年、竹内さんが国際公募隊に参加した時、日本人の感覚と世界のそれとの温度差をホトホト感じさせられる体験をさせられた。
その時の登山では途中で天候が悪化し、食料が乏しくなったため、隊は「引き返すかどうか」という岐路に立たされていた。
そこで竹内さんは、こんな提案をした。「隊を2つに分け、どちらかは食料を取りに戻り、一方はチャンスがあれば頂上を目指すということでどうか?」と。
すると、隊員たちは一斉に「非難の目」を竹内さんに向けた。
「みんな同じ料金を払っているんだ。だから、みんな平等に登頂する権利がある!」と主張するのである。つまり、みんなが頂上を目指したがったのだった。
この時、竹内さんは痛感した。「あぁ、ヨーロッパには日本のように『誰かが犠牲になってでも成功者を出す』という考えがないんだな…」。
ヨーロッパの登山は、隊を組んでいたとしても、それはあくまで「個の集合体」であった。
「だから、海外の登山隊に参加する時は、野球ではなく、サッカーのつもりでいる」と竹内さん。
日本人は、自分をチーム仕様に変えることができる。文字通り、集団として一つになろうとする。
「逆に欧米人は、手を組む条件として『個のままでいること』を求める。つまり、どのチームにおいても、自分の形を変えない(Number誌)」
欧米人の集団は、あくまでも「個人の集まり」なのであった。
日本人は、野球のように守備位置を決められたら、そこを守り通す。たとえ、それが地味な役回りだとしても。
ところが欧米人は、誰もがシュートのチャンスを狙っているのであった。
ここで誤解を避けたいのは、竹内さんが言うサッカーは、チームプレイを必要としないということではなく、その役割分担が野球よりも緩い(自由度が高い)といったニュアンスであろう。
個人と組織の優劣は、ここでは問わない。
ただ、世界と日本の感覚には差がある。
それを心得てさえおれば、日本人はそれに素直に適応できるはずである。
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ソース:Number
「『組織力』は『個の力』を上回るか?」
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