「スポーツとは『敗北』と向き合うことである」
ごく一握りの幸運なアスリート以外、最後の最後まで勝利を手にし続けられる人はいない。
たとえその幸運なアスリートといえども、「いつか必ず『負ける時』が来る」。
「負けることを厭わない勇気」
一流と呼ばれるスポーツ選手は、必ずそれを持っている。「それゆえ、北島康介や浅田真央は『勝っても負けても、つねに一流のアスリート』なのである」。
それは応援する方にも求められる。
「期待していた選手たちが挫折する瞬間を目撃し、悲しみを分かち合う覚悟」が必要になる。
敗北の中ですら希望を失わないファン。彼らだけが「一流のファン」と呼べるのであり、「敗北に落胆するだけのファンは真のファンではない」。
「かつて惨敗し、挫折や修羅場を経験しながら、それでも明日を信じて前に進もうとしてきた選手たちがいる」
「自分から動いて、もがいて、ブチ当たる。それが『希望』だ」
敗北は希望を著しく損なう反面、それを大いに輝かせもする。
痛恨の敗北を喫した選手が渇望するのは決して「復讐(リベンジ)」ではないのだろう。きっと、「希望の再生」なのだ。
一流のアスリートに復讐や憎しみは似合わない。きっと彼らは負けるたびに「希望の芽」を大いに膨らませているのだ。そして、次に勝つ時、それは一流のファンを納得させる以上に、感涙させるものとなるのだろう…。
ソース:Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2012年 12/20号
「アスリートの言葉はなぜ人々の『希望』となるのか」
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