2015年3月9日月曜日
一朗がイチローになるまで [野球]
僧・空海は、18歳で教育機関からドロップアウトした。
その後13年間、31歳で遣唐使船に乗り込むまでの間ずっと、何者でもなかった。「謎の空白時代」が若き空海のなかにあった。
立花隆は言う。
「一介の修行僧だった空海が、唐においてやがて最高の知識人として遇されるようになったのは、この空白時代の修行の成果が彼の地で花開いたからだ、と私は考える」
■一朗
イチローが20歳になったばかりの頃、彼はまだ「イチロー」ではなかった。まだ「鈴木一朗」だった。
20歳の誕生日、一朗はハワイにいた。
当時ルームメイトだった林孝哉は言う。
「おめでとうを言った記憶もないですね。昼はマックです。僕は”何とかセット”を頼んで、ハンバーガーとポテト、コーラって感じですけど、イチローは変わってますから、いつでもチーズバーガー3個(笑)。だから誕生日もそうだったのかなぁ」
高3の夏、愛知県大会で打率6割4分3厘、ホームラン3本と結果を出した鈴木一朗は、ドラフト4位指名でオリックスに入団した。
その1年目、一朗はファームで打ちまくった。開幕から3ヵ月で打率3割6分7厘というハイアベレージを記録。一軍に呼ばれた。だが一軍昇格を告げられた一朗は、意外なことを言った。
「一軍はまだ早すぎます。僕は二軍でいい」
しかし、そんな願いが聞き入れられるわけがない。一朗はしぶしぶ新幹線に乗り込んだという。
林は言う。
「『お前、すごいなあ』って話したことがあるんです。そうしたらイチローが『4割狙ってたんだけど』って…。そりゃビックリしましたよ。次元が違いましたよね。あの言葉はすごく衝撃的だった」
一朗18歳の年、打率3割6分6厘を記録して首位打者を獲得した。ジュニア・オールスターでは代打ホームランをライトスタンドへ叩き込んで、賞金100万円を手にした。
翌19歳の年、一朗は「遠回り」を強いられた。
当時の首脳陣との軋轢があり、二軍行きを命ぜられた。この時期、一朗は先輩に教えられた「プロならでは」の金の使い方や遊び方に反発を覚えていた。先輩たちがいい酒だと誇らしげに飲むヘネシーXOも、さっぱり美味しくなかった。
若き一朗の価値観にそぐわぬものが「憧れの世界」には多々あった。固まった先入観を改めない「かつての」名選手たち。そうした人たちが幅を利かせるプロ野球社会の現実に、19歳の一朗は失望していた。
それでも一朗は自分を見失うまいと懸命だった。
林は、ハワイでの一朗をよく覚えていた。
「部屋で一緒にテレビを見ていると、いきなりベッドの上で腹筋をはじめるんです。でも20回でやめちゃう。だから冗談で『20回しかせぇへんのやったら、すんなや』って言ったんです。そしたら真剣な顔で、『違う。20回という数が大事なんだ』って返されたことがありました。『一気に100回じゃなくて、20回を何度も繰り返すことに意味があるんだ』と。…あの真剣なイチローの顔。ものすごく印象に残ってますね」
ハワイでのウインターリーグの開幕直前、こんなやりとりがあった。
「イチローと夜間練習をしていたんです。そうしたらイチローが鏡を見ながらバットを振って、『これ、かっこよくない?』と訊いてきた。それが振り子打法でした。あの夜が振り子のスタートだったんです。『ええんちゃう?』と言ったらイチロー、『じゃあ試してみるわ』って。その直後の開幕戦で、いきなり5打数5安打だったかな。もともと打てたのに思い切ってフォームを変えるんですから、たいしたもんですよ」
ハワイのウインターリーグで一朗は打率3割1分1厘を記録。日本人で唯一、ベストナインに選ばれた(同リーグは日米韓3ヵ国から派遣された選手らで争われた)。
■聞く耳
一朗は仰天した。
分厚いドルの札束がドサッと落とされた。
白いエナメルの靴に、金のサングラス。
オリックスの新監督、仰木彬であった。
突然ハワイにやってきた仰木監督は、一朗の打撃をケージに貼りついて見ていた。ハワイから帰った仰木監督は、一軍バッティングコーチ(当時)の新井宏昌にこう言った。
「若くてイキのいいのがいる。お前の知らん選手でいいのがおるんや」
さらに、こう言った。
「10年は安泰やで」
新井は実際に一朗のバッティングを見て驚いた。
「タイミングの取り方、しなやかさ…。あの振り子は衝撃でした。前の足を大きく動かして自分からピッチャーに仕掛けて、軸を動かしながら攻め込んでいく。あんな風に打つ選手を見たことがありませんでした。ですが、あれだけ大きく動いたしまうとタイミングを外されやすいので、一軍のコーチ陣の中には『あの打ち方じゃダメだ』という人もいました。でも20歳の彼は、自分の主張を曲げなかった」
主張は曲げないが「聞く耳」を一朗はもっていた。
「たとえばティーを打つとき、『ピッチャーの動きに合わせてバッターがタイミングを取るのが野球やろ』と言われれば、一朗は先に動き出さないように意識した。『ステップし終わったときに右に流れないように』と、きちんと振り切る練習を勧めたら、これにも彼は毎日取り組んだ。ベースの部分では自分の主張を通す一方、これは必要な練習だと思えば徹底的にやるんです。そこを見分ける目を、20歳の鈴木一朗はもっていましたね」
■イチロー
「あいつはスーパースターになりますよ」
新井は仰木監督にそう言った。
ところが当時のパ・リーグには「鈴木」姓が多かった。近鉄には鈴木貴久が、西武には鈴木健が、日本ハムにも鈴木慶裕が…。
新井は言う。
「新聞の打撃10傑を見ても、鈴木、鈴木、鈴木って並ぶ。これじゃウチの鈴木が打っても『どこの鈴木やねん』となるでしょう(笑)。だったら鈴木じゃなくて『一朗』でいこうかと仰木さんに言ってみたんです。佐藤和弘の『パンチ』と併せて、カタカナの『イチロー』でいこう、と」
当時の仰木監督は「パリーグの広報部長」と呼ばれており、注目を浴びる仕掛けは大好きだった。
新井は続ける。
「『お、そうか?』なんて言って、すぐに乗ってきました(笑)」
鈴木一朗から「イチロー」へ。
彼が公(おおやけ)にイチローとなったのは、20歳のときだった(1994)。
そして伝説は始まった。
驚異的なペースでヒットを量産したイチローは、打率を4割にまで乗せた。オールスターに初出場し、56試合連続出塁の記録をやぶって69まで伸ばした。そしてイチローは前人未到の200安打を達成。その後、210安打まで記録をのばした。
今から10年前、イチローはこう言っていた。
「鈴木一朗とイチローは別人です。鈴木一朗はイチローに作品を作らせている感覚です。今までの10年は、イチローが鈴木一朗よりもだいぶ先を走っていましたから、そこに追いつけなかった。でも、ようやく追い抜いた。もはや、彼は僕の一部です(笑)」
まず10年間は、イチローが鈴木一朗の先を走った。
そして次の10年、鈴木一朗がイチローを抜き返した。
鈴木一朗はイチローとずっと競い合ってきた。
41歳になった今も、ずっと。
(了)
ソース:Number(ナンバー)870号 二十歳のころ。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー))
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